02
踏み出した足はそこにあったはずのアスファルトの地面をすり抜けたかのように空を切った。およそ階段一段分くらいの高さだろうか、突然のことになすすべもなくそのまま前方にダイブする。それも両手がふさがっていたせいで、まともな受け身も取れず顔面からだ。運よく抱えていた段ボールがクッションになっていなかったら、目も当てられない状態になっていたに違いない。
「いったーい」
ワンテンポ遅れて、訴えかけるような女の子の悲鳴が聞こえた。すぐさま身を起こし、女の子の方を見る。
「だいじょうぶ?」
「うぅ、なんなのよぉ」
自力で身を起こし尻もちをついた状態で左腕をさすっているところを見ると、大きな怪我にはならずに済んだようだが、ストッキングが破けて左膝から血をにじませている姿はさすがに痛々しい。
たしか鞄の中に絆創膏があったはず。向かい合わせで座り込んだままの彼女を見ながら、鞄を手繰り寄せ開けようとした瞬間、前方遠くにかすかな金属の音がした。
目を上げそちらを見ると、20メートルほど先に四人の兵士が横並びに立っていた。兵士と言っても銃に軍服ではなく、剣に鎧という映画でしか見たことのないような西洋ファンタジーのそれである。その上、ただそこに立っているというだけではなく、表情まではよく見えなかったものの、腰に携えた剣に手を添えいつでも抜けるような姿勢でこちらを注視しているのだ。
なんだあれ。なんでこっちを見ている。時代錯誤も甚だしいあいつらのあの格好はなんだ。そもそもここはどこだ。なぜ昼間のように明るい。ゴミ集積所はどこに行った。いやいやコンビニ店すら霞のごとく消え去ったこの荒れ地にゴミ集積所も何もあったもんじゃない。思考回路がアクセルペダルベタ踏み状態で一気に高速回転しはじめるが、嚙合わせるべきギアが全くないためただただすさまじい勢いで空回りするだけだった。
目の前のイケメンが鞄に手を伸ばしたまま固まっている様子に気づいた女の子は、一瞬いぶかし気な表情になるが、その整った顔から視線を外しその遥か後方を見やった瞬間、同じように固まった。女の子の表情の変化に状況を察しすぐさま後ろを振り返ると、やはり同じように離れた場所に四人の兵士が立っていた。それだけではない。右手には兵士とローブ姿の数人、左手には他の兵士たちとは身に着けているものが違うが、明らかにその類の者たちなのは一目でわかる格好の四人が立っていた。
「な、なにこれ……どういうこと」
恐怖にかすれた声で呟きながら、女の子はゆっくりとこちらに近寄り左腕に強くしがみついた。突如夜の都会から何も遮るもののない昼の荒野に放り出され、その上周囲を武装した集団に囲まれたのだ。至極当然の反応である。
だが彼女のその反応を目にしたとたん、腕から伝わる彼女の恐怖がまるで自分の恐怖心を吸い取ってくれてでもいるかのように、彼女とは正反対に自分自身は驚くほどに冷静になっていった。そう、例えば腕に当たる彼女の胸がパッドであり、その肩や腕の感触が女性的なものではない、などという現状あまり意味のない事に気づき、抱き着かれた腕を相手に気づかれないようにそっと体から離す、などという事ができるほどに。
軽く深呼吸をし、あらためて四方をもう一度ぐるりと見渡す。
まずは正面。四人の兵士の内一人が一歩引いたところで左手に弓を持ち、残りの三人が2~3メートルほどの間隔を開けて横に並び、腰に下げた剣の柄に手を添えてこちらを睨んでいる。
次に右手。三人のローブを羽織った人間を挟み左右に二人づつの兵士、四人とも背中に弓を備えているが手は剣の柄だ。少し後方に二人、別のローブを着た人影も見える。
背後の四人は正面の四人と同じ構成だが、怯えているのかいつ剣を抜いてもおかしくないような姿勢だ。
最後に左手。他と同じように四人なのだが、先に述べたように他の兵士たちとは異なる装備で、特にお互い距離を置くでもなしに一応横並びしました、といった感じで中にはしゃがみこんでいる者すらいるほどのだらしない雰囲気だ。遠くてよくわからないが、こちらを見て笑っているようにも見える。だがその様子はいかにも荒事に慣れた者たちという印象しか与えない。
四方の集団それぞれの間隔は結構な距離を取っているが、最も近そうな右前方の隙間に向かって全力で走り出したとしても、余裕で塞がれてしまうであろう距離がここからはあるし、平和な社会で生きてきた一般市民が、前時代的とはいえ立派な遠距離武器である弓を携えた兵隊から何事もなく逃げ切れるとは到底思えない。
とりあえず今すぐに逃げ出すことは不可能だと判断を下す。様子を伺い機会を待つしかないだろう。ひとまずは兵士たちの長でありそうな右手の集団の方に体を向けた。
ちょうど集団の中心にいるローブの男とその左側にいる兵士、よく見ると首に赤いスカーフのようなものを巻いている多分隊長か何かなのだろう男が、何かしらのやり取りをし終えたところのようだった。
赤スカーフの男が右腕をあげながら一歩前に踏み出し、四方の兵たちにも届く大きな声で宣言した。
「成功だ!」
周りの兵士から、おぉという控えめの歓声が上がった。中央に立っていたローブの男が後方にいたローブの二人に何やら指図をする中、赤スカーフが再び大きな声を上げた。
「邪気も感じられんそうだ。ただし警戒は解くな。そのまま待機」
周囲の兵士たちから緊張が解かれていくのが遠くても分かる。ただ隊長の命令通り警戒の姿勢は維持したままであり、緊張が解けた分兵士たちの心にも余裕ができたのか、逃走出来そうな雰囲気は余計無くなったように感じられた。さらに悪いことにこちらは左腕の感覚がほぼ無くなっている。赤スカーフの上げた大声にびくりと体を震わせて以来、さらに力を増した彼女(?)の握力が完全に左腕の血流を遮断してしまったからだ。
状況が悪化し打開策が全く思い浮かばない中、指示を受けたのであろうローブの二人がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。先ほどちらりと後方に見えた二人だ。兵士たちと一緒に並んでいた三人とは違い、この二人は頭から完全にローブで全身を覆っていた。そのせいで全力疾走というわけにはいかず小走りにこちらへ向かってくる。それを見た彼女(?)はさらに強く左腕を掴んだ。一瞬、空いた右手でその顔面に一発食らわせてやろうかとも思ったが、ぐっと我慢をし顔面ではなく左腕を掴んでいる彼女の手の上にそっと手を重ねた。
「だいじょうぶだから。落ち着いて」
自分でも驚くほど低く男前な声が出た。意識は近づいてくるローブの二人に向けたままだったが、そばから感じられていた恐怖が少し薄らいだように感じられる。機会は逃すべきではない。近づいてくるローブ二人から彼女を隠すように自分の背後にまわす。ついでに左腕に絡みついていた彼女の両手をはがす事にも成功。ついでが本当のところどちらなのかは別として、ひとまずは問題をひとつクリアだ。だが到底感覚が戻り切るほどの余裕もなくローブの二人は到着した。
「ようこそおいで下さいました勇者様」
着くや否やそうこちらに声をかけてきた、目深にかぶったローブの下には無表情な女の顔があった。