第二章
──目が飽く程に愛を見た。目が醒むほどに恋をした。
「戴きます」
そう言って彼は手を合わせた。「はい」と声が返って来て、彼は箸を動かし始めた。まず選ぶのは焼き鮭だ。それを真ん中で割って肉を取り出す。口に運ぶ。その時骨が混ざらないよう気をつけて箸を動かさなくてはならない。万一あったとしても、吐き出せばいいし、万一喉に引っかかっても、米で流してしまえばいい。ただ、喉に詰まって死んだ人もいると聞く。警戒は怠らない方がいいだろう。そんなことを考えながら、彼は箸を動かしていく。たまに米を挟み、味噌汁を挟み……としながら、食事を続けていく。ただやはり──、
「腑に落ちない」
「何がですか?」
彼のふとした一言に、駅員が反応する。彼女は啜っていた味噌汁を食卓に置くと首を傾げた。無意識か有意識か。どちらにしろ彼女の手は虚ろの中でも食材を探している。なんとも我儘なことだと思った。それならどちらか一方に集中すれば良いのにと思った。ただそれを口に出すことはしなかった。言っても無駄な気がする。
「何だか凄い失礼なことを思われた気がするんですか気の所為ですか?」
「気の所為ですよ。気にしたら負けです。てか、これとかおかしいと思いません?」
彼女の問いに適当に答え、彼は食卓を指で指した。ムッとした彼女の表情に笑いを堪えつつ、こめかみを叩く。
「よくよく考えてみてくださいよ? ここ、駅の駅員室ですよね? なんでそんな所に台所があって、便所があって、寝台があって、食卓があるんですかね? おかしいと思いません?」
「さ、さあ? 私が来た時からずっとそうでしたから、違和感はさほど……」
「いや、明らかに動揺してるじゃないですか。何か知ってるんじゃないですか?」
「ハハハ、全然わかりませんよー。そう言えば今日の鮭美味しいで──」
「あんた今思い切り話変えようとしたな! 絶対何か知ってるでしょ? 答えてくださいよ!」
「急にどうしたんですか? 別にそんなのどうでもいいじゃないですか。そんなことくらい、自分の頭に聴いてくださいよ。──あの子みたいに」
そう駅員が言ったところで、会話は終了した。腑に落ちない点しかないが、彼女はこれ以上会話する気は無いらしい。箸を黙々と動かし、彼にもそれを強要する。まだ腹五分目と言ったところなので、食べるには食べるが、胸のモヤモヤは取れそうにない。気になって肺のあたりを掻いてみるが、あまり効果はない。やはり頭の問題なのだろう。だから頭をかいてみることにする。
「ご馳走様でした」
そうしたら彼女の食事は終わっていた。あまりの速さに驚きを隠せず、彼は目を丸くする。そんな様子に彼女は笑う。何だかそんなやり取りが心に滲んでいく。それで彼は親指で力を溜めた中指を弾き、彼女の額を叩いた。いわゆるデコピン。彼女は悶絶。彼は笑い、ざまあねえと心で言葉にした。
「それで、今日のお勧めは?」
「だから心に……はあ、わかりました。今日のお勧めはですね……このビルです」
彼女はそう言って地図を指さした。彼がこの場所に訪れてから四日。様々な場所を巡ることにしたのだが、彼はこの場所を一切知らない。という訳で今は彼女にお勧めを尋ねるようにしている。彼女はそれを嫌がるが、彼の威圧で仕方なくしてくれている。それもきっと優しさなのだなと彼は思った。ただ口にすることは無かった。そんな恥ずかしいことは出来なかった。
「びる?」
ただ、今回は彼女の言う単語が理解できなかった。思わず聞き返し、彼は首を傾げる。【びる】とは何だろう。聞いたことの無い単語だ。
「あー、ビルって言うのは駅の裏側にある長方形の大きな建物ですよ」
「あれが、びる?」
「そう、ビル」
彼女の発音と自分の発音で少し違う気がしたが、気にしない。ただ彼はその場所に何があるのかだけが気になっていた。彼女はお勧めの場所こそ教えてくれども、そこで何が起こるかまでは教えてくれない。昨日は、何やかんやで無事であれたが、初日のような目には願わくば逢いたくない。という訳で、いつもここで心が緊張する。
「では、行ってらっしゃい」
そんな彼の葛藤を他所に、彼女はそう手を振る。それは敢えて冷淡を装ったもので、彼は思わず笑う。「そんな冷淡な」と冗談で返した。彼女も笑って、「そうそれこそが私駅員なのです」と言った。その表情は緩かやだった。初日の本当の冷淡さからはほど遠いものだった。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
そんな風に言って、彼女は手を振る。彼はそれに応える言葉が思い浮かばなくて、ただ手を上に上げる。
──「行ってきます」とは、どうしてか言えなかった。
──
「凄い」
ビルに着いて、初めに彼は感嘆の声を上げた。初めてそれを見た時は、ただただ大きいだけの建物だと思っていた。しかし改めて見るとそれは違う。その大きさの中には、確かな美が──確立された美があった。それは昔見た法隆寺や東大寺。その他諸々の歴史的建築物の類に感じたものと同じものだった。彼はこれを製作した人物の姿を思い浮かべる。きっと素晴らしく、堂々としていて、悠々とした人なのだろう。そんな風に思って、彼はビルの中に入ることにした。
ビルの中は、やはり美しかった。まるで一つの芸術品のようだ──否、それは事実かもしれない。左右対称的に作られた世界に包まれた途端、彼はその美しさに心を奪われた。素直に美しいと思えた。しかしそこは真っ白だった。またかと即座にゲンナリする。切り替えの早い自分に呆れながらも、この壁の色についても呆れる。どうしてこんなにも真っ白というのにこだわるのか。それの不可解さに、彼は首を傾げる。白だなんて、ただただ圧迫してくる無の色でしかないというのに。そんなふうに思ってため息。それで、もしかしたら近未来的な世界では白が美しいとされているのかもしれないと彼はふと考えた。確かにそうかもしれないが、やはり白は飽きる。否、しんどい。辛い。負の感情しか湧き上がってこない。その上目がチカチカとするし、そのせいで気分が悪くなってしまう。
──それはまるで、愛のようね。
一瞬誰かの声がして、彼は振り返った。そこには誰もいない。ただ一つ風が吹いているだけだ。彼はそれを奇妙に思い、何度か左右を見渡す。とは言えここはそんなところだ、こんな奇妙さが茶飯事なのだ、と割り切って考える。彼は既にこの場所の奇妙さに慣れてしまっていた。
こんな所で悠長にしていられないと、彼は下駄箱に向かった。そこもまた、真っ白。ゲンナリ具合は流石に最高潮。けれど気にしては居られないと決意して、彼はため息を吐く。その目は半ば死んでいた。
そこで靴を脱ぎ揃えて彼はそれを下駄箱に入れる。他の所は五つだけ埋まっている。きっと誰かいるのだろうと思った。それは五度目の出逢いを意味する。何だか彼は無邪気に喜びそうになっていた。それがまさに安易な考えとは、少し頭の片隅にあった。
下駄箱から出ると、そこはすぐに階段だった。そこもまた、真っ白。徐々に慣れてくる自分が嫌だ。と、光の反射したものが目に入った。声に出すほどではないが、目が痛む。心が緊張しているのが分かった。彼はたわいない、阿呆らしいことを考えて何とか心を落ち着かせる。それはいつかのあの人のことだった。
あの人はいつも笑っていた。しかしそれは駅員のそれとは違うように思えた。あの人はたまに泣きそうな顔をしていた。その時声を掛けていればなんて後悔が心を埋める。ただ一つ言えるのは、後悔するなら愛ではないということで──。
「あ」
彼の思考が纏まりかけた時、それを崩す何が現れた。それは一人の男だった。中肉中背の中年男性。平凡を地で行く歩き姿でこちらに向かってくる。その歩みは地味に早い。彼は驚き、少々狼狽えたものの、すぐに会釈だけをする。愛想笑いに愛想会釈。そんな言葉があるかどうかなんて知らないが、とにかくそんな雰囲気で行く。すると、男性も会釈を返してきた。その表情は笑顔。とは言え愛想が十割を占めている。そんなふうにしていたら、男性は顔を上げて、
「こんにちは、ヤマモトです」
そんなふうに握手を求めてきた。その手は薄く白く、運動の形跡が見られない。きっと内活動的な仕事をしているのだろう。彼はそんな風に思って、男の手を握り返した。柔らかくヌメリとした感触。それの奥の骨の感触に、やはり気味の悪さが弾ける。とは言え、それで反応を疎かにする訳にも行かない。愛想笑いを必死で作ると、彼は何とか息に言葉を込めた。
「こんにちは、ヤマモトさん」
ヤマモトは彼の態度に満足したのか、ニッコリと笑う。何が嬉しかったのだろうと疑問に思うが、わからないことだから仕方がない。そろそろ話して欲しいな。気味が悪いなと失礼なことを考えながらも、愛想笑いは辞めない。なかなかに辛いなとそんなふうに思っていたら、ようやっとヤマモトが彼の手を離した。安堵感に零れそうになる息を何とかため息に変換。それすらも悟られないよう、何とか言葉を消す。
「それであなたはどうしてここに?」
するとヤマモトがそんな言葉を吐いた。それは単刀直入な問だった。驚きと気味の悪さと泣きたい気持ちとが混ざり合い、訳分からないことになった状況で、彼は彼は、狼狽えの笑みを浮かべる。それは所謂愛想笑いと言う奴とは違う。これはもっと駄目なやつだ。多分きっと最も駄目な奴だと彼の反省が脳内反芻。ただ、それで彼が自分を嫌いになら事は無い。逆にヤマモトのことを嫌いになりそうになっていた。それは言ってしまえば八つ当たりだ。今ある感情を吐き出せばたぶんクソ野郎認定されること間違いなしだなと一人思う。ヤマモトは息を吐くと、彼にもう一度そう尋ねた。それでも反応がないものだから、ヤマモトはこちらの瞳を見て、
「私は、この場所で死のうと思っていました」
「死ぬ? ここで、ですか?」
「はい。ここで首でも吊って死んでやろうかと思っていました」
彼は目を驚きに丸くする。ただヤマモトはそんな彼の様子を気にも止めず、「けれど」と続けた。
「私に死ぬ気はもう無くなりました。きっと、【あの人】のおかげです」
ヤマモトはそう言い切ると、朧気な目でこちらを見つめた。
「あなたもあの人に出逢ってみればわかりますよ、人生観が変わるというか……なんというか……とにかく素晴らしいのです!」
と、そんな風に笑みを浮かべた。それは愛想のものではなかった。しかしもっとタチの悪い、粘着質な、気色の悪いものだと彼は感じた。
「ほーそれは凄いですね、では僕はこれで」
だから怖くなって、その場から立ち去ることにした。本能が、これは面倒なことになると言っていた。いやそもそも本能に頼らずとも、今はそんな感じた。心も頭も全部が全部逃げの一手に賛同の意を評している。いつもは信用出来ないそれに縋ることしか出来ない自分に愚かさを感じ、彼はため息。しかしその息が零れることは無い。ビックリして口元に触れるとプルプルプルプルと唇が震えている。彼はそこで、自分が切羽詰まっているのだと気づいた。彼は息を止めて、苦笑いを浮かべてみる。ヤマモトは依然こちらを見詰めたままだ。その表情は笑み。柔らかな笑みだ。それに彼は狂気を感じた。その目は虚ろだった。まるで【酔っている】ようだった。その言葉は何だか気分の悪くなるもので、彼は迷わずそれを捨て去った。
「で、は、もうここらへんでお暇さして頂います……」
そう捲し立てると、彼は走るようにその場を逃げ出した。所謂疾走。ただその言葉通りのかっこよさはない。不格好に、気持ちの悪い走り方で前へ前へとひたすら進む。……彼はそれで何とか逃げ遂せると、向かいの駄菓子屋に逃げ込んだ。そこにはいつも通り老爺が座っている。彼はふとした安心感に地面に座り込む。そこで、ポケットに入れたままだった飴玉の存在を思い出した。鎮静の意味を込めて、彼はそれを口に放り込んだ。二つ目の飴は、甘い白桃の味がした。
「兄ちゃん、大丈夫かい」
へたりこんだ彼の様子に違和を感じたのか、老爺が話しかけてくる。彼はその言葉に応えるように頷いた。しかし上手く自分の意思が届いた気はしなかった。否、それはただ自分の声が聞こえなかっただけだった。ガタンと頭が地面にぶつかる音が聞こえる。一瞬の痛みと、反射的に零れる泪。視界が溶けだしていくのを見届けた後、彼は意識を失った。
──
目が覚めると、知らない天井だった。薄汚い天井だ。まるで何年間も使っていた畳のように各所が腐り、今にも落ちてきそうで怖い。彼はそのまま顔を横にずらした。それは現実逃避と同じ類のものだった。彼はそのまま咳をする。反射的に抑えた掌を見て、目を見開いた。誘く喉の痛み。
「おお、大丈夫かい?」
そんな折に、老爺が話しかけてきた。老爺は彼の背後から声を掛けていた。だからまだ見られてはいない。急いで口元を拭い、彼は起き上がった。
「すみません、大丈夫です」
起き上がった途端、ポトリと何が落ちた。それは熱冷ましの布だった。それが額から落ちたのだ。過分な湿りがあったのか、ペタリとした染みを布団に作り出す。剥がすとまた、染みが広がっていってしまう。これではまるで寝小便でもしたかのようではないか。と、彼は何だか恥ずかしい気持ちになった。それは何だか矛盾した考えだった。彼はしかしその矛盾した考えを放り出すことはしなかった。逆に大事に仕舞っておくことにした。
「そうかそうか、それは良かった」
老爺はそう言って笑った。何だかそれに懐かしい気分になる。それの正体が気になって、遠くに手を伸ばす。しかしそれを掴むには至らなかった。時間が足りなかったのだ。老爺は彼の額に手を置くと、優しく撫でる。
「もう熱はないようじゃな」
そう言って老爺はまた笑った。熱があったのかと納得して、彼は安堵の息を吐く。老爺がまた笑った。何が面白かったのだろう。馬鹿にしてるのか? と、そんな喧嘩腰な疑問が浮かぶ。
「まあ、これでも呑めば完治するじゃろう」
老爺はそんなことを言いながら、こちらに匙を伸ばしてきた。そこには明らかに苦そうな液体が載せられている。彼は顔を顰めて、「結構です」と固く断ることにした。しかし老爺も譲らない。押しや引けやと繰り返すこと約三分。結局、老爺が折れた。「別に自分はあなたの子どもじゃないんですから」という一言が勝因だったようだ。とは言えやはり申し訳ない気持ちになる。あの一言は中々に冷たかった。ヘコヘコと謝り、彼はその場から立ち去ることにした。一応記念にと老爺の姿にシャッターを切る。またピンボケだ。何故だか知らないが、最近撮った写真のほとんどがピンボケになってしまう。もしかしたらここが自分の世界ではないからかな、と思った。しかしそれを確かめる術はなかった。あれから電車は──否、汽車は一度もこの駅に訪れていない。だから彼は帰ることが出来ない状況なのだ。重く暗い言い回しをしてみれば、これは軟禁と同じような状況だった。彼はその自覚に、長いため息を吐く。
「びるに行くべきか否か……」
彼は顎に手を添えると、そんな風に頭を悩ました。これは切実な問題だ。老爺の元から去った今、別段目的地はない。となると取れる選択は二つ。それがこれなのだが──どちらにしろ危険な目に合うのは確定だった。
仮に、ビルにもう一度訪れた場合、彼はまたもやあのおかしな男──ヤマモトに出逢うだろう。ヤマモトの言い回しからすると、もしかしたら似たような人間が二、三人。最悪の場合、五人は確実に【酔っている】──またを現れた言葉を振り払って、彼は想像を続ける。ヤマモトの言っていた、【あの人】。それに対しては本当に嫌な予想しか出てこない。最悪の場合、洗脳者だ。彼に洗脳への耐性があるわけないから、当たり前のように洗脳されてしまうだろう。それが恐ろしくて、彼は身震いした。これは駄目だと、彼は息を吐いた。
思考を切り替える。
仮に、ビルを諦め、駅員室に戻った場合、彼は恐らく駅員に苦渋な顔をさせられるだろう。具体的に言うと文句が帰ってきそうだ。「折角教えたのに」とか「もうご飯も作りません」とか。それはそれで良いかなと思う自分を叱責。額を叩く。それは疚しい考えだった。ただ言えるのは、それが出来るのは幸せであるという事だけだ。
「これはもう帰るしかないな」
想像した未来は、明らかに後者の方がマシだ。分岐点に差し迫ったら、面白そうな方へ行け、とは昔から言われているが、今回は例外でいいだろう。彼にとって面白そうな方は正直ビルだった。彼は息を吐いて、腰を伸ばした。文句を受け止める準備運動と言うやつだ。それに柔軟運動は関係あるのか? とふと考えたが、そんなことはもういいとする。
「さて帰りますか……って、あれ?」
準備運動も終わり、覚悟も決まった。後は帰るだけ。retrun the Staition early。しかしそんな折に、彼はふとそれを見つけてしまった。
「へーそれは。いわゆる仏さんと言うやつですな」
「ええそうです。あなたもきっと」
──【あの人】を理解出来るでしょう。
ニコリと笑った笑顔。それについていく柔和な笑み。対象的な二つが彼の目に移り、同時に彼の心がどよめく。何故。そんな言葉が心で反芻した。目を見開いて、思わず咳き込む。まただと思い、彼は口元を拭うと、その二つの笑顔──ヤマモトと老爺を目で追った。
「なんであの人が……!」
老爺はヤマモトに連れられ、ビルの中に入っていく。その表情は大変嬉しいそうなものだった。本心からの笑みであることが、この距離からでも伺えた。
これは行くしかないなと思う。そもそも元々決まっていた覚悟の方向が少し変わるだけだ、別に大丈夫。震えてしまう足を叩いて彼は呟く。腹の底が浮ついて仕方がない。それがただただ恐ろしかった。彼はふうと息を吐いた。けれどその気持ちを拭うには至らなかった。その間も時間は流れていく。老爺はもう既に見えない。行くしかないのだ。今自分以外に誰が止められる。そんなふうに腹を決めて、彼はビルへと向うことにした。
──
ビルの中は、静寂に包まれていた。予想通りの内装に、彼はため息を吐く。それほどにこの白璧は飽きる。否、しんどい。憂鬱な心が現れ出てくる。彼はそんなことを考えながらも、忍び足は維持。ゆっくりと慎重に、ゆっくりと慎重に。とは言えそれでは追いつけない。老爺のためにも少々急ぎ足で進む。呼吸と足音を極限まで減らした歩法で進む。階段を登っていく。一番怖いのはここだ。鉢合わせでもしようものなら、逃げ場がない。後ろに逃げたところで追いつかれるのが関の山。正直自分の足には自信がないし期待もしていない。否、自信がないから期待もしないのか、とどうでもいい訂正。
「痒いな」
あまりの痒みに耐えきれず、彼はそう呟く。彼は痒みの原因に──背中の左側に手を伸ばし、掻く。かいていたらやはり、孫の手が欲しくなる。思考が明後日の方を向く。そんな時だった。
「おやおや、また出逢いましたね」
──やらかした! 心が絶叫するのを聞いて、彼は後ろ振り向く。逃げようとする。しかし後方にもヤマモトと同じような表情の女が一人待ち構えていた。ーー挟み撃ちにされた! そんな絶叫がまたもや頭を支配する。このような場合、どうするべきか。そんなこと知らない。だから今考えろ。頭に聞け。頭を回せ。そうだ。
「この世界は人によって変わるはずだよな! てことは……望んだら大抵のものは叶うってことだよな!」
勝手な決めつけ理論。合っているかどうかなんて知ったことではない。ただ今使えればそれでいい。彼の思考なんてそんなものだった。彼は息を思い切り吸い込むと、前方へ──ヤマモトへと突進する。
「何か今、何もかも吹っ飛ばせる気がする──!」
そんなわけの分からない理論を展開。勢いそのままに、彼はヤマモトの腹に頭から飛び込んだ。衝撃で頭がクラリクラリとする。ただそれはヤマモト元も同じようで、ヤマモトは吹っ飛ばされ、遠くの壁に横たわっている。良くやったと自分を褒め讃えてから、後方を振り返る。そこには既に女はいない。きっと逃げたのだろう。少し後ろ髪を引かれるが、些細なことなど気にもせずにと、前へ進む。
「でもやっぱり痛いな……」
頭から飛び込んだのだ。頭が痛むに決まっている。それでもこの世界なら、と甘い希望を抱いたのだが、やはり予想は外れることになった。あまり期待はしない方がいいだろう。そんなふうに判断して、彼は進み始めた。
「おお、兄ちゃん。あんたも来とったんかいな」
するとすぐに、彼は声をかけられることになった。相手は老爺だった。彼は心持ちが軽やかになったのを感じた。ただすぐさま気付いた。急がなくては。
「あの、こ、ここは危険です。だから急いで帰りましょう」
老爺の肩を揺すり、彼はそう言う。しかし老爺はふっと笑って、手を振った。
「何を言っとるんじゃ? みんな優しそうな人達じゃないですか」
「だから、それが危ないんですよ! 早く逃げないと、あなたも【酔って】しまう!」
「【酔って】?」
「そう、あなたもそうなってしまうんです! だから急いで帰りましょう! お願いしますから!」
「ハハハ何を言っとるんじゃ?」
笑いながら、老爺は彼の耳元に近づく。そこで、彼にしか聞こえないほどの小さな声で言った。
「ワシはもう無理じゃ、あんただけでも逃げなさい」
「──っ!」
目を見開き、耳元から離れた老爺を見る。その表情は笑顔だ。しかしその目の奥は笑っていない。つまり──、
「その老爺は既に洗脳下にあるよ。でも──」
「ああお久しぶりでございます」
突然聞こえた声に被せるように、老爺が声を出す。それはまるでその声の主に一切の発言をさせんとした意志を感じて……彼は老爺の考えを悟った。
「やあこんにちは。僕はここの教祖と言うやつだ。以後よろし──」
「ハハハ、教祖様も今日はご機嫌ですな」
教祖、と名乗った男。そいつは言葉を被せる老爺に不機嫌になったのか、老爺の方を見詰める。眉間にシワがより、まるで鬼のようだと彼は思った。同時に、何とかして逃げなくてはという心の叫びが聞こえた。
「ほ、本当にごめんなさい! いつか救い出します!」
彼はそんな言葉でもって、その場を後にした。何度も何度も、老爺の方を振り返った。心が言う。戻れ。頭が叫ぶ。逃げろ。結局彼は頭を先行した。それは駅員の言葉だったからだし、その方が安全だとわかっていたからだ。
──走れ走れ。心は機能を停止している。今は頭だけが叫んでいる。辺りの景色は見えない。全てが白だ。真っ白だ。本当は色付いているはずのこの街が、ドンドンと白くなっていく。それはまるであの【教祖】と呼ばれた人間に、世界そのものが侵食されているようだった。彼はそこから逃げるように、叫ぶ。走る。心は見えない。きっと色は心が見ているのだなとその時ふと思った。
──
走って走って走って。心を無視して走った。
「あなた! いったい何をしたんですか?!」
気付くと、目の前に駅員がいて、彼女が彼に向けてそう叫んでいた。動悸は何故か軽い。だからか、彼は直ぐに落ち着いて──しかし彼は何事かと目を見開いた。駅員の手には、指名手配書が握られている。そこには、彼の顔が描かれていた。精巧な絵だ。写真ではない。絵だ。彼は驚きに声を失った。
「えっと? 冗談?」
三秒後、ようやっと吐き出した言葉。か弱いそれは駅員の元に届く。駅員はそんなわけないと首を振った。
「これは本物です。本物の手配書です……あなた、何をしたんですか?」
低い声で彼女はそう尋ねた。そこには確かな重みがあった。彼はその空気が気に食わなかった。だから駅員からその紙を奪うと、
「あなたは、僕が犯罪を起こすような人に見えるんですか」
そう言い切った。喉が乾いて、世界がジットリと湿っていく。駅員はその大きな瞳を何度か震わせる。そこには葛藤があるように見えた。無垢な色が徐々に霞んでいく。それでも、何とか信じて貰わなくてはいないのだ。彼はもう一歩と声を出した。
「さっき、駄菓子屋のおじいさんが【教祖】と名乗る人に捕まりました。僕はあの人を助けたい。つまりあの馬鹿な野郎をぶちのめしてやりたい。あなたは、どちらの味方に着きますか」
自分で言っていて情けなくなる。支離滅裂だ。思い付いた言葉を思い付いた順に放っているだけだ。情けない。何とも情けない。それでも効果はあったのかもしれない。駅員は指名手配書と彼の顔を見比べて、ため息。
「大体、分かりました。この指名手配書の原因も全部……」
「そうですか! なら──」
「あなたは、この場所にいては駄目です。早く、この場から逃げてください」
「いや、そんなこと言われたって無理だ。電車は一向に来ないままだ。それに俺はもう──」
「わかっています。あなたはここのものを食べた。だからもう元の場所には戻れない。けれど──」
駅員をそう言った。しかし彼が驚くことは無い。何となく、この場所が何なのか想像はついていた。きっとこの場所のものを食べてしまえば元に戻れないことは悟っていた。だから驚くことなどない。彼はただ、息を吐いた。そこの内容において確信を得たところで、何の解決にもならない。今の状況には全くもって関係のない話なのだ。
「いいですか。この場所は、確かに終点です」
彼女は人差し指を立てる。彼の目の前にそれを置いて注意を引き起こす。「でも」と言葉を続けた。
「他の電車や汽車が同じように、終点にあの汽車が回収される訳ではありません。車庫、というのがもちろんあります」
彼女は彼にそう語りかけると、一泊置いた。何故か息切れした様子の駅員に心配げな顔をする余裕はない。頭の中ではずっと、この言葉が反芻していた。「それは盲点だった!」ここが終点だったとしても汽車はどこかへ向かっていた。少年が向かった先もきっとそうなのだ。そんな些細な、当たり前のことに気づかなかった自分が恥ずかしい。情けない。彼はそんな風に思った。彼女の瞳を覗き込んだ。そこには硬い意思があった。けれどその藍色は濁りきり、既に灰色にまで達している。こんな顔は、させたくなかった。そんな後悔が頭で鳴る。
「いいですか。願ってください」
彼女は彼の額を指で触れた。それで頭をグルリと回す。擽ったさが広がって、少しだけ動悸が落ち着いた。
「頭で、考えてください。その汽車を。車庫行きの汽車を、頭で、考えてください」
そう言うと、駅員は彼の額から手を離した。彼は瞼を閉じ、息を吸う。頭の中で想像を膨らませていく。考えるは、汽車。行き先を車庫と書いたそれを想像する。彼は息を吐いた。初めは朧気だった景色が少しずつ鮮明になっていく。より精巧に、細かいところまでと頭に要求する。考えることをやめてはならない。頭を回せ、頭を回せ。……それは少し古ぼけた汽車だ。最低でも五十年は使われている。それの車両室には傷があり──それは昔の脱線事故で付いたものだ──その汽車は一両しかなくて、ただただ恐ろしい程に人気がなく──それはまるで初めて乗ったそれと同じようなものだと気づいた。少しづつだが過去を取り戻していく。そう、彼はあの時ヒラに出会ったのだ。彼はそう思い出すと、ポケットに手を突っ込んだ。まさぐる、まさぐる。声を上げて一枚の写真を取り出した。それはピンボケだった。だがそこにはヒラが移されている。彼はそれを基盤にして、想像を膨らましていく。心の細部までその情報を行き渡らせる。クルクルクルクルと頭が回る。バチバチと何かが弾け合う。そのまま、彼は息を吐いた──汽笛の音が、聞こえた。それは空気を切り裂いて、彼の耳孔に届ける。こんな所に届くなんてと素直に驚く。その音はまるで彼の耳元で聞こえたかのようだった。彼は息を吐いた。頭が疲れた。クラリクラリとする。
「いいですか、向こうに着いたらこれを渡してください」
朦朧とした意識。伸ばされる白い手。白い紙。そこには何が書かれている。赤い文字だ。血のようだ。それはクッキリと描かれていた。執念深いものだなと彼は思った。それは無意識だった。
「あ、あなたは来ないんですか?」
「はい」
彼の質問に、駅員は言葉を被せる。そうか来ないのかと一気に悲しみが溢れた。それは寂しさ故の感情だった。彼は言われた通りにすることにした。息を吐いて、立ち上がる。腰がいちいち軋む。何だこの体は、と心が言う。起因はお前だと言ってやりたい。でも言えるほど頭も冴えていない。彼は駅員に手を伸ばした。
「一緒に、来てくれないんですか……」
それは懇願だった。言い換えれば独りよがりだった。心が彼女を求めただけの話だ。それを彼女が望んでいないとは理解しているのにも関わらず。彼が伸ばした手。それを駅員は振り払うかどうか悩んでいる。そんな葛藤は不要のはずだ。しかしそれを作り出しているのは彼なのだ。自分の矛盾した考えが今度こそ嫌になった。彼は痛む頭を抑えて、もう一度尋ねる。
「一緒に、来て下さいよ」
汽笛の音がなる。彼女の声が聞こえる。彼女は笑顔だ。しかし目の奥は──。
気付くと、彼は汽車の中にいた。そこは一番初めに乗っていたものとまるきり同じものだった。彼は寂しい気持ちになった。それは哀しさゆえのものだった。手を──振り払われた手を見詰める。彼は息を吐いた。右左右と見回す。予想通り、そこにはヒラがいた。まだ舌打ちをしている。ヒラには悪いことをしたなと彼は思った。アナウンスが入る。窓を見ると、先頭がいつもとは逆になっている。彼は何だか申し訳ない気持ちになった。頭の中でグルグルと何かが回り始めた。それは顔だった。色んな顔だった。その大半は駅員だった。次に少年がいた。次に老爺がいた。次にヒラがいて──彼らの瞳が、全て灰へと染まっていく。彼はそれを寂しく思った。
「残ったのはあんただけか」
ふと、ヒラがそんな風に話しかけて来た。随分やつれた顔をしている。初めて出会った時の髭すらなく、きっとヒラにも何かがあったのだろうと彼は思った。汽車が動き始める。ヒラは何故か彼の隣に座った。彼は気まずくなって、少し距離を離した。距離を詰めてくる。距離を離した。距離を詰めてくる。イタチごっこに嫌気がさし、彼は思わず手でヒラを払おうとする。けれどその途中で気付いた。今、繋がりがあるのはヒラだけだということを。そう思うと、彼は急に何か話しかけなくてはならない気持ちになった。けれどその気持ちを言葉に出来ない。つまり話題がない。彼は試行錯誤して頭の中から話題を引っ張り出す。そんな折、
「なあ、あんたは何でここに?」
ヒラが話しかけてきた。これで喜ぶのは何だか癪なので、彼は黙って頷く。
「指名手配、されたんですよ」
「は?! 何やらかしたんだよ」
「さあ? 【教祖】とか言う人をガン無視したとか?」
彼はそう言うと肩を竦めた。ヒラはそれに大爆笑で応えた。手を打ち鳴らす。座席から立ち上がって腹を抱える。そのまま勢いよく地面に倒れ込んだ。ゴロゴロと転がる。
「いや、幾ら面白くても本気で腹抱えて転がる人なんていないでしょ」
しかし彼の言葉は届いていない。彼は呆れ、ため息。ヒラが満足しきるまで待つことにした。
待つこと数分。ヒラは満足げに起き上がった。
「いやぁ、まさかあいつに喧嘩売るとはな。なかなかやりよるな」
笑って、彼の肩を小突く。ヒラは笑顔だ。本気の笑顔だ。彼は嬉しくなって、「あなたは?」と尋ねた。ヒラは一度笑みを消す。ふうと息を吐いた。口元を拭うと、もう一度息を吐いた。口を開く。
「オレはな────っ!」
「うおお」
汽車が突然、揺れる。次に爆発音が聞こえた。それは後方から──彼らの来た方角からだった。彼はヒラと目を合わすと、急ぎ最後尾に向かう。走る窓から煙が見える。嫌な予感と寒気。普段から信用の足りる心の合図が叫ぶ。今は、今だけは辞めてくれ。言葉を放つ。
その景色は明らかに異常だった。向こうの方から、煙がこちらへ舞っている。彼はそれに煙ったさを感じる。ただ、目は見開かれたままだ。彼は泣きそうな気持ちを何とか堪えた。
「ふざけんなよ」
ヒラが拳を握り締める。気持ちは同じだった。けれど言葉にする余裕はなかった。彼は心の中で泣いていた。
──あの駅が、燃えていた。
大炎上だ。火柱が立っている。彼は叫んだ。心の底から叫んだ。それは言葉ではなかった。ただの音でしか無かった。けれどその気持ちだけは本物だった。彼は涙を拭った。肩が叩かれる。ヒクリとしゃっくりをして、振り返る。ヒラが彼の肩を握りしめていた。その手は震えていた。その表情は怒りだった。悲しみを起因とする怒りだった。
「オレは、結局何にも……」
ヒラが何を考えているのか。遠く遠く、火柱さえ越して何を見ているのか。彼はそんなことが気になった。けれど唇は乾いてしまっていた。泣きすぎたな。少し後悔して、彼は座席に戻った。髪をかき揚げ、下ろす。頭を振って、拳を握りした。それを思いきり振り下ろす。窓に打ち付けた。痛みが走る。けれどそれは心の痛みよりかはマシなものだった。彼は未だ呆然と立ち尽くすヒラを見た。
「なあ、あんた」
ヒラはそう言った。振り返ることはなかった。その目は未だ火柱に向けられている。
「この原因を殺したいと思うか」
「当たり前だ」
それは至極当然の問だった。だから彼は間髪入れずそう応えた。彼は息を吐いた。ヒラが首肯する。それが何を意味するのか、何となくわかった。彼は頬を叩く。ガラついた声で一言。
「今は切り替え時だ。切り替えろ」
「わかってる、今は落ち着かなくちゃならない」
ヒラの返答に、彼は首肯で応える。ヒラは満足げに頷いた。それで話は終わった。しかし彼とヒラの心は同じだった。見るものは違えど、目指す先は同じ。そんな心ふたつ、この車両に載っかっていた。
彼ははっと顔をあげた。ポケットをまさぐる。しばらくして、一枚の紙を取り出した。それは手紙だった。しかし同様に地図でもあった。二つの意味を持つそれを彼は広げる。すると嬉しそうにカサリとなった。彼に情報を与える。
──三人でつるんでた時の方が、人間らしかったよ。
風が吹いた。それは強風だった。けれど彼が頭を抱えることは無い。今、頭が冴えている。心でさえ醒めている。だからただ、受け入れるように目を見開く。彼は手紙の裏側を見る。そこには何処かの地図が書かれている。一番始め、あの人に渡された時はこれが何なのか分からなかった。けれど今は分かる。だから彼はその地図で現在位置を探る。高いビルが描かれた場所から少し離れた──彼は外を眺めて確認をした。そこには山があった。中国の山のようにとんがったものだ──二つの山に挟まれた場所。向かいに見えるもう一つの山を見て、彼は自分の場所を見る。問題は目的地だ。彼は呟いて、それを探す。線路を伝っていく。指が流れていく。彼はコツコツと叩きながらその場所を探す。駅員の言葉通りなら、車庫。つまり全ての線路が集結するところだ。彼はポンとその場所を叩いた。
「ここか」
──目が飽く程に愛を見た。目が醒むほどに恋をした。