2.佐那、オー・ソレ・ミオを聞かれる
私は駄菓子屋をあとにした。
なおも商店街を突っ切り、よく利用する書店に立ち寄った。
やはり書物は紙媒体でないといけない主義だ。とくに好きな本は、ちゃんとした形として手元に残しておきたいものだ。
お気に入りの女流作家の時代小説を買い、店を出た。今日はいささか寄り道が多い。
郊外への道のりだった。車の交通量も知れている。
そのころになると、さすがに日は暮れ、のっぺりとした闇があたりを取り巻いていた。
空を見あげた。
厚い雲が覆い、いまにも泣き出しそうだ。
傘を持ってくるべきだったようだ。なに、駅まではそう遠くない。ものの20分も歩けばたどり着く。降り出したら走ればいい。
私は雑居ビルの通りを抜け、小道を曲がり、道なりにしばらく進んだ。
やがて見えてきた。――中央公園だ。
このあたりは街灯も多く、真昼のように明るかったが、あいにく人気はない。
いつものギターとベースをかき鳴らすバンド仲間や、コントの練習をしている芸人の卵もいないようだ。私のストレス解消法を耳にして、嘲笑う野次馬さえいないから、今夜はラッキーだ。
公園の中ほどにある砂場に着くと、私はベンチにカバンと買い物袋を置いた。
ペットボトルの飲み物で喉を湿らせた。堂々と胸を張り、やおら一呼吸をおいて、
「ケ ベッラ コ~ザ~~ ウナ ユルナータ エ~ ゾーレ~~ ナリア セレナ~ ドッポ ナ テンペスタ~~! ペ ラリア フレスカ パーレ ジア ナ フェスタ~~ ケ ベッラ コ~ザ ナ ユルナータ エ ゾーレ~~~ッ!」
と、自慢のテノールで歌いあげた。
私の朗々たる歌声が公園内に響き渡った。ともすれば向こうの民家にも届いたかもしれない。
かまうものか。聞かれて恥ずかしいレベルでもあるまい。
街灯のひとつが砂場をスポットライトのように浮かびあがらせていた。私も光を浴び、まるで大勢の観衆に注目されているかのような気持ちになる。
続けた。
「マ~ ナ~~~ トゥ ソレ~ ッチュウ ベッロ オイネ~~ オ~ ソ~レ ミオ~~ スタ ンフロンテ ア~~ テ! オ~ ソ~レ~~ オ~ ソ~レ~ ミオ~~~ スタ ンフロンテ ア~ テ~! スタ ンフロンテ ア~ テ~~~~~~ッ!」
いつもながら、私の美声には惚れ惚れしてしまう。
イタリアのナポリ民謡である『オー・ソレ・ミオ』。
どんなにイタリアの風俗に疎い日本人でも、テレビやなにかで耳にしたことがあるだろう。
※『晴れた日は何て素晴らしい、嵐の後の澄んだ空 まるで祭日のような爽やかな空 晴れた日は何て素晴らしい だけどもう一方の太陽 なお一層輝かしい 私の太陽 君の顔に輝く! 太陽、私の太陽 君の顔に輝く! 君の顔に輝く!』
大学時代、オペラ歌手をめざしたことのあった唯一の自慢でもあり、私のストレス解消法だった。
これぞ発声訓練のたまものだ。胸声とファルセットの2つの声区を融合させたベルカント唱法は、そんじょそこらの人間には負けない自信がある。
もっとも、その夢も潰えて久しい。
夢を追うには当然のことながら私自身の努力不足もあったし、当時は経済的にもめぐまれていなかった。レッスン費用がかかりすぎたのだ。
そのうえ致命的なことに、せっかく教えてもらっていた、ウィーンで修業を積んだという触れ込みのオペラ歌手と大喧嘩をやらかし、なかば追放されたのである。あの先生とはひと悶着あったのだ……。
いずれにせよ、もう過ぎ去ったことだ。しょせん分相応だったのだ。
どんなに瑛美に空気扱いされようと、年ごろの晶子から邪険にされようが、折戸部長に呼び出され、生きたサンドバックとして叩かれたとしても、たまりにたまった鬱憤は、こうして晴らしていた。
ひとしきり『オー・ソレ・ミオ』を高々と歌いあげたら、すっかり胸のつかえは取れていた。
さて、また明日も頑張るか――と、ベンチに置いた荷物を手にしたときだった。
砂場の向こうの暗がりから拍手が起きた。
とっさに私は闇を透かし見た。
何者かが銀杏の下で佇み、盛大に手を叩いている。
小柄のシルエットだった。私の肩ほどの身長しかあるまい。
「ブラボー!」手を叩きながら、こちらに歩いてきた。「みごとなリサイタルでした。いいものを聞かせていただき、ありがとうございます。中国には耳の福と書いて『アーフウ』という言葉があるそうです。まさに耳の保養になった」
まさかすぐ近くに人がいたとは無防備すぎた。こんな場合だとかえってこっ恥ずかしい。頭をかいた。
私より年上の男だった。
人懐っこい笑顔から悪い人間ではなさそうだ。
そのわりにはショッキングピンクのワイシャツを着て、金色のラメが入った紫色のネクタイを締め、ハーメルンの笛吹き男が履いていそうな先の尖った革靴が印象的だった。およそ誠実さに欠ける恰好だった。
「人が悪い方だ。てっきり今夜は貸し切りだと思って熱唱してしまいました」
私はメガネの位置を正しながら言った。
「いやはや、僕の方こそ、盗み聞きしたみたいで恐縮です。突然のご無礼お許しください。ですが、これもなにかの縁です。少しお時間よろしいですか?」
「と、申しますと?」
経験則から言って、お時間よろしいですか、と呼び止められて良かった試しはない。
思わず身を硬くした。
「あなたにとっては定時をすぎ、僕としましても時間外の営業になるのですが、どうか話を聞いてください」と、相手は言って胸ポケットから名刺を出して、私に渡そうとしてきた。「僕はこういう者です。よかったら、ちょっとお話できませんか」
なかば名刺を押し付けられた。
私は紙片に眼を落とした。
『株式会社 東日本シャーデンフロイデ推進事業部 営業部 第一販売課 竹田 哲人』とあり、下には東京都新宿区の住所とビルの名前、電話とFAX番号、Eメール、URLのアドレスが明記されている。