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四章、旅立

自分の宿命を知り、日田へと向かうこととなった右京之典は、自らを囮として曲者をおびき寄せる為、険しい山越えの路を辿ることを決意する。

古心寺こしんじの墓地に戻ると、三名の曲者はいましめめられて、最初に書付を奪い取った曲者は南冥が手当てを行っていた。美作みまさかの二人の従者は当身を喰らわされただけで、無事であった。

「取り戻したか」

九郎右衛門の緊迫した問い掛けに、右京之典は片膝を付いて答えた。

「はっ」

「曲者は如何致した」

「残念ながら、勝負の末(たお)しまして御座りまする。亡骸なきがらは当寺の石段の下に」

田代半太夫が目で合図を送ると、二人の従者は三人の曲者を引き立てていった。亡骸の始末もするのであろう。

右京之典が懐から奪い返した書付を取り出し、渡そうとするのへ、

「そなたが持って居れ」

と言い、そして、

「掛けよ」

と床几を指した。

応急の手当てを終えた南冥によると、曲者の傷は命に係わるようなものではないとの事であり、皆も茣蓙ござに座り直すと、姿勢を正した。

そして、改まった典膳が右京之典に向かって口を開いた。

「先程、美作様にもお話申し上げて御座りまする」

その言葉を待っていたかの様に、六人が右京之典に向かって一斉に平伏した。

「何を…」

右京之典が言おうとするのを遮って、

「右京之典様。其方様は先程お話申し上げましたる秋月黒田家三代・長軌(ながのり)様の若君、芳之介様が遺されし由布ゆう姫様よりお生まれ遊ばした秋月黒田家の本流。そして、黒田家を守るべき秘太刀を会得なされた。何よりも、家祖・長政公が、東照神君より徳川家の世子を采配すべしと任じられし御役目を引継ぐべく選ばれしお方に御座りまする」

「爺…」

「福岡、秋月両黒田家の命運。政事まつりごとを私せんとする者共が跋扈ばっこ致すいかがわしき天下の趨勢。右京之典様の采配にお預け申し、一同打ち揃って御指図に従い奉りまする」

右京之典は言葉も無かった。

「御師匠様…」

右京之典は九郎右衛門を縋るように見た。

「非礼、お許し下され」

先ず右京之典を、そして皆に視線を送った九郎右衛門は、再度平伏して上体を起こして言った。

「師として最後の命に御座るっ。右京之典、恐らくこの者共の仲間が峠の辺りに待機しておろうし、刻限までに戻らねば、此方の動きを江戸に報ずるやも知れぬ。幸い書付も奪われて居らぬし其方の存在も知られて居らぬが、江戸の殿(当代・長堅)の御容態宜しからず。先の御家老が言われた通り、先ずは東照神君より賜りし岡本正宗の御短刀を回収致し、江戸に上りて三代家光公より賜りし秋月黒田家五万石の御朱印状を、殿より御預りして参るのじゃ。そして、早急に田沼様をお尋ねして対抗策を練るのじゃ。幕格はほぼ田沼様の御朋輩衆が固めて居らるる故、敵は却って荒業を仕掛けて来るやも知れぬ。此れまでも数度刺客に襲われられし由、書き添えてあったそうじゃ。正に風雲は急を告げて居る。右京之典、急ぎ発て!」

右京之典は六人の者を見た。

その相貌には、縋るような、そして強い期待が込められていた。

辣腕家老であった典膳と妻・綾野が、自らは

―爺、婆―

と呼ばせながら、身分も無き自分に対して、

―右京之典様―

と呼び慣わしていたことに、今になって気付いた右京之典であった。

典膳が言った。

「右京之典様。澤空庵たんくうあんにて、綾野が仕度を整えて居りまする。三郎右衛門殿と一緒に日田へ御向かい下さりませ」

「畏まりました」

「右京之典様。公に出来兼ねるとは言え、右京之典様は福岡、秋月、黒田両家の真の統領。いやそれ以上…。然して吾等はその臣下に御座りまする。其の様な御口利きは無用に御座ります」

しばしの沈黙の後、

「相判った!」

右京之典は既に決断していた。

―母上様。これが天命に御座いますな。

己の想うまま行けばよう御座りまするな―

心の中でそう問いかけると、右京之典は立ち上がった。

「では、参る」

「御城下出口の眼鏡橋の袂にて御待ち致して居りまする」

そう言う三郎右衛門に対し、

「否。何処に隠密が居るやも知れぬ。三郎右衛門殿は早駕篭はやかごにて行かれよ。某は別の路より参る」

と言うと、今度は九郎右衛門に向かって、

「日田に安着するまで、三郎右衛門殿に警護を付けよ。曲者は、西国の訛りとは違っておったし、書付一通金五百両と言い居った故、恐らく江戸で頼まれたものであろう」

右京之典は、大坂以西の経済は銀貨で成り立っており、報酬の受け渡しの約定が江戸で行われた故に、店一軒などとの胸算用が直ぐに出来得るのであろう事を言った。そして今夕、城下に入った時の犬の遠吠えが移動していく様を思い出していた。

「あの者共は書付が如何なる物かも知らされて居らぬし、今宵も元々は墓を暴きに参って居った。彼奴等は此処に集いし者の身元も判っては居るまい。しかし遠くで別の者が見張って居る気配がある。明日より警備の手立てを考えよ」

「御尤もな仰せ。畏まりまして御座りまする」

九郎右衛門の答えるのに続いて、典膳が聴いた。

「然して、右京之典様は」

古処こしょ山から馬見うまみ山を越え、上座郡じょうざごおり小石原こいしわら宝珠山ほうしゅやまと抜けて日田入り致す。皆気を付けよ」

「ははっ」

皆が一斉に平伏した。

「暫しの別れじゃ。堅固でな」

「右京之典様も」

六人が見送る中、右京之典は古心寺を後にした。


澤空庵へ戻りながら、古心寺の石段下で曲者の一人を斬って殪した時、遠く何処からか見られているような違和感を感じたことを右京之典は想い返していた。

(あの違和感はその後直ぐに、まるで遠ざかる様に霧消していった。最初、古心寺に向かう時のあの犬の遠吠えは、初めは御城の方より聴こえて来て、それが次第に己の歩む道と交差して消えた。そして古心寺の石段を登る時、再び近くで遠吠えが起こり、確かに最初の時と同じ方向に遠ざかって行った)

そして、

(先程の曲者とは別の者達が秋月に潜行していて、城内か重臣の屋敷に忍び込むか見張るかした後、想いも掛けず自分と行き合い、人気の無いあのような刻限に一人道を急ぐのを怪しんで後を付け、古心寺に集まった者を確かめたに違いない、或いは、先程の曲者達の守備を遠くから見届ける役目か…)

右京之典は、頭の中でもう一度これ迄の事をなぞると、確信した。

(直接襲うて来なかった処からして、あの者達は一橋卿にでも直接仕える密偵。もっと綿密に、そして密かに事を為す、却って厄介な相手ではないか。あの者共を殪して置かなければ、典膳達に危険が降りかかるのではないか。今、己のみが何者かは知られていない)

そう想ったからこそ、三郎右衛門とは別行動を取ることにしたのだ。

(密偵はは二人か三人。恐らく秋月街道のどこかに潜んで、自分を付けてくる筈。そして、先程の奪い合いの基になった書付を所持している人物という事が判れば、尚の事何処までも追って来るだろう)

城下との境の小橋を渡った処で右京之典はわざと立ち止り、懐から二通の書付を出して確かめ、然も大切そうに懐に仕舞い込むと、野鳥村の澤空庵に向けて再び歩き出した。

澤空庵の門前まで戻った時、微かに気配を感じが、おくびにも出さず門を潜ると、未だ灯りの点る戸口へ入っていった。

「婆、戻ったぞ。遅くなった」

「遅くなられましたな。寒うは御座いませなんだか」

「おお。婆の作ってくれた羽織のお陰で暖かであった」

「それはよう御座りました」

綾野は満面の笑みを浮かべて右京之典の羽織を脱がせながら、

「夜食を作っておりまするぞ、召し上がられませ。仕度を致しますでな、先に湯屋にいきなされ」

「湯まで沸かしてくれたのか。有難く頂戴しようぞ」

右京之典は用心の為に、濡れぬ様にして脇差と書付を湯屋に持ち込み、湯に浸かりながらこれからの策を思案した。

今度の曲者は金で動く者達では無い。慎重に事を運ぶ筈であった。万全の準備を為して挑んで来るに違いない。

(それならば、敢えてこれからの己の行動を知らしめ、その道中におびき寄せればよいではないか!)

右京之典は明朝出立する事に決めた。

(日田まで山中に泊することになろう。そうなれば数日は湯にも入れまい)

そして暖かな湯の有難味を存分に味わった。

殺気のない柔らかな気配が戸口に立って、

「右京之典様。お背中を流しましょうかな」

「爺…」

典膳だった。

「戻らぬかと想うて居った」

入ってきた典膳に右京之典が、

「爺こそ寒かったであろう。某が爺の背を流そう」

「左様なことは…」

遠慮する典膳を座らせて、湯を掛けまわし、背中を手拭で洗い始めた。

「勿体のう御座りまする」

「明朝、出立致す」

「左様に御座りまするか。既にお立ちにて、お会い出来ぬかと想うて居りました」

「その積りでおったが、やはり新手が三人程現われおった。此処も見張られて居る」

「なんと。何も御座りませなんだか」

「今度の曲者は恐らく一橋卿に直接仕える密偵。やはり簡単に人前には出て来ぬ。よって今夜は安心じゃ」

「左様に御座りまするか。然してその狙いは如何に」

「某が持って居る書付と、某自信じゃ」

「右京之典様を?」

「そうじゃ。彼奴等には某が何物かまだ判って居らぬ。じゃがその者が重要な書付を所持して居る」

「成る程」

「よって、此方の行く路を教えて、おびき寄せるのじゃ」

「危険では御座りませぬか」

「日田迄の険しい山道、某にとっては吾が城で戦うと同じじゃ。それに、恐らく爺達の身元と、一橋卿の陰謀を見抜いて居る事も知られた。彼奴を此方に残して行く方が危険じゃ」

「なんと右京之典様は、吾等から引き離す為に囮になると申されまするか。お止め下さりませ」

「心配致すな。闘いが始まった以上、それが某の道じゃ。決して遅れは取らぬ」

「しかし…」

「それより、夜食の時、少々酒でも酌み交わし、明日からの行程、大声にて話あうおうぞ。彼奴に聴かせてやらねばならぬでな」

「判り申した」

「それより某の御父上様とは、どの様な御方であろう。爺は何か知っておるのか」

月青院(げっしょういん)様は、決して御漏らしになられませなんだ。形見の短刀を何時も持っておられれば、必ずや何時か御逢いなされる事も御座りましょう」

「そうか。そうであろうか…。しかし、今はその事は仕舞っておこう」

典膳は漏れそうになる嗚咽を噛締めると、涙を汗に紛らわせた。


右京之典が先に湯から上がり自分の部屋に戻ると、旅の仕度が為されていた。

小袖、袴、道中羽織に手甲てっこう脚判(きゃはん)。それに充分な路銀。

道中嚢には薬や糒、干し味噌などの糧食。火打ち石に付け紙。手拭、雨具に寒さ凌ぎの紙子の一衣いちえ。矢立、竹筒に笠は檜の塗笠。

足袋は筒の長い皮底の紐足袋が二足、そして草鞋が三足。よく見ると、草鞋は木綿と更に人の毛髪が入っているようだった。これは綾乃が自ら編んだのであろう。

以前九郎右衛門から、かつて戦場や長旅に赴く時は、何事があっても切れる事の無いよう、女人の長い髪を編み込んだ草鞋を履く事があると聴いたことがあった。

右京之典は、綾野の心尽くしの餞に、長い旅が始まるのだと、改めて感慨を催した。

様にも想うて呉れる者が居る。もう不安には想うまい)

そう心の中で呟くと、綿入れを羽織り部屋を出た。

もともと庄屋の別邸であった屋敷には板の間があり、囲炉裏が切ってあった。赤々と燃える火には鍋が掛かり、味噌の香りが漂い、既に湯から上がった典膳が右京之典を誘った。

「早々、お掛けなされ」

「美味しそうな匂いじゃな」

右京之典が言うのへ綾野が、

「近くの百姓屋に野菜を求めに参りました処、兎が取れたばかりと申す故、購うて参りました」

と説明を加えた。

「夕餉抜きであった故、腹の虫がなっておる」

「さあ、たんとお食べ為され」

蓋を取った鍋からはもうもうと湯気が上がり、綾野がよそってくれた椀には兎肉の他、大根、牛蒡、蒟蒻などが入っており、濃い味噌の香りが食欲を刺激した。

「美味い!熱っ…」

右京之典は想わず大きな声で言った。

「美味しいので御座りまするか?熱いので御座りまするか?」

「慌てずともまだたんと有りますぞ。酒もお飲みなされ」

典膳と綾野の二人は顔を見合わせて笑った。

大いに食べ酒も程々に飲み、典膳と湯屋で打合せた通りに、書付を所持したまま明日朝出立することや、路程について声高に話した。

綾野が、明日の出立の為に飯も炊いたと言うので、菜の花の漬物で飯を食すと、

「明日は握り飯を用意致して置きまするでな」

「明日は六つ(朝六時頃)の遅発ちじゃが、今宵はもう遅い。在り難いが握り飯は某が作る故、明朝の見送りは要らぬでな」

綾野の申し出にそう言うと、部屋に戻って備前兼光の太刀と筑紫信包の脇差の手入れをした。

太刀とは、悪しきものを、

―断つ―

物であるところから来ていると言う。

太刀の輝きは神話の時代よりの、光を集め、神々しい輝きで邪悪なものを映し出し、またそれが宿る事を防ぐ神力を備える「鏡」と同じであり、太刀は且つ、それを払い除け、打ち断つ事が出来る神の御剣であり、改めて見る兼光の刀身も、太刀と言う名の源に相応しいものであった。

その外、身に付けて行く手裏剣などの武具や手入れ道具を揃え、床に就いたのは九つ半(深夜一時頃)を過ぎた頃であった。


翌朝六つ前(六時前)。短い時間ではあったが、十分な睡眠を取った右京之典は出立の仕度を調え離れに行くと、母の位牌に旅中の加護を願った。

離れを出ると、満開の老梅が咲き誇る庭に、典膳と綾野が立っていた。

「見送りは要らぬと申したに」

「左様な事が出来ましょうや」

二人の眼には涙が光っていた。

綾野が二食分の握り飯の包みを差し出し、右京之典はそれを道中嚢に入れると、

「某が戻るまで、身体を厭うて堅固に過ごすのじゃぞ」

「右京之典様も」

「旅の水には用心せねばと申しまする」

それぞれが言い、打ち揃って門前まで来ると、

「参るぞ」

と言う右京之典に、

「御武運をお祈り致して居りまする」

「必ずや御無事でお戻り下さりませ」

と言うのに、

「畏まった」

と快活に答えると、既に歩き出していた。

ニ十間程も進んだ頃か、振り向いた右京之典が、

「初めての一人旅じゃー。愉しんで参るぞー!」

と大声で叫んで大きく手を振った。

「おお、そうなされませー!」

典膳も大声で手を振って答えた。

次第に遠ざかってゆく右京之典を、瞬きもせず見詰めながら、

「どれほど過酷な旅になるやも知れぬのに、あの様に明るくお振舞になられて…」

「私達は右京之典様を信じて居れば良いのでは御座りませぬか」

二人は小さく呟くと、せめて右京之典の後影の見えるまではと見送った。


塗笠を手に、右京之典はぐんぐんゞ歩いてゆく。

野鳥村から古処山へと続く道は晴れ渡っていた。

山の西麓の所為で、まだ陽が射し込んでは来ぬが、見上げる空は雲一つ無く、薄紅の朝の光に輝き渡っていた。

まだ鳴き慣れぬのか、

― ホー、ホー。キョッ ―

と、初泣きの鶯の声が谷に響き渡り、何の小鳥か、右京之典の前を矢のように飛び去って行った。


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