第六章
──高圧的では鳴らない鐘の音でこそ真の愛が見えるのである。
「次は、終点。終点です」
声が電子音に変換され、車内に響く。一両目、二両目、三両目、四両目──と響いていく。しかしそれを聞くものはいない。誰もいない空っぽな車内。誰にも掴まれない吊革は揺れ、誰も座らない座席は未だに冷たいままだ。
彼はそんな車内の様子を眺めて、ため息を吐いた。それは長く長く続いたが、終わりは唐突なものだった。スっと息を吸って、それで終わり。昔聞いた【息を引き取る】の時の話を思い出した。吸っていた空気を吐き出す。今はそれが良いと心が言っていた。頭もそれに賛同する。
揺れる揺れる。揺れる揺れる。外の景色を眺めていく。それは初め見る景色だった。車掌室から見る景色は、何故か新鮮に思えた。見づらいことは今は考慮しないでおこう。そんな風に思って、彼は小さな窓から外を眺める。車掌は横で操縦桿を握っている。電車にこんなものあっただろうか、と疑問はある。しかし今現在見ているものを真実とするのなら、これが現実なのだ。電車には操縦桿がある。これは普通なのだ。
「そろそろ着きますけど、一応ついて行きます。駅員にも挨拶したいので」
操縦桿で速度を落とし始めた車掌がそう言う。彼はそれに首肯して、外の景色を主眼から外した。耳がキンと鳴る。揺れる揺れる。頭が少しだけフラリとした。自分が酔いそうになっているのに気付いた。彼は近くにあった出っ張りに座り、息を吐いた。昔はこんなに容易に酔うことはなかったというのに。自分の老化を実感して、泣きそうになる。とはいえまだ学生だ。最近はそれすら忘れそうになる。
ガタンと大きく一度揺れた。体が進行方向逆へと向かう。それを何とか堪え、彼は近くの柱に掴まった。車掌がニヤリと笑い、小さく何か言っている。馬鹿にされているような雰囲気はないが、聞きたい。しかし聞こえない。酔いそうな頭の自分でもよく分からない葛藤。それに心を悩まされ、吐き気を催す。
「やばい、まじで吐きそ……」
覚えているのはそこまで、後は完全になすがまま、あるがままだった。つまり彼は己の嘔吐感に素直に従ったという事だ。車掌の絶叫が聞こえる。女みたいな声を出すなと少し彼は笑った。そこに何かしらの感情を込める余裕はない。ただ口蓋から放出される不要物の中で溺れる、溺れる。車掌の悲鳴は鳴り止まない。
「それこそロックンロールだぜ」と、朦朧とした意識の中で人差し指と小指を立てる。車掌の声が聞こえて、彼は意識を失った。
──
気が付くと、そこは真っ白な場所だった。真っ白と言えば本当に真っ白だ。まるで白百合のようだなと彼は思った。白百合とはなんだろうとも同時に思った。
彼は上体を起こし、辺りを見渡す。巡らす首がパキリと不気味な音を立てた。少し怖くなって、彼は自分の首に触れてみる。しかし以上はない。『触ったらヌメリとしてて実はそれ血』みたいな展開もなかった。ただ首が痛むだけ。きっと寝違えたのだろうと推測を立てる。
寝かせられていた寝台から彼は体を起こした。寝台も真っ白だ。何もかもが真っ白に染っている。それに少し恐怖を感じ──否、それは恐怖ではなかった。『白』と言う圧迫感から引き起こされる、いわゆる焦燥感と言うやつだった。彼はそれで、自分が何故焦るのか自問自答し始めた。しかし頭も心も機能しない。
「何故焦る?」と言葉に、ピクリとも反応を寄越さない。彼はそれが気に食わなくて、自分の心臓を叩いた。そこで気付いた。未だに自分があの汚らしい服でいることに。白に染まっていない。自分はまだ染まっていない。そんな風な言葉を吐いた途端、急速に安堵に包まれる。フッと気が楽になって、彼は寝台に腰を下ろした。ギリリと不安げな音がしたが気にしない。ただ大きく伸びをして、息を吐いた。と、そこで疑問が生じる。
「一体何が起きた?」
彼は思わず、そう声にした。完全に無意識のものだったので、彼は驚いて口を自ら封じ──しかし辺りに誰もいないことに気付いた。封じるため両手を退ける。反射的にしてしまったが、こんなことをしてもなんの意味も無いな、と途中で気付く。と、そんなことを凌駕する勢いで疑問は膨らんでいく。一体何が起きたのか。それはよくわからないが、直前の行動までは覚えている。確か自分は催した吐き気を堪えきれず、そのまま嘔吐したのだ。それでその後──どうしたのだろう。意識が混濁していたのはわかる。何故知らないが、「これこそロックンロールだぜ」とか何とか言っていた記憶がある。そもそもロックンロールとは何だと言う疑問が浮かぶが、今は放置だ。
とりあえずの意を込めて、彼は寝台に寝転がった。フウと息を吐く。それは安堵のそれだった。彼は寝そうになる頭を叩いて、体を起こした。考えるのは出入口の存在だ。誰かが自分をここに運んだのならば、きっと出入口はある。そのはずなのだ。彼は真っ白な部屋を進む。全面真っ白なせいで、一体壁が何処にあるのかが分からない。すぐそこにあるような気がするが、触れようとしてもそこにはない。ただ虚空を切るだけだ。『臥薪嘗胆』と突然何か聞こえた。それはその後『続けろ』と言葉を残すと消えた。それは頭と心のどちらでもなかった。彼はそれを不気味に思って、進む足を早める。壁に向かって走る走る。触れたら終了だと機能しない心に言い聞かせる。機能していないはずなのに、心が折れそうだ。
彼はそれを凌駕できるほどの考えを生み出せず、ただ無我夢中で走る。一心不乱と言い換えても良かったかもしれない。とにかく進めとずっと口ずさんでいたような気がする。気付くと、彼は壁に手を付いて、調息を取っていた。背後を見遣り、右左。何も無いし、何かいるはずもない。ただ恐怖心が浮かび上がっているだけだ。彼はそんな風に自分を慰めてから、思い切り頬を叩いた。頭を振って、邪念を、否、弱音を払う。彼はそれで何とか平静を保つことに成功した。もう一度辺りを見渡す。ふと、壁に何か出っ張りがあることに気付いた。彼はそれに手を伸ばし、触れる。
カタンと何かが落ちた音が聞こえ、彼は後ずさる。ギリギリとまた音がした。その音は後ろから聞こえるものだった。彼は恐る恐る、慎重さ重視で首を後ろに回した。と、彼は目を見開く。そこには青色があった。それは白ではなかった。それが快晴の空だと気付くのに、一分以上費やしてしまった。その青色はポッカリと、まるで白をくり抜いたようにそこにある。彼はそれが何かの希望である気がして、そっと手を伸ばした。青色に触れる。途端波紋が広がった。それはまるで水面のようだった。
彼はそのまま青色に手を入れていく。二プリと、まるで汗のような感触が腕に広がる。彼は気持ち悪さに顔を引き攣らせた。ただ、その手を止めることは無い。無心を意識して、腕を伸ばす、伸ばす。すると、何かの感触があった。それは人の手の形をしているように思える。温もりも感じる。その手が、こちらを握り返した。フッと心に安堵の灯りがつく。それは今まで考えたことも無い感覚だった。それで彼の頬は綻んだ。何が嬉しいのか、自分でもわからなかった。心が愉快だった。愉快すぎて、大声で叫んでしまいそうだった。
グルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグル。回りたい回りたい回りたい回りたい回りたい回りたい。
そんな欲求が現れて消えてくれない。彼の頭はそれに支配されそうになっていた。しかしそこに邪魔が入る。それは彼が握り彼を握る手だ。その手は彼の手を離すまいと必死に引っ張る。それに引っ張られ、徐々に体が青色へと向かっていく。そこに恐怖はあまりなかった。ただ虚空。ただただ虚無が広がるだけだった。
彼はそのまま目を閉じた。そうするべきだと心が言っていた。頭は反対していた。けれど今は心を信じなくてはと思った。彼はそこで意識を失った。
──
「──ぶ、ですか? 大丈夫、ですかー?」
間の抜けた声が聞こえる。と同時に頬に痛みを感じた。彼は驚いて、思わず「ワッ」と声を出した。それに間の抜けた声の主が──車掌が尻もちを付く。彼はゆっくりと起き上がった後、その様子を爆笑で持って迎えた。一頻り笑うと、彼は咳払いをして息を調えた。大きく伸びをしたら、腹が鳴った。それで彼は自分が空腹であることに気付いた。立ち上がった車掌がパンを寄越す。
「思えば昨日何も食べずでしたよね。これ、食べて下さい」
「ありがとう」と彼は礼を言うと、パンを受け取った。それは柔らかなコッペパンだった。コッペパンとは懐かしいと彼は思い、一口頬張った。中から苺ジャムが溢れ出す。イチゴパンかと少しだけ感動して、彼はそれを無我夢中で食べた。
この世で一番の調味料は空腹と言ったものだが、やはりそうなのだろう。彼の飢餓は一瞬で満足させられたし、出来ることならもっと食べたい。しかし車掌は「これだけしかない」と手をグーパーさせる。残念だと肩を落とし、彼はため息を吐いた。
「それで、一体何が?」
「一体何がって、ただあなたが電車酔いでぶっ倒れただけですよ」
呆れ調子のため息混じりでそう言い、車掌は彼の隣に座る。
「あれから何日くらい経ちました?」
「何寝ぼけたこと言ってるんですか。そんな何日も昏睡するようなものじゃないでしょ、電車酔いって。……いや、もしかしたら何日も昏睡する場合も──ってそれはいいんです。今はあれからまだ一時間経ったか経ってないかくらいですよ」
「ほら」と車掌は自分の腕時計をこちらに見せる。時刻以外に日にちも表示される便利なやつだ。そこには、十月十四日の十七時二十八分と表示されていた。しかしそもそも彼は自分が倒れた時の時刻を知らない。つまりこれを見たところで結局意味が無いという訳だ。ため息混じりでそれを伝えると、車掌に呆れられる。「時間管理はしっかりしろ」とのことだ。それは正論だと彼は思った。
「まあ、とりあえず起き上がって下さい」
車掌はそう言って手を差し伸べた。彼はそれを取り、起き上がる。体がパキパキと鳴る。そこに痛みはなく、ただ少しの快感があった。新たな自分の感覚に驚きつつも、彼は少しだけ手を握りしめた。何だか自分の体が自分のものでは無いような気がする。「きっと気の所為だ」と念じてしまえば一瞬で霞んでしまいそうな考えだが、それは事実だった。彼は寝台に手をついて、車掌に尋ねた。
「それで、この場所は一体?」
辺りを見渡し、後頭部をかく。随分おかしな場所だなと彼は思った。そこには──具体的に言うとその壁一面には──、様々な色の塗装が施されている。赤、青、黄、緑、紫、桃……などなど。その色数を数えることはきっと無理だ。二つ以上の色が重なり合って、新たな色を作り出している節すらある。もしかしたらこんなものを芸術というのかもしれないなと彼は思った。それなら自分には早すぎるなとも思った。彼は車掌の方へと視点を戻す。車掌は肩をすくめる言った。
「一応、終点の駅員室のはず……何ですがね……」
車掌は辺りを何度か見渡した後、ため息を吐いた。そこには確かな色があったような気がした。しかしその色の名前を彼は知らなかった。車掌が口を開く。
「今、ここの駅員すらも、近隣に住む人々も居ないんです。確か昨日までちゃんと居たはずなんですがね……一体何があったのやら」
車掌はそのまま近くにあった椅子に座ると、唸り始めた。彼はその隙に、この駅員室の様子を探ってみることにする。駅員室は大してパッとしなかった。あるものと言えば、寝台が五つと卓が一つ。椅子はそこら辺に散らばっているが、合計で五個。後は厨房が卓の置かれた場所と隣接しており、きっとそこから料理を運ぶのだろうと推測される。後一つ言えるとすると、それはその本だった。
「またこの本、か……」
昨日も車掌の元で見た本。一体これが小説なのか、随筆なのかわからない題名だ。ただどちらにしろ、きっとこの世界ではこれが流行っているのだろう。だからきっとこんな所にも置いてある。いわゆる小説のファッション化と言うやつだ。彼はそれで別に思うところはないから、それをいちいち批判するやつは小さな人間だと思った。
「【恋愛論者】……ね」
暇だし読んでみようと、彼はそれを開く。頁をなぞり、初めの一行目に目を通す。今度は反発は起こらなかった。きっと今が然るべき時なのだろうと彼は思った。
【──恋はいつだって初めてのように感じるものだ】
その小説はーーどうやらそうらしい──はそんなそんな文章から始まった。【恋愛論者】と題名するのだから、初めの一文字目も【恋】。これは妥当だと思えた。そのまま読み進めていく。どうやら、ここでの主人公は【彼】だとして進行していくようだ。その【彼】が汽車に乗っているところから始まる。どうやらその【彼】は壊れたヘッドフォンを持っているらしい。それは父のものらしい。
とそれはどうでもいい。彼は少しその部分を読み飛ばし、先に進める。唐突に、舌打ちの描写が出てきた。突然過ぎて少し驚きながらも、彼はそのまま読み進める。するとその舌打ちの正体──【彼】は【ヒラ】と読んでいる──がわかる。それで──【ヒラ】? 今、【ヒラ】と言ったか。まさか、この【ヒラ】と言うのはあの手紙に書いてあった【ヒラ】か。彼はそれがやけに不気味に思えて、しかし読み止めることはせず先に進む。
どうやら【彼】は【ヒラ】をスルーして進んでいくらしい。そしてそのまま終点の【駅員】と出逢い、駅員室に入った。【駅員】という単語に敏感になっているが、そんなことはどうでもいい。彼はそれでオススメの場所を紹介されることなく、外の街へ出る。するとそこは古めかしい建物と、【びる】という近未来な建物とが共存在する場所らしい。何故こいつはビルの一つも知らないのだと疑問に思いながらも、読み進める。
【彼】は駄菓子屋に向かった。そこで飴を購入した。その場で舐めた。それは檸檬の味がしたらしい。それが一体何を意味するかわからないが、突然一人の美少年が現れた。これはまあ予想通りだなと、前述されていた指名手配書の流れからの推測の答え合わせ。【彼】はそれで、意識を失った少年を外の世界へ向かわせることにした。
「ほうほう」と彼は一人頷く。確かにこんなに泣かれたらそうなるのが妥当だろう。しかし──何故この【彼】はあの汽車には一人しか乗れないと思ったのだろう。普通に考えれば頭おかしいとしか思えない。確かに車両は一つと描写されているが、何もそれで二人乗れないわけがない。こいつ頭大丈夫か? と疑問が過ぎる。しかしこれも伏線とやらの一つだろう。後々解決されるだろうと、読み飛ばす。
そうすると既に第一章を読み切っていた。随分短いなと思い、彼はバラパラと頁を流す。全部で何章構成なのか確認するのは面倒極まりないが、このペースで行くと直ぐに読み切れそうだ。ふと、車掌の言葉を思い出し辺りを見渡す。「あった」と声を上げ、首をそちらに傾ける。そこにある時計はだいたい十八時を示していた。それで彼は続きを読むことにした。
第二章では、突然四日の月日が経過しており──いや待て。今、否、さっき。何か重要なものを見逃した気がする。それか一体何なのかサッパリわからない──いや、読み返せばいい話だ。そう思い、彼は第一章に頁を戻す。文章を指でなぞり、そして──問題の場所を見つけると、小さく呻いた。
「バグって……つまり……」
これはもしかして、この世界の規約に違反している? いや、それは違うはずだ。【バグ】との干渉はあまりオススメされていないが、【教団】のように規制もされていない。だからこの【彼】は別に規約を破ってなどいないはずだと。しかしそこで彼はもう一度頁を繰る。見つけた。今度こそこれは規約を破っている。
「こいつ、普通に写真撮ってやがるな」
この【彼】は車内で、普通に【ヒラ】の写真を撮っていた。これは規約の第一項、他世界文化物の使用と持ち込みに違反している。それに思えば、あのバグの少年に恋しているような描写さえ見られる。何の説明もされていないとはいえ、このたった一万文字かそこらの間に規約を二つも破る【彼】には逆に尊敬だ。
そんな風に皮肉ってから、彼は第二章まで頁を進めた。第二章では、突然四日も経過していることになっている。まずそこに驚く。きっと作者の意図があるのだろうな、と描写されない三日間に思いを馳せるが──それは良い。【彼】は【駅員】に勧められて、【ビル】へと向かう。二度目だが、一体どうしてこの【彼】は【ビル】如きを知らないのだろう。それはやはり疑問だ。
【彼】は【ビル】の中に入った。そこはどうやら真っ白な場所らしい。【彼】がドンドンと進んでいくと、ふと、よく分からない男と出会う。男は自分を【ヤマモト】と名乗った。ここに来て初めて名前が出てきたなと彼はそこに少しだけの安堵を感じた。しかしそれも一瞬だ。話をして行くうち、【彼】は徐々に【ヤマモト】の異常性に気付いていく。それは彼が最も嫌悪する、宗教的思考だった。一つのものを拠り所として、そこ縋るまではいい。しかしそれで頭で考えることまで放棄する人間は嫌いだ。だから激しい嫌悪が彼の胸中に現れる。しかしそれはやはり高みの見物者故の感情なのだろう。当事者である【彼】からしてみればそれはただの恐怖であり、だからこそ【彼】は自分の感情に忠実だった。
つまり──一目散に逃げた。一発殴ってやれよ、と彼は思った。それはやはり高みの見物者故の感情だったのだろう。【彼】は逃げて逃げて鎮静に飴を舐めて駄菓子屋に辿り着いた。味は白桃の味だったそうだ。【彼】は駄菓子屋の老爺に話しかけられるやいなや、ぶっ倒れてしまう。
「どんだけ精神弱いんだよ」と独り言。彼は自分ならどうだろうと思った。自分なら倒れるよりも前に【ヤマモト】を張り倒しているだろう。次は【彼】が駄菓子屋で目覚めるところで始まる。駄菓子屋の老爺が大丈夫かと渡す薬を断わり、【彼】はまたシャッターを切った。被写体は老爺だ。これでまた、この【彼】は規約を破った。ここまで来ると逆に凄いなと感嘆しかない。読み進めることにした。老爺の薬を断わり、駄菓子屋を出た【彼】は迷う。【ビル】に行くべきか、駅員室に戻るか。それで結局【彼】は駅員室に戻ることにするのだが──、
「お、ここでそういうね。まあ予想通りだけど」
老爺が【ビル】に向かっているのに気付いてしまう。【彼】は老爺を追って【ビル】に潜入する。そのまま読み進めていくと、どうやら【彼】は【ヤマモト】と遭遇したらしい。またもや恐怖に苛まれた【彼】はここで突然覚醒する。彼はここで目を見開いた。
この考え方は特殊だなと思う。願ったら叶うとか何でも出来るとか、本当に面白い発想だ。ただ確かにこの状況ならそう思う他ない。とは言え、それはあまりにも非現実的だ。やはりこれは小説なのだと再確認させられる。
【彼】はヤマモトに突進すると、そのまま突き進んでいく。そこで、【教祖】と名乗る男と出会う。【教祖】の言では、老爺は既に支配下に──彼らの言う所の【酔って】いる状態らしい。【彼】は半分【酔った】状態の【老爺】に逃がされ、命辛々(?)で駅員室に向かう。そこで、【彼】は駅員に指名手配書を見せられた。そこには【彼】の絵が書かれている。何故かはわからないが、それが写真ではないことをやけに強調している。ああ、そうか。『規約違反はしていませんよー』とか何とかの……つまり保険を掛けているということなのだろう。と、
「もしかしてこいつ……規約全部違反したのか?」
──三つの規約を思い返す。
一項、他世界文化物の持ち込みや使用の禁止。二項、【教団】との関わりの禁止。三項、恋愛の禁止。
第一項はもう既にプロローグの時点で破っている。三項は、直接的な描写はないにしろ、これは明らかに少年に恋をしている。確かこの少年は【バグ】とやらだったから、仕方が無いといえば仕方がない。ただそれを言い出すと、『この【彼】は規約という概念そのものを知らないから仕方がない』ということになってしまう。それは何だか反社会的な考え方だが、今それは良い。
【彼】はこの【教祖】との接触により、最後の壁である二項まで破ってしまった。車掌の言葉を信じるのとするなら、この【彼】はもうすぐ別世界に飛んでいってしまう。それは何だか……いや、もしかしたら……ただそれを言い出すと……そんなことが有り得るのだろうか……。次々と浮かんでは消えていく言葉。彼は顎に手を添えた。それら言葉の数々が、思考の海の中で混ざり合い溶けていく。
彼はそれに至福の感情を味わった。考えることがこんなにも気持ちがいいこととは思えなかった。思えば、今までは話を聞いたりするだけだった。全てが受動的だった。しかしそれも少しずつ変わる。自分は少しだけだが変われたのだと頭が言い始めた。心もそれに同意する。それが何だか嬉しくて、彼は小説の考察を続ける。その間、小説は閉じられたままだ。一通り考えが纏まるまで一度休止することにした。
ふと時計を見る。時計は十九時を示していた。いつの間にか一時間経っていたらしい。たった二万文字程度の小説でこれほどの時間を喰うとは。と我ながら呆れる。よくよく読んでみれば、この小説は大して奥深いことは書かれていない。強いて言うなら世界観は特殊だが、やはり何処か既知感はある。それをこの作者が敢えてやっているのかそうではないのか。その意図はやはりただの一読者では計り知れないが、考えていないような気もする。ただ衝動に駆られ、任して書き進んだ、と言うような気がする。それは確かにこの小説らしいが、小説としてはどうなのだろうかと言う疑問さえある。とは言え、だ。読み進めるのにそんなことは障害にならない。
【彼】は駅員に説得され、終点の向こう側──車庫に向かうこととなる。そこで【彼】は【ヒラ】と乗り合わせ、少し談笑していると、突然背後で爆発が起きる。見に行くとそれはちょうど終点の場所だった。【彼】は自分でも分からないほどの激情に駆られる。【ヒラ】はそこで何かブツブツ呟いている。きっと何かの伏線なのだなと思った。どうやらその出来事で、【彼】の心は液状化してしまったらしい。そこからしばらくは、フワフワとした状態が続いていく。そこで【彼】は一枚の手紙を取り出す。それはどうやら地図の性質も兼ね備えたものらしく──それはまるで、今彼のポケットに入っている手紙と同じかのように描写されている。そんなことありえない。気の所為だと、プロローグの時点ではそう言い訳できた。
しかしここまで来るといよいよ無理になってくる。その手紙は明らかに彼の手紙と同一のものだ。これはもう認めざるおえない。書いてある内容が似ている──というか同じだ。『駅員と仲良くなるな、ヒラと仲良くなれ』の文言こそ描写されていないが、不要とされた場合もある。もしくはこの【彼】が気付いていないだけかもしれない。とにかくどちらにしろ、この小説を甘く見てはいけない。そんな言葉が頭の中で反芻した。もしかしたら、という可能性が、現れては消えていく。その様子はまるでこの【彼】のようで、彼は恐ろしくなって本を閉じた。この本の続きを読んでしまえば、もう後戻り出来ない気がした。後戻りはガンガンしたい主義の彼からすれば、それは恐ろしいものだった。だから彼はその本を閉じて、フッと息を吐く。何故か心拍数が上がっていた。深呼吸で、それは少しだけ収まった。彼は本を元の場所に戻す。
「それで、誰かいましたか?」
先程の寝台に戻り、そこにいるはずの車掌に話しかける。返事はない。中に入る。誰もいない。人の痕跡すら残っていない。一体どうなっている? と頭が悩み始めた。それで彼はどうしたらいかわからず寝台に座り込んだ。息を吸う。頭を抱えてみる。妙案は一向に思い浮かばない。それならもうここから立ち去るべきだ。そんなふうに断定して、彼は寝台から立ち上がった。厨房へ向かう。あそこなら食料があるかもしれない。彼は厨房に到着すると、冷蔵庫に向かった。割と大きめの冷蔵庫だ。いわゆる業務用のそれだろう。そんな風に思って、彼は冷蔵庫に触れる。冷気はある。ちゃんと稼働しているな。彼は取手に手を掛ける。冷たさが体に走る。何故わざわざここを金属製にしたのか不思議で仕方がない。彼は思い切り冷蔵庫を引っ張った。そうしたら、ポトリと何かが足元に落ちた。
「…………」
心に沈黙が走る。彼は取手に手を掛けたまま、空いている左手でそれを手に取った。それは紙がグチャグチャに丸められたものだった。彼は取手から手を外すと、ゆっくりとそれを開く。丸まっているせいかなかなか上手くいかない。結局テーブルの上で広げることにした。クシャクシャと音が鳴って、その紙は拡げられる。そこには、こんな風に書かれていた。
──【ビル】に集まれ。
その筆跡を彼は何処かで見たことがある気がした。しかしそれが何処か明確には思い出せない。割と最近な気がするのだが……それだと該当人物が車掌しかいない。しかしそれは何故か違う気がした。きっと彼が車掌の筆跡を見たことがないからだろう。そんなふうに決定づけて、彼はその紙を手に取った。これの言の通りに進むべきか否か。今考えるべきはそちらだろう。【ビル】と言うと、あの小説から悪いイメージしかない。しかしあの小説が正しいという確証は何も無い。行ってみたいとわからない。そんなふうに頭が言う。心は黙りこくって、何やら思案している。これでは本末転倒となってしまう。そこで、彼は頭と心の考えを一度断ち切ってみることにした。つまり自分の考えで進むという訳だ。心や頭に尋ねることはやめて、自分で考える──これは以外にも、彼の経験には一つもないものだった。
行くか、行かないか。考えるのはそこだけで、選択肢は元より二つしかない。もしかしたらこれは究極の選択なのかもしれないなと彼は思った。行くか行かないか。元をたどれば動くか動かないか。これはあらゆる生物がずっと昔から考え、選択してきたものだ。それを今、彼は実行しようとしている。思えば、彼がこの選択をしたことは本当に少ない。ここに来てからでも、ようやく二度目と言ったところだ。そんな自分だからこそ、今度は真剣に悩む。思えば昨日は先延ばしにした選択があった。それも考えなくてはならない。だからこれはそれの前哨だ──とそんな風に壮大に言ってみたところで、何か彼の決断に影響を及ぼす訳が無い。だから一度深呼吸しようと彼は思った。何故か今だけは、頭と心、どちらの声も聞こえなかった。
「よし、行こう」
彼はそう宣言すると、椅子から立ち上がった。開けっ放しの冷蔵庫から、『閉めろ』と音声が流れ始めていた。それはまるで鐘の音のようだと彼は思った。『それはまるで──』と誰かが言いかけたような気がする。そんな気がしていた。
──高圧的では鳴らない鐘の音でこそ、真の愛が見えるのである。