第一章
──心痛む景色は、きっと恋の幻である。
心が辿り着いた答えはそれだけだった。それは求めていたものではなかった。だから彼は自分の愚かさを恥じた。だから彼は何処か遠くへ行こうと思った。手に持ったのは一日学生切符と少しの手荷物だけ。何とかなる気がした。何とかしてやろうなんて心持ちだった。そうしたら──彼はいつの間にか知らない駅に辿り着いていた。それは聞いたことも無い駅だった。懐かしい感じなんてこともしない。ワクワクとした高揚感もない。ただただ寂しさだけがその駅にはあった。
その駅は都会のようでもあり、田舎のようであった。奇妙な駅だなと彼は思った。その駅は壁一面が真っ白だった。改札口でさえ真っ白だった。そこにいるたった一人の駅員も真っ白だった。
それはきっと噂に聞く都会らしさとやらなのだろう。彼はふとそんなふうに思った。その小綺麗さがむず痒い何かを心で産む。ただ同時に、彼はそこの人気の無さにも気付いた。その場にいるのは彼とヒラと駅員だけ。他は誰もいない。こんなだだっ広い、驚く程に広い場所で三人だけ。その寂しさが、まるで田舎のようだと思った。けれどそれは本質的には違うのだろうなと思った。それはおかしな考えだったが、何処か正しいと彼は考えていた。
一日学生切符を、駅員に差し出す。駅員はニコリともせずにそれを受け取りパチンパチンと切った。何だか不思議な気分にさせられる。それは所謂好奇心だった。腹の底で疼くそれに耐えかね、彼は思わず駅員に声をかけた。
「あの、ここって何処なんですか?」
上擦った声が構内に響く。真っ白だからか、余計な圧迫感まで感じてしまう。彼は自分が冷汗をかいていることに気付いた。背中が服でベットリだ。痒みに泣けてきて背中に手を伸ばす。何とか届いた。上下左右に動かしてみる。そんなことをしていたら、駅員がふっと笑った。それは彼を小馬鹿にしたものだった。彼はムッとなり、何か文句のひとつでもと頭を回す。考えつく限りの言葉を整理した後、彼は駅員を見て口を開き──しかしその笑い方があまりにも綺麗だったから、彼の口はそのまま開きっぱなしになってしまった。それは所謂【見蕩れ】と言う奴だった。俯いてばかりだった顔を上げると、大層美人であることがわかったのだ。見蕩れないはずがない。けれどそれで恋に落ちるなど男が廃る。童貞の自分がそれを語るのも何だかな、と弱気になりながら彼は頭をかく。何故だが、意識をしなくても、駅員に恋することはきっと無いと心が言っていた。
「あの、それでここって……」
美しさに見蕩れていた彼はもう一度そう尋ねた。自分の頬が赤くなっているのがわかる。途端恥ずかしくなって頬を隠す。しかしそれすらもおかしいようで、駅員はまたもや笑って、
「ここは人によって変わるのですよ」
そんなふうに答えた。それの意味が彼は何となくわかった気がした。頬から掌を離す。熱はこの一瞬で冷めていた。それほどにその言葉は彼の心に染み込んで行った。
自分にとってはどうだろう……と頭が言う。答えは何故か直ぐに現れた。そうなってくると、少し駅員の答えが知りたくなってくる。だから試しに尋ねてみることにした。
「その……変なこと聞いてる訳じゃないんですけど……あなたにとっては?」
「私にとって、ですか?」
目を丸くする様子もなく、予想通りといった顔に腹が立つ。けれどそれでも彼女の答えが聞けるならいいと思えた。彼は薄く微笑んだ駅員の姿に尚も見蕩れながら、応えを待つ。すると、五秒ほどして、駅員は咳払いすると口を開いた。
「私にとってここは……ただの職場ですかね」
彼女はペロリと舌を出し、そう答えた。それが彼の求めていた答えとは違うと気付いているのだろう。きっとわざとで、それはただの意地悪だ。普通なら憤慨してもおかしくない。けれど何故か容認出来てしまった。きっとそれは彼女がそれでも無邪気に笑っているからなのだろう。彼はそれにつられて少しだけ口角を上げる。
「冗談ですよ」と、彼女はそんなふうに言葉を始めた。
「私にとって、この場所は……まあ、なんと言うか、心を決める場所ですかね」
今度はちゃんと、彼女はそう言った。真面目な答えだった。頬は依然として緩められたままだが、そこに込められた想いは汲み取れた。
彼はその言葉を吟味して、頷く。それは彼には測り兼ねるものだった。だから彼はそれで満足して、立ち去ることにした。一日学生切符の返却を求め、手を差し出す。載せられた一日学生切符をポケットにしまうと、彼は振り返る。
すると駅員が彼の服の袖を掴んだ。ギュッと握られたそれに驚いて、彼は駅員を見る。すると駅員は笑って言った。
「ここから行く先とか、ありますか?」
そんなものあるはずがない。曖昧なこの世界で唯一確定した事実。それを宣言すると、彼は首を横に振った。そうしたら駅員は笑って、
「じゃ一緒に決めたりとか、どうですか?」
と言った。
それに少し胸がドキリとした。何だかそれは恋心に似ているようだった。けれどきっとそれが彼女の仕事なのだろうと思うことにした。
彼は首を縦に振る。どうせ暇なのだからいいだろう。彼女はそれで嬉しそうにこちらを手招いた。その姿がいつかのあの人のようで、彼は少しだけ寂しい気持ちになった。彼女はそんな心を見透かしたのような笑みを浮かべていた。
──
──彼女が提案したのは、この駅でしばらく寝泊まりし、駅周りを散策してはどうかというものだった。
駅員に見せて貰った地図によると、どうやら、この駅の周りには色々と面白いものがあるらしい。見た限りではよくわからないが、確かに知らない単語が複数ある。
もしかしたらそれのことを言っているのかもしれない。一見するとそこまで多数はないと思うのだが、彼女の言によると、それらを全て一日で見終わるのは大変らしい。
そんなふうに言うと、駅員は珈琲を飲む。嘆息と長い生きを吐いた後で、彼の一日学生切符を二週間のものへと延長した。
「お金は大丈夫なんですか?」
と問うと、
「そんなもの要りません」
と答えられた。ここではお金はあまり意味をなさないらしい。彼はその考えに甘えることにした。少し罪悪感が心にあった。
何故、駅員の言葉に従うのか。理由は沢山あるはずだ。だがやはり何の目的もなかったことが快く首を縦に振れた一番の要因だろう。彼はそんなふうに思った。
無こそがやはり一番の決定権を持つのだろう。彼はそれで一度、首の骨を鳴らす。少しの快感と痛みが同時に襲ってきた。
「それで、お勧めの場所っていうのは……?」
暫くの沈黙の後、彼は駅員にそんなことを尋ねた。それは純粋に目的地がなかったこともそうだし、ただ話が終わった後の沈黙に耐えられなかったからでもある。
その二つの起因の合間に、少しの好奇心が混ざっていたように思われる。そうすると、駅員が駅帽を被り直して、淡々と言葉を吐いた。
「それは、あなたの心に聞いてください」
少し噛み合わない返答。奇妙、と言うか少しのイラつきを感じて彼は少し首を傾げる。ただ彼女には悪気の一つもないらしい。にこやかに笑うと人差し指で自分の額に触れた。「グルリ」と言いながら円を描く。彼女はまた笑った。
どうしてこんなにも笑うのだろうと思った。初めの駅員は何一つとして笑わなかったのに、今と初めで一体何が変わったのだろう。
彼はそこが不思議だった。切り替わった駅員の感性や性格が一体何によってそうなっているのか。それがただただ奇妙だった。
けれど、それを問おうとは思わなかった。問うたらきっと、自分は嫌な気分になる。それを何となく心が認識していた。それを人は野暮なこと、と言う。
「あなたの頭に聞いてください。そうしたら、きっと頭は答えを出す。それに従えば、あなたはあなたの求めている所に行けます」
そう言って、彼女はまた笑った。大きく手を広げる動作は少しだけ不気味に見えた。だから少しの疑心で、駅員の瞳の奥を覗いた。無邪気な藍色が見える。笑った無垢の色が見えた。すぐさま罪悪感が心を占める。彼は目を伏せた。急いで捲し立てる。
「あの、すみません……ありがとうございます。じゃ、後でまた」
「会いましょうだったのか」「よろしくお願いします」だったのか。
そんなことは彼にもよく分かっていない。ただ、彼女に何と伝えればいいか分からなくて、彼はそんな曖昧な言葉を放った。
それはぶっきらぼうな声だったかもしれない。それは貧弱な声だったかもしれない。それはどちらでも取れる言葉だった。
彼女にどう解釈されたのか怖くなった。けれど一度吐いた言葉は取り戻せないから、彼は息を吸うと直ぐにその場を立ち去った。痼が残った心は何処か重たかった。
──駅の外は一見すると奇妙な所のないような場所だった。改札口を出るとすぐに駄菓子屋があって、その隣はお決まりのタバコ屋。
後はポツポツと民家があって、田舎のような印象を受ける。しかし──と彼は振り返る。奇妙さに首を傾げた。
そこには巨大な建物が一つあった。それはまるで鉄の柱だ──否、それは事実だろう。長方形の箱が──それも巨大なものが、そこにズテンと建っている。
それは昔見た法隆寺とは比べ物にならないほどに巨大だった。それだけでも目を張るのに、その上、最も目を引いてくるのは、その建物が一面硝子貼りだったことだ。
太陽の光が反射されて、キラキラキラキラしている。彼はそれがまるで巨大な鏡のようだと思った。けれどそれは違うのだろうと感覚的に思った。何故かはわからなかった。でも別段気にする必要は無さそうだった。
「不思議だな……」
そこは言わば、平凡な田舎と近未来的な光景が共存するおかしな場所だった。しかしそれはそこまで気にならなかった。理由は定かでは無い。ただ自分の注意がそこからはソッポ向いているからなのかもしれない。
それよりも彼の目を引いたのは、その場所のあまりの人気の無さだった。怖いほどにそこは静かだ。ポツポツポツポツとある程度の民家はあるのにも関わらず、その何処からも家庭的な声は聞こえてこない。
つまりその場所に彼は一人、立ち尽くしている。とは言え彼の中では寂しいことよりも奇妙さが勝っていた。
彼はゆっくりと進む風に逆らって、駄菓子屋に向かった。そこはやはり平凡な駄菓子屋のようだった。並べられている商品も何処にでもあるようなものばかりだ。
ただ、一つだけおかしな貼り紙がある。奇妙に思い見ると、そこには一つの顔写真と捜索届けが記されていた。その顔写真は少年のそれだった。彫刻品と言っても過言ではないほどに造形の整った少年が、そこに映っている。
きっと神は平等なのだろうと、無神論者の彼はふと思う。その目は捜索届けでも一番太く書かれた文字──【咬みます】の四文字に向けられていた。
彼は首を鳴らすと駄菓子屋の奧へと向かった。そこには、やはり相場で決まっている商品が並べられている。ここに来て初めての懐かしさに胸が締め付けられる。
ふと、彼は気になって店員がいるのかどうか確認した。暗い奥を見遣る。どうやら一人だけ居るようだ。性別はわからないが、老人であることに変わりはなさそうだ。そんな匂いが、ここまでしてきていた。
彼は買う物を決めると、「すみません」と声を上げた。何度かそうしていると、奥から店員がやってきた。惚けてはいないのだな、と失礼な安堵感に浸って、彼は口を開いた。
「あの……すみませんこれ下さい」
そう言って、彼は飴を四つ手に取った。店員は老爺だった。老爺は首を縦に振ると、手を差し伸べた。彼はその上に八銭丁度を置く。すると老爺はそれをポケットに仕舞ってから、「毎度」と小さな声で言った。それがあまりにも小さくて、彼は一瞬たじろいでしまう。とは言えすぐに状況を理解して、彼は店から出ることにした。包装紙を捲る。黄色の飴玉が一つ。かれはそれを口に放り込んだ。口蓋に広がった一つ目の飴は──檸檬味だった。
「ねえ、お兄さん」
彼が店を出るとすぐ、誰かがそんなふうな言葉でもって彼の歩みを止めた。誰だろうと思って彼は振り返る。
そこには一人の少年が立っていた。嫌な風が吹き抜けていく。
──そこに立っていたのは、恐ろしいほどの造形美の少年だった。
目、鼻、口、眉。その全てにおいて均衡が保たており、男から見ても美しいと思う。きっと今までの人生、人とは違うものを味わってきたのだろうなとそんなふうに思う。
それはもしかしたら檸檬みたいなものなのかもしれないな、と甘いものという認識の果物種の中で、異質な特徴を持つ檸檬と少年を掛けてみる。
何だかその比喩が阿呆らしくて、思い付いた途端にかき消してしまう。
そんなことをしていると少年が今にも掻き消えそうな表情を浮かべた。それに彼は思わず体を仰け反る。覗いた奥の瞳は、もう既に疲れ切っている。
彼がそれを認識した途端、その瞳が灰に染まっていく。少年は心の底から掠れた声で彼にこう言った。
「──助けて」
近付いてきてた少年は、彼の元に辿り着くと、そのまま倒れ込んだ。彼はそれを受け止め、その軽さに一瞬動揺。
とは言え捉えた手は離さない。そんな決意を彼は固める。そうしたら突然、雨が降り出した。 人生でも他を見ないほどに、その雨は激しく彼を濡らす。
「──助けて」
か細い声は、今度は彼の耳元で囁かれた。
──
寝台の上に寝かされた少年。それに彼は頭を抱えていた。おそらく駅員も同じように頭を抱えている。見えていないからわからないが、大体の言動でそれがわかる。こんなことを言ってはなんだが、駅員は非常にわかりやすい性格をしていた。
「どうしよう、この子たぶん捜索届け出されてる子じゃ……」
駅員は少年の隣に座る。その頬を恐る恐る撫でる。スベスベと指先が通っていく。彼女は露骨にため息を吐いた。そんな彼女の方を見てから、彼は少年の顔を見つめた。
安らかな表情だ。どんな夢を見ているのだろう。彼は一瞬そんなことを思った。けれど駅員の泣きそうな顔を見てしまったから、そんな考えは一瞬で吹き飛んでしまった。
彼は駅員の隣に座った。ギシリと嫌な音が鳴る。そこで彼は気付いた。
それはつまりその場にいる三人全てが一つの寝台に座ってるという事だ。それがそれだけの重さに耐えれるのならばまだ良い。しかしそれは足が既に腐り始めているようなボロボロの寝台だった。
ギシリ、ギシリ、ギシリと、それはまるで悲鳴のように寝台がしなった。それはつまり、寝台がひっくりかえるという訳だ。案の定、それは横転した。
「痛っ!」
三人の内二人がそんなことを叫び、もう一人は直撃した横腹を抱え呻く。見てみると少年の上に駅員が乗る格好になっている。そしてそれを見つめる彼は丁度駅員の腹に脚を掛ける姿勢になっていた。つまり彼が一番軽傷。すぐさま動き出せた。
「大丈夫、ですか?」
次に被害の少なかった駅員がムクリと起き上がる。そんな言葉を放ってから下を見て、
「あ! すみません! すぐのきます!」
自分が少年の上にいることに気付いて、すぐさま飛び降りた。それをすると振動で逆効果ではと思ったが、彼がそれを口にすることはなかった。と言うよりその言葉が到達する時には既に終わった話なのだから──と、彼がそんなことを思った丁度その時、少年が瞼を上げた。おそらく駅員の体重によるものだろう。絶対に言葉にしてはならないと思い、口を塞いだ。
「えっと、ここは?」
響いたのは、中性的な声だった。本当に男だろうかと疑問符が浮かぶ。もしかしたら少女かもしれないなと一人で思った。
腕組をして、「おはよう」と声を掛ける。すると少年はフッと笑って、頭をかいた。
「そんな、全然早くないですよ」
そう言って、手を顔の前で横に振った。にこやかな表情。本当だろうか。
彼は少年の瞳の奥を覗いた。灰色だった。涙の色が見えた。それはまるで堪えるような泣き方だった。もしかしたらその中には怒りがあるのかもしれない。そんなふうに彼は思った。けれどそれを口にしようとは思えない。それはただの野暮と言う奴だ。
彼は少年に手を差し伸べる。少年はキョトンと目を丸くする。それがおかしくて、彼はふっと笑った。そうしたら少年も笑った。
けれどそれは本当の笑みではなかった。ただ彼に表情を合わせて笑っているだけだった。まるで人形のようだなと、彼は哀れに思う。だからはそれで、
「掴んで」
彼は一言そう言って手を伸ばした。
それはぶっきらぼうな声だったかもしれない。それは貧弱な声だったかもしれない。どちらにも取られてしまうような声だった。
けれど、彼はそれでも良いと思った。今、最も恐ろしいのは、この感情が伝わないことだった。だから何であれ、どんな声であれ、この少年の手が自分の手を掴んだから、思い切りそれを引っ張り上げる。
「グッ」と声を出す。彼は何だか不思議な気分になった。それは少年の手が雪のように柔らかかったからだろうか。どちらにしろ、この少年と共にいる限りはこの感覚は消えないのだろうなと、彼は何となく思った。
「それで、どうしましょう?」
駅員がそんな言葉で彼に声を掛けた。どうしようかと彼も考え始める。「掴んで」なんて言ったものの、全く何も考えていなかった。どうすればいいのだろう……そんなことを考えている内に、彼はふと、気付いた。
──これはきっと、少年が決めるべきことなのだ。それを自分達が決めるのは何だかおかしなことだ。そんな気がした。だから彼は少年の両肩を掴むと、
「お前は……どうしたい?」
そう語りかけた。なんておかしな問だろうと、自分で言ってるのに思った。ただ、それが彼の本心からの問であることに違いはなかった。
少年のことを欠片も知らない彼が、少年に答えを決めされる──それがあまりにもおかしな話だったから、駅員はフッと笑った。しかしそれは嘲笑の類ではなかった。それは困惑の笑みだった。
その笑みをされるのはこれが初めてのはずだったはずだ。けれど何故かどこかで──と、思わぬ既知感に、彼は振り返って目を丸くする。すると、駅員は当然のことのように口を開いた。
「そ、その子は捜索届けが出されてるんですよ。早く保護者さんの所に連れていかないと……」
「やっぱり、あれ何って言うんだろう──」と要領を得ない駅員。それに彼は頭をかいた。いくつかの言葉が頭を巡り巡ったあと、彼は結局、咳払いをすることにした。
それにはまだ少しの戸惑いがあった。とは言え答えはほとんど出てきている。あとは声にするだけだ。
「捜索届けって、どうしてですかね」
そっと、声を出す。大きく息を吐いた。駅員に向けて心から声を出す。駅員は首を傾げた。その長い指を少年に向け、答えた。その調子は淡々としたものだった。
「その子は……【バク】なんですよね」
「【ばく】?」
聞き慣れない単語に、彼はふっと声を出す。やはり何度考えても、意味はよくわからなかった。ただその言葉には何だか嫌な感じがする。だから彼は駅員を見つめた。そうしたら駅員は笑って、
「私もよくわかっていないんですけどね」
そう言った。それは本当の笑みだった。だから彼は何を答えるわけにも行かなかった。駅員の微笑みをかき消す勇気はなかった。
「大丈夫ですよ、僕も慣れてるので」
彼が悩む数秒の間。そこに少年は声を入れ、笑う。それはあまりにもおかしなものだった。綺麗だとは思ったのだけれど、彼は同時に、それの醜さを感じた。
だからその美しさと醜さの混同した少年の姿に疑問符を浮かべる。その根本の理由がわからない、と彼は思わず少年の頬に手で触れた。
ジャラリと音を立ててその手は少年の体をすり抜けていく。驚く彼に駅員が彼の肩を叩く。振り返ると、駅員は目を伏せた。何となく言いたい意味がわかった気がした。
「お前はどうしたい?」
それでも尚、彼はもう一度そう問う。それは真摯な言葉だった。人はそれを独りよがりと呼ぶらしい。ただそれは彼にはなんの関係もないことだ。そんな言葉、言わせておけばいい。今はただただ目を見つめるだけだ。
少年の目を丸くする様子。そんなものが瞳に映る。困って顔を伏せる仕草でさえ、美しく見えるのだからこれ程困ったことはない。彼は息を吐いた後にもう一度そう問おうと思った。息を吐く。時間なんて測らない。ただただ今この瞬間出る最大量を出す。出し尽くす。途中駅員に何をやっているのかと問われたが、答えるわけにいかない。ただ振り返りもせず頷くだけ。
随分おかしいなモノに見えたろうなと思う。それでも彼は待つことにした。少年は狼狽えていて、ただそれを見つめていた。
「ぼ、僕は……」
その続きはない。言葉は途切れた。それで少年はそのまま黙り込んでしまった。
何分経ったか、音のない部屋にようやく声が訪れた。
「──あの」
それは駅員の声だった。彼は振り返り、
「なんですか?」
「もう、早く返さないと……」
「帰さなかったら何が起きるっていうんですか?」
「わ、わかりませんよそんなの! でも、ただ言えるのは……何が起きます」
「そりゃ何かは起きるでしょうね」
「ハハハ、確かに」
後頭部をかいた阿呆面。駅員のそれに彼はため息を吐く。その間も、少年は応えないままだ。けれど彼はやはり待つことにした。
ここで逃げては駄目だと心が言っていた。いつもは信用ならないそれが、今日だけは何故か正解な気がした。否、もしかしたら──と彼は思った。それは全て自分の考えようではないだろうか。今も今までも、全ての選択でさえ、悪い方向ばかり見ていたから、悪いふうに思えていたのではないだろうか。だから一つ一つの行動にトラウマを抱えるようになってしまったのではないだろうか。もしそれらに良い面と言う別視点を持てていれば、自分はもしかしたら──と、彼はそこで一つの答えを持てた気がした。
けれどそれは彼の話だった。少年の話ではなかった。少年は未だポケットに手を入れたまま、こちらを見ようともしない。ただ、彼はそれに憤慨することなど思いもしなかった。ただ彼は何かが起こるのを待つだけでいた。その何か、と言うのはきっと、少年の言葉だということはあからさまだった。
ふと、彼が振り返ると、駅員は椅子に座って寝ていた。スピスピスピスピと、まるで漫画のような寝息を立てている。何だかその阿呆な面がおかしくて笑ってしまう。
それでもいいんだ、と何処か思えた。始まりは自分なのだから、全ては自分で終わらせなくては、そんな思いがあった。それは浮つきそうになる体の重石になっている。なってくれている。だから感謝の気持ちを伝えなくてはならないような気がした。
「僕は……僕は帰りたくない! 帰りたくないです!」
「そうか。それでいいんだな」
ようやく声に出した少年の思い。震え始めた少年の肩に彼は手を掛ける。そうしたら、突然少年は立ち上がった。涙がポロポロポロポロ流れていく。顔がグチャグチャになってしまう。きっと泣いたことがないのだろうなと彼は思った。我慢していたのだなとも思った。それほどに少年の泣き顔は醜かった。産まれたての赤子にすら負けるほど、醜かった。
けれどそれはそれで美しいと思えた。彼は自分の矛盾した考えが阿呆らしく思えた。けれどそれを訂正するつもりなんて欠片もなかった。
彼はただ、泣き続ける少年の肩を叩いていた。どんな葛藤があったのだろうと思いを馳せてみる。きっとそれだけで、一つの物語が出来てしまうほどのものだろうなと彼は思った。
きっと少年の頭は心は、何か一つの障害を乗り越えたのだなともその時思った。それはただの勘だった。言ってしまえばそれは独りよがりだった。けれど今はそれが普通だと思える。
「じゃ行くぞ」
彼は駅員の肩に布団を被せるとその場から飛び出した。向かうは駅のホーム。そこに行けば逃げられる。そんなことを思った。
だから走り出した。少年がそれについてくる。彼は時々振り返っては満足げに微笑んだ。少年の動きが嬉しかった。不思議な感情が頭の中で言っていた。だからもっともっとと体を動かした。足はいつもより元気だった。それが何より嬉しくて、彼は勢い良く叫んだ。飛んだ。ホームに到着した。電車は既に到着していた。そこにはたった一両しかなかった。
──ここには一人しか乗れない。
心ががそう言った。彼はそれが本当だと思った。だから脚を止めた。少年も同時に止まる。目を丸くして、少年は彼を見た。その姿は美しかった。嗚呼きっと自分は──。
「さあ。行け、俺は残らなきゃいけなくなった」
淡々とそう言って少年の肩を小突いた。「行けよ」と小さく呟いた。
もしかしたらそれはぶっきらぼうな声だったかもしれない。もしかしたらそれは貧弱な声だったかもしれない。どちらにも取られてしまうような声だった。
どちらも嫌だなと彼は思った。ただ言葉さえ通じてくれればそれだけでいいとも思っていた。だから満面の笑みで彼は言った。
「達者で」
「はい」
そうしたら、全てを悟ったかのような目でこちらを見た。そこに同情はなかった。あった所で、それも彼の美しさだと思った。だから彼は手を思い切り振った。少年が電車に乗る。いつから持っていたのだろう。少年はポケットから切符を一枚取り出した。それを乗務員渡す。そんな姿を最後まで彼は見届けた。
電車が汽笛を鳴らす。そう言えばこれは汽車だったなと思い出した。どちらでもいいや、逃げ出せれば。そんなふうに思って、彼はもう一度手を振った。少年が過ぎ去る瞬間にこちらを見た。その顔は嬉しそうだった。だからこっちまで嬉しくなってしまった。思い切り満面の笑みで、
「ありがとう」
そんな言葉を吐いた。きっとそれは届いていないと思った。けれどそれで良いと思えた。
彼はいつもの間にか自分の心にポッカリと穴が空いているのに気付いた。汽車の姿はもう見えなくなっていた。彼は少しだけ痛む胸を抑え、駅員室に帰ることにした。
「あれ? あの子は?」
「行ったよ」
「そうですか」
そんな軽いやり取り。それでも駅員は笑った。彼女の笑みは何だか無邪気だなと思った。この顔だけを切り取れたらと思った。だからそれを写真に撮った。それはピンボケしていた。それでもいいと思えた。
そう言えば同じようなことがあったと思い出した。けれどそれと今では全然違う。あれはただの妥協だった。けれど今は違う。
そこで、彼は自分はこれが好きなんだと気付いた。そうしたら急に世界が狭くなった。そんな気がした。そんな気がしていた。
すると、唐突に声が聞こえた。それには賛同しかないなと思えた。けれど酷い時差ぼけだと彼は思った。現実の無情さに笑ってしまう。
──心痛む景色は恋の幻である。