第五章
- 第五章 -
──例えば明日死んだとして、心と頭はそれを認識できるのだろうか。
一人きり、流れていく空を眺めている。無垢な色が何だか昔とは違うように見えて、彼は少しだけ寂しい気持ちになった。
ひどい後悔が胸中にある。彼の手にはイヤフォンが握られている。それのコードはボロボロだ。まるでムシャクシャした拍子に破き散らしたような──否、それはようなと言えるものではなかった。それは事実だった。彼がこの手で、そのイヤフォンを壊した。それは彼が彼の友から預けられた大事なものだった。だからずっと、心に後悔がある。
ガタ、ガタガタ、ガタガタ、ガタ。そんなふうに、不規則に身体が揺れる。きっとちゃんとした整備がされていないのだろうなと思った。それは事実だった。この時代、この電車を使う者は本当にいなかった。今も彼が一人座っているだけである。
彼はポケットに手を入れた。しばらくまさぐり、「あ」と声を出して一枚の紙をとりだした。それは手紙のようであった。しかしそれは同時に地図でもあった。二つの意味を持つそれは、彼の手により拡げられる。すると、嬉しそうにカサリと音を立てて彼に情報を与えた。
──三人でつるんでた時の方が、人間らしかったよ。
途端、風が吹いた。ハッとして、彼は目を見開いた。その言葉の下、そこには汚らしい字がある。彼はそれが自分の筆跡に何処かに似ている気がして、指で擦る。ふと、心が言った。早く読め、と。心の声に従うのは何だか癪だが、焦れったく放置しておく訳にも行かない。結局彼はそれに目を通すことにした。
「──ヒラと仲良くなれ? 駅員とは親しくなるな?」
声に出して、彼は呻く。それは疑問への呻きだった。正直な意見として、まずこれが何を言っているのかサッパリわからない。【ヒラ】とは何だ、【駅員】とは誰だ。何となく言葉の意味から想像はできるが、それが正しいかどうかは本当に怪しい。それに、こんな訳の分からない地図を載せた素っ頓狂な手紙に従う阿呆が何処にいるのか。
そんな風に思って、彼は手紙を握り潰す。グチャっと音を発たせて──しかしやはり破ることは出来ず、綺麗に拡げてから畳んでポケットに入れた。何故か、頭が破るなと言っているような気がした。
「ヒラ……ヒラってどう言う意味だろう」
彼は顎に手を添えると、そんな風に呟いた。ヒラと言うのは一体何なのか。名前の略なのか。地位のことなのか。もし前者なら、それはもう無理だ。今この電車にいるのは自分一人。辿り着いた駅で誰かに話しかけようにも、そこには駅員しかいないはずだ。もちろん駅員とは親しくなってはいけないらしいから、最小限の会話しか出来ない。となると後者だが、それはもう一つしかない。きっと平社員のヒラだろう。ただ、これも怪しい所だ。彼の知り合いに平社員の者は一人としていない。基本的に皆学生だ。
そんな風に思って、彼は一日学生無料切符をクルリと回す。そう言えば、一体誰にこの切符を貰ったのだったか。思えばその人にはサヨナラを言えた気がする。そうしたらあの人は──彼女は一体どんな表情をしてくれたのだったか。そんな風な疑問が心と頭を過ぎった。応えは両者共になかった。当たり前の話だから諦めることにした。
アナウンスの音がした。キンと車内にそれは鳴り響いた。そこでふと、彼は思った。ここに車掌はいるのだろうか。気になったら止まれない。座っていた席から立ち、彼は壊れたヘッドフォンを鞄に仕舞う。長旅で凝った体を解してから伸びをして軽く跳躍。首を鳴らし、指を鳴らし、最後に大きく深呼吸して、辺りを見渡す。進行方向に向けて、歩き出した。
カタンカタンと足音が鳴る。それは何処か不気味で、彼は肩を震わせた。何故か、誰かに追われている気がする。振り返ればそこに誰かがいるような気がした。彼はソっと首を半分後ろに向ける。風が吹いて、全身に何かがまとわりついた。彼はそれを無意識的に払って、咳払いした。「駄目だ」と呟く。今振り返れば取り返しのつかないことになると思った。それは心の声だった。彼はそれに従うことにした。
ゆっくりと慎重に、車掌室と思われる場所に向かう。彼は細かく息を吐いて、心を統一させる。昔誰かに聞いたことがあった。深呼吸して、心拍数を一定に整えると、不安も何も無くなる。だからもし怖い目にあったら、まずそうしてみてよ、と。しかしそれはどうやら無理そうらしい。まず心拍数を整える所からわからない。全身が震え怖気付く中、心臓だけ落ち着かせることなど出来るものか。
彼はそんな風に悪態を吐きながらも、進む。その一歩は速度としてはかなり遅いが、着実に車掌室に向かっている。そんな気がする。否、そんな風に思っていないと、心と体がバラバラになってしまいそうだった。体は今、進行方向に向かって進んでいる。そのはずだ。しかし心の向きはそれと逆になっている。きっとそのせいだ。心と体がバラバラになってしまいそうなのは。
何とか足を進め、彼は車掌室と書かれた文字を見つけた。汚らしい字だ。あの手紙の主と同じくらいに汚らしい。彼はそんな風に思って、その文字に触れた。どうやらそれは直接窓に塗っているらしい。触れた途端、ヌメリとした感触が帰ってきた。
「あのーすみません」
文字を何とか避けて、彼は窓を叩く。コンと軽い音が聞こえて、黒帽子がこちらを見た。冷たい瞳だ。「暫し待て」と口を動かすと、黒帽子は前を向いた。あの黒帽子──あの車掌はなんだろうか。不思議な雰囲気のする男だった。何故か心が紫色を映し出す。きっとそれが車掌だ。そんな風に思った。初めての感覚だった。しかし何故か確証を持てた。彼はそれで車掌室のすぐ脇の座席に座った。何故か触り心地は最悪だった。
「……あ。落ちた」
ふと、彼が見た窓の奥。そこには人気ない駅があり、そして──そこから人が一人飛び降りた。突然現れた向かいの電車にその人は引かれた。吹き飛ばされた。死んでしまった。最期まで見る勇気はなかったが、きっとそうだ。彼は心が締め付けられるのを感じた。それで手を握りしめた。何がこんなにも心を掻き乱すのだろう。不明瞭なそれは、しかし彼にとって激昂の理由には充分なり得るものだった。彼は一人で激昂した。丸めた拳で膝を叩く。反射で足の上がる動作が無性に腹が立った。しかし「何故?」と問われても何も無い。理由はまだ不明瞭なままだ。しかしただ心が熱くなっている。それだけの話だった。
アナウンスが聞こえた。今度は車掌室からと放送機からの二つが被さったものだった。それらは若干のズレがあった。アナウンスは言う。「次は終点だ」と。アナウンスはしかしその駅の名前を言わない。きっとそんなものないんだろうなと思った。
彼はそれで窓から外を眺めた。世界の色が変わっていく。空はまるで紅玉のように夕焼けとなっている。その美しさがあまりにも現実離れしていて、彼は思わずウッとなった。それは感嘆だったのだろうか。正直自分でもよくわからない。ただ、心が頭の機能を停止させようとしているのはわかった。それでいいと何故か思えた。気づくと、彼は意識を失っていた。
──
「お客さん。目、覚ましてください」
声が頭上から降ってくる。冷淡な声だ。ただただ決められた台詞を口ずさんでいるみたいだと彼は思った。それで彼は目を開いた。少しの明かりが瞳に当てられる。それ以外は真っ暗だ。まさかと体を起こす。空は暗転していた。一体何時間眠っていたのだろうか。そんな風に思ったら、目の前でこちらを見下ろす男が言った。
「はぁ、もうここは車庫ですよ。本来私たち以外立ち入り禁止です。ただ、今回は私の部屋に泊まってください。もう車両はありませんので」
男は──車掌はそう捲し立てると、スタスタと奥へと向かう。「ちょっと待ってくれ」の言葉を込めながら手を伸ばし、あとを追いかける。何故だか、わざと歩く速度を緩めてくれている気がした。それで、彼はその車掌は案外悪い人間ではないのかもしれないと思い始めた。
「ここが私の部屋です。荷物はそこら辺に置いて……寝台は私が下で寝ます」
「あ、ありがとう──」
「私達は暫時的とはいえ、同居人。礼は不要です」
「は、はぁ」
「そんなもので大丈夫です」
「な、ならあなたもそんな堅苦しくしなくても……」
「すみませんが、これは私の性分でして。キッチリとしておかないと気分が優れないのです」
「そんなもんですか」
「そんなもんなのです」
堅苦しくお辞儀をすると、車掌はタンスに手をかける。奥へ奥へと手を伸ばし、布団を取り出した。瞬間ブワリと羽根が飛ぶ。彼はそれに思わずクシャミをした。偶発的なものだろうと判断して、彼は鼻の下を擦る。鼻を啜るもクシャミっ気は未だに消えない。イラつきとモヤ付き鼻を抱えたまま、彼は荷物を下に下ろした。「そう言えば」と呟いて鞄に手を入れる。
そう言えば何処に入れたのだったろうか。確かな記憶はない。ただこの鞄に入れたような気がする。そんな雰囲気でしか無かったそれは、ようやく彼の手に触れた。少し綻んで、彼はそれを引っ張り出す。ニャキリと出したそれはカメラだった。一眼レフカメラ。思えばこれは父親から貰ったものだ。それを彼は車掌に向けて、構え、
「はい、チーズ」
「突然どうし──ああ!」
切ろうとしたシャッターを妨害された。車掌の瞳はこちらに付けられている。色に必死さが現れでていた。けれどそれは場違いな色だと彼は思った。しかしその意見はどうやら通用しないらしい。車掌は首を横に何度も振ると鼻腔を膨らませ、
「あなた、何考えてるんですか?! ここではカメラは禁止です。何、危なっかしいことを……」
「危なっかしい? カメラが?」
「あ、当たり前でしょ! だって、カメラですよ?! 人の魂を喰らうされるカメラですよ?! あんた頭おかしいんじゃないですかね?!」
「カメラが魂を喰らう……? そんな迷信信じてるんですか?」
「いや、馬鹿にしちゃいけない。私の同僚にもカメラに撮られて魂を取られた人間がいます。ホントに、あの噂は侮っちゃ行けない……」
彼の肩を掴み、車掌はそう畳み掛ける。その目は相変わらずの色だ。彼はそれがきっと不滅の色であることに気づいて、結局カメラはしまって置くことにした。初めから必要なものではなかったし、ただこの鞄に入れて置くだけでいい。そう思って、彼はそれをカメラにしまった。
「そう言えば何ですけど」
カメラをしまってから数分後。沈黙に耐えかねたのか車掌がそう口を開いた。未だにその目は彼の鞄と、おそらくその中のカメラに向けられている。警戒心の強いことだ。
「ここの規約ってもしかして読んだことないですか?」
「規約?」
「ああ、ないんですね」
聞き返すと、車掌は「予想通り」とでも言いたげに肩を下ろした。そこには明らかな諦めがあった。「残念・無念」とでも言いたげだった。車掌は口を開く。
「まあ、とにかく、ここには規約があります。それは全部で三つ。これさえ守ればここでは自由です。逆に言えば、この三つの内一つだけでも違反すれば、自由は保証はできません」
長々しく枕詞を飾ると、車掌は彼の瞳を見つめた。「いいですか」と人差し指を立てた。「忘れちゃいけませんよ」と頭に手を置いた。
「この世界においての規約。一つ目は【教団】とは関わらないことです」
「【教団】?」
「ええ、【教団】です。彼らはまあ……言ってしまえば狂信者なので、関わった場合命の危険に晒されます。絶対。これは経験則です」
人差し指と人差し指を重ねたバッテン印。それを掲げて語る車掌の目は本気だ。きっとその車掌自身も痛い目にあったのだろう。そんな風な憶測を立てて、彼はため息。「次は?」と催促をする。
「次は、カメラやビデオ。それら諸々の【他世界文化物】の持ち込みと使用の禁止です」
車掌はそう言うと、カメラの入った彼の鞄を指差す。咳払いをしてから、ため息混じりに言った。
「本来は、これも没収しなくてはなりません。まあ、今はいいですけど。とにかく、今度からは人前にこんなものを出してはいけません。──いいですか」
人差し指を立て、車掌はそう言うと言葉を終える。きっと人差し指を立てるのが癖なんだろうなと彼は思った。ただそれも少しだけだ。思考は既にその場から離れている。今、車掌の口から飛び出た言葉。それら全てに謎が多すぎる。まず【他世界文化物】とは一体なんだ。長すぎて一瞬わからなかった。否、今もわかっていない。ただ並べるべき単語を類推しただけの話だ。類推された単語を見ても、全くもって言葉の意味がわからない。否、憶測だけならば幾らでも仮説は立つ。しかしそれらが全て間違っているようにしか思えない。否、思いたいのだろうと彼は思考の最終結論をそこに置いた。これではまるで昔見た映画のようじゃないかと思った。その映画の名前は結局出てこなかった。
「それで、最後の規約なのですが……大丈夫ですか?」
車掌はそう慎重に声を出した。考え込む彼に配慮をしたのだろう。申し訳ない気持ちになって、彼は急いで言葉を紡ぐ。
「あ、は、はい! ごめんなさい! で、最後って言うのは?」
「そんな急がなくても……ま、まあいいでしょう」
少し綻んで、車掌はそう言った。急いで言葉の準備をする。その様子は少し滑稽だった。けれど嘲笑の念はコレッポッチも現れなかった。彼はそれだけで安心して、車掌の言葉を待った。
「三つ目の──最後の規約ですが……これは別に気にする必要はありません。まあ、簡潔に言いましょう。──恋愛の禁止です」
そう言いきった瞬間、何故か風が吹いた気がした。それはあの電車で感じたものと同じものだった。彼はまるでそれが誰かの意思のようだと思って、怯えに身を竦ませる。するとそれに車掌がなんと思ったのか、笑って、
「別に、この世界には相手に恋させられる人間はいませんからね。そこまで気にする必要は無いと思います。まあ、居ても【バク】として処理させるだけの話ですけど」
「【バク】?」
「ええ。私達は通称でそう呼んでいます。彼らは基本的に指名手配されていますね」
そう言うと、車掌は笑って手を揉んだ。その仕草は何だか不愉快で、彼はそれを視界から外した。すると自然に視界の向きが変わる。今まで見えていなかったものが見えるようになる。それは物理的な意味でもあり、精神的な意味でもあった。彼はまるでため息を吐くように純粋にその問を投げ掛けた。
「あの……もしもの話なんですけど、仮にその規約全部破ったらどうなるんですかね?」
それはただの興味だった。好奇心だった。彼は身を乗り出し、車掌の言葉を待つ。すると数秒して、車掌は口を開いた。考えは纏まったらしい。
「私も噂程度ですが、この三つの規約以外にも実はもう一つ、規約があるらしいのです」
車掌はそこで区切ると、咳払いをした。彼は飛沫の音が聞こえて、それで車掌の行為の意味がわかった。
「で、その四つ目の規約を破った場合──これはあくまで聞き伝いのものですが──世界が暗転するそうです」
「世界が暗転?」
「はい。一体それがどんな状況かはわかりかねますが、おそらく別世界に飛ばされるんでしょう。だから、まあ、気を付けてくださいね」
最後そう言い切ると、車掌は大きく伸びをした。そのまま立ち上がって、台所に向かう。その様子を彼は瞳で追った。
「珈琲、飲みます?」
車掌は台所からコップを二つ取り出した。彼の首肯を見て、炒った珈琲豆をパックからコップに零す。五秒間を口に出して数えた後、車掌はピタリと袋の口を閉じる。置いてあったポットに水を入れた。丁度半分ほどだ。きっと目測ではないなと感覚か言った。よく見るとカップに筋がある。「それでか」と一人納得する。カチリとガス栓を回す音が聞こえた。それで火が焜炉に付いたのに気付いた。弱火だった。それを少しづつ火力を上げていく。大体バーが真ん中辺りに来たくらいで、ポットが唸りだした。ピーッと、まるで汽笛のような音で、それは唸る。彼はそれに少し驚き、しかし直ぐに立て直した。彼は竦めていた身を戻す。その間に、車掌がポットの湯をコップに注いでいた。ボトボトとそれはカップの底を焦がしていく。見ると、波紋が広がっていた。左回りだった。彼はそれに少しだけ違和を感じた。けれどそれは些細なもので、彼が珈琲が練上がるのを眺め終わる頃にはスッカリ頭の中から消え去っていた。それは彼に少しの凝りを残した。それを思い出すのはきっともっと先だと心の声が聞こえた気がした。
「どうぞ」
盆に載せられ運ばれてきた二つのカップ。それの一つを手に取ると、彼は自分の近くに引き寄せる。揺らす度に、ギリギリまで入れられた珈琲が零れそうになる。危なっかしいさに、彼は受け取ると直ぐ口でカップに触れた。傾け、珈琲を流し込む。口蓋に広がったそれは、やはり苦かった。車掌の差し出す砂糖を入れてから、彼はもう一度珈琲を呑んだ。今度は甘い味がした。おかしな気分にさせられる。彼は何故かそれの感覚を知っている気がした。
「さて、これからどうします?」
暫くの沈黙の後、車掌が口を開いた。ポンという音が付いてくる。彼はそれで、同じようにカップをテーブルに置いた。車掌が話し始める。
「一応聞いておきたいんですけど、あなたは一応、【客】という事でいいのですよね?」
「【客】?」
「ええ──何だかこの会話に既視感が凄いんですけど何でですかね?」
「さあ? 何回もしてましたっけ?」
「んーよくわからない」
そう言うと、車掌は腕を組んで頭を悩まし始めた。ただそれは本の数秒ほどのものだった。車掌は「まあ別に」と言うとすぐに珈琲を呑んだ。
「そこ気にする必要は無いでしょ。まあ、さっき言った【客】ですが……それを説明するためにはこの世界の原則みたいなものを説明しておかないと行けないですね」
車掌はその言葉の後立ち上がり、近くのタンスからチラシを取り出す。そこに書かれた文字は彼の知るものではなかった。まるでただの落書きのように思えた。車掌はそのチラシを裏返すと、ペンで円を三つ描いた。お世辞にも美しいとはいえない円だった。
「まあ、見てください。この三つの円。これは私達この世界の人間の役割を示しています。まず左上のこれが私達──所謂【名前持ち】ですね。基本的に私達が殆ど全部の運営をしています。で、次に右上の円。これがあなた達──所謂【客】です。皆さん語らないのですが、この世界の人間ではないとされています。それで最後。この一番下の円。これが【亜種】と呼ばれる者達です。言ってしまうとこの【亜種】の中で分類がされていて──細かく言うと大変なので大まかに言いますが──例えば、【教団】の人間だとか、【バク】だとか。あとはまあ、【名無し】とかもそれに当たりますかね。ま、言えるのは必要のない限り【亜種】には関わらないことですね。【教団】以外との関わりは規約では制限されてませんが、まあ一応。『実はそいつは【バク】でもあり【教団】のものでもあった……!』みたいな展開があるかもしれないのでね」
そこまで言うと、車掌は珈琲にもう一度口を付けた。猫舌の彼は未だに容易には啜れないが、車掌はそれはもうガンガン行く。まるで一介の彼を貶していくようだった。そんな風に感じたのが凶か。彼は一気に珈琲を飲み干そうとカップを取り──やはり怖くなって恐る恐るテーブルに置いた。車掌に笑われている気がするが、気の所為にしておく。彼は昔見た映画の場面を思い出しながら、そっと珈琲を飲んだ。スっと口蓋に入ったそれは程よい甘さで、彼は長く息を吐く。それは明らかにため息ではなかった。しかし同様に安堵から来るものでもなかった。
「そう言えば、何の話してたんでしょ」
ふと、彼は思い出し混じりにそんな言葉を吐いた。「何だったですかねー」と腑抜けた顔が映る。彼はそれで、車掌が眠気に堪えかねていることに気付いた。
「ああ、まあ、今はいいですよ。ゆっくり休んでください」
「いや、駄目です」
車掌は無理矢理頭を働かせ、彼の瞳を見詰める。そこには眠気半分意識半分と言った混濁の色が見えた。しかしそこは車掌の意見を尊重しようと、彼は黙ることにした。
「えーっとですね。聞きたいことは二つです」
そう言って車掌は二つ指を立てた。親指と人差し指だ。中々珍しいなと彼は思った。
「まず、あなたに決めてもらいたいのは、ここに残るか、終点に向かうか。それです」
そう言うと、車掌は指を片方曲げた。人差し指の方だった。親指だけ出しているのは何だか滑稽だ。笑いそうになるのを我慢して、彼は咳払いをした。
「ちなみにここは車庫です。まあ、どちらでもいいんですけど、この私車掌とともに終点に向かうか、この私車掌とともにこの場に留まるか。あなたの切符の有効期限はどれくらい残っているか知りませんが、とりあえず決めましょう。どうします?」
彼にそう投げかけて、車掌は瞑目する。それで十分な時間を貰ったと心が感じ、彼の頭は思考を回転し始める。
この場に留まるか。終点に向かうか。選択肢は二つ。気になるのは、あの手紙だ。あの手紙──ポケットの中に入れられていた、地図の役割も兼ねたそれ。そこに記されていた言葉が気になって仕方がない。
──ヒラと仲良くなれ。駅員と仲良くなるな。
ふと反芻した言葉。これに先程の車掌の発言を混ぜ込むと──、
「終点には行かない方がいいのか……?」
終点ということはつまり、駅員はそこにいるはず。あの手紙に書かれた通りにするなら、やはり駅員には近づかないほうがいいのだろう。しかし──彼の反骨心がムクムクと心で浮き上がった。それでいいのだろうか? この手紙の主の思うがままに進んでいいのか? 自分の心と頭はどうした? そんな言葉が突然降り掛かってくる。それで彼の決断に鈍りが加えられた。だが、逡巡も本の少しだけだ。心と頭の総意を吐き出す。今はこれだけでいい。だから彼は言った。
「終点に向かうことにします」
言葉の後に、少し沈黙が流れる。彼は頬を硬くして、傾く車掌の言葉を待った。
「あれ?」
しかしふと気付いた。
「もしかしてこの人……寝てる?」
そんな言葉で車掌の肩を小突くと、案の定そのまま倒れた。頭と床の直撃だけは手を添えて避け、彼は車掌に布団をかけようと立ち上がった。あちらこちらにあるタンスを片っ端から開けていく。その中に一つ、奇妙なものがあった。それは本だった。一冊の本だった。ただそれだけの為に棚を一つ使うという意味のわからないことが起きている。それほど大事なのだろうか。彼はそんな風に思って、本に手を触れる。表紙に降り積もった埃を払って、題名を読み上げた。
「【恋愛論者】?」
そこには確かにそう書かれている。不思議な感覚に襲われた。それは既知感の類のものだった。彼はちょっとした好奇心でそれを開いた。目次に書かれている章タイトルを眺めた後、初めの一行目に触れる。
途端、何故かチカリとなって、彼は急いで本を閉じた。心が警告を鳴らす。頭が好奇心の再燃を促す。彼は結局心に従うことにした。本はそのままの状態でタンスに戻し、タンスも元の状態に戻した。後で車掌に聞こうと頭で決める。と、彼の足がヌメリとした感触を感じた。足がそれに引っ張られていくのがわかる。駄目だ、これは倒れる。頭がそう認識した途端、手が勝手に尻へと向けられる。それがストッパーとなり、何とか転倒は避けられた。だが、股を無理矢理、それも急速に割けられた為、激痛は残ってしまった。それに悶え、彼は床に倒れ込む。両手足をバタつかせ、痛みを霧散させようとするも逆効果。動かす度に関節が痛む。筋肉もそれにつられていく。彼は呻き声を上げながら足元を見た。
「まじかよ……」
そこにはヌメリの正体──一枚の毛布があった。まさか探し求めていたそれが凶器になるとは。人生はなんとも奇妙だと心でため息。彼は慎重に毛布を足元から除けた後、慎重に立ち上がった。それはまるで産まれたての子鹿のようだった。情けなさでいっぱいになりながら、辺りを見渡す。右左。左で車掌と目が合った。どうやら目覚めたらしい。きっと彼の呻き声やら何やらのせいだろう。その目は嘲笑の色をしていた。
「だ、大丈夫です?」
車掌が堪えきれずに、思い切り笑気を飛ばす。それで彼の顔は真っ赤になった。車掌はもう一度笑った。
「はあ、もう小っ恥ずかしいです……」
肩を落とし、彼はそんな言葉を吐き出した。車掌は未だに腹を抱え、笑気の余韻に浸っている。彼はそれでまた顔を赤くした。車掌が指をパチンと鳴らす。突然のことで、彼は少し驚き、しかしすぐに立て直した。
「まあとりあえず、忘れてた最後の質問をします。ちょっと暫く笑わないようにするので大丈夫──っ!」
「あんた今、思い切り笑ってるじゃないですか! ええ?! そんな?! 俺の顔見ただけで笑います? それ普通?」
「ハハハハ。ハハハハ。すみません。ハハハハ。──気を取り直します」
そう言って車掌は頬を叩いた。パチリと小気味良い音が響く。彼はそれで同様に気を取り直すことにした。
「では、質問します……あ、その前に。さっきの質問はどうします? こちらに残るか、終点に向かうか。まあ、どちらでも一緒何ですけど」
「あ、それは終点にら向かうことにします」
「ほう、以外ですね。正直ビビってここに留まるって言いそうなのに」
「半笑いでそんなこと言わないでくださいよ。これでも一応男です。挑戦心は忘れちゃいけないですよね」
「ハハ。確かに。まあ、それは良いとして、ですよ。今から最後の質問をします。……あ、ああ別に気を引き締める必要はありませんよ? 気は楽に。できるだけでいいので。……それで、最後の話です。──あなたは、元の世界に戻りたいですか?」
少し笑って、車掌はそう指をパチンと鳴らした。それがあまりにも場違いなものに思えて、彼は不気味さに身を震わせた。彼は車掌の瞳を覗き込む。その目は純粋な好奇心だった。それで彼の心は後悔の海に取り残された。咳払いをしてから、彼は聞き返す。
「つまり、そればどういう意味で……」
「まあ、簡単に言うと──先程言ったように──この世界に存在する人々を大まかに分けた場合、一つはあなた方【客】。二つは関わりを持たない方がいい【亜種】。そして最後が私達……【名前持ち】ですね。そして、先程は言いませんでしたが、ここを訪れる【客】の大半は【名前持ち】になります。それで、私が言いたいことはわかるでしょう?」
車掌はニヤリと笑って、またパチンと指を鳴らした。つまり【客】として生きるか【名前持ち】として生きるのか、その二つを決めろということか。彼は少し苦笑いして、思考を回し始めた。
「これは厄介な問題だ」と頭が言う。「しかし期限は決められていない」と心が救いを差し出す。頭はそれを叩き落とした。心の言葉を無視する。急ぎ答えを出さなくては。何故か現れる焦燥感。彼はそれに引っ張られていく自分を感じ──そこで、心が全てを止めた。フッと、視界が広がる。今まで見えていた景色が本当に狭かったのだと気付かされる。それで彼は自分が無意識に深呼吸するのを感じた。
「それは……まだ、もう少し考える時間をくれませんか」
心が出し、頭が否定した言葉を吐く。今、彼は心に傾いていた。
「ええ。別に急かすつもりはありません。ゆっくりと、考えてください」
車掌はそう微笑んだ。その目は柔らかかった。何を根拠に言えるのかわからないが、車掌は信頼出来る人間だ気付いた。彼はもう一度深呼吸をする。今度は有意識の下でだった。先程よりもゆっくりと、しかし大きく、深く息を吸って、吐く。何だか色々な考えが頭と心を通り過ぎていく。しかしそれら全てを無視して、彼は深呼吸をしていた。ふと、こんな言葉が思い浮かぶ。彼はそれがあまりに滑稽と感じた。
──例えば明日死んだとして、心と頭はそれを認識できるのだろうか。