10.夢を諦めきれない
「ごめんなさい。私が喋っちゃったばかりに、史郎クンに大怪我をさせてしまって」
意識を取り戻し眼を開けると、そこは別天地だった。
白い天井と、そこに埋め込まれた直管型蛍光灯。それにかぶさる形で私をのぞき込む西山 眞子の顔があった。ひどく憔悴した表情だ。
片方の頬が不自然に紫色に見えるのは、チークのせいではなかろう。
眞子の両手が私の頭を挟み込んでいる。
頭部全体は脈拍にあわせて疼いた。
手で触れてみた。
包帯が幾重にも巻かれているようだった。
西山にこっぴどくやられた私を、その後眞子が見つけ出し、自身の車で総合病院まで運んだのだという。
私は痛みにうめきながら、どうにか半身を起こした。
「遅かれ早かれ、こうなったんです。仕方ないことだ。眞子さんは悪くない」
「敏行ちゃんが、まさかこんなにもキレちゃうなんて」眞子は言い、自身の頬に手をやった。やはりチークではなかった。歪に腫れあがっていた。「こんな暴力ふるう男なんて最低。私、決めたの」
「なにを」
「もうあの人のもとへは帰らない。別れる。なら、いっそ――」と、彼女は言い、私の手を包み込んだ。「すぐじゃなくったっていい。私と一緒になって欲しいの。史郎クン、あなた以外に考えられない」
とっさに私は手を引っ込めた。かさっ、と乾いた肌と肌が擦れる音がした。
眞子に見つめられ、いたたまれなくなり、うつむいた。
相手は大方ふた回り上なのだ。23もだぞ。いくらなんでも現実的ではない。
かと言って、はっきり口にできる非情さもなかった。
「真剣にあなたのことが好きでした。眞子さんも私に愛を注いでくれた。この半年のあいだ、夢中になった。ですが」
「年の差が開きすぎてる。あなたのお母さんに紹介するには恥ずかしい?」
「そうは言っていません。どうか聞いてください――」
「私と一緒になったところで、いずれ私の方が先におばあちゃんになっちゃうから。いずれ介護になるから、愛も冷める?」
眞子の声に怒気が含まれていたわけではない。涙声でもなかった。
残酷すぎる時間が流れた。
いつしか彼女の眼は、遠くを見ていた。
心ここにあらずの顔で、私の横の壁を見つめていた。モルタル壁がまるで映写幕になり、近い将来を観ているかのように。
美魔女でもなんでもない。年相応の女の姿がそこにあった。
「オペラ歌手のレッスン、破門にされました。そりゃ、先生の奥さんと寝たんだから当然ですけど」と、私はしゃがれ声で言った。いまになって、とんでもないことをしでかしたものだと、自身の行動に寒気がした。「せっかく4年間、歌手になるのを夢見て積みあげてきたのに、ぜんぶパーにしちゃって。レッスン費用のことを惜しんでるわけじゃありません。自分でもすべての技が高みに達してたのに、一瞬で壊してしまった。私はとんでもないことを――」
私は手のひらを眼に押し当て、さめざめと泣いた。
こんなにも涙をこぼしたのは初めてだった。
眞子は、優しく抱きしめてくれた。
母のように背中を撫でてくれた。
「そっか。史郎クンは、そんなにも歌のことを大事にしてたんだ。私が無理に誘わなきゃ、壊さずにすんだのに。ごめんね。ホント、ごめんなさい。私の方こそ罪深いことを――」
「私も欲深でした。眞子さんのことも求めながら、西山先生に教えを乞う図々しさだ。二つも同時に手に入れようとするなんて、どうかしてた」
眞子は額にかかった髪をかきあげ、私の顔をのぞき込んだ。
「だったらさ、史郎クン。もう一度お願いすべきじゃないかな? ムシがよすぎるかもしれないけど、誠心誠意、頭をさげてお願いしてみるの。私とは、きれいさっぱり別れますから、もう一度やり直したいって。そんなに夢が捨てられないんなら、土下座してでも、あの人から許してもらおうよ。――それしかない」
「そんな……。別れるなんて、私は望んでいない」と、私は眼を見開いて、眞子を見た。「それに、いまさら西山先生は許してくれるはずがありません。あの人の性格は、この4年間で、嫌というほど知っているつもりです。とても水に流してくれるはずがない」
「私からもお願いしてみる。史郎クンを立派に育てて欲しい。残念だけど、私はあなたのことを諦めるから。そして敏行ちゃんに、一生費やして罪を償うからって誓う。それしかない。君も、最初からできないって決め付けないで。そんなんじゃ、プロのステージに立てないよ!」
「うまくいけばいいですが――」
◆◆◆◆◆
「それでおめおめと、僕ちゃんのもとに頭、さげに来たってわけ。しかも二人手を取り合って、けしかけて来るとは、ホホホホホ……。なかなかの度胸じゃない」
3週間ぶりの西山先生は、幸か不幸か、上機嫌モードだった。
あれほど逆鱗に触れたのだ。西山という名の領域を領空侵犯してしまった。この男にかかれば、遺憾の意の表明だけではすむまい。
ふつうなら逆上して、私はまたしても胸倉をつかまれて、罵倒されても仕方なかった。眞子とて例外ではないだろう。私たちはそれすら覚悟して会いにきたのだった。
西山の情緒は並大抵ではない。お多福みたいに下膨れした顔は終始笑いっぱなしだった。
かえってこんなときの西山の方が不気味すぎた。
すべての受講者のレッスンを終えた、人気のないスタジオ。
黄昏の色が窓から差し込んでいた。
防音設備が完備しているとはいえ、ピアノの鍵盤を叩き、一般人とはかけ離れた声量の人間たちが歌を張りあげるのだ。念には念を入れて、スタジオは住宅街からはずれたところにあった。
むしろ窓の外は、ヒノキの数の方が多すぎた。それゆえ花粉が飛び散る時期になると、受講者には不評だった。すぐ裏手は、山の斜面が迫っていた。
「お願い、敏行ちゃん。ぜんぶ私が悪かったの。彼は被害者なのよ。だから追放は取り消してあげて。この人の才能を潰すなんて、もったいないじゃない」
眞子はラッピングされた箱を手に、西山に近づいた。
ワッフルケーキの詰め合わせごときで、西山が態度を軟化させるとは到底思えない。黒いストッキングで歩くたび、ワックスで磨いた床は滑った。
私は出入り口で頭をさげたまま、西山の出方を窺った。
フロアの中央に据えたグランドピアノ。
斜めに固定された屋根板の一部が破損し、粘着テープで補修してあった。
かたわらに佇んだ西山は片腕をピアノにあずけ、ご満悦の表情だ。まるいあごを突き出し、妻が近づくのを見守った。
「菓子折りぐらい、佐那本人に渡させるべきだ。眞子ちゃんが代理で来るなんて、まるで保護者きどりじゃないか」
「そこをなんとか――私からも頼みますから。史郎クンの絶縁は取りさげて欲しいの。さっきも言ったように、彼とはきっぱり別れます」
西山はワッフルケーキの箱を受け取り、譜面台の横に置いた。
「眞子ちゃん、僕は君を離したくはなかったの。よりを戻せば頼みを聞いちゃってもいいけど。もちろん反省してるよね? 悔しいけど、そんなら受け容れちゃってもイイ」西山は眞子の両腕を取った。そして彼女の身体のわきから顔を斜めに出し、「おい、佐那! おまえの誠意を示してみろよ」と、言った。




