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五章、塔の瀬越え

自ら囮となったが、早めに決着をつけようと、わざわざ難所の峠道「塔の瀬」越えを選んだ右京之典に、突然に刺客の罠が襲い掛かる。

野鳥のとり村より古処こしょ山の頂きを経、屏山へいざん馬見(うまみ)山へと尾根伝いに越えて、豊前との国境・嘉麻(かま)峠に下り、九州修験道の聖地・英彦(ひこ)山麓の小石原こいしわら村から宝珠山ほうしゅやま村と抜けて豊後国日田郡に至る行程は、右京之典の健脚を以って駆け通せば一日一泊でも可能であったが、右京之典は一泊二日の旅程を考えていた。

急ぎの旅ではあったが、どのような罠が仕掛けられているのかも分らぬし、わざわざこの様な人の通らぬ山道を選んだ目的は、第一に敵を誘きだす事にあったからである。

それでも右京之典は、明日の宵には日田に入る積りであった。

先ず古処山への登りでは、二人の山伏が降るところと擦れ違った外は、怪しい事は何も無かった。しかし、路に付いた新しい足跡の中に、普段山に登り慣れたものとは違うものを幾つか見つけていた。体重の懸け方が違うのだ。

このような山中を通るのは殆どが修行の者か若しくは遍路。普通の商人あきんどなどが通ることは先ず無い。どちらかに化けている筈でありまた、そうしなければ怪しまれるであろう。

その異なった足跡は二つ。右京之典は澤空たんくう庵を出て暫くしてから、何となく後方に気配を感じていた事を考え合わせ、二人が先行し、残る一人は後を付けているに違いないと想った。

所々雪の残る通いなれた山道を僅か一刻半(約三時間)程で山頂まで登ると、竹筒の水で口を湿らせ、遥か下界を見下ろした。

それは一月前、千日修行の最後にこの山の頂きを踏んだ時とは何処か違って見えるような気がした。

箱庭の如き秋月の城下を見下ろしながら、右京之典は心の中で、

― 年たけて また超ゆべしと思ひきや いのちなりけり 小夜の中山 ―

と心の内で呟いた。

(母上様。無事にまた、此処に戻って来る事が出来ましょうか…)

西行法師の歌に重ね合わせ、数日の内に激変した己の身を改めて想った。

小憩とも言えぬほんの僅かな時を過ごすと山頂を後して、緩やかな尾根伝いの下り坂を再び黙々と進んでいった。

凡そ二千九百尺(八六〇メートル)の古処山から三千余尺(九三〇メートル)の屏山への道は幅五尺程か。余り高低の差も無く、比較的真直ぐで緩やかな登りが続いていた。

白い石灰の岩が剥き出した尾根伝いの道には背の高い植物は生えて居らず、前後左右の見通しが利いた。

(これでは襲いようも無いか…)

右京之典は苦笑した。

敵を誘き出す為にわざわざ選んだ山道であったのに、これではどう仕様も無い。

四半刻もせぬ内に屏山の頂き越え、そのまま三千二百余尺(九八〇メートル)の馬見山への緩やかな上りを進んで行くと、次第に木々が増え、やがて両側を高さが六十尺(一八メートル)を遥かに越える杉の林が遮っていた。

二十数年前、典膳らが財政改革の第一歩として進めた植林の結果がこうして見事に実ったのだ。

古処山の頂きを出てより小半刻で馬見山の頂を過ぎたようであったが、深い木立に囲まれていて何処が山頂かははっきりとしなかった。ただ道が緩やかに下り始めていた。

この間、一度だけ山伏と擦れ違っただけで、曲者が襲い来る様子は微塵も無かった。

このまま真直ぐ降れば、豊前と境を接する小石原村の外れにある嘉麻峠に辿り着く。そうなれば山中とはいえ交通の要衝でもあり、人通りのある表街道筋を暫く歩く事になる。

出来れば早めに決着を付けたいと考えた右京之典は分かれ道の前で立ち止り、暫く考えると、予定を変え右に折れ、秋月領内の江川村から小石原村へと抜ける往還へと降り、難所のとうの瀬を通って小石原へ向かう事にした。

塔の瀬は、秋月城下の南を流れる小石原川を南東に遡り、深い谷を上った山間に位置する江川村から更に上流の上座郡じょうざごおり小石原村へと抜け、博多・福岡や肥前と、霊場・英彦山そして豊前南部の諸国を結ぶ往還の途中、凡そ一里半程の(6キロ)の難所で、小石原から流れ下る川が削った深く狭い谷間の崖に切り通した、狭く曲がりくねった険しい道であった。

山道を駆け降り、塔の瀬の難所の手前で往還に出た右京之典は、左手に十間ばかり入った畦道にある野地蔵の傍らに立つ、葉を落とした大きな公孫樹いちょうの木の根元に腰を降ろして昼を使う事にした。

四つ(十時)頃か。昼には早いが、朝餉も取らずに二刻(四時間)以上も山道を駆け通したのだ。竹筒の水で口を湿すと、竹皮の包みを開いて、綾野の拵えてくれた大きな握り飯を頬張った。

「上手い!」

思わず声を上げていた。

「お侍様。儂らも此処で茶を使うて良う御座りまっしょうか」

振り向くと、さっきまで少し離れた畑で農作業をしていた百姓夫婦が立っていた。

「おお、構わぬぞ」

見ると、野地蔵の傍らには弁当や手荷物が置かれていた。

それがしの方が割り込んだようじゃな」

「なんのなんの、気になされんで良かが。それより茶でも飲まれんですな」

なんと、小さな火鉢に炭が入り湯が煮えていた。

「暖かい茶を振舞ってくれるとな?これは有難い、野点とは何よりの馳走じゃ」

そう言って百姓の女房が煎れてくれた茶を喫しながら、これから先の塔の瀬の事を尋ねた。

三年近くの参禅修業の折り、右京之介は古処山から馬見山を越えて嘉麻峠へ、またこの江川へも何度降ったが、その間を繋ぐ塔の瀬へは足を踏み入れたことが無かった。

以外に物知りの百姓は、塔の瀬の大凡の地形などを一通り話した後、平安の末、源平の武士が台頭して来た頃に、源頼朝・義経等兄弟の叔父に当たる源為朝が放蕩の末九州に追放され、鎮西八郎と名乗って九州の諸将を配下に付け、その威風を都まで轟かせていたが、父・源為義の左遷を遠く都より伝えに来た母が、為朝が陣を張っていたこの地で没した為、その供養に塔を建立したと言伝えられ、それが塔の瀬の地名になったのだと、自慢げに話してくれた。

その間にも時折旅人が往還を行き来していた。

「馳走であった。礼を申す」

茶を喫し終え、半刻程休息を取った右京之典は礼を言うと、再び往還に出て塔の瀬へと向かった。

鶯が鳴き、所々に葉を落とした柿や櫨の木が中程まで枝垂った小石原川の流れに沿った往還を行くと、谷は深く遥か奥まで続き、右手は川岸まで山肌が迫り、左手は往還と山の端の間に僅かばかりの田畑があったが、上るにつれてそれも次第に無くなり、左右の山肌がくっ着きそうな程に谷が狭まった。

九十九折に曲がりくねった道の一間程の道幅は変わらなかったが、やがて左手は切り通した崖が迫り、右手は谷底まで十間はあろうかという険しいものへと変わっていた。

(早まったか…)

右京之典は未知の道程を選んだ事に少なからぬ悔悟の念を抱いた。

(しかし、そうせねば曲者どもを誘き寄せることは出来ぬ)

そう己に言い聞かせ、五感を澄ませた。急ぎ旅の途中、敢えて半刻もの休息を取ったのは相手に準備の時を与える為であったのだ。

何処からとも言えぬ気配を感じて、右京之典は懐の手裏剣帯から手裏剣を抜いて両手に隠し持った。

半里も過ぎた頃か。少し先の、左手から崖状の尾根が大きく突き出し、その尾根を回り込むように切り通した道が右へ大きくうねった突端の外側に、谷に向かって弧を描いて迫り出した土地があった。

幾本かの背の低い雑木や枯れ薄に囲まれた幅三間、奥行き二間程の三日月型の一角にはまるで何かの礎石のような苔むした大石があった。

近づくと縦横四尺程もある大石の上には、一回り小さい平べったい別の石が載っているように見て取れた。それは礎盤にも見える。

(もしやこれは、先ほどの百姓が教えてくれた、鎮西為朝が母の供養に立てた塔とやらの跡ではないか)

(ならば…)

と右京之典が道を逸れて、その一角に足を踏み入れようとしたその時、

―ごごーっ―

轟音に振り向くと、なんと左手の切通しの崖の遥か上方から幾本もの丸太が大小の岩を巻き込んで一塊となって転げ落ち、山肌に張り付く様に生えた潅木を薙ぎ倒し、その真下の右京之典に襲い掛かからんとしていた。

右京之典更はその刹那、崖の上の茂みの陰に確かに二人の曲者の陰が動くのを見た。そして左右を確かめると、右手の二人の旅人に、

「逃げよ!」

と叫び、自らも逃げ口を探した。

その一瞬の中にも、丸太と土石の荒れ狂った流れは、更に土石を巻き込んで五間もの幅となって狂乱怒涛の如く雪崩落ち、右京之典の眼前に迫って来ていた。

その土石流が右京之典を正に呑み込もうとした瞬間、身を翻して礎石の陰に飛び込んだ。

―ごごっー―

谷間を揺るがし、轟音と共に土石の流れが谷底に落ちていった。

その直後、土煙が立ち込めた中から右京之典は猿のように礎石の上に飛び上がると、左手に持った手裏剣を前方へ擲った。

なんと、そこには彦山詣での白装束を着た男が杖に仕込んだ白刃を引き抜き、右京之典の方に駆け寄っていた。その者は土石が襲い来る時、右京之典の後方を歩いていた男であった。

―きぃーん―

仕込み杖の刃を煌かせ、曲者が手裏剣を払い除けんとしたた時には既に、右京之典は礎石を蹴って、右手を太刀の柄に掛けて宙空へと跳び上がっていた。

鞘から迸り出た兼光の刃が一筋の光芒となって弧を描き、曲者が振り上げようとした右手に持った剣先の峰を左足で飛乗るように押さえ込みつつ、眼にも止まらぬ速さでその首筋を正面から刎ね切り、次の瞬間には、曲者の左肩を右足で踏蹴って向こう側に着地していた。同時に、右京之典の口から小さく言葉が吐かれた。

「居合法、猿」

倒した相手を振り返りもせず、血振りを呉れながら崖の上を見たが、そこには最早、曲者の気配は消えていた。

刀を納め、左右を確かめると、先ほどの二人の旅人が呆然と立ち竦んでいた。

「大事ないか」

「は、はい…」

商人の主従と思える風の二人は顎をがくがくさせながら返事をした。

「それは良かった。某は秋月黒田家家臣・新免九郎右衛門が家の者。この怪しき者は昨夜城下を騒がせたる盗賊に付き成敗致した。亡骸の始末と道の修繕も必要であろう。某は急ぎの御用旅故、済まぬが山を降りたら御城下入口の木戸番衆にこの様子を知らせて貰えぬか」

「は、はい。良う御座ります。新免九郎右衛門様の御方にご御座いまするな」

「左様。崖崩ればかりか斬り合いまで見せて仕舞うて、相済まぬ。許されよ」

あまりの驚愕に惑乱していた二人も、素直に頭を下げる右京之典の誠意の籠った言葉を聞いて、落ち着きを取り戻した。

「とんでも御座りませぬ。お声を掛けて頂いて居らねば、私共は危うく巻き込まれて今頃は谷底に落ちて居りました。手前は甘木町で蝋問屋を営みまする佐野屋の主で平右衛門。これなるは手代の峯吉に御座います。確かに御番の衆にお伝え申します」

「宜しく頼む。気を付けて行かれよ」

主従が頭を下げ、往還を再び下って行った。

曲者の亡骸を礎石の横に引きずり、合掌した右京之典は礎石の前にしゃがんだ。

見ると、無残にも礎盤は無くなり、全体をびっしりと覆っていた苔も殆ど毟り取られていた。その毟り取られた石肌に微かに幾つかの文字が彫られているのが見えた。その中に、

―為―

らしき文字と、そして、

―母―

との一文字が読めた。

それは、摩滅して殆ど消えかけていたが、確かに母と刻まれていた。

(母上様。御助け下されたので御座りまするか)

昼餉の時の百姓が言った、鎮西為朝が母の供養の為に建てたという塔は正しくこれで有ったのだ。

右京之典は、母の加護を思い、数百年も前に亡くなった為朝の母と、その後父を助けて保元の乱に敗れ斬首になったという為朝の霊に謝し、その菩提を祈った。

「あと二人」

右京之典はそう呟くと、往還に戻り、再び歩き出した。


豊前国と境を接し筑前国の東南端に位置する上座郡小石原村は、日本三代霊場にして九州一の霊場・英彦山を後ろに控え、北は上方から下って九州への入口となる小倉から。南は南西の諸国。北西からは福岡、博多、唐津や肥前。そして南は西国筋郡代の置かれる日田へ。東は海を持つ豊前の諸領を結ぶ幾つもの街道が交差する交通の要衝であった。

よって、見渡す限り周りは全て山の、その峰々が会する高所に位置し、冬は雪深く、まるで隠れ里のような山間の小村でありながら、行く人は絶えず、旅人や彦山への修行・参拝の人々の為の飯屋、旅具を売る店などが少ないながらも軒を連ね、小さな町屋を形作っていた。

塔の瀬の難所を越えて小石原の町に入った右京之典は町の中ほど、豊前街道と秋月道の交差する辻に間口を広げ、旅具や小間物とともに茶や喰い物を売る店に入った。

刀を抜いて縁台に腰を下ろすと、

「いらっしゃーい」

「餅を二つとな、茶をくれぬか」

「はーい」

小女の一人が間延びした返事をして、直ぐに戻って来ると、

「はーい、お餅でーす」

と黄粉の付いた大きな餅を置いていった。

(これは美味しそうな)

中に小豆の餡がたっぷり入った餅を頬張りながら店の中を見渡すと、旅具の中に絵地図があった。それは英彦山を中心とした、修験道場や道順、それらを取り巻く町や宿場を表した俯瞰図のようであった。そこに再び小女が、茶を持って現われた。

「お待たせしましたー」

「あれは、この辺りの地図かな?」

「そうですけど」

「修験者の通る山道が書かれておるな?」

「あっちで旦那さんに聞いてくださーい」

と言って、旅具が並んだ奥にある板の間を指した。

そこには、この店の主と思われる中年の男が座っていた。

右京之典は喰い終えた餅と茶の代を払うと、旅具の並ぶ所に行った。

「主殿。この地図は修験道場の道順が描かれておるようじゃが、ちとお尋ねしたい」

「何で御座りましょうか」

「某は日田へ向こうて居るのじゃが折角故、厳しき難所を選んで修行の足しにしながら行きたいと想うて居り申す。その様な路程が載って居ろうか?」

「左様に御座りまするか。これな絵地図なら、小石原から英彦山の方に十町も行きますと行者堂が御座りまして、そこから尾根伝いの道が南へ伸びて、大日ヶ岳、釈迦ヶ岳と険しい難所を通りまして再び御領内・宝珠山村の合楽という枝村に降りまする。途中には、行者様も法螺貝を腰に吊るして通らねばならぬ笈のつり・貝のつりと申す難所。切り立った峰の上にニ尺ばかりの道が続いて両側は目も眩むような崖という糸が峰と申す処も詳しく載って居りまするが」

「その道を通って日田まではどれ程掛かろうか」

「左様で御座すなぁ…。釈迦ヶ岳まで半日も掛かりはしますまい。後は降りに御座りますれば半日程に御座りましょうか」

「左様か。ではこの絵地図と其処な杖を頂こう」

「畏まりました」

店の主に品代を払い、絵地図を広げながら右京之典が更に尋ねた。

「日暮れまでにどの辺りまで行けようか?」

「これからに御座いまするな!」

主が驚いて聴き返した。道慣れた修験者か余程の御利益を望む者でなければ、昼を過ぎてからその道を踏む者は先ず居ない。

「左様。修行の身故。それに時間が無いでな」

「それは釈迦ヶ岳の辺りまでは行けまっしょうし、其処まで行けば仮小屋も御座ります。されど、その前の糸ヶ峰、笈つり貝つりなどの難所を日暮れ後の暗い中通るのは危のう御座りまするが…」

「おお、夕暮れに難所を通り、仮小屋もあるとな。如何にも険しそうじゃ。修行には打って付け、ちょうど良い。早速出立致そう」

そう笑って言う右京之典に店の主は半ば呆れながらも、

「何、修行故と申されますな。お侍様が行者様並に山道をお行きなさるなら、問題は御座りますまいが。ただ、夕暮れに難所に差し掛かるくらいがちょうど良いと申されますなら、少し早よう御座りましょう。奥で少し休んでお行きなされ」

店の主はそう言って、奥の板の広間を指した。どうも、旅人や英彦山詣での人々が泊まったり仮寝をする所らしい。

「道順や泊まり小屋、難所の詳しい事などお教え致しましょう」

「それは忝い。お言葉に甘え、休ませて頂こう」

主の名は茂太夫といい、隣の鼓村の出であるらしい。半刻余り(約一時間)、路程について様々に教えを受け八つ半頃(ニ時頃)。出立する事にした右京之典に主の茂太夫が、

「灯具はお持ちで御座りますな?」

「懐提灯と蝋燭ならば持参致して居るが」

右京之典が答えると、茂太夫は二寸四方程で長さが三寸程の茶色の塊を二つ、旅具の並ぶ棚から手に取った。

「これなる蝋燭をお持ちになりなされ。灯心がなく、蝋全体に油を染み込ませた大鋸屑を混ぜて拵えて居りますでな、火も大きく風にも揺れにも強く、地面でも岩の上にでもそのまま立てられまする。このように重ねれば、そのまま下の方にも火が繋がりますでな」

「それはよい」

「こうして横に並べて火を付ければ、糒を炊く位は出来まするぞ」

「それは重宝じゃ。是非とも頂こう」

右京之典が休み代と蝋燭代を払おうとするのへ、

「お若いのに感心に御座りますれば、御報謝に御座りまする」

と主がただで呉れるようとするのを一旦、右京之典は断りかけたが、主の真摯な眼を見て、有り難く頂戴する事にした。

それを押し頂いて道中嚢にしまうと、両刀を手挟んだ。

「然らば遠慮のう頂戴致す。有難う御座った、それでは参る」

杖を手に往還へ出た右京之典に茂太夫が、

「お気を付けて行かれませ」

と送り出してくれた。

「笈つり貝つり、それに糸ヶ峯の絶景。楽しみに御座る」

そう言って深深と頭を下げると、茂太夫が教えてくれた修行道の出発点、行者堂へと向かった。

わざわざ表まで出て見送る茂太夫に、後ろから、

「お父っつあん。あたしが一度お遍路に物をあげたら、英彦山に詣でて灼たかな霊験を頂こうというのに、それに必要な物を只で貰おうとは間違いじゃ、と怒ったくせに…」

普段の吝嗇を皮肉くるつもりの娘の言葉を、

「あのお方は只のお方ではないのじゃ!」

と言って、尚も喰い下がろうとする娘を制し、店の中に戻っていった。

 



霊場・英彦山。行者も尻込みするほどの、切り立った峠を行く右京之典を、次第に怪しい気配が囲む。危うし!右京之典。

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