表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【恋愛論者】  作者: 毛利 馮河
8/12

第七章

──結局の所、恋も愛も全て初めから決まっていたことなのだ。


風が吹いた。たなびくほどの髪はないが、少し手で触れてみる。冷たいなと彼は思った。大きく伸びをして、大きく息を吸う。冷たい空気が体を巡り、少し暖かくなって放出されていく。


その繰り返しを五、六度繰り返した所で、彼は伸びをやめた。遠くに見える【ビル】に目を細める。あの小説──【恋愛論者】の内容ではもっと近かったはずなのだが、と彼はため息混じりに思う。


【ビル】までの距離は、目測でも三時間以上は掛かりそうだ。念のために水と食料は充分に持ってきたから、途中で飢餓に陥ることは無いが……やはり寂しさには苛まれてしまうだろう。否、それよりも前に退屈がやってくる。という訳で、彼の手にはあの小説──【恋愛論者】があった。怖くなって一度はやめてしまったが、やはり続きが気になるのが人の性。どれだけ恐怖しようと、彼も人だ。性や本能には逆らえない。とは言え、一応理性的な観点もある。つまり読んでおけば、この先何かしらの参考になるかもと言う期待だ。しかしそれは【ビル】の位置の明らかな相違で、完全に裏切られてしまったのだが。彼はそんな風に現状を笑いながら、計画を立てていく。そこには自嘲の念が色濃く出ていた。


「まあとりあえずペース配分としては……」


熱中症は、この気温なので大丈夫だろう。ただ脱水症状は有り得る。一人の状況でそんなことになったら困るので、念の為の水分休憩を十五分程度取る。ではそれの間隔をどうするかだが……これはもう三十分間隔で良いだろう。


つまり計画としては、三十分間ちゃんと歩いた後、十五分程度休憩。そしてまた歩き出す……の繰り返しだ。正直地図なんて持っていない為、迷うこと覚悟のものだが、一応ここから目的地は見えている。あれがもし蜃気楼か何かなら一環の終わりだが、そんなことはあるはずがない。たぶん。ないと信じよう。


「そう、信じればこの世界では叶うのだから……!」


と、一人盛り上がってガッツポーズ。拳を握りしめたまま、三秒間停止する。寂しげに風が吹いた。それで彼は思わず身体を抱えた。自分の掌が妙に暖かく感じる。彼はホウ、と息を吐くと、水分を口に含んだ。やはり、喉は乾くものだ。


トボトボ、トボトボと歩く。一人で足を前へ前へと進める。時より訪れる風が何だか嬉しくて、その瞬間だけ少し綻ぶ。ただそれすら去った後は、ただただ寂寞に身を任せる他にない。寂しさがもう限界に達したら、一度止まって、本を読む。先ほど立てた計画は既に破綻していた。


「はあ、駄目だなこいつ」


一頻り満足の行くまで読むと、彼はそんな風に一人呟いた。


【恋愛論者】は今、既に第三章に達している。爆発が起き、自我が半分崩壊している【彼】は今、【ヒラ】とともに車庫にいる。車庫では【ヒラ】が梯子か何かを探しているらしい。暗闇の中で、【彼】はボーッと辺りを見渡して、考察を続けている。それで、【ヒラ】と【彼】は梯子を見つけ、登り切った。その空に見えた景色を、【ヒラ】は『ドーム型』と称した。面白い場所だな、と彼は思った。全部が青色で、しかもドーム型。そんな光景を彼は見た子がなかったし、そもそも想像だにしなかった。もしかしたらあの車掌の部屋から一歩出れば、あんな光景が拡がっていたのかもしれない。


そう思うと、何だか勿体ないことをした気になった。それでそこから、【彼】の葛藤が描かれる。とは言え、そこの浅いものだ。心と頭、どちらの意見に従うべきか悩み、結局どちらの意見も聞くことにする──それは矛盾していることだが別に良いと結論づける。何だか、この【彼】の底の浅さを表しているようで、苛立つ。何故か無性に腸が煮えくり返っている。こんな訳の分からない怒りは初めてだった。何の理由もないのに怒る──それはただの八つ当たりではないかと、彼は気付いた。となると彼は今、【彼】に大して八つ当たりをしていたわけである。では何故? ──きっと退屈だったからだ。彼のあの八つ当たりは、彼の暇つぶしに過ぎないのだ。


彼はそんなことに気づいてしまった。そうしたら急に罪悪感で心がいっぱいになった。目から何だか泪が溢れ出てくる。それはただの泪だった。そこには何の感情もない。言ってしまえば、それはただの水滴だ。目から流れ出た水滴。少し塩分を含んでいるから、汗と同じだ。


そんなふうに彼は思った。昔の人は何故、目から出る汗だけを涙と名付けたのだろうと思った。それは単純な疑問だった。けれどそれ以上の意味があるように感じられた。その感情は大事にしなくてはならないと心が言う。頭は黙りこくった。それで彼は心に従うことにした。思えば、この頭と心どちらに従うか、などで悩んでいるのも馬鹿らしい。もし頭と心、どちらも間違っていたらどうする。それでは今、彼が行ってきたことも、それまで【彼】が行ってきたことも、全部が全て間違いになってしまう。それは、何とも非情なものだ。悲しいことだ。悔しいことだ。切ないことだ。けれどそれを知る術を彼は持ち合わせていない。だから今、一瞬の痛みと一雫の涙でもって心に誓うことしかできないのだ。


そんなふうに考えたら、急に心が楽になった。頭は相変わらず重たいままだった。【恋愛論者】の一節を取るなら、『これではまるで重石ではないか。そんなふうに思った。歩行の邪魔をする重石』とでも言うだろうか。


ふと、彼は顔を挙げる。ずっと見ていた小説から目を離した。すると急に世界が拡がったように感じられた。風が吹いた気がした。それを防ぐことは無い。そんなものは必要ない。なるがままで良いのだ。そんな風に思った。


彼はそれで立ち上がる活力を手に入れた。立ち上がり、彼は拳を握りしめた。何をクヨクヨしていたのだと心が言う。頭は重石のままだ。けれどそれは悪いことではないのだ。重石があるから、ものは風に飛ばされない。頭があるから、心は液状化しないのだ。だからきっと、それら二つの関係性は許容すべきものなのだ。今まで考えてきたことが間違っているとは思わない。けれどそれも一つの正解なのだと思った。


そして、彼は小説を閉じる。もちろん栞は挟んでおいた。彼はその小説の表紙──【恋愛論者】と書かれた部分をなぞり、フウと息を吐く。この小説が何故今ここにあるのかわかった。きっとこれは彼に、ここまでの考えに至らせる為の起爆剤だ。だから彼は読みたくないと思ったのだ。起爆する、という今までの概念の崩壊を心が恐れていたのだ。けれど起爆した後の世界はやけに広い。きっと固定概念という名の壁が破壊されたからなのだろう。この小説には感謝しなくてはならないと思った。彼は小説を大事に鞄にしまう。それでまた、歩き出すことにした。


歩い出してから大体十五分。喉が乾いたので水分休憩を取る事にした。地面にしゃがむと、カラカラの喉に少しの潤いを与える。彼はそれでホッと息を吐いた。大きく伸びをして、アキレス腱を伸ばす。先程から、足が徐々に動かなくなっている。やはり歩くだけでもかなりの疲労はある。足は今、パンパンに膨れ上がっている。発酵させたパンのようだな、と喩えるが笑えない。


彼は空を見上げた。ゆっくりと視点を下ろしていく。すると、割と直ぐに直方体の建物──【ビル】が視界に映る。【ビル】までの距離は、まだ遠い。未だ気の所為の部類だが、もしかしたらこれは蜃気楼の可能性もあるかもしれない。目の錯覚かどうか定かではないが、何だか【ビル】との距離間が一向に変わらない。


『もしかしたら……たられば……』の部類なので、考えても無駄──という訳では無いのか。一応頭の片隅には置いておく必要はあるかもしれない。『蜃気楼に遭遇したら、どうするべきか』などという都合の良い情報が頭にあるわけはないが、一応念の為に。


彼はそんなふうに考えながら歩く。足を動かす。昔聞いたことがあるのだが、酸素を最も多く使用して稼働する人間の部位は、脳みそだそうだ。つまるところ、考えれば考えるほど、足やその他の筋肉に回る酸素量が減り、疲労が溜まるというわけなのだ。とは言え、それのために思考を停止しろというのも難しい話だ。そもそも停止させることがまず難しい──否、ほとんど不可能だ。それに、例えば停止に成功したとしても、それでは道に迷って途方に暮れるだけだ。それはもうただの失敗だし、後々思考が回帰した後の後悔が半端ではないのでやはり嫌だ。ただ、それで無駄なことをずっと考えているというのも何だかおかしな話だ。それを考える酸素があるなら、足に回したいと思うのが人間の理。とは言え、無駄なことを考えていないと狂ってしまいそうなのも事実だ。故に結論としては──今のままで行こう。


と、彼は決めて水分を補給した。そこまでの思考全部が無駄でしかないことに気付いて、ため息を吐く。そこには自分の呆れしかなかった。情けないと頭を叩く。


彼は小説を開く。先程の続き──【彼】が葛藤を抜け出したところあたりからだ。【彼】はそこで、一人の少女と出逢う。少女は自分の姉はどこかと尋ねるのだが、もちろん【彼】の知るところではない。もちろん【ヒラ】も──と思ったところで、どうやら【ヒラ】には心当たりがあるらしい。挙動不審な行動の数々に、彼は思わず呆れる。『もっと上手い誤魔化し方あるだろ』と呟いてみる。


と、そこでおかしな現象が起きる。草原だった周囲が、突然森へと変化したのだ。【彼】はそれにたじろぎ、しかしそれも直ぐに答えを見つけて抑えつける。【彼】の考えでは、この現象は【ヤマモト】に突進した時と同じもの。つまり願えば叶うと言うやつだ。そんなふうな考えで【彼】は納得したのか、その疑問は消え去る。


それでいいのか? と思ってしまう。彼は思わず読み返した。これは何らかの条件があって、このような現象が起きているのではないだろうか。思えば、この小説には明らかなマーキングポイントが幾つかある。


例えば少年の登場場面。あれも【彼】が飴玉──それも檸檬味のもの──を舐めた途端に少年が現れた。まだ最後まで読み切っていないから分からないが、仮にもう一度少年を登場させるとしたら、あの飴が鍵となるだろう。ただ、それを入手する術は現状彼にはない。きっと都合の良い何かが起きるのだろうなと彼は勝手に予想を付ける。


と、話がだいぶ逸れてしまっていた。つまり自分が言いたいのは、この少女が現れ、草原が森と化すためには何らかの条件が必要という事だ。そんな『偶然たまたま偶発的に』など、小説として破綻しているとしか思えない。


それを言ってしまうと『偶然たまたま偶発的に』なども明らかな違和だが、今それはいい。彼は小説をもう一度開く。【彼】が少女に話しかけるところからだ。【彼】が少女に話しかけ、少し声を掛けた辺りで、【ヒラ】の静止が入る。【ヒラ】は少女にこんな風に言った。『悪いが、オレたちじゃ力になれそうにない』。しかしその言葉に何か感じるところがあったのだろう。少女は【ヒラ】を追いかけ始める。【ヒラ】は無論、一度そんな言葉を掛けたから、一切無視を貫く。それは【彼】も同じだ。


しかしこんな所でポロリと【ヒラ】と【彼】の性格が対照的に描かれている。いわゆる人間味と言うやつだ。泣きながら懇願する少女に対して、【ヒラ】はちょくちょく振り返り心配気な顔をする。しかし一方で【彼】は淡白に──否、少女の泣き叫ぶ声に加虐心まで疼いているほどだ。


「こいつ中々のクズだな」


ポロリとそんな言葉が彼の口から溢れ出てくる。それは本音に近い言葉だった。【彼】が【ヒラ】に、前へ前へと声を掛けていると、急に【ヒラ】が立ち止まった。それで突然土下座でらもって謝罪を始める。【彼】は驚きと呆れに満たされ、この場から逃げ出そうかとすら考え出す。とは言え【彼】にその場から逃げ出す勇気があるわけが無い。そのままで【彼】はこんなことを尋ねた。『彼女の姉は何処にいる?』。それで、【ヒラ】は一度泊を開けると、初めから話し始めた。そこからはどうやら【ヒラ】の回想がたりらしい。


一旦の区切りだと彼はそれで小説を閉じた。大きな欠伸をすると、流れ出た泪で瞳に潤いが戻る。少し痒みを感じたが、我慢我慢と言い聞かせる。彼はもう一度欠伸をした。太陽は未だ天頂に達していない。それが何だかもどかしくて、同時に自分の眠気が恥ずかしくなった。彼は地べたから腰を上げると、前へと進むことにした。


……歩くこと約二十分。【ビル】は一向に近づいてこない。喘息気味の肺で彼は弱音を吐く。口に出すつもりはなかった。彼はもう一度休憩を取る事にした。小説を読む気にもなれない。少し横になろう。思って、彼は水一口で喉と唇を潤すと、地べたで横になった。砂が体に付くが、気にしない。ただ今は瞼を落としていたかった。


フウと息を吐く度、砂が舞うのを感じる。盲目になると、視覚が以外の感覚が冴えると言うが、本当らしい。今、何故か耳がいつもの倍以上に働いている。他は知らないが、それ以外だと少し敏感になっている気もする。ただそのせいか、吹いていく風の音が直接頭に入り込んでくる。


ガンガンガンガンガンガンガンガン。硝子窓を叩いているかのように、ずっとずっと頭の中で反芻している。それは次第に音から痛みへと変換されていく。つまり止めようのない頭痛に、彼の頭は支配された。ただただ痛い。それだけしか言えない。もしかしたら熱があるのかもしれない。


そんなふうに思って、彼は自分の額に触れる。熱い。絶対熱あるだろこれ。その声が出ることは無い。とめどない頭痛と熱。それらが身体中を十回以上巡回したくらいだったろうか。


ふと、ガンガンガンガンと鳴り響く風の音以外の音がした。それはザクリザクリとまるで砂を切っているかのような音を立ててこちらに近付いてくる。彼はそれが何となく、人の足跡だと思った。


「だ、大丈夫……かい?」


当たりだ。彼は自分の表情が綻んだことに気付くとまもなく、気絶した。それが彼には、風が突然吹き止んだかのように思えた。



──



目が覚めた起因は、フッと耳元で囁かれた言葉だった。彼は目をパチクリさせて、ハッとなって起き上がる。その時頭に衝撃が走り、反動で彼の頭は左手に飛ばされた。痛みに呻き、蹲る。すると彼の声以外の声が聞こえた。


「痛たたた……」


頭の左前辺りを摩り、呻くのは少女。年は彼と同じくらいのように見える。それに彼女の服装はセーラー服だった。自分の学ランと同じだ。きっと彼女も学生なのだろう。そんな風に思って、彼は未だ痛む頭を摩り、


「あ、あの……助けて頂いたってことで……」


──いいのでしょうか?


そんな言葉を続けるよりも前に、彼女がこちらを見た。真ん丸な瞳には潤いがあって、色も藍色のままで、廃れていない。無垢──彼はそんなふうに彼女を形容した。その無垢な彼女はこちらを見るとフッと笑い、


「良かった、大丈夫だったんだね」


髪をかきあげ、そんなふうに言った。それは無邪気・無垢の他に形容し難い表情だった。彼はそれで少しだけ心が痙攣するのを感じた。彼女はそんな様子の彼に笑う。立ち上がり、埃を払う。彼女のそんな動作を眺めてから、彼は立ち上がり、それに倣う。それを満足げに見終えた彼女が口を開いた。


「こんにちは。貴方も、【ビル】へ?」

「え、っとそうですけど……」

「あ、敬語は辞めてくれ。多分同年代だろうから」


無邪気な笑だ。そこには何の濁りがない。汚濁された自分とは正反対だ、と彼は思う。その目は彼女の無垢な瞳に向けられていた。


「わ、わかった。んじゃ目的地は一緒ってことだね」

「ああ。だから、出来れば一緒に行動して貰って欲しいんだが……」

「もちろん! あ……そう。もちろん大丈夫。まだまだ割と遠いけど、一緒に行こう」


急に彼は笑って、腕を振り上げた。その様子の何処がおかしかったのか、彼女もまた笑った。すると、急に彼女の姿が薄れ始めた。「え」と声を上げて彼はたじろぐ。それに彼女は自分の姿を見てから言った。


「あ、そろそろ顕現限界だ。ボクは……なんと言ったらいいか。この世界では亜種なんだ。それも精霊的な奴で……だからこんな感じで顕現するのにも限界がある。まあ、しばらくは──」


──これで話せるはずだ。


そんな言葉と共に、彼女は携帯電話を差し出した。彼はそれを受け取り、パカパカと開いては閉じてを繰り返す。


「これで、僕と会話できる。電話してくれればいいよ」


彼女はそう言って携帯電話を彼の胸に当てた。その時彼女の手が触れる。それには暖かみが欠片もなかった。それで彼女が本当に精霊なのだなと思った。彼は携帯電話を開いた。それと同時か、それよりも少しあとになって、彼女の姿が完全に消えた。彼女は小さな光の粒子となって、携帯電話に入っていく。それは客観視すると、まるで彼女が彼の心臓に入っていくようにも見えた。それが何だか彼には嬉しかった。独占欲というものが、唐突に彼の心に浮かび上がった。それは今まで彼が持ったことのなかった感情だった。否、欲望だった。本来欲望は白い目で見られやすい。しかし彼はそれを大事に仕舞っておくことにした。何故かは知らないが、そうしなくてはならないような気がしたのだ。それは彼の心と頭、どちらの意見でもなかった。


そこまで頭が整理されると、彼は一旦大きく深呼吸をした。携帯電話を見やる。そこにはボタンがたった二つだけしかない。そのボタンの上には小さな字で、『受諾』と『拒否』と書かれていた。それは何だか、携帯電話にしては強い言葉だなと彼は思った。そんなふうに彼が思っ途端、携帯電話が振動し始めた。ブルブル、ブルブル、ブルブル、ブルブル……。そんなふうに五、六度振動するのを眺めた後、彼は『受諾』のボタンを押した。カチリ、と何かが何かと接続する音が聞こえた。


「もし、もし……?」


耳に当て、彼はそんな声を出した。恐る恐る、と言った感じで、腰さえ竦んでいる。それは何ともアホらしく、情けないので、彼は背筋を伸ばすことにした。フウと息を吐くと、彼は自分の喉仏に触れる。ボコリと鳴った。


『もしもし?』


そんな声が、返ってきた。それは彼女の声だった。昔聞いたことだが、携帯電話の声は本当のものとは違うらしい。それに近いであろう音源を使用して対話させているのだそうだ。しかし、彼女の声はやはり無垢さを伝えるものだった。それは無邪気さと言い替えてもいい。どちらにしろ、その声に癒しを与えられたことに違いはない。彼は何を話そうと、悩ます。思い切って声を上げた。


「あ、あのさ。君はどうして【ビル】に向かっているの?」


耳に押し当てた携帯電話にそう語りかける。きっとそれははたから見たら異常な光景なのだろうなと彼は思った。けれどそれは今や日常だ。昔なら薄気味悪いとしか言われない虚空への独り言。それが携帯電話を介すだけで違和感がなくなってしまう。それは本当におかしな現象だなと思った。と、同時にそれまでそんなことを一度も考えなかったことに驚きしかない。自分も社会に染まり切っていたのだろうかと考える。それはなんとなく嫌だなと彼は思った。けれどそれは、どれが正解でどれが不正解なのか、簡単にわかるような代物ではなかった。


なかなか返ってこない返事に震える中、彼はそんなことを考える。頭は何故かグルグルグルグル回る。それも無関係な方向に。それが何だかもどかして、彼はため息を吐いた。すると彼女の息がフッと耳にかかったような気がした。実際はただ彼女の息が音声となって聞こえただけのこと。しかしそれは妙にリアルで、彼は何だか擽ったい気持ちになる。彼女が『すまない』と言った。


『ちょっと今、色々あって……すまない』


何があったのか彼女はそう言って伏せる。息が切れているから、割と大変そうことなのだろうと彼は思った。分かっても口に出すつもりはなかった。


『まあ、大丈夫。それで、どうして【ビル】に向かうか、だったけ?』

「そう。君はどうして?」

『ボクは……妹を探すために行くんだ』

「妹……」

『そう。ボクの家は色々複雑でね、その子は私と直接の血の繋がりはないんだ。でも、やっぱり助けたいとは思ってしまう……』

「そうか、助けにか……いやちょっと待って、助けに、だって?! 今【ビル】で何が起きてるんだ? そ、そんな助けに行かきゃいけないほどやばい状況なのか?!」

『ん? 知らないのかい? 今、【ビル】じゃ【教団】の暴挙が起きてるんだよ?』

「は? 暴挙? しかも【教団】って……そんなん聞いてねえぞ……」

『それならーー誰かを助けに行くのでないならあなたはどうして【ビル】に向かおうと? てっきり【ビル】に大事な人がいるのかと思ってたんだが』

「いや、お、俺はただ、向かわなきゃいけないんだ。そうじゃないと……行けないはずで……」


そうでなければ、何が起きる? 無意識の内に尋ねた問。答えが出ない。今まで歩いてきた理由。それは確立されたものだったはずだ。こんなあやふやなものでは無い。しかしそれは今、曖昧模糊とした表現でしか形容出来なくなっている。それにはただ恐怖を感じる他にない。震える太腿を重点的に叩き、彼は平常心を何とか保つ。そうしたら、彼女が何か言いたげに息を吐いた。


『もしかして……あなた【教団】の人?』

「はい? そんなんなわけないだろ。あんな狂った連中と一緒にしないでくれ」


彼がそう言い切ると、彼女はフウと息を吐く。それは心底安心したような響きで、彼は【教団】の恐ろしさを間接的に知る。とは言え、それは間接的なものだ。彼は未だ【教団】と遭遇したことがない。あの小説を介して、その狂い具合は体感させられたが、それはあくまでも小説。実体験では比較にならないほど薄い知識でしかない。それを考えると、彼女は【教団】と遭遇したことがあるのだろう。その安堵は、明らかに経験者のそれだった。


「とりあえず、今は理由は思いつかないけど、俺は【ビル】に向かいたい。強いて言うなら……たぶんメモ書きだ」


ふと、思い出した。あのメモ書き。【ビル】に向かえと記されたあれが、彼が【ビル】に向かう理由そのものである。だからそれを理由にすればいい。心が、それでいいのか? と尋ねてくる。頭は何もいない。きっと前者に肯定しているからだ。彼はそんな心の声を押し込めて、彼女に向けて言い放つ。


「俺はあのメモ書きを書いた人間を探してる。だから、【ビル】に向かうんだ」


そう言い切ると、彼女は『そう』と言った。通話が切れる。思わず驚きの声。彼はそのまま前を向いた。


「まじか……」

「まじだよ」

後ろから、にこやかな声が降ってきた。彼は振り返り、前を向き、振り返りとを三度繰り返す。それほどに驚きが隠せない。


「さっきまでなかったよね? これ」


そう尋ねる彼に、「ううん」と彼女は首を振る。声が出ない。喉が閉まっていくのを感じた。


「全部初めから決まってたんだよ。この【ビル】もね」

眼前に広がる光景──そびえ立つ【ビル】に、彼女は堂々とそう言った。彼はそれにたじろぐことしか出来ない。

「──そう、全部初めから」


そんなふうな言葉で彼女は笑う。彼は引き攣るように笑い、しかし目的は達成されたのだとそこで気付いた。本当にそれが自分の求めたものだったのか、心底から信用出来なかった。


──結局の所、恋も愛も全て初めから決まっていたことなのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ