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【恋愛論者】  作者: 毛利 馮河
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第四章

──サヨナラは愛のように。


空浮かぶ雲。それを追いかけるように鈍色の煙が飛んでいく。それには香ばしい匂いが張り付いている。たまたま飛んできたそれを嗅ぎ、彼は思わず唸り声を上げた。それは明らかに焼肉屋のそれだ。しかしここまで美味しそうなものは嗅いだことすらない。彼は感嘆を口にするか迷いつつも、その煙の方へ進む。駅員の言っていた通りだった。


「──ここに行けば、えげつないほど美味い所に行けます!」


そんな風に頬を紅潮させ、駅員は彼の肩を掴んだ。前後左右に揺らす。そのせいで頭がフラフラして来て、フワフワした心持ちになってしまった。それはともあれ、駅員へ尋ねたオススメ。初回は完璧と言えよう。彼はそんな風に思いながら、その店の前に立った。


悪く言えば、ボロボロ。よく言えば古風な店だ。そこかしこに黒い何かが焦げ付いているが、きっとあれは秘伝のタレが何かだろう。そうだと思いたい。彼は思わずそんなことを呟いて、店の中に入った。


店の中は案の定ボロボロだった。しかしそこに漂う香りは高級料理店顔負けのものだ。彼はそんな風に評価しつつ、奥へと進む。

店内は彼が知っているような焼肉屋と殆ど同じだった。炭火焼なのか、カウンター席それぞれの前に一つづつ七厘が設置されている。その横にはガスボンベが設置されていて、それには鍵が掛けられている。

厨房の方を見ると、そこには業務用冷蔵庫と炊飯器。あとは皿を仕舞っておく為の硝子ケースくらいか。追記するのなら、全てがボロボロなことだ。


言ってしまうと、何もすごいことは無い、ただの焼肉屋。しかし漂う香りは何故か心を絡めて離さない。まだ頭が冷静でいてくれるからマシだが、これで頭で染まってしまえばもう終わりだ。それは確実だとそれだけは心と頭の総意だった。

彼はカウンター席のひとつに座った。パタパタとテーブルを叩いてリズムを刻む。しばらくして、手を振りあげると、


「すみませーん!」


彼は大声でそう叫んだ。すると、それに返事する声が奥から聞こえた。ガタガタと何やら物がぐらつく音が聞こえる。案の定バタンと聞こえた。痛みを堪えた声が聞こえる。「ちょっと待ってくだせえ」とそれでも彼のことを忘れていないことだから、きっと店主はいい人なのだろう。

彼は何となく、おっちょこちょいだがいい人という印象を受けた。それはまるで駅員のようだなとも感じた。けれど本質的には違う気がした。それは心の声だった。信用に値しないと思った。だから頭に従うことにした。


「大丈夫ですかー?」


声を出来るだけ張り上げる。彼は心配気な表情で奥を見やる。暗い闇の中で、店主が蠢いている。そう言うと何だか怪奇的に聞こえるが、実際はそうではない。ただ一人のおっちょこちょいな男が転んでアタフタしているだけだ。それはしかし滑稽とは思えなかった。たぶんその行動に気持ちがあるからだろうなと彼は思った。だからまた、彼はその店主に好感を抱いた。抱いて、それで手伝いに行くことにした。


「大丈夫です、か」


さっきと同じ台詞。しかし込められた気持ちが違う。さっきよりも、少しだけ思いがこもっているような気がする。彼はそれで首を回した。店主に駆け寄る。しかし店主はニカッと笑って、遠慮する。そう言われるとこれ以上は駄目だ。食い下がることしか出来ない。

彼は店主の方を見ながら後ずさる。カウンター席に座り直した。すると、ある程度の片付けの終わった店主が厨房に立つ。


「あんたも駅員からかい?」


【も】と言う言い回しに少々違和を感じつつも、彼は「はい」と応える。すると店主は少し嬉しそうに頬を綻ばせると、数えるのすら億劫になった笑顔を向けてくる。それは億劫なものだけれど、他のものとは何かが違う気がしていた。


「で? 兄ちゃんはいつからここに?」


店主が腰を曲げてそう言った。何事かと向くと、どうやら皿の準備をしているらしい。彼は店主の様子を眺めて、何だか切ない気持ちになった。しかしそれが心に及ぼす影響は微々たるものだった。頭だけが震えていた。

店主が皿を置く。カタンと音がして、隣にタレが置かれる。きっとこれは秘伝のタレなのだろう。何となくそう思った。否、何となくでは無い。そのタレに【秘伝のタレ】と汚らしく描かれている。それもアジだと彼は思った。


「注文は?」


店主がタオルで手を拭きながらそう尋ねてくる。それに彼はメニューを探す手振りをする。すると店主は「これ」と言って天井を指さした。そこにはメニューの幾つかが描かれていた。まるで寿司屋のようだなと彼は思った。しかし彼は寿司屋に行ったことがない。どうしてそんな風に思ったのだろう。心に一瞬疑問が生じた。けれど楽観的な頭によりそれも阻止される。彼はそんな紛争があるとは気付かず、メニューを眺める。どれにすべきか。それが頭を占めていた。


「あーじゃ店主さんのオススメは?」


迷いに迷い、彼は結局逃げることにした。ただそこにあまり抵抗感はなかった。彼はメニューと店主の顔を交互しながら、顎を弄る。相変わらず薄い毛だと思った。そう言えばここに来てから髭になんの対処もしていないことに気付いた。一瞬怖くなったが、何故かここは時間が止まっているような感覚なので、行けるかもしれない。

煙に乗せられてきた楽観的思考に頭が染められているのが分かった。ただ悪いことだとは思わなかった。そうこうしている間に、店主が応えを出し掛けていた。


「ま、ハラミだな」

「ハラミですか」

「ああ、柔らかくて美味いし、ここのタレと一番合うからな」


ニカッと歯を光らせ、店主は笑った。「じゃそれで」と彼が言うと、また笑って準備をし始めた。ガサゴソと冷蔵庫の中をまさぐり、幾つか肉を取り出していく。五秒間隔くらいで腰を叩いては、呻き声を上げる。腰が痛いのだろう。そう思っていたら店主は振り返り笑って、


「最近腰の調子が悪くてね……多分歳やろうね」


何故か店主はそんな言葉の後、一層老けたように彼は思えた。ただ原因が何処にあるのかまでは知る由もない。彼は結局欠伸だけをしてその場を流した。


「ほい、ハラミ」


カタリ。そんな音がテーブルで鳴って、そこに一つ皿が置かれる。ハラミと言うのは柔らかくて美味いらしい。ただそれで自分に合うかどうかなんぞは分からない。

という訳で、彼はそれを数枚七輪に載せることにした。ジュワリジュワリと肉が焼けていく。汁が垂れ落ち、また火力を強める。

火に油を注ぐとはこの事だなと彼は内心思った。それは本心を隠す建前だった。彼は何故か、それを見て美味しそうと思えなかった。


よくわからない感覚だ。前に来た時──それが何時だったか忘れたが──では、確か焼かれていく肉に涎を垂らしていた。香ばしい匂いが腹を鳴らし、心までウキウキとしたものに変えてくれていた。

だと言うのに何故か今はそれが全くない。全部が何故か色褪せてしまっている。彼は香る香ばしい匂いを鼻いっぱい吸い込んで、邪念を払おうとする。

しかしその努力の成果はなく、ただ少し自分のお腹が煙で膨らんだだけで終わった。けれど何故か彼はそれを無念とは思えなかった。少しだけ安堵してている自分さえいるような気がした。それに嫌気が差して、店主に話し掛けることにした。


「駅員とは一体どんな関係なんですか?」


話題で共通するものなんてこれしかない。これでゴリ押していこう。彼は頭に決めて、店主の反応を待った。


「僕と駅員は実は同じ時にこの場所に来てね」


茶を啜る動作を間に置いて、店主は語る。


「あれはいつだったかな……たぶん三年か四年前だと思うんだが……詳しくは覚えてねえな。ま、それはいいんだよ。僕は一人で電車──あれは汽車か──に乗ってたつもりだったんだが、駅員も実はそこにいてね。突然こんな風に話しかけて来たんだよ。私の【すまほ】を知らないかってね」


それはまるでヒラのようだ。彼はそんな風に思って、話の続きに耳を傾ける。そう言えばヒラは今頃どうしているのだろう。傾けたはずの耳が頭に引っ込むのに気付いた。一瞬の逡巡でどちらを切り捨てるか決めた。


「それで、僕はもちろんその【すまほ】ってものを知らないから、「知らない」って応えたんだ。それで──何分僕は臆病でね。知らないところで一人ってのに耐えられなかったんだよ──僕は彼女にこう言ったんだ。「一緒に着いてきてくれないかね」とね。そうしたら彼女は言ったんだ。「私には役目がある」とね。僕はもうそれは驚いて、でも直ぐに分かったんだ。この場所で何の役目も持っていないのは自分だけだってね」


それは自分もそうだ。彼はそれに否と思った。店主と自分は違う。店主は店主としての役割を持っている。しかし自分は持っていない。心が不安を形にしてあぶく。

──【あぶく】とは何だったか。何だか切ない気持ちになった。【あぶく】とは、何だったろう。その応えは喉の奥あたりで潰れて詰まってしまった。ただ、彼はそれを敢えてとり逃した。きっとそれは逃げだ。心が頭を攻める。

それで、彼は肉が充分焼ききれていることに気付いた。


「うわ、やば」


思わず心の声を吐いて、彼は肉を取り皿で受け取った。ジュワリと皿が焼ける。彼は肉を箸で掬うと、タレをつけて彼は口に運んだ。今度はジワリ。舌が焼ける音がした。続いて歯が少しだけ焼ける。

ガリカリガリカリ。噛む度にそんな音が口蓋で反響する。と、よくわからない肉汁が垂れ落ち始めた。思わずウッと呻く。それは苦くはなかったが、同時に甘いものでもなかった。それを人は無味と呼び、それを人は大層嫌う。無味なんて吐きそうになる。彼はそうなりかけて、しかし何とか持ち堪える。頭がここで吐いては駄目だと言っている。それは心とは真逆の意思だった。


「あらら、タレ付ける量が少ないよ。焼肉屋来たことないんかい?」


ふと、店主がそんな声を掛けてきた。堪える顔に気付いたからだろうか。そんな風に考えて、彼は少しだけ口に空きを作ると、


「マジすか……」

「おん」


モグついた口でそう宣う彼に、軽く首肯。店主は手馴れた様子で小皿を取り出す。【秘伝のタレ】とデカデカと描かれた容器をそこに傾けた。タレがポタリポタリとなって、約五滴。それで小皿はタレで満たされた。店主はそれを満足げに見ると、こちらにそれを差し出した。


「ほら、飲みな」

「はい……」


モグついた声でギリギリ出せた「はい」。彼はそれを言うと息を吐く間もなく、小皿を口に運ぶ。タレを口で肉に浸す。ジュワリと音がした。彼は目を見開く。今一体何が起きた? 心と頭全てが震えを感じた。

それは口から発生していた。もっと根源を辿れば、それはその肉と絡み合ったタレだった。何故か、あのただ生臭いだけの肉が美味くなっている。店主の言っていた柔らかさとやらに気付けた気がした。


「美味い……ですね」

「やろ?」


店主はそう言って笑った。片目を閉じて、ウィンク。お茶目な人だなとふと思った。彼は肉をもう一枚と掬っていく。二枚、三枚、四枚、五枚……気付くと、全ての肉が無くなっていた。ふと、喪失感が全身を満たした。それで、彼はお代わりを頼むことにした。空の皿をカウンターに出し、口を開く──、


「すまねえが」


その前に店主が口を開いた。それは明らかに彼の言葉を予測したものだった。明らかに被せてきていると彼が感じるほど、それは顕著だった。


「ここはお代わり厳禁なんだ。また、今度来てくれや」

「え……」

「まあ、すまねえ。これがこの店の方針でよ」


すまなさそうに店主は頭を下げる。彼はそれに罪悪感まで感じてしまった。ただ心に浮かんだ疑問は消えない。それの正体の憶測はついたが、それを声にしようとは思えない。そこには確かな躊躇いがあった。

ふと、顔を上げる。すまなさそうな声が映った。それでまた心が締め付けられる。けれどそれは所詮心の感覚。嘘偽りに違いない。そんな風に彼は思い込むことにした。そこに躊躇いはなかった。彼の全ては頭だ。そう思い込む。頭はいつだって冷静だ。例え心が幾ら叫ぼうと、頭はいつだって自分の考えを纏め、世界を正しく映し出す。だから心よ。しばらく黙れ。そんな言葉で締めくくり、葛藤とも呼べぬほどの思考を掻き乱した。


「じ、じゃ……これで」


勘定は要らないと言う店主の台詞に甘え、彼はただ手を振り仰ぐだけで済ます。フッと息を吐いて、その場を立ち去ろうとして──、


「すまん店主! 匿ってくれねえか!」


ヒラが一人、大声で焼肉屋に訪れた。彼はその声に驚き、しかしそれはどうやらヒラも同じようだった。ヒラもこちらを数度見ると、「何故?」と言った表情を浮かべている。それに彼も「何故?」と応える。それが不満だったのか、ヒラは彼を無視して店主の元に向かう。


「とにかく助けてくれ!」


その手は何故か宙に浮いている。その姿勢だとまるで誰かと手を繋いでいるかのようだなと彼は思った。しかしそれは虚偽だ。今、ヒラの手には何も無い……はずだ。今一瞬、空気が揺れた気がした。

その途端、その場に一人の少女が現れた。否、違う。彼はその少女をずっと見ていた。そのはずだ。しかし心がそれは違うと鳴り止まない。何故か今は、心を信用しなくてはならないと頭が言う。こんなことは初めてだ。心と頭の意見が完全ではなくとも一致している。こんなことは初めて……本当に? 何故、そんな問が現れる。心が描き乱れ、頭も描き乱れ、世界も描き乱れ、全てが描き乱れ、あとは全部消えるだけ。赤も青も黄も緑も紫も白も何もかもが、まるで絵の具を撒き散らしたかのように巡っていく。

──それらは最終的に黒に変わっていくのだよ。そんなふうな声が聞こえた。


──心痛む景色は、きっと恋の幻である。

──目が飽く程に愛を見た。目が醒むほどに恋をした。

──心に雨が降るなら、恋を理解しろ。雨が心を濡らすなら、愛を理解しろ。

──サヨナラは愛のように。


声が声が声が声が聞こえたような気がする。それは錯覚かもしれない。けれど心がそれを求める。頭がそれを求める。グルグルグルグルグルグルグルグル回っていく世界で、グルグルグルグルグルグルグルグル回っていくそれら声。それは全て優しい声だ。まるで母の声のようだと思った。母? それはなんだったけか? そんなものが一体自分にいたのだろうか。全てが今、心の中から放出されている。一体何が起きている。何が起きて、何に向かおうとしている。しんどい。心がしんどい。頭がしんどい。何か考えていないと気が触れてしまいそうだ。このまま叫んで何もかもぶち壊せれたらどれほど楽か。それが頭からか心からも既にわからない。全てが始まりに向かっている気がする。始まり? それは何処だ? 全く思い出せない。それはあの電車に乗った時のことか? しかしその時の記憶はない。誰かにサヨナラと言った気がするだけだ。その誰かの顔は出てこない。ただ声だけ。一つの声が聞こえるだけなのだ。全て全てはそれだ。きっとそうだ。全て全てはそこから始まった。きっとそうだ。だから、思い出せ。あの記憶を、あの言葉を、あの声を。愛おしいのか憎たらしいのかさえわからないあの声を、思い出せ。そして………………………。


──三人でつるんでた時の方が、人間らしかったよ。


…………。…………。

ポケットから取り出した一枚の紙。それは二つの意味を──否、三つの意味を持つ。

一つは、手紙としての役目。そこにはあの人の言葉が記されている。二つは、地図としての役目。これはいつかの自分がヒラの使っている様子を見てようやっとわかった。それはあの全てが青い街の地図だ。ヒラが何かを求めて、現れた少女といた場所。あのおかしな建物の場所だ。

そして最後──三つ目は、今ようやっとわかった。これを知るのに一体どれほど費やしたのだろう。数えるのも億劫になるほどの年数だ。そこに書かれた文字を見詰めて、彼は呟いた。


「今の自分は前とは違う。きっと、大丈夫だ」


世界が暗転する。明かりも何も無い世界だ。そんな中で、彼は一人、開いた手紙に文字を記す。きっと汚らしい字だろう。「けれど」と次の自分がそれを読めるよう、祈りを込める。彼は瞑目した。世界がぐらつく。彼はそれで終わりを悟った。しかしそれが何度目の終わりか、彼にわかるはずもなかった。それで、彼は全てを忘れ去った。

サヨナラと心が言う。それは違うと頭が言った。


──サヨナラは愛のように。


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