第八章
──恋したのは雫ほどの小さな文字だった。
「マジでほんとに何でもありだな、この世界」
不満気な彼はそんな悪態を吐いた。初めから条件が決まっていなければ、こんな変化は起きないとは思うが……やはり信じられない。それに今ふと気付いたのだが、この設計を作った人間は端から条件を知らせるつもりがない。普通、条件を知らせるためには二つ以上の例がなくてはならない。しかし現状そんなものは無い──はずだ。彼が見落としているだけでもしかしたらあるのかもしれないが、それを言い出すと切りがない。
と、今はそんなことに集中していられない。預かったドライバーで排気口の螺を回す。ガリガリガリガリと不気味な音が鳴る。キュッと何かが滑る音が聞こえてから、カチャンと間抜けな音を立てて排気口が外れた。それで人一人が通れるほどの入り口が完成した。
彼はそこに体を入れると、匍匐前進で進み出す。フェンスを閉める余裕ないので、そのままの状態だ。ノソノソノソノソ。左肘を前に出しては引き戻し、右肘を前に出しては引き戻し──そんな行為の繰り返しをひたすら続ける。そろそろ肘が限界だ。限られた空間の中で、彼は肘の痒みに耐える。明かりがないから、一体どんな状況になっているのかわからない。予想ではきっと真っ赤に腫れている。
彼はそんなふうな考えをずっと頭で巡らせた後、ようやっと見えた光に長い息を吐いた。それはしかし安堵を起因としたものではなかった。どちらかと言うと先行きの不安さからのものだった。
彼はその明かりに向かって進む。匍匐前進のペースを落とす。音で気付かれたら元も子もない。心拍数さえ制御出来れば、と激しく打つ鼓動に不安げな表情。彼は明かりの上に到達した。フェンス越しに世界を見る。
「──っ!」
そこでは何百人という数の人々が蹲っていた。彼らはたまに顔を上げては、まるで礼をするかのようにまた頭を下げる。「一体誰に向かって?」と彼ら全員が向く向く方へ首をむける。しかし見えない。ちょうどフェンスの端で邪魔になってしまう。彼は息を吐いて、前へと進む。ここで降りては駄目だと頭が判断する。彼もそれには賛同だった。
彼はゆっくりと、音を立てないことを意識しながら前へと進む。鼓動は相変わらず上昇傾向にある。彼はそれさえ止めたくて、無意識で息を止める。五秒経った辺りで気付き、息を思い切り吸う。その瞬間さえ音が出るのではないかと不安で仕方がない。彼女の語った【教団】の恐ろしさ。それを思い出してしまって、彼はまた恐怖に足がすくみそうになる。しかし彼女は言った。「ここからは【予定】外だ」と。一体いつ頃からその【予定】が決められていたのか定かではないが、それがここまでとするなら、生きるも死ぬも彼の自由。確実に死ぬ、という現象は起きないと知れただけで安堵の息だ。しかしそれは、確実に生き残れる、という現象がこれ以上起きないということと同意義で──そんなふうに考えてしまうと怖くなってしまうから、彼はその考えを振るい払った。物理的には不可能なので、心の中だけ・頭の中だけでた。
彼は匍匐前進を続けながら、彼女の言葉を思い出し始めた。
──
「──そう、全部初めから」
そんなふうに笑った彼女はその後、こちらに手を差し伸べた。ハッとなって、彼は息を吸い込む。それにもまた、彼女は笑った。
「緊張する必要は無いよ。ただ、ここからは【予定】外。だから充分用心してね」
「【予定】、外?」
「うん。決められていた【予定】はここまで。後はあなた次第、あなたの自由さ」
「でも」と彼女は枕に付けて、続ける。
「あなたは【ビル】に行かなくちゃいけない。メモの書き主を探さなくてはならない。でも、あなたはその書き主を知らない。だからボクが、名前だけ教えてあげよう」
トントンと彼女はそう言って、ポケットから一枚の紙を取り出す。彼はそれが、まるで自分の持つものと同一のような気がした。しかしその内容はまるで違うようだった。彼女がそれを読み上げ始める。
「──駅員を迎えに行け。そして規約の全てを知れ……。これがあなたへ送られる、きっと最後の【伝言】だ。とりあえず全部伝え切った……と思うから、そのはずだから、頑張ってくれ。ちなみに駅員は【ビル】にいるはずだよ」
そこまで言い切ると、彼女は消えた。今度は携帯電話も一緒に消えた。突然熱を持ったかと思うと、まるで蒸発したかのようにそれは消えた。彼がその熱さに思わず意識を奪われている間に、彼女は霧となって消えた。それはまるで初めからなかったかのようだった。彼はなんだか泣きそうな気分を起こして、その場にしゃがみ込んだ。その気分の理由はなんとなくわかった。きっと彼女と触れ合える端末を無くしてしまったからだ。「では何故彼女と触れ合おうとする?」「そんな無情なことを聞いてやるな」と、頭が心に言った。心の方が正しいのは自分でなんとなくわかった。フワフワした感覚がしていた。彼は思わず手を何度も握りしめる。そこには確実な彼女との触れ合いがあった。けれどそれももうない。世界なんてそんなものなのかもしれないと彼はなんとなく思った。自分でも何を言いたいのかわからなかった。
ふと、彼は彼女のセーラー服を思い出した。彼女のセーラー服は青色だった。そこに一つ、赤く染められたリボンが添えられていた。そんなことを思い出した。たった数十分。触れ合いとしてはそれだけだ。きっと傍から言わせれば、悲しいほどにつまらない感情なのだろう。しかし無垢な瞳を見た瞬間から彼の心は彼女に掴まれていた。「( ゜∀ ゜)ハッ!」と絵文字を使って自嘲でもしてやる。けれどそれは本音だった。彼は思わず顔を隠す。涙はない。泪だけがダラダラダラダラ流れ落ちていく。そこに感情はない。何度も泪は流したのに、何故涙は流れてくれないのだろう。そもそも何故日本語にはそんな区別があるのだろう。八つ当たり気味に彼はそんなことを思った。何故、泪と涙などという区別を作ったのだろう。否、それだけなら良かった。その区別くらいは許してやる。許せないのは、それに優劣を付けた【誰か】だ。彼はきっとその【誰か】を恨んでしまう。この気分はなんだろう。この八つ当たり気味な荒んだ心。まるで一番初めの──もっともっとも、定められた【予定】よりも、もっともっと昔──心のようだった。その時──その【昔】と形容した時、自分は一体何をしていたのだろう。
……
【 「戴きます」
そう言って彼は手を合わせた。「はい」と声が返って来て、彼は箸を動かし始めた。まず選ぶのは焼き鮭だ。それを真ん中で割って肉を取り出す。口に運ぶ。その時骨が混ざらないよう気をつけて箸を動かさなくてはならない。万一あったとしても、吐き出せばいいし、万一喉に引っかかっても、米で流してしまえばいい。ただ、喉に詰まって死んだ人もいると聞く。警戒は怠らない方がいいだろう。そんなことを考えながら、彼は箸を動かしていく。たまに米を挟み、味噌汁を挟み……としながら、食事を続けていく。ただやはり──、
「腑に落ちない」
「何がですか?」
彼のふとした一言に、駅員が反応する。彼女は啜っていた味噌汁を食卓に置くと首を傾げた。無意識か有意識か。どちらにしろ彼女の手は虚ろの中でも食材を探している。なんとも我儘なことだと思った。それならどちらか一方に集中すれば良いのにと思った。ただそれを口に出すことはしなかった。言っても無駄な気がする。
「何だか凄い失礼なことを思われた気がするんですか気の所為ですか?」
「気の所為ですよ。気にしたら負けです。てか、これとかおかしいと思いません?」
彼女の問いに適当に答え、彼は食卓を指で指した。ムッとした彼女の表情に笑いを堪えつつ、こめかみを叩く。
「よくよく考えてみてくださいよ? ここ、駅の駅員室ですよね? なんでそんな所に台所があって、便所があって、寝台があって、食卓があるんですかね? おかしいと思いません?」
「さ、さあ? 私が来た時からずっとそうでしたから、違和感はさほど……」
「いや、明らかに動揺してるじゃないですか。何か知ってるんじゃないですか?」
「ハハハ、全然わかりませんよー。そう言えば今日の鮭美味しいで──」
「あんた今思い切り話変えようとしたな! 絶対何か知ってるでしょ? 答えてくださいよ!」
「急にどうしたんですか? 別にそんなのどうでもいいじゃないですか。そんなことくらい、自分の頭に聴いてくださいよ。──あの子みたいに」
そう駅員が言ったところで、会話は終了した。腑に落ちない点しかないが、彼女はこれ以上会話する気は無いらしい。箸を黙々と動かし、彼にもそれを強要する。まだ腹五分目と言ったところなので、食べるには食べるが、胸のモヤモヤは取れそうにない。気になって肺のあたりを掻いてみるが、あまり効果はない。やはり頭の問題なのだろう。だから頭をかいてみることにする。
「ご馳走様でした」
そうしたら彼女の食事は終わっていた。あまりの速さに驚きを隠せず、彼は目を丸くする。そんな様子に彼女は笑う。何だかそんなやり取りが心に滲んでいく。それで彼は親指で力を溜めた中指を弾き、彼女の額を叩いた。いわゆるデコピン。彼女は悶絶。彼は笑い、ざまあねえと心で言葉にした。
「それで、今日のお勧めは?」
「だから心に……はあ、わかりました。今日のお勧めはですね……このビルです」
彼女はそう言って地図を指さした。彼がこの場所に訪れてから四日。様々な場所を巡ることにしたのだが、彼はこの場所を一切知らない。という訳で今は彼女にお勧めを尋ねるようにしている。彼女はそれを嫌がるが、彼の威圧で仕方なくしてくれている。それもきっと優しさなのだなと彼は思った。ただ口にすることは無かった。そんな恥ずかしいことは出来なかった。
「びる?」
ただ、今回は彼女の言う単語が理解できなかった。思わず聞き返し、彼は首を傾げる。【びる】とは何だろう。聞いたことの無い単語だ。
「あー、ビルって言うのは駅の裏側にある長方形の大きな建物ですよ」
「あれが、びる?」
「そう、ビル」
彼女の発音と自分の発音で少し違う気がしたが、気にしない。ただ彼はその場所に何があるのかだけが気になっていた。彼女はお勧めの場所こそ教えてくれども、そこで何が起こるかまでは教えてくれない。昨日は、何やかんやで無事であれたが、初日のような目には願わくば逢いたくない。という訳で、いつもここで心が緊張する。
「では、行ってらっしゃい」
そんな彼の葛藤を他所に、彼女はそう手を振る。それは敢えて冷淡を装ったもので、彼は思わず笑う。「そんな冷淡な」と冗談で返した。彼女も笑って、「そうそれこそが私駅員なのです」と言った。その表情は緩かやだった。初日の本当の冷淡さからはほど遠いものだった。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
そんな風に言って、彼女は手を振る。彼はそれに応える言葉が思い浮かばなくて、ただ手を上に上げる。
──「行ってきます」とはどうしてか言えなかった。】
……
「…………………言えなかった。……「行ってきます」と言えなかった。言える機会はこれが最後だったのに、言えなかった。何故、言わなかった? 何故、言えなかった? 「気恥しかったからか?」「何があんまりなんだ」今更責めないでくれ、これは自分じゃない。とか何を言っているんだ。これは【彼】だ。俺が始まるよりも前の、言ってしまえば失敗した俺だ。だから俺を責めるな。俺が悪いわけがない。俺にはどうしようもない。どうやってパラレルの世界に干渉するって言うんだ、俺は……「そんな話をしているんじゃない」黙ってろよ?「言いたいことは、これを見て何も思わないのかってことだ」思うに決まってる。なんて愚かなんだってずっと思ってたよ、これを見て。束の間の幸福に溺れ、幸福の変化を恐れ。それで? それで結局こいつは【教団】に彼女を犯すことを許したんだろ? こいつ、馬鹿だよな。阿呆だよな。この時は何とも思ってない。何にも感じれてない。彼女にも自分にもそんな気は無い。そんな言葉でクールぶってカッコつけてやがる。それがどれだけ愚かな話なのか、自分では解せずに、この俺に託すんだぜ? 意味わかんねえよ。だって……あ、当たり前の話じゃねえのか? 雫に恋しようと、雨に恋しようと、煙に恋しようと、結局は一緒のことなんじゃないのか? 自分で、その気持ちを、真っ先に理解しないといけないんじゃないのか? 違うのか? 違わないだろ? こんな、こんな薄っぺらい、何を言ったってつまんない小説が売れてるはずがねえ。これはただの自己満足、それも俺と同じ俺のそれだ。ハハ、笑っちまうよな。笑っちまえよ。笑えよ。きっと、きっと今、俺の話が作られてる。それを読んでる奴がいる。阿呆な話だ。だって、こんな愚かな奴のことを見て、何が面白い。どれだけ美しく作ろうとしたって、この作者は! つまりこの俺は、なんにも変わってない。失敗したくない。今度こそはって、祈って祈って何もしない。祈るだけだ。言っちまえば切っ掛けすらもだ。切っ掛けすらも【教団】って仮想敵を作り出して、彼女と共にあろうとして……結局拒絶される。心が痛い。頭が痛い。言ってしまえばこれはただただただただただただただただただただ! 馬鹿で愚かで幼稚な俺の掃き溜めだ。この小説の初めの一行目! 【────恋はいつだって初めてのように感じるものだ】ってよ。馬鹿げてるよな。何で俺はいつも初めてって感じちまうんだろう。これは唯一無二だって考えてしまうんだろう。きっと、きっとそれは俺が唯一無二を求めているからだ。昔から、俺は唯一無二になりたくてなりたくて仕方がなかった。何をしても何を食ってもそんなことしか考えれなかった。でも実際、そうなるための努力は出来なかった。そしたら辺りからみんないなくなっていた。気が付いたら一人だった。辺りを見渡しても誰もいないから、上を見上げる。そしたらそこにはみんながみんな、自分のステージで唯一無二を築き上げていた。ショックだったよ。俺は唯一無二になれない。ただただ凡庸な一人でしかない。高望みするばかりで、何の生産性もない。今だってただ蹲って、誰かから声を掛けられるのを待っている。そんな……そんな受け身な俺が、如何に愚かで情けないか。昔誰かに言われたのを思い出したよ。それは甘えだって。知ろうとしないのはただの甘えだってな。俺はそれを否定した。聞く耳なんて持たなかった。知ろうとしたとしても知れないことは沢山ある。それを甘えだと言うのは軽率だと、傲慢だとそう言った。それは今でも思っているし、きっと正しいと心は思う。けれどそれを頭が理解していない。つまりそれは、フワフワフワフワ浮ついた考えなのだ。だからそいつを説得することは叶わなかったし、結局の所それが当たり前なのだ。
……今だってそうだ。彼女を失い後悔はしているはずなのに、涙は流れない。きっとそれは自分に自覚がないからだ。ずっと浮ついているからだ。ずっとずっと、自分は小説の主人公だと思ってきた。もしかしたらそれは事実なのかもしれない。でもそんなことを考えているから、自分を持てないのだ。心が確立されていても、頭がそれの理由を知らなければ、何の意味もない。それはただ寒い寒いと言って上着を着ないようなものなのだ。それはつまり具体性を持たなくてはならないということなのだ。けれどそれを自分は持ち合わせていない。きっとそれを見透かされるのが怖いから、俺はずっと見栄を張っていた。わからないことでさえ、わかると応えた。同じステージに立とうと必死だった。同じレベルになりたかった。願わくば、誰も彼もを見下ろして生きていたい。そんな心が一つ、俺の中にはあった。否、それは一つと言っていいものでは無い。それは俺の核だった。生きるうえでの核。細胞が一つ一つ核を持つように、俺のそれもそうだった。だからそれを守らなくてはと必死だった。だから見栄を張っていた。わからないことでさえ、わかると応えた。そんなことが、今では愚かに思える。
……今、別世界の自分──【彼】がビルの中で匍匐前進をしているはずだ。それは本来、俺が進むべき道だった。けれど俺はそれを放棄した。放棄して、この世界に悪態を吐くことにした。それでは何とも……続きは出てこなかった。単純に語彙力が足りないだけでは語れないほどの理由がそこにあった。カラオケで絶叫したい気分になった。今になって、彼女の言っていた意味がわかった。ここからは【予定】外──つまり、ここからは何も決まっていない。つまりは、彼の自由。つまりは──物語としては破綻するという訳だ。本当に【予定】があるとすれば、俺は絶対に【ビル】へと向かうはずだ。けれどそれを俺は放棄した。もしかしたら色々なものが放棄されているのかもしれない。もしかしたらやけでも起こしているのかもしれない。もしかしたら何かに感化されてしまっているのかもしれない。もしかしたらそれはどれも違うのかもしれない。答えはきっとない。答えは何もない。答えなんて必要ない。だって、これは──この言葉の全ては、ただの──「」なのだから。そう、この世界はこの場所だけ。この【恋愛論者】に開けられた、嵌め込まれた、たった一つの部外文でしかない。だからこれに【」】で終わりを付けてしまえば、それでお終い。空白は消え、物語はまた進み出す。言ってしまえば、こっちがパラレルなのだ。空想と言ってしまえばいいか。ここで俺が語り騙ったことは全て、誰にも何にも、なんの影響も与えない。これはただの額縁だ。世界遺産に登録されている絵画の額縁に誰も感嘆の声を上げないように、この散文に何か評価を付けるものがいるはずがない。世界なんてそんなふうなものなのだ。フワフワフワフワ浮ついた考えという名の絵画を掴む額縁には誰も興味を示さない。けれどもしその額縁がなければ、浮ついた考えは下に落ちてしまう。下に落ちればそうなれば汚れ、廃れ、誰にも見向きされなくなる。だからそういうことなのだ。俺が昔、そいつに言ったこと──知ろうとしないのはただの甘えだと、そう言うのはただただ傲慢なだけだ──は、何の額縁を持たない絵画と同じだったのだ。額縁を持たない時点で、その絵画に──その考えに意味は無い。ただただ廃れ汚れた、気味の悪い絵画で──考えでしかない。だからそいつは俺の意見に納得の声を上げなかった。だから俺はその言葉に負けた。昔から、そんなことくらいわかっていた。俺が書くもの描くものは薄っぺらい。美しくない。でも友の書くもの描くものは重厚で、美しい。それはきっと、その友にはちゃんとした額縁があるからなのだ。何度も何度も、クドクドクドクドクドクドクドクド言うが、これが俺の言いたい全部だ。きっと消えてしまうこの言葉。【「」】で閉じられてしまう言葉。だからこそ一瞬でも心に残って欲しいと思う。俺のような愚かな人間はもう誰一人として要らない。『──自分の額縁を持て』【恋愛論者】の章ごとにある序文、あれを真似るとしたら、俺の言葉はこれだ。これだけだ。これを胸に刻んでほしい。それで最後に一つだけ言いたい。こんな気持ちの悪い小説を読んだ人間に問いたい。どうして、どうしてアンタらは────」
──
──昔、と形容したその日々を思い出し、彼は薄いナミダを零した。それが一体どちらか彼にはわからなかった。けれど前を向く勇気だけは取り戻せた気がする。彼はそんなふうに思って、にこやかに笑う。顔を上げて、前を向くことにした。
それで、話は元に戻る。
奥に見えた光を追う。それは赤、青、と点滅を繰り返している。目を細め、その妖しげな光へと向かう。心拍数は、何故か今落ち着いている。フウフウと息を吐いた。匍匐前進で進む。肘を前へと出しては引き戻す。それは四十回以上繰り返したところで、ようやっとその光に辿り着いた。フェンス越しに見つめる。そこには誰もいない。点滅する光源が、ポツンと真ん中に置いてあるだけだ。
彼はポケットからドライバーを取り出すと、螺に合わせる。ガリガリガリガリと言った音を出来るだけ鳴らさないようにして、彼はそのフェンスを開けた。ガチャガチャ言わないよう、ゆっくりと慎重に持ち上げる。取り外したそれを端に置いて、彼は首を外へと出した。
一気に新鮮な空気に包まれる。彼は大きく息を吸った。首だけで辺りを見渡す。右、左、上、下。誰もいない。大丈夫だ。彼はゆっくりと、足から排気口を通る。身体はギリギリ。もう少し腹が出ていたら、きっと通れなかったろう。そんなことを考えながら、彼は排気口を潜り抜けた。
「いっ──た!」
と、案の定何の対策もしていない足は衝撃をもろに喰らう。痛みに悶えて、彼は地面を転がった。「本当に痛いな」と足の節辺りを擦りながら呟く。辺りを見渡して、誰もいないことを再度確認。彼は安堵の息を吐いた。
痺れる足を何とか持ち上げ、彼は点滅する光源の元へと向かった。それはだいたい三秒に一回ほどのペースで点滅を繰り返している。しかもよくよく見ると、色のバリエーションも多岐に渡っている。遠くから、それも排気管の中から見ただけではわからないが、近くで見るとそれがよくわかる。おそらくこれは軽く百は超えるな、と彼は顎に手を添え探偵ポーズ。そのまま大袈裟に光源から離れると、彼は息を吐いた。
「さて、これからどうするかだな……」
実は彼、ここにノープランで来ている。一応、あのメモ書きの書き主──駅員を探しに来たという訳だが、実はその駅員については、顔すら知らない。言ってしまえば完全に初対面。こちらが勝手に考えているだけ。なかなか迷惑な話だな、と彼は思った。自嘲してから肩を鳴らす。あんなにも狭い排気管の中にいたせいで、全身が痛む。彼はパキパキ鳴り始めた首や腰、肩を摩りながら、そんなことを思う。
「駅員の特徴一つでも知ってればな……」
頭をかいて、彼はそう呟く。もう少し彼女から駅員の情報を聞きたかったのだが、仕方がない。無念さを少し抱いていると、ふと、【恋愛論者】でも、同じ名前の人物がいることに気付いた。もしかしたら、という百分の一未満の確率に縋り、彼は【恋愛論者】を開く。確かその駅員が出てくるのは序盤の方だ。彼は第一章、第二章を舐め尽くすように読む。そこにはやはり、駅員が登場していた。【彼】に一抹の幸せを与え、自ら犠牲になった駅員。これが一体何を表しているのか。そもそもそんな抽象的なものでは無いのか。どちらかわからないけれど、そこには駅員の姿が描かれていた。しかし、そこから駅員の容姿を想像する所までには至らない。何故か知らないがこの【恋愛論者】は、人間描写がほとんどない。名前だけ公開されて、そこから直ぐに始まってしまう。言ってしまえば読者を完全に置き去りにしているようなものだ。彼は何だかそれに腹が立った。その『何だか』の部分は敢えて明かさないが、それが薄っぺらい激情だったことは御察しだろう。
「この世界は確か、条件さえあれば何でも起きるんだよな……」
ふと、彼はこの世界での法則を思い出し口にした。もしもしその【条件】を見つけることが出来れば、何でも思い通りになるのではないだろうか。きっとそれは事実だと思った。けれどそれは不可能に近い。彼は未だ、今までに起きた現象の【条件・原因】を知らない。そもそも探そうともしていなかった。探せばよかった、と後悔するが後の祭り。彼はチカチカチカチカ点滅する光源に触れながら、頭を垂れることにした。
そこでふと、彼は立ち上がる。頭を何度か振って、心を何とか持ち直して、パキパキと肩、足首、手首、腰、そして指を親指から順に小指まで鳴らしていく。そうやってから最後、思い切り首を回す。今まで以上に壮大な音が鳴った。彼はそれに少しだけ恐怖を感じつつも、逆の感情を感じていた。その逆の感情は敢えて隠すが、あまり良いものではなかった。倫理的な観点から言うとそんなものだった。
彼はそんな気分を抱えながら、辺りを見渡す。何度か右と左を往復した後、彼はそれを見つけた。当たり前の話のはずだが、彼はハッと息を飲んだ。見つけたそれ──扉の方へと向かい、彼は取手にてを掛ける。下に下ろせば、直ぐに開きそうだ。そんなふうに思うほどその取っ手は軽かった。きっとこの場所はそこまで重要な場所でないのだろう。彼は点滅する光源を不憫に思って振り返った。光源は未だチカチカとしている。それに彼は健気さを感じた。それが正解かどうかは怪しいところだった。
ふと、ポケットが熱くなった。ジュジュウジュウジュウと言っている。彼はそれを不審に思って、ポケットに手を入れた。熱さは大したものでは無い。少し痛む程度だが、これくらいなら耐えられる。彼はそのままその熱の正体を取り出した。それは一枚の紙だった。四つ折りにされたそれを彼は拡げる。ゆっくりと、慎重に。ゆっくりと、慎重に。そんなふうにしていたら、手紙が嬉しそうにカサリと言った。彼に情報を与える。
「………………は」
それを読んで、彼は笑った。それは小馬鹿にしたものではなかった。驚きのあまり、そんな声しか出なかったのだ。けれど──否、だからこそかもしれない。それを読んだだけで、彼は何もかもが報われるような気がした。その筆跡は明らかにあの携帯電話の主だった。何故かそんなふうに思った。きっとそれは、あの『受諾』と『拒否」の文字と、この雫ほどの文字が、似ているような気がしたからだろう。彼はそんなふうに思って、それを大事にポケットにしまった。息を吐いて、扉を開く。まだ見ぬ世界へなんて言わないが、心は少し高揚していた。
──恋したのは雫ほどの小さな文字だった。