1.悲しき中間管理職者の帰り道
そこはみすぼらしい駅舎内。
私と、その胡散臭い男しかいない地方の無人駅だった。
すでに夜も8時にさしかかろうとしていた。
外は寒の戻りのあとの冷たい雨が降り注いでいた。スレート葺きの屋根を規則正しく叩く雨音がこだましていた。
本来ならこの駅からマイホームに帰るはずだった。
郊外に建てた延べ床面40坪の分譲住宅。吹き抜けのある光あふれるリビング。おしゃれな螺旋階段。2階からの見晴らしもすばらしい。
とりわけ、大きく前庭に張り出したサンルームで籐椅子に腰かけ、読書するのが私にとって至福の時だった。
裏山がすぐ間近に迫り、庭には精魂込めて作った家庭菜園があった。自慢の有機栽培。妻が育てている色とりどりのバラもすてきだ。私にとっての楽園だった。
なのにいま、まさに対決の時を迎えていた。
なぜこんな訳のわからない袋小路に迷い込んだのか、人生こそ一寸先は闇である。
もうじき回送列車が入ってくるはずだ。それが私にとっての切り札だ。
チャンスは一度っきり。
ズボンのなかに隠した罠を素早く取り出し、それこそF1レースのタイヤ交換みたいに手際よく仕掛けなくてはならない。
さもなくば――そのときは私が窮地に立たされる。
男が近づいてきた。
雨に濡れて、ぺったり前髪が張り付いた顔で、軽薄そうに口角を吊りあげたまま、
「よろしいですか、佐那さん。そろそろ覚悟を決めてください」と、言った。さらに前のめりになって私の顔を真っ向から見つめる。クレーターじみた毛穴の数まで数えられそうなほど近い。「僕がお勧めする商材――シャーデンフロイデをお買い求めくださいますか? いまなら絶賛キャンペーン中ですので、5000円分のクォカードがついてきます。もっとも、本来ならば商品ご購入後、8日以内の返品が可能ですが、あいにくキャンセルできませんがね。だってコレ、キャッチセールスの範疇に入らないんですから。いまからその訳をお教えしましょう。なぜなら僕は――」
どうしてこんな事態になったのか、話を遡らねばなるまい。
あれは、ほんの2時間前にすぎなかった――。
◆◆◆◆◆
春の夕方6時はまだ日は沈む気配がない。
会社から帰宅途中だった。私は疲れた身体を引きずりながら商店街を歩いていた。
せっかくの金曜日だ。定時であがってなにが悪い。
私の名は佐那 史郎。46歳。
大学を出てから、地方都市の電設工業所に勤めてひと筋だった。
仕事内容はというと、製作機械の電気配線工事や、各地出張工事、工場内の設備に伴う電気工事全般である。
一介の電気工事士だった私が、不惑になると同時に販売部の課長に昇進してから、神経のすり減る毎日だった。
前任の課長が早期退職し、年功序列のためスライドする形で管理監督者にさせられたといった方が正解だ。
じっさいは残業手当などの人件費削減を名目にした、名ばかり管理職にすぎなかったのだが。
妻である瑛美は、パートとして勤めている乳酸菌飲料の宅配レディ仲間と歓送迎会で出払っており、夕飯は外食ですませてくれとのことだった。
二次会にも参加するつもりだから、何時ごろ帰るかわからない。先に寝ててもいいと付け加えられた。
前もって言ってくれればいいのに、今朝、いきなり切り出された。それも鏡面に向かって髪を梳かしながら、ふり向きもせずにだ。
寂しいものである。
もっとも夫婦仲にすき間風が吹き込んでいたのは、いまに始まったことではないのだ。
◆◆◆◆◆
この街の商店街も、すっかり活気を失ったものだ。
例のごとく大型スーパー・量販店の台頭で商店街は軒並みシャッターを閉ざした店舗が目立った。
テナント募集中の張り紙が、風に吹かれてピラピラと揺れていた。私がおかれた中間管理職の悲哀とおなじものを感じさせる。
それでも生き残った食事処はあるにはあった。
なにを食べようか練り歩き、さんざん悩んだすえ、うどん屋の暖簾をくぐった。
瓶ビールを一本空け、天ぷらうどんで空腹を満たし、人心地ついた。メガネを取って、レンズを磨いた。
それにしても、ここのえびの天ぷらとかき揚げは、いつ食べても絶品である。
うどん屋を出て、商店街を進んだ。
家路に急ぐ人もなぜかまばらだ。こんな落ち目になったアーケード街は眼中にないらしい。
人の流れに沿い、しばらく歩いたのち、右側に懐かしの店が開いているのを見つけた。
昭和の香りのする駄菓子屋だった。
入ることにした。
懐古趣味からではない。今朝の出勤前、瑛美にあるものを買ってくるよう頼まれたのだ。ここなら目的の品が見つかるはずだ。
店の主はレトロな外観に反して、髪の毛を緑色に染めた若い娘だった。
ノースリーブのむき出しの肩には気味の悪い蛾の入れ墨がしており、耳たぶにはハロウィンのカボチャのイヤリングがぶらさがっていた。
私が狭い店内を物色しようが、スマートフォンに夢中になっているのはいかがなものか。
ほどなく品を見つけた。
爆竹だった。20連10束入を5つばかりと100円ライターを手にし、レジでふんぞり返った彼女を呼んだ。
「花火をするには、ちょっと時期が早い気もしますけど?」
蛾の入れ墨をした彼女は、レジスターに金額を打ち込みながら言った。
「まさか。――自宅で家庭菜園を作ってましてね。裏山から猿がおりてきて、せっかく育てた野菜を奪っていくので、脅しで使うんです」
「なーるほど。エアガンでババーッと撃っちゃうより、平和的な解決策でなにより」
害獣が入れないよう、電気柵で敷地を囲ったり、ソーラー電源式の鳥獣撃退装置を備え付けることだって考えたこともある。そこまで手の込んだことをしてまで家庭菜園を守りたいとは思わなかった。ならいっそのこと、野菜は買った方がましではないか。
そこで安あがりな爆竹というわけである。
むろん言うまでもないが、近隣住民が寝静まった時間帯に鳴らすのはご法度だ。