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三章、秋月黒田家秘聞

臨済宗・興雲山古心寺は正保四年(一六四七)。家祖長興が父・長政の菩提寺として建立したもので、開山は京の大徳寺の第一五六世の住持であった江月宗玩、初代住職は同じく一八一世住持・江雪宗立。以来百三十余年、秋月黒田家累代が眠る。

近くで再び犬の遠吠えがしたが、右京之典が今来た方角へ移動しながら次第に消えて行った。石段を登り山門を潜ると、本堂の前に十一、ニ才の小坊主が待っていた。

「新免右京之典様にございますか」

「左様に御座る」

御案内ごあない致します。どうぞこちらへ」

案内の小坊主に続いて、右京之典は本堂の左手の風雅な檜皮葺の屋根を持つ庭木戸を潜った。

(此の様な所があったとは…)

築山が築かれ白砂が敷かれた所々に、灯りの入った石燈篭の配された庭には、馥郁とした梅の香が漂っていた。

飛び石を伝い、紅白の花が咲き乱れる奥の梅林を通り抜けると、その先には一際高い、白い練塀に囲まれて、扉を閉ざした屋根門に隔てられた一画があった。

「こちらに御座います」

そう言うと、小坊主は会釈して戻っていった。

扉を押し開いて中へ入ると、もともとの静寂が一層静まり返ったような門内には篝火かがりびが焚かれ、左手には小ぢんまりとした竹林を背にした白壁に沿って立派な墓塔が立ち並び、奥には小さな墓石や卒塔婆そとばが幾つも立っていた。

そして右手に敷かれた茣蓙ござの上に、九郎衛門、典膳、南冥、そして三郎右衛門の四人の外に、右京之典の見知らぬ立派な武家が二人座し、さらにその後ろに従者らしい武士が控えていた。

二人の従者が門番を為すためか、急いで走り去って行くと、九郎右衛門が口を開いた。

「待って居ったぞ。ここは初めてであったな」

「はい」

九郎右衛門の問いに、右京之典は腰から抜いた太刀を右手に持替え、片膝を付いて答えた。

「長興公以来の秋月家累代の墓所じゃ。先ずは其の床几に掛けよ」

九郎右衛門は、墓塔を背にして自分達と向かい合うように置かれた床几を指した。

「先日の書付は読んだか」

「はい。読みまして御座います」

「内容は解ったな」

「はい。一通りは」

「では、これへ」

右京之典は懐から油紙に包まれた二通の書状を出すと、九郎右衛門に渡した。

「ご検分を」

そう言って、右京之典の見知らぬ武家に渡した。

「御本家御老職、黒田美作(みまさか)様と当家御家老、田代半太夫様じゃ」

右京之典が慌てて床几を外し平伏しようとするのへ九郎右衛門が、

「そのままでよい」

と制した。

「しかし」

「よいのじゃ」

二人は二通の書付を交互に見終わると、

「まさに、我が家にて当主のみに口伝くでんされてきた通りの事が書かれて居る。間違い無し」

そう言い合いながら今度は書付を南冥に渡した。

南冥は二つの書付を膝の前に広げて、懐から取り出した別の書状と暫く見比べていたが、書付を元に戻して再び膝前に置きながら、

「東照神君の御判物、八代様の書状。二つとも間違い無き物と存じまする」

と言った。

今度は典膳が口を開いた、

「南冥殿。ではそなたから話をしてくだされ」

「畏まりました」

九郎右衛門の言葉に南冥が答えた。

「この一年。福岡、秋月、両黒田家の御家老様のお許しを頂き、両家の書庫、御家中の主だった方々や黒田家所縁の寺社の古文書こもんじょなど、また三郎右衛門殿のお力をお借り致し、我が亡師、永富独嘯庵(どくしょうあん)門下の学者、孫弟子など、御公儀にも厚く取り立てられたる諸氏にも合力を求め、ここに居らるる皆様方の話と一つに繋ぐる事が相成りまして御座ります」

右京之典は何の話が始まるのか見当も付かなかった。

「皆様ご存知の事が大いに含まれて居りまするが、何卒お聞き下され」

そう言い置いて、話を始めた。

「関ヶ原の戦勝にて東照神君家康公が興雲院様、即ち御生前の長政公のお働きを一番のものとしてお認めになられ、以来頼りになされて様々に天下泰平の策を共に練られたる事は、これらの書付にて御承知のとおりに御座ります。もともとその頃、譜代、外様などというものによる区別は無かった由に御座ればこの儀宜なるかなと存じまする。先ず書付にある慶長十四年(一六〇九)三月四日を調べて見ましたる処、後に御三家の一、紀伊徳川家の祖となられた家康様御十男・頼宣様が、その所領を譲り受けられた祝いとて能を披露なされ、駿府城に呼ばれし長政公が、家康様と会見なされた日に御座りました」

皆、寂として声も無く聴いている。

「御晩年の家康様が一番可愛がり育てられたる頼宣様をして、お二人で三家の構想を抱かれたと想われまする。そして裏書の元和元年(一六一五)九月九日とは大坂夏の陣の後、御当家の祖である東陽院様、即ちご幼少の長興公が将軍家に御目見得が適った後、長政公が家康様の居わす駿府城にお連れ遊ばした日に御座りました。長興公のご聡明さを見て取られた家康様とともに、黒田家の分家についても話合われ、家康様が大坂の役を鎮められた翌年に薨去なされた後も、長政公がお亡くなりになる直前まで、徳川の三家を確立せんと、その御遺志を全うすべく奔走なされた数々の痕跡が見つかりまして御座ります」

本家家老の黒田美作が尋ねた。

「それで廃嫡までお考えになった二代目忠之公に、敢えて宗家を継がされたか」

「左様に御座りまする。それで、この東照神君よりの書付と共に自らの差料であった名物・城井兼光(きいかねみつ)を長興公にお与えになり、別家を立て御役目を引き継ぐよう御遺言遊ばしたので御座りまする」

「成程。合点が行く」

「よって、何としても長興公は将軍家に御目見得なさらなければならぬ訳があり、また黒田家内の、それも遠国外様・無城の僅か五万石の分家に、将軍家よりの城主格を認める御朱印がわざわざ降し置かれたのは、これが為で御座りまする。御本家二代・忠之公の御代に起きた黒田騒動の際にも、将軍家は筑前国主の座を召し上げ、長興公に差配するよう内々お話があったものを、将来の将軍家継嗣問題において悪しき前例と成らぬようにと、当時の御本家老臣、栗山大善殿と相談なされ、ご辞退遊ばしたので御座りまする」

南冥が答え、再び話を続けた。

「将軍家に最初の継嗣問題が起きたのは四代家継公に嗣子無くして薨去遊ばし、館林より綱吉公を五代様としてお迎えせんとした時に御座りました。御大老・酒井忠清様と御老中・堀田正俊様の間で拗れかけた時に御当家二代・長重公がこの御役目により、堀田様の案を推されたので御座りまする。この恩に報いようと綱吉公は長重公を御公儀の重職である奏者番そうじゃばんにお就けになられましたが、忠之公御存命中は遠慮なされておられました」

「何故、当家の様な外様分家の小領主に、柳営(江戸城内・幕府)栄達の登竜門たる御役職が任ぜられたか、長らく不思議に想うておったが、これで氷解致した」

そう漏らしたのは田代半太夫であった。

「綱吉公の世子、徳松君がお亡くなり遊ばすと、再び継嗣問題が出来致しましたが、最終的にはこれもまた内々の長重公の御裁可にて、甲府から綱豊公が御養子に入られ、後に六代家宣様となられました。綱吉公御就位に関しましては、後に御大老となられた堀田正俊様が暗殺されておりまする。しかし六代様の御代も、ご病気の為数年で終わり、世子の家継公は将軍宣下をお受けになられた時僅か四才。当然のことながら、継嗣問題は再燃致しました。聡明の誉れ高い家継公で在らせられましたが、危惧通り八歳にて身罷られましたるは周知の事」

「当家の二代に亘る主を弑したのは誰じゃ。密かなる御役目を誰かが漏れ知ったか」

秋月黒田家の老職を典膳より引き継いで預かる田代半太夫が尋ねた。

「八代様のお手紙に拠れば、二代、長重公は尾張家の吉通よしみち公かそれに繋がる者。三代長軌公は吉通公の後を継がれた尾張継友公かそれに繋がる者と推察されまする。ただ、尾張の吉通公も血を吐いての急死であったとの話もありまする。八代の座を巡っては、世子未定のまま二代将軍秀忠公以来の嫡流が途絶え、大いに紛糾致し、先代が亡くなられて尚数ヶ月の空隙が生じて御座りまする。長軌公はこの前年に江戸屋敷にて急逝なされましたが、この事を予見なされたか、吉宗公を将軍後見役に就けんと思し召され、密かに根回しをなされていた由、御遺言を四代となられる長貞公と、時の江戸家老、典膳様の御尊父・吉行様に託されて御座りまする。その一年後、吉宗公の将軍位が定まって後、吉宗公よりこの書状が届いた由に御座りまする。この後は、典膳様に」

ここまで一気に喋った南冥の言葉を受け、典膳が話を始めた。

「愚父が病にて身罷る直前、江戸家老の職を継いだばかりの某を、密かに枕元に呼び申したのは、確か九代将軍位に家重公がお就きになられた延享元年(一七四四年)で御座った。その時父は、正徳四年(一七一四)の三代長軌公急死は毒殺によるものであると某に断言し申した」

核心に近づいて来た話の内容に、皆が緊張した。

「そして、長軌公の後を継がれた四代長貞公に、国表より至急呼び寄せた新免右兵衛(うひょうえ)殿。九郎右衛門殿の祖父上で御座るが、右兵衛殿と弟御、平六殿を警衛に就けた由。その時は誰の手に拠るものか判然と致さなかったが、一年後、八代様より密書が降って、然も在らんと想ったそうで御座る。それより二十有余年、尾張徳川家七代宗治公が謹慎の沙汰を受けるまで、刺客に襲われし事数度と言わず。その時の傷が元で、弟御の平六殿は命を落とされた」

風でも出てきたのか、立ち並ぶ墓塔の後ろ、白い練塀の背後の竹林の笹の葉が少しざわめいた。直後、「がさがさっ」という音がして、枯れ枝を踏み折る音がした。

その音に皆が身構えたが直ぐに、

―ぶひっ―

という小さな声に緊張を解いた。

「今年は寒さの所為か、猪が時折、里近くまで降りて来申す」

九郎右衛門が苦笑しながら言った。

「お続け下され」

「然らば」

典膳が答えた。

「実は、長軌公が急逝なされた後、年が明けて正徳五年(一七一五)となった年の初め。御正室・養真院様の御懐妊が判明致し、殿の菩提を国許で出家して弔う為として、江戸家老であった愚父・吉行は、某の母である妻のあやめをお付けし、平六殿と老女の四人と僅かな供回りのみでひっそりと国表にお連れ申したので御座る。享保元年と年号が改まった秋、若子がお生まれになった事は数人の外は知らぬ事で御座った。城下外れの日照院の離れに密か住み暮らし、極秘の事ゆえ安心致しておった処に刺客が現われ、老女と赤子が斬られ亡くなり申した」

「なんと…」

美作と半太夫が愕然として言葉を詰まらせた。

二人の驚きには、三代長軌には子が無く、

―嗣子無きは絶ゆ―

ところを、本家の重臣・野村祐春に嫁いでいた、初代長興の孫娘にあたる鶴子が生した子を、大慌てで養嗣子にした事情があったからである。

血筋の遠さと、一旦家臣に下りてからの、それも次男を大名としたのであるから、誠に苦い事情であった。

「恐らく将軍家世子裁定の御役目が書かれた書付の存在を嗅ぎ付けたので御座ろう。実はその時亡くなった赤子はあやめの子、生きておらば某の兄にあたる子に御座った。しかし、平六殿と母あやめは若子が亡くなった事と思わせる様、その場の辻褄を合わせ、直ぐに日田の広瀬家に件の書付と共にお逃がししたので御座る。広瀬家は元々御当家二代・長重公が財政建て直しの一環として日田に遣わしたる者にて、初代・五左衛門殿は新免の家より妻女を向かえて御座る。兵六殿とあやめは傷を受け、平六殿は傷の手当てもそのままに若子を背負うて日田に向かわれた為、それがもとで病に倒れ、一年ほどで亡くなられた。若子は、ここに居らるる三郎右衛門殿の父御・広瀬三代久兵衛殿の兄弟として育てられたので御座る。

「そなた等の兄や伯父御が然様な事に…」

黒田美作が再び言葉を詰まらせながら尋ねた。

「而してその若子は如何なされたので御座る」

「これよりは三郎右衛門殿からが良かろう」

典膳の言葉に、今度は三郎右衛門が話しを継いだ。

「若子は元服なされ芳之介様と名乗られましたが、日田にて手前の父・久兵衛とその姉・栄の従兄弟を博多の親類より預かったという形にして、三人で兄弟のように育てられたそうに御座います。しかし、九つになられる頃、江戸屋敷ばかりか秋月にも再び怪しき影有りとの報せが日田に届き、日田の更に向こう、豊前下毛ぶぜんしもげの禅寺、羅漢寺(曹洞宗)に預けられた由に御座ります。其処で、山国川伝いの難所の岩山に随道を掘られんとする禅海禅師に出逢われ、教えを受けられたとの事。十七に成られた時日田に戻られ、以降は広瀬家が代々の菩提寺、豆田町の長福寺(天正十二年1584開創・広瀬淡窓開塾の地)の宿坊に寄宿なされて博多屋を助くると共に、近在の子供らに読書きをお教えになる傍ら、父・久兵衛と共に日田代官・岡田庄太夫(俊惟)様に、公と民の両方に益せんと、様々に策を建じられ、重用されたそうに御座いまする。また、禅海禅師の随道ずいどう工事を支援なされんと日田代官所を始め、近隣諸国からも浄財を集めんとて様々に奔走なされ、長門から名工・岸野本右衛門様を呼ばれて随道工事に加担せしめられ、年にニ、三度は一月ばかりずつ羅漢寺に参られ、禅海禅師を助けて自らも鑿を打たれた由に御座います」

「彼の中津街道脇の羅漢寺隧道に御座るか」

「左様に御座ります」

田代半太夫の問いに三郎右衛門が答えた。

「元文四年(一七三九)。二十四歳に成られた折、尾張の宗春様謹慎の報せが届き、秋月にお迎えする事と相成りましたが、

―将軍家も新たに分家が立ち、秋月にも典膳らが居る故、既に秋月は安泰―

とお断りになられ、驚いた事に、御世話をしておりました父の姉・栄と夫婦になられ、日田外れの堀田村に住まわれて秋風と名乗られました。今、隠居致しましたる兄の平八が月下と号し住まい致しまする秋風庵しゅうふうあんに御座ります。一、二年は穏やかに過ぎて御座りまするが、寛保の頃(一七四一)から白蝋虫や大水・大風が続き、再び大凶作の兆候が出て参り、享保の大飢饉の惨状を繰り返さぬ為にと「助合穀銀(すけごうこくぎん)」の制度を建言なされ、時の代官岡田庄太夫様は全村の同意を取り付けることを条件に御採用なされたました。これは年貢の外に、飢饉に備えて助合石を徴収し、これを銀に代え、日田の掛屋に貸し出し元本として貸して利息を取り、増やして基金と成し、万一の場合に村々に無利息にて貸し付くるという仕組みに御座りました」

三郎右衛門が一息吐いた時、典膳が言った。

「今、御公儀御老中・田沼主殿守様が、財政難に苦しむ全国の大名諸侯、また事業を拡大なさんとする商人・農民達に、貸し付け致さんと取組んでおらるる公金貸付の制の元に御座る。芳之介様が、何とか御公儀にも建白致すべく手立てが無いものか手紙にて仰せられたので、某がそのまだ頃御側衆のお一人であった主殿守様に内々に上申致し申した。八代様の御就位に係わりて以来、田沼家とは先代意行様からの密かな繋がり有るので御座る」

黒田美作は、江戸開幕以来百八十年、外様の大家が次々と取り潰される中、福岡黒田家が安泰であったのは、実は分家・秋月黒田家の奔走があった事に改めて驚かされた。

「三郎右衛門殿、続けられよ」

典膳が言った。

「はい。助合穀銀制度を確立せんと芳之介様は日田・玖珠郡(くすごおり)三十三箇村の庄屋を説いて廻り、助合石徴収の同意を取付けらたので御座ります。その様な最中、姫がお生まれに成りました。お慶びも束の間、延享元年(一七四四)。一帯が白蝋虫の発生、大風に続き五十年振りの大水に見舞われたので御座ります。数年の凶作に続く水害に、日田・玖珠郡の疲弊甚だしく、庄屋衆は幾度となく年貢の減免と夫食米拝借を願い出られたので御座りまするが、岡田代官は定免制じょうめんせいを取りし故と御取り上げにならず、翌年の洪水にとうとう、馬原村の庄屋・穴井六郎右衛門殿等が江戸表への強訴ごうそを覚悟なされたので御座りまする。そうなれば、若し御取り上げ頂いたとしても直訴せし者は死罪。芳之介様は、四年間蓄えた助合銀を今年貸し出したばかり故、いま少し待てば、助合石銀の貸し出しが始められる事を懸命に説かれ、六郎右衛門殿も来年まで待つ事を承知なされたので御座ります。ところが、年明けからの助合穀銀貸し出しの約定を取り付けんと、日田代官所に揃って掛け合いに行かれし処、岡田代官は助合穀銀取扱いは御公儀御勘定所の裁定が必要と言い張られ、貸し出しを頑なに拒否なされたので御座ります。芳之介様が禅海禅師のお知恵を借りんと耶馬溪に出向かれし間に、六郎右衛門殿は江戸表に出立致し直訴なされましたが、評定所では御取上げにならず、その為、目安箱へ訴状を入れられたとて、捕らえられ御叱りを受けたので御座りまする。御取調の後一旦、翌延享三年(一七四六)には許されて放免された由に御座ります。これには田沼様の密かな手廻しがあったものと想われまするが、その冬日田に戻られし処を岡田代官の手によって再び捕らえられ、芳之介様が赦免を願われましたが、岡田代官は寛保元年の御定書おさだめがき百箇条を盾に取り、その日の内に浄明寺河原じょうみょうじがわらにて六郎右衛門殿ら三名を獄門になされたので御座ります。芳之介様の憤慨甚だしく、城井兼光の太刀をかざし、夜陰に紛れ刑場に忍び込み、警衛の士を切り殺して遺骸を取り戻し、親しく交わっておられた龍川りゅうせん寺の龍作和尚に頼んで密かに葬られたので御座りまする」

そこまで言い終えた時、三郎右衛門を始め、典膳も九郎右衛門も目を閉じ、涙を流していた。

そして九郎右衛門が替わった。

「此れよりは某が御話し申す。広瀬家より早馬が立てられ、ご家老宛てに書状が届いたのは翌師走晦日昼過ぎ。まだ十二歳であった某も愚父・四兵衛に付き従い駅馬を乗り継ぎ急ぎ日田に向かい申した。堀田村の秋風庵に到着致したのは師走晦日の夜半で御座った。其処にあったのは、面に白布の被せられたお二人の変り果てた御姿で御座った。広瀬久兵衛どのの話に拠れば、遺骸を奪い、龍川寺にて通夜を済ませた後、未明、お栄様に別れを告げられ日田代官所に出掛けられた由。お栄様の使いにより急ぎ代官所に出向いたる処、門は閉ざされたるままにて、芳之介様、門前にて御切腹して相果てられ、『岡田代官の無慈悲と、民を援くべく発案なしたる助合穀の制度が却って民を苦しめ、斯様な災禍を招いた』と自らを責められる御遺書を残されて御出で御座った。御亡骸を秋風庵にお運び申し上げた時には、お栄様も御自害召されておって、虫の息にて未だ六つの姫の事のみを頼み遺されたそうに御座る。」

黒田美作と田代半太夫は更に声を無くした。

此方こちらも下役とはいえ御公儀の役人を殺害せつがい致し、御公儀の手先たる代官を門前にて大声にて公然と非難致しており申すが、向こうも公にならば落ち度は免れぬ処にて、岡田代官は代官所内並びに近隣の者に固く口止めを致し、広瀬家にも何の沙汰も無く、ほとぼりが冷めるまでは姫を秋月にお迎えする事もならず、広瀬家にて引き取ったので御座る。それから七年、岡田代官転出の後、長貞公の御養女に致すべく目論み、一旦、御家老・渡辺家の養女として秋月にお迎えしたのが宝暦四年(一七五四)。十四に相成られた時に御座るが、直後、長貞公御逝去遊ばされ、しばし延期せざるを得なくなり申した」

「 その後、姫は如何なされたので御座る」

黒田美作が尋ねた。

「御家老」

九郎右衛門が顔を典膳に向け、続きを促した。

「某の屋敷に姫が来られて四年。長貞公の後を継がれて五代様となられた長邦公の御養女にと手続きを進めて居った矢先、直方の東蓮寺黒田家から御本家六代となられた継高公から、某に直かに宛てた密書が江戸より参ったのは、確か宝暦九年(一七五九)の末の事に御座った」

典膳は辺りを見回して異常の無い事を確認したが、時折笹の葉擦れの音がするのみで、改めて続けた。

「ご一同。言う迄も御座らんが、これから申す事他言は無用に御座る」

皆が頷いた。

「その内容は先ず、前年の宝暦八年。覚えて御出でかも御座らぬが、京において徳大寺家の臣にて、闇斉学あんざいがくを奉じる竹内周斎なる学者が帝の御近習・徳大寺公城(ききみ)烏丸光胤(からすまみつたね)、久我敏通、正親町おおぎまち三条公積(きんつむ)等の諸卿に神書・儒書を講じておった処、是に心酔し、徳川幕府の専制・摂関家の専横を良しとせず憤っておった一部の公郷が、侍講から帝への進講を為さしめ、果ては武術を披露為したりと、次第に反幕の気配が芽生えて来たので御座る。朝幕関係の悪化を憂慮なされた時の関白・一条道香(どうか)卿等が、帝の御養母・青綺門院しょうきもんいん様を動かし、進講を止めさせようと為されたが果たさず。徳大寺卿を始め数名の公卿を罷免、その他十数名に謹慎を命じられた後,京都所司代へ告訴為されたので御座る。この時…」

そこで典膳は一息吐いた。

「この時、先の公卿の一人が、宮家のある若君を闇斉学の講義を兼ねた武術披露の集まりがあるとて誘ったので御座る。剣を良く遣われた若君は喜んで参加なされたので御座る」

そこで区切った典膳の言葉に、黒田美作が驚いて、

「まさか…」

「左様。既に御亡くなり遊ばされた将軍家御台所・心観院様の御兄君で御座る。ほんの一、ニ度参加なされただけに御座したが、将軍位御継承を間近に控え、この件が朝幕の離反を目論む者に利用されるやも知れぬと御心配なされた宮は、御自ら京を御出になる事を考えられたので御座る。関白・一条卿と時の京都所司代・松平右京太夫(うきょうだいふ)様が謀り、今は在りえぬ古代の大宰府政庁の御役職・太宰卒(だざいのそち)とし、任命されても親王は実際に赴任せぬ遥任官ようにんかんであったのを、大宰府に下って戴く事とし、家治公に密かに上申されたので御座る。これは、大宰府が乱世の中でいつしか消滅してしまい、朝廷にて正式に廃された訳でない処を上手く利用したので御座るが、当時二の丸に居られた家治公のご意向を受けられた、当時御側御用人であった田沼様より御本家六代・継高公に宮の受け入れの御相談があったので御座る」

「二十数年前とはいえ、その様な大事があったとは、本家にては預かり知らぬ事に御座る」

本家の家老である黒田美作が僅かながら憮然として言った。

「事が事故、極秘に御座った。御本家にても継高公と御家老・吉田栄年(さかとし)様のみ、当家にても某と此処におらるる九郎右衛門どののみで御座った。そもそも黒田家にご相談があったのは、大宰府を領しておるのみでなく、継高公が有栖川宮職仁親王や烏丸光胤卿に和歌を学ばれ、和歌伝授の書を贈らるる程に、宮家・公家の諸卿と親しき間柄にあった故と、又大宰府が当家の直ぐ目と鼻の先にあったからに御座る。また、御自らも良く和歌を詠まれる公方様とも親しき故の、公方様直々の思し召しでも御座った。当時、継高公が和歌の会を催され、しばしば大宰府に参られたのはこの所為に御座る」

「左様に御座ったか」

今度は黒田美作は素直に頷いた。

「そして、宮の受け入れにあたり、衛士に付いては九郎右衛門殿とその弟子に任せる事は直ぐに決したので御座るが、侍女の人選が簡単な事では御座らなんだ。その様な時、是を漏れ聴かれた姫が名乗りを挙げられたので御座る。最初は何と滅相も無い事をと御諌め致したが、上様のお声掛りにて、義理の御兄君でもあらせられる親王殿下をお迎え致すのに、並みの身分の者では相勤むる事適わず。姫にお願い申し上ぐる事と致し申した。最初は家治公御就位までのニ、三年の筈であったが、時の帝・桃園帝の御身体優れず、絶えず崩御の噂がありて、政敵にて留め置かれし事が後に判り申した。桃園帝崩御の後、皇子が幼少に御座した為、その御姉君・後桜町帝が一旦御就き遊ばして二年、帝位が安定して明和元年の暮れ、足掛け五年の後、やっと御戻りになられたので御座る」

「而して姫は如何なされた」

美作が尋ねた。

「無事、宮のお世話も終えられ、秋月に戻られ明けて明和ニ年となった初春。姫は玉の様な若子わこを御生みになられた」

「なんと。若子を御生みになられたか」

「而して姫は。若子は」

黒田美作は立て続けに尋ねた。

「姫は若子の父親の事は口をつぐまれ、決して御打ち明けにならなかったので御座る」

「なんと…」

「勝手に想いを巡らした事は有り申すが、軽々しく口の端にのぼらせる訳には行くまいかと」

「まさか…」

「さてそればかりは…」

そう言いながら頷くと、

「若子は或る処にて密かに御育て居り申す」

とも続けた。

そして、普段の好々爺然とした典膳とは別人の様な表情で、

「 本日、斯様にお集まり戴きしは、今又、黒田家に再び暗雲が垂れ込めて居り申す!」

と決然と言った。

右京之典はこの様な典膳の厳しい表情を、嘗て見た事が無かった。

「一昨年、一橋家御出身の福岡黒田家七代・治行はるゆき様ご逝去の後を受けて、京極家より御養子にお迎えした八代・治高様、ニ月に御就位の後、五月に福岡入りなされて僅か三月にて突然のご逝去。生来身体頑健にしてしかも御幼少に非ず。然して、九代・斉隆(なりたか)様は再び一橋家より御養子をお迎えする事となった。そして今一つ、当家御当主・長堅様も永きに亘りて御容態優れず、日に日に御病気悪化の兆しこ此れ有り。安永八年将軍家世子・家基公御鷹狩の折に御休息遊ばしたる後の御急逝以来、一橋卿の関わられし処、怪しき事余りに多し。此度、斉隆様御幼少として、一橋家より介添役とて附人幾人か送り込み、御家乗っ取りを謀りし由、目付衆を御支配なされる若年寄・田沼山城守(やましろのかみ)様より密かに報せが参っって御座る。又、卿に取り込まれたる御本家御重臣方数名、若し長堅様お亡くなりのみぎりは、嗣子亡き当家を取り潰さんと策動致せし事、御当家隠し目付頭を勤むる新免九郎右衛門の手の者によって判明仕った」

田沼山城守様とは、老中・田沼意次の嫡男で、昨年十一月、若年寄職に就いていた。

「まさか、先の大納言様始め、当家三代の御殿も御病気により身罷みまかられたのでは無いと申すか!」

「左様」

黒田美作の問い掛けに、典膳が静かに答えた。

「一月程前、当家江戸屋敷において御書物蔵に何者かが忍び入り、何かを捜せし形跡があったとの事、早飛脚にて報せて参った。又、秋月にても…。新免九郎右衛門!」

典膳が九郎右衛門に促した。

「はっ。先だって、此処に並びし墓塔のニ、三に荒らされたる形跡有りとの事にて、見張り居りましたる処、何処ぞの密偵と想わるる怪しき者一名現われ、取り押さえんと致しましたるが叶わず、逃げられて御座る」

典膳が継いだ、

「恐らく、当家の内密の御役目に拘る書付を捜しての事と推察仕って御座る」

その言葉に美作が、

「それも民部卿みんぶきょうの…」

「間違い無き事かと。南冥殿」

今度は南冥に話を促した。

「江戸表に御座します長堅様の御病状。典膳様のお手配にて、江戸家老・吉田作座衛門様を通じ、嘗ての同門の医師を内々に屋敷に登らせ、診察せしめたる内容を詳しく書き送らせたものを読みまするに、肝の臓に痼りの有る様にて、恐らく何らかの形で永らく毒を摂取いたされたものと想われまする」

「毒とな…」

黒田美作は声を途切れさせた。

「恐らくは石見銀山いわみぎんざん(殺鼠剤)と同じ砒石ひせきの毒かと。長崎御番に御出役なされて御出での九郎右衛門様の御子息・勇太郎様に早飛脚を立て、出島の阿蘭陀おらんだ商館の医師に密かに問合せたる処、御本家御先代・治高様は急激な砒毒ひどくの摂取による中毒。長堅様のそれは微量の砒毒を数年に亘り摂取され、少しずつ御身体の変異を来たされたものかと、私の見立てと同じに御座りました」

「なんと」

南冥は話を続けた。

「先の大納言・家基様の御急死についても、その三日前の御鷹狩の帰途、急に御不調を訴えられし数刻前、江戸近郊の大森村の百姓屋にて八つ下がり(午後三時)の食餌に饂飩うどんを食されし由、若年寄・山城守様の御配下が突き止められたそうに御座ります。砒毒のある種は饂飩粉と見分けがつかぬ白き粉様のもので、湯に良く溶けるものや蝋燭ろうそくに混ぜし物など様々にある由。また、阿蘭陀商館長・チチング殿によれば欧羅巴おうろぱ州では多少の金子を積めば誰でも暗殺薬として購う事が出来る程に市中に出回って居るとの事に御座ります。長堅様の御余命、誠に遺憾ながら幾許も無き由、同門の医師の見立てによって明白に御座ります」

「左様な事を、民部卿は為されておるのか…」

黒田美作の声は掠れ、その声音は暗澹としたものであった。

「最早、吾等もたねばなりませぬ!」

典膳が決然と言い放った。

「先ず、美作様は信頼に足る者のみを集め、一橋家よりの附け人送り込みを何とかお防ぎあれ。吾等は東照神君より賜りし岡本正宗の御短刀を回収致し、江戸に上りて三代家光公より賜りし秋月黒田家の御朱印状を長堅様より頂戴して参る。そして、至急田沼様と対抗策を練るのじゃ。当家が潰るれば即、御本家の存続も危うき事態となるは必定!」

「三郎右衛門殿。御短刀の行方は何か分ったな?」

「兄・平八と共に様々に調べましたる処、芳之介様の御日記の中に、お栄様と夫婦になられた直後、羅漢寺の禅海禅師を尋ねられた事が記されておりました。其の折、秋月の御家も既に御安泰故と、羅漢寺か何処かに何がしか奉納なされたと思われし記述が見つかりまして御座います。恐らくは彼の地かと」

「相分った。九郎右衛門殿」

次は九郎右衛門を促した。

「江戸表には、某の弟子で在ったもの二名が御書院番を致して居りまする。御本家には新免の一族の家がニ家御座る。何方にも既に臨戦の下知を致して御座いまする。そして、此れより様々に遊軍の動きを為し、暗雲を切り開き、黒田家と天下の泰平を守りたる者は…」

ここで一度区切った九郎右衛門は、右京之典を振り返って、

「某の弟子、此れなる新免右京之典。秋月円命流総ての技、更に秋月にのみ伝わりまする隠し奥義十七手を奥許し致したる者に御座りまする」

己が生きてきたものを遥かに越える壮大な歴史に圧倒されて、呆然となっていた右京之典は、はっとして九郎右衛門を見返した。

「右京之典。皆様に、そして歴代の殿に御見せ致すのじゃ」

そう言うと、九郎右衛門は後ろに置いていた桐の箱から一振りの太刀を取り出し、右京之典に差し出し、

「此れを使え」

と言った。

それは、

―黒墨粉塗沙綾形文鞘渡金波図金具―

に拵えられた立派なものであった。

「筑前太守、黒田家の祖・長政公より秋月初代・長興公に与えられし大切物・備前兼光。又の名を城井兼光じゃ」

「その様な名物を私が…」

言葉を詰まらせた右京之典に九郎右衛門が優しく言った。

「これから、そなたが中心となり、黒田の家を守る闘いを為すのじゃ。そなたに預くる」

典膳の方を見ると、典膳も頷いた。

その時。右京之典は母の遺した「天命」の言葉を想い出していた。

「然らば、お預り致しまする」

右京之典は兼光を押し頂くと、床几を立ち、信国重包の脇差の横に差し添えた。

羽織を脱ぐと、皆が座る茣蓙の前から下がり、充分に動ける間合いを確保した。

立ち並ぶ歴代領主の墓塔を背にして、右京之典は静かに立ち上がった。

「御披露仕りまする。何卒、ご検分下されませ」

一礼し、瞼を閉じて、ゆっくりと兼光を抜き放った。

刃長、二尺二寸四分。

兼光は、南北朝期に活躍した備前の長船おさふね鍛冶の嫡流で景光の子と伝えられ、同じ長船派の刀工の中でも一際雄大な姿と豪壮な造り込みの刀を打った。

(なんと、様にも御成長か…)

その雄大で、しかし何物にも拘らない大らかで自然な構えに典膳は感銘を覚えた。

右京之典の大声ではないが、よく通る声が響いた。

「秋月円命流秘奥義。一刀太刀・水月」

それは昨日、九郎右衛門が見たときよりも更に研ぎ澄まされ、その動きには何処にも無駄が無く、太刀風は迅速な筈なのに、ゆったりと大らかに見えて、皆は雅な舞を見るかのような心地であった。

そして、最後の小太刀法五手目「抜胴」の後、正に納刀を終えんとした瞬間、

―ぶひっ―

塀の外から声がして、皆が又、猪かと想った直後、

―ドンッ―

という大音とともに閉ざされていた屋根門の扉が突然乱暴に押し開かれ、一頭の大猪がこちらに向かって突進して来た。

門の外側には番をしていた二人の従者が倒れているのがちらりと見え、皆が腰を浮かし身構えた時、一番門側に居て、猪に向かって構えの姿勢を取った九郎右衛門に、右京之典が、

「お師匠様!」

と叫ぶと同時、大猪と擦れ違い様に身を躱した九郎右衛門が、掌の底で猪の後頭部を叩くと、大猪はそのまま地面につんのめって行った。その最中。

―サーッ―

と、立ち並ぶ墓塔の背後の白壁の向こうの竹林から、ニ本の大竹がこちら側に倒れこんで来た。

「あっ!」

三郎右衛門が声を発し、大猪と九郎右衛門に目を奪われていた一同が振り返ると、地上まで倒れこんで来た二本を縛っていましめた竹の笹の葉の中の黒い人影が、先程まで南冥が座っていた茣蓙の上に置かれていた書状の一つを掴み取ると、綱に引き上げられて再び虚空に戻ろうとしていた。

咄嗟とっさに右京之典は曲者目掛けて小柄こずかなげうち、九郎右衛門が、竹を引っ張っていた綱目掛けて脇差を擲った。

竹を引っ張り上げていた綱が切れ、一瞬戻りが止まり掛けた二本を結わえたた大竹の反発力はさすがに強く、地上に倒れる事は無かったが、宙空で動きを鈍らせた。

その時、倒れこんで来たもう一組の竹に取り付いた別の曲者に書状を渡すと、一番手の曲者は地上に落ちてきた。

「追え、書付を取り戻すのじゃ!」

九郎右衛門が言うよりも早く、右京之典は走り出すと、小柄が突き立った左肩を抑え、剣を抜いて身構える曲者を、一瞬の早業で峰打に倒し、塀を乗越えて行った。

「斬捨てても構わぬ!」

「はっ」

塀を飛び越えながら右京之典は答えた。

竹林の中に飛び込むと、縄を引っ張っていた二人の曲者が右京之典の余りの素早さに圧倒され、一人は剣を抜く間も無く、もう一人は剣を抜いたが構える間も無いまま、二刀の技に同時に峰で肩口を叩かれ地に伏した。

書付を奪い取った曲者が取り付く竹は、その間に先程とは逆の方向に倒れ込んで行き、竹林の向こうの地上に降りると駆け出した。

かがり火の明かりは塀に遮られ既に遠く、手にしていた二刀を素早く鞘に納め竹林を抜けると、月も無い星灯りのみの獣道を走り出した。

曲者を追いながら、右京之典は己の未熟を悔んだ。

(古心寺へ石段を登る時聴いた犬の遠吠えは、この曲者達に対してではなかったか。最初の猪の泣き声と枯れ枝を踏み折る音は書付を奪い取る準備を為していたのではないか…)

獣道から白坂道に出た曲者は道を下った。右京之典との距離は四間程であった。

走りながら、右京之典は懐からニ尺程の紐の両側におもりのついた物を取り出すと、曲者の脚目掛けて、

―びゅん―

と擲った。日田の広瀬家に居た子供の頃、三郎右衛門やその兄の平八にせがんで貰った分銅に、二年ほど前想い付いて自分で紐を付け、擲つ練習をして来た物であった。

それが絡まり、

―どたっ―

っと脚を縺れさせて倒れた曲者は、坂を転がりながらも素早く起き上がると、逃げ切れぬと悟ったか、振り向いて剣を抜いて正眼に構えた。

「何物じゃ!」

ちょうど古心寺の山門へ続く石段の麓まで降って来ていた曲者の姿を、燈篭の明かりが朧に浮かび上がらせていた。

何方どちらかのいかがわしき企てに加担致すものか?」

曲者からの返事は無い。

目だけが出された黒衣の装束に、刀は忍びが用うるというニ尺程の短い脇差程度のもので、構えからは、曲者四人の内では一番遣えるように推察された。

「先程の書付如何致す。返してくれぬか」

右京之典の静かな問い掛けに、曲者から殺気が放たれた。

―母上様。此れが宿命に御座りましょうか―

右京之典に不思議と恐れは無かった。そして、相手に合わせて脇差の筑紫国信包を静かに抜いた。

「御相手仕る」

相正眼。

間合二間から、一寸、二寸と互いにじわじわと間合いを詰めて行く。

どれくらい無言の対峙が続いたか。突然、右手の斜面の草叢くさむらから、眠りを妨げられた山鳥が羽音を立てた瞬間、二人が動いた。

突進した両者が擦れ違って再び間合二間、互いに残身体。

同時に振り向いて、再び正眼に着けた時、右京之典の左の袂が一寸程切り裂かれていた。

相当な遣い手である。

忍びは情報の収集や風説の流布、敵後方の撹乱、毒による暗殺等を隠密裏に行う術に長け、それらを売り物にして主家を渡って行く反面、極力闘いを避け、剣等の武芸を一通り以上極めるような事は余りせぬものと、九郎右衛門からは聴いていた。しかし今、右京之典が対する忍びは、手を抜いてあしらえる相手ではなかった。

曲者は右京之典の腕を互角、あるいはそれ以下と見たのか、なんと右京之典に話し掛けたのである。

「お主、流儀は何じゃ」

「秋月円命流」

「聴いた事も無い田舎流儀じゃな」

更にその態度に余裕がでたようであった。それが普段喋らぬ者を饒舌にさせた。

「吾等は金で雇われて隠密仕事を為す。じゃが雇い主の名を明かす様では仕事は来ぬ。中身は知らぬが書付一つ金五百両じゃ。料理屋の一軒でも買おうかの。たまたま墓荒らしに来てみれば、其の方()が持参して呉れよった」

優位に立ったと想った曲者は笑っていた。

「書付を返して頂けぬか?」

「確かもう一つ書付があったな。あれも渡せば命は助けてやるが…。千両はどうも儂一人の物になったようじゃ。一度に二件の店持ちか」

「某は人を殺めた事が無い、出来ればそなたも殺めとうは無い」

「呆けた事を抜かすで無い」

既に勝ち誇ったような言い回しであった。

「ならば致し方なし」

右京之典はそう言うと、刃長一尺六寸四分。八代将軍吉宗の「全国御刀御改」で、 

―元先の身幅が詰まり、中切先が伸びて平肉が豊かにつく地金は板目よく詰んで、地沸厚く付き、地景が絡んで地より沸きたつ―

と評された筑紫国信包を持った右手を、相手の目線まで上げた。

「秋月円命流秘奥義。小太刀法…」

そこまで口にした時、稲妻の如き刺突が襲って来た。

右京之典は左肩を退いて半身となり、相手を迎え入れながら突きを躱しつつ、信包を持つ右手を突くようにして切先を相手の左の首筋へと延ばした。

―転瞬―

今度は相手の近づくのに合わせて腕を縮めながら、まるで信包の物打ちが首に纏わり付つくように、そこを中心に相手の右脇を擦れ違いながら背後に回り込み、縮めた腕を伸ばしつつ飛び退りながら、後ろから相手の右の首筋を曳き切って、再び正眼に構えた。

それらの動きはすべて一瞬の事で、曲者は首筋に冷やりとしたものを感じたが、まさか、右京之典の突きを軽く躱した自分が斬られているとは想いも寄らず、再び振り向き、構えを取ろうとした。しかし、俄かに目が眩んで適わず、

〔何っ?〕

っと、出した積もりの声が声にならず、虎落笛のような

「ひゅーっ」

という音だけをその喉首から漏らすと、肩口にぬるりとしたものを感じながら、己の膝が崩れ折れて行く記憶が最後であった。

「小太刀法、短長」

小さく呟き、ゆっくりと息を吐きながら構えを解いた右京之典は、刀身に血振りを呉れ、内側に鹿の裏皮を縫い付けた秋月円命流独自の『拭い袋』から、拭い用の紙と布を取り出すと、何度も丁寧に拭い、今度は拭い袋を裏返した皮で丁寧に拭い上げてから鞘に納めた。

この技は、豊後にあった流祖・無二之介が、伴天連の刺突剣法「エペ」なる技に対抗する為に編み出したという、小太刀の隠し奥義の一つであったが、相手の内懐に入る為に、大きな危険を伴う。それでも「短長」の技を使ったのは、曲者に奪われた書付を守る為であった。

既に息絶えた曲者に合掌し、懐を探って書付を取り出すと、右京之典は再び古心寺への石段を登りながら、致し方無き事であったとはいえ、たった今、直接は己に何の恨みも無い相手を殪し、そしてこれから、

―このような闘いの中に、身を投じて行く事になるやも知れぬ―

との想いに、胸の内に忸怩たるものをやはり禁じ得なかった。


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