5.折戸部長との確執
「なぜ娘さんや奥さんの名前が当てられたか、ふしぎに思っていらっしゃるようですね。ズバリ、僕がなにかやましい方法で、非合法なやり方で調べたんじゃないかと」と、竹田は眼を細めてゆっくりと言った。「言ったでしょ。僕は純粋にあなたの心を覗いたんですよ。ここに答えはすべて隠されている。僕はそれを開いて見ることができる。これこそが、僕の特殊能力です」
「なにかカラクリがあるはずだ。……そうだ、私の家で家庭菜園をしているのは、地元では知られている。自慢の有機栽培だ。ちょうど半年前、地方紙に記事が載った。そのときに家族構成が書かれていたはずだ。あなたはきっとその情報を使って、私に揺さぶりをかけてるんだろ。そうだな?」
「まーだ、信じないとは。だったら、これはいかがです」と、竹田はベンチに腰を沈めたまま身動きのとれない私を包囲するかのように両腕を広げて、もっともらしく眼をつぶった。頭を傾ける。「折戸部長とはうまくいっていないようですね。瑛美さんとの仲がギクシャクしてるのもネックになっていますが、それ以上に、折戸さんとうまく噛み合わないのが、あなたにとって強いストレスになっている。仕事帰りにオペラでも歌わないとやっていられない。それほどまでに。――ズバリ、そうでしょ?」
私は胸の内を暴露されたバツの悪さに、思わずワイシャツに手をやった。頭に血がのぼり、鏡を見ずとも顔が赤いのがわかる。
「どうしてそれを」と、私は言い、うめいた。ベンチに深く腰かけたまま、身じろぎもできない。「何者なんだ、あんた?」
「でしょ? そうでしょ!」
竹田は小躍りせんばかりに身体を揺らした。得意そうに歯ぐきをむき出しにしている。
どうやらこのいけ好かない男の力とやらは本物なのか? さしものふだん疑り深い私をもってして、心が揺れ動いてしまう。
◆◆◆◆◆
折戸部長との確執は、いまにはじまったことではない。
彼が3年前、人事異動で販売部に来てからというもの、ことあるごとに衝突してきた。
とくに決定的となったのは、昨年4月のできごとである。
折戸部長と一緒に、伊豆大島の工場へ視察に向うときだった。
私のヘマで、浜松から大島に渡る午前の便を乗りすごしてしまったのだ。
折戸は大勢の客がいるフェリー乗り場で、私を痛罵した。
ふだん職場ではソツなく仕事をこなしているつもりだった。あのときは前日の晩に食べた初ガツオの刺身がいけなかった。私らしくない失態だ。
冷凍したものならアニサキスは死滅するが、あいにく知人が沖で釣ってきたものをいただいた。
これがトラップだった。
出張前に食べるには、いささかギャンブルすぎた。それほどカツオに目がなかったのだ。
完食した直後に具合が悪くなり、嘔吐と下痢をくり返し、てんやわんやの騒ぎとなった。
私たち三人家族が刺身を食べたにもかかわらず、私だけが中った。忌ま忌ましい線虫が、私の胃壁に咬みついているのが体感的にわかった。
どうにか病院へ行き、内視鏡によって虫を除去してもらった。
おかげで夜もろくすっぽ眠っておらず、体力を消耗したまま、とるものもとりあえず会社に出かけた。
本当だったら出張も辞退したかったのだ。
ところが折戸ときたら、スケジュールに穴を開けるにはいかないと言い張り、弱り切った私を連れ、無理やり強行。
その結果が不手際につながったわけだ。
どんな諸事情があれ、いかなる理由があろうとも、彼は容赦しなかった。
自己管理ができていない。大事な視察前に、もしものことを考えるべきだと、子供に説教をするかのような口調でねちっこく叱られた。
私はますます頭があがらなくなった。
以来、あのときのヘマを再現するかのような悪夢を見ることがある。
――どうも私は折戸とは反りが合わないようだ。
◆◆◆◆◆
そう言えば、こんなこともあった。おなじく去年の、梅雨が明けてすぐの季節だった。
懇意にしている取引先の和田専務の訃報を受け、私と折戸は故人の告別式に参列したのだった。
その帰り道。
今晩はしんみりと、和田専務の思い出話に花を咲かせようとの流れになった。
たまたま私の自宅近くまで来たこともあり、当時はリビングの前にサンルームを増築したばかりだったので、そこで一杯やるのも悪くないと思った。
単身赴任のため、孤独の時間を持て余している折戸に、内心自慢したい邪な考えがなかったと言えばうそになる。
だから自宅に招き入れた。
不意の訪問に瑛美には悪かったが、酒と肴は私たちが用意したので、面目を立てたつもりだ。
それでも瑛美は、せっかく上司に来ていただいた手前、なんのおかまいもしないわけにはいかないと、かんたんな手料理でもてなしてくれた。
私たちはサンルームで夜風に当たりながら缶ビールで酌み交わしていた。
リビングから瑛美が現れるなり、折戸はたちまち相好を崩した。今夜にかぎって、やけに身体のラインが浮き出る恰好をしていたせいだ。
そして好色そうな笑み。――いまでも思い出すだけで怖気をふるう。
「これはこれは、ご丁寧に作っていただいて。せっかくだから、ご馳走になりますよ、奥さん」
と、折戸は口髭を撫でながら言った。
そして去っていったエプロン姿の瑛美を横目で盗み見ると、舌なめずりをし、
「佐那君も隅に置けないね。まさか君みたいな真面目一徹が、あんな色っぽい奥さんをもらってたなんて。意外だよ。気づかいは申し分ない。器量も抜群にいいし、なにより胸は大きくて、脚もセクシーじゃないか。あんな女がいるからこそ、君は道草も食わず真っすぐ家に帰るわけか。いやはや、なるほど――」
と、名残惜しそうに対面キッチンの向こうで食器を洗っている瑛美を見つめた。
缶ビールを口にするたび、終始にやけていたので、家に招き入れるべきではなかったと悔いた。
もはや、後の祭りである。
その後、ことあるごとに、折戸は私の家に招待してくれと迫った。
はじめは冗談のつもりかと思っていたが、どうも瑛美に会いたがっている魂胆が見え見えだった。
まったく――神経がどうかしている。人の妻だぞ。
むろん、私は二度と招待していない。今後もそのつもりである。
定時を過ぎれば赤の他人だ。