3.胡散臭い男――竹田 哲人
「東日本シャーデンフロイデ……。なにがなんだか、さっぱりですね」
「いささか不躾なことです。ま、単刀直入に申せば、僕はシャーデンフロイデなる商材をあなたに勧めようとしているわけですが……。ま、ま、ま、そう警戒なさらず!」
「結局、そういうことですか。営業のチャンスを狙ってたわけですね。はじめから仕組まれてたんだ」と、私は冷ややかな声で言い、名刺を突き返した。「あいにくだが、その手には乗りませんよ。こちとらそんな買い物をするつもりは、さらさらない」
この手の人種の口車に乗せられたらロクなことはない。
私は荷物をつかむと、踵を返して歩き出した。
駅の方へ向かう。
空気にオゾンの匂いが含まれている気がした。
まずい。そろそろ降ってくるだろう。
すかさず竹田という小柄な男がついてくる。
背をまるめ、尻を突き出し、まるでブチハイエナが弱った獲物を追跡する姿にも似ていた。
「いやいやいや……。もう少しお話させてください。損はさせませんって!」追従笑いを浮かべた竹田は私の横に並び、なれなれしく肩に触れてきた。「あなたは日ごろ、かなり鬱屈した感情を抱えていますね。その捌け口としてこうして時折、歌を歌っていらっしゃる。堂に入った歌い方でしたから、恐らくそうにちがいありません。たしかに見事な歌唱力と美声、パフォーマンスではあります。ですが、怒られるのを承知で言わせていただければ――いささか虚しい」
「虚しくて、悪うございましたね。円満に人間関係を保つには我慢するしかない。ストレスがコップからあふれそうなら、適度にガス抜きしてやりすごす。――それのなにがいけないんです」
「いけないとは言っていません! いつも折れてばかりではないのですか? その人間関係を衝突もさせず、円満にすべきなのに、妥協するのはいつもご自身だ。そうじゃありませんか?……それってなんだか、シャクに障りませんか? 本来、50/50でしょ? なのに、衝突を避けるために、いつも泣きを見るのはあなたばかり」
まるで私の心のすき間に入り込んだような言いぐさだ。
こいつは手ごわいぞ。やり手の営業マンと見た。
しかしながらあまりにも胡散臭すぎた。いかがわしいレベル、マックスだ。
「なにをおっしゃりたいのです? 我慢して、夜の公園で歌を張りあげて発散している他に、なにか改善方法があるというのですか」
「まさにそこです。泣きを見るばかりではつまらない!」と、竹田は紫色のネクタイをヒラヒラさせながら、しつこく食い下がった。「そこで、ちょいと仕返ししてやりませんか。あなたはさんざんドブ掃除をやらされたんだから、今度こそ向こうにもさせるべきだ。まさにスカッとするやり方で。――そこでご紹介したいのが、我が社の商材シャーデンフロイデというわけです」
「さっきから、商材シャーデンなんとかって言ってますけどね。ちっとも話が見えてこない」と、私は歯をむいて言い返した。ついムキになってしまう。「そもそも私は善良な一般市民だ。そこまで世間さまに恨みつらみは抱いていないつもりだ。あいにく、あなたにはそう見えるのかもしれないが。ですが、私ほどの年齢になると、大なり小なりいろんな柵に捕らわれて、精神的にまいるもんでしょ。それは仕方のないことじゃありませんか」
「仕方のないことと諦めるのはよくない。僕が人生を、もっと快適にすごせる方法をお教えしたいと言っているのです。この商材シャーデンフロイデを試せば、あなたはきっと、人生にはこんな裏技があったのか!と、驚かれるはずです。まさに目からウロコ。お約束します!」
「商材シャーデンフロイデ、ね」私はメガネの位置を正しながら言った。「あなたのような口の達者な人につけ込まれるんだから、よほど私は、打ちひしがれて見えたんでしょうな。そりゃ残念だ」
竹田は私の顔を指さした。
「そりゃそうです。無意識のうちに顔に出ているのです。あなたご自身はまったくそんなことはないとお思いのようですが――」
愕然となって、自身の頬に触れた。
「まさか、顔に出てるとか」
「いやいやいやいやいや!」と、竹田は得意げに手のひらを団扇みたいに振った。「僕はこの道一筋でしてね。長年培ったカンでわかるのです。その人の抱えている悩みや、鬱屈した思い、あるいはもっと、他人さまに知られたくないような負の感情が、手に取るようにわかる」
「なるほど。業界特有の洞察力ってわけですね。――なにか手のこんだマジックでしょう。たまにテレビでやってるような。あるいは、こっそり僕の身辺調査をしてたりして――」
そこまで冗談めかして言うと、まさか本当なのではないかと思えてきて、背筋がうすら寒くなった。
気味が悪い。
口をつぐんで歩き続けた。これ以上関わり合いになるのはごめんだ。
やがて、雨がぱらつきはじめた。そら見ろ、言わんこっちゃない。
私は足早に郊外の通りを歩いた。
あと300メートルほどで駅に着くというのに。
「まあ、そうツンツンなさらずに!」
「おたくもしつこいね。私は急いでるんだ!」
必死になって商材シャーデンフロイデとやらを売り込もうとしているようだが、なんのことやらさっぱりだ。
むろん、Schadenfreudeの言葉そのものの意味は知っている。だてにオペラ歌手をめざしていたわけじゃない。
オペラの起源は一般的に、ルネサンス後期である16世紀末、フィレンツェで古代ギリシャの演劇を再現しようとしたのがはじまりだとされている。イタリア、フランス、ドイツはオペラ三大国であるのだ。オペラこそ総合芸術にふさわしいジャンルと言えるだろう。
シャーデンフロイデ――ドイツ語で、『損害』『不幸』を表す『Schaden』 と、『喜び』である『Freude』を重ね合わせた造語ではなかったか。
下世話だが、日本においては、『他人の不幸は蜜の味』といったところか。
端的に言えば、『ざまあみろ』とも取れる。より現代チックに言うならば、2ちゃんねる界隈で使われているインターネットスラングの『メシウマ』みたいなもの……。
「いかん。いよいよ降ってきたぞ!」
私はカバンを頭の上にかざし走った。
すぐに本格的な雨になり、たちまちずぶ濡れになった。
この男に出くわしてから、私のツキはどんどん悪い方向に傾いている。
さっさとふり払って軌道修正しなければなるまい。
竹田は雨などどこ吹く風といった様子で、私をしつこく追ってくる。ハーメルンの笛吹き男然としたおかしな靴の、ドタドタドタという足音が耳障りにこだました。
まったく、いけ好かない男だ。
私の横にならび、
「我が社における商材シャーデンフロイデは、人間が生きていくうえにおいて、小出し小出しのガス抜きではなく、一気に放出してリセットできる痛快なモノなんです。一度お試しいただけないでしょうか。もちろん気になるのはお値段の方ですよね? 僕だって慈善事業でやってるんじゃありませんから」と、竹田は雨に打たれながら滔々とまくし立てた。「お試し期間は二回、無料で行えるんです。そのかわり、一度気に入っていただき、本番をお求めになられるなら、そのときこそ、それなりの料金が発生する仕組みになっている。なにはともあれ騙されたと思って、一度チャレンジすることをお勧めします」
「悪いがそんな手には乗らないよ。だいいちこっちは、なんのかんのと春の商戦で、家族に搾り取られたばかりなんです。さっき、商店街でうどん食べて、買い物したら、小銭しか残ってない。私に付き合うだけ時間の無駄だ。とっとと、他を当たるべきだと思うがね」