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二章、円命流奥伝

必ず一月の内に会得せよ。もし出来ぬ時は、仏門に入り、世との関わりを絶つものと心得よ-円命流の秘奥義を会得することを命ぜられ、弛まざる修行によって、無事に奥伝を許された右京之典。しかし、その隠し奥義には、天下を揺るがすほどの重大な使命を帯びた、秋月黒田家の秘事が込められていた

           ニ、円命流奥伝


翌朝、右京之典は未だ明け切らぬ雪の残る野道を田代たしろ村へと向かった。

野鳥村の澤空たんくう庵を未明に発ち、城下を東西に抜けて南に折れ、山見川に沿った土手道を上流へと上り、凡そニ里半(約十km)の道程みちのりを僅か一刻(約二時間)足らずで田代村まで歩くと、左手の小高い山のに、こんもりとした杜に囲まれた社が見えてきた。

その麓の田代明神と刻まれた鳥居の前に着いたとき、ちょうど明け六つを告げる時鐘が遠くから届いてきた。

大きく息を吸い込んだ右京之典は、二百段は有ろうかという、両側を杉の大木に挟まれて遥か上方まで続いた薄暗い石段を一息に駆け上がり、ひとつ目の鐘の音の響きが消えぬ内に、息も切らせずに登り切った。

「参ったか」

小ぢんまりとした社殿の前に立つ九郎右衛門の前に、右京之典は片膝をついた。

「お師匠様、お早うござります」

「本日よりひと月、秋月円明流奥義を相伝致す。必ず一月の内に会得せよ。もし出来ぬ時は、仏門に入り、世との関わりを絶つものと心得よ」

「はい」

「では、参れ」

社殿の裏手から、奥へと入っていく九郎右衛門に右京之典も続いた。

身の丈程もある枯れ薄の間を四半刻も登って行くと、六間程のまる平地ひらちが開けた。

そこは北側にある見上げるような二本の楠の大木に遮られた所為せいで、この大雪にも関わらず薄っすらとしか雪が積もっていなかった。

奥に目を移すと、三尺四方の小さなほこらと、その向こうに苔むしたような墓石とも思われる岩が、枯草の中、転がるように幾つも並んでいた。

「切支丹の隠れ墓じゃ。どれかは分からぬが秋月新免家の祖、無ニ之助むにのすけの墓もある」

右京之典が初めて知る場所であった。

「右京之典。秋月新免家の祖、新免無ニ之助一真(かずまさ)は戦国の世、筑前黒田家の祖・長政公の御尊父・孝高(よしたか)公が、太閤殿下の臣として中国(山陰・山陽地方のこと)に在りし頃より仕え、常に共に戦って来た仲であった」

「ご本家大老、加藤家の祖にして、三奈木黒田家を立てられた一成かずなり公のお父上ともども、囚われた孝高公をお救い申した事もあった」

「黒田家が筑前に入部する前、何処におったか知っておるな?」

「はい。豊前かと」

「そうじゃ。豊前は古くより切支丹の地でな、太閤による九州平定の後も、豊前を始め九州各国はキリシタンの国であった。豊前に入部された孝高公はキリシタンに帰依きえされ、弟・直之公、一成公も、また無二之助も、そして多くの家臣もそれに続いた」

「後に、秀吉公から棄教の命が下った為に孝高公は従われたが、徳川家の世になっても直之公を秋月、一成公を三奈木など、主な家臣を筑前の南部に配され、切支丹への信心を続けさせられた。その時に、直之公に与力として付けられたのが無二之助一真じゃ」

「その頃、この辺り一体には沢山の切支丹寺があり栄えたというが、寛永の頃(一六三七)に島原の乱が起こり、それに切支丹信徒が加わっておったということで、役後にご公儀は禁教令を厳しく改められた。誠はあまりの圧政に対する領民の一揆であったのじゃがな、この地でも大慌てで切支丹寺や切支丹墓を遺棄し、皆棄教したのじゃ」

「よって、城下の寺々にはそれ以後に建てられた墓があるが、家祖、長興ながおき公以下、(まこと)の先祖の墓はこのような荒地に、石ころが転がっておるだけなのじゃ」

「左様なことが…」

「無ニ之助一真は黒田家中に当理とうり流兵法を指南し、特に十手じって術に秀でておった」

「十手術とはどのような?」

「十手術だけは、そなたにも教えておらなんだな」

左手ゆんでに鉤のついたニ尺程のかねの棒を持ち、右手めてに小鑓や薙刀、野太刀を持つ。左で受け、引き倒し、右では薙ぎ、突き、叩く。組討になれば左手の得物で締め上げ、掻き斬る戦場での実戦の術じゃ」

「もしやそれが秋月円明流の内の二刀太刀の技の基でございますか?」

「その通りじゃ。だが、それまで戦場ばかりが舞台であった無ニ之助が、あるとき足利将軍の剣術指南、吉岡(なにがし)と立合う機会があったそうじゃ。その頃既に京を追われた将軍家の指南如き何程の物ぞ、と自身満々に仕合うてみたが、なんと小太刀こだちの相手に三本の内一本を取られてしもうた」

「小太刀に、でございますか?」

「左様、吉岡某は代々、足利将軍の指南を務める吉岡流の兵法者であったそうな。仕合うた後、太刀に対し不利と思われる小太刀で何故に一本取られたのかどうしても納得がゆかず、無ニ之助は尋ねたそうじゃ。すると、『合戦ばかりが戦いの場となるわけではない。当流は古より伝わる京八流の一つ。もともと小太刀術は屋敷内で不意に襲われた時に遣う公家の秘術じゃ』と」

「戦場の刀法とは違うといことでございますか?」

「いかにも。甲冑を着る介者かいじゃ剣術に対し素肌剣術ということじゃ。屋内では鑓は振り回せぬ。また、もみ合えば短剣が便利じゃ。また離れた場合は投げ打たねば意味は無い。やがて戦いの世が終わり徳川の御世となり、武器の携行が厳しく禁ぜられ、殿中にては脇差のみ、往来でも大太刀、ましてや弓鑓を持ち歩く事は出来なくなった。武士が携えるは大小二本の刀のみとし、今の刀の長さが定められたのじゃ」

「そのような事で刀の定寸・・というものが定まったので御座いますな」

「そうじゃ。様な刀で戦が出来よう筈もないわえ。そこで、戦場往来の豪胆な当理流兵法を平時にも備うることが出来でくる武術として練り直したものが秋月円明流じゃ。そして、平時に用うる『刀』を以って、治世に遣う刀術が円命流隠し奥義じゃ」

「ニ刀を使われ、剣聖とも云われる宮本武蔵様は円明流と関わりがあるやに聞いておりますが」

「大太刀、小太刀を使うニ刀の術は当理流十手術に、豊後で見た切支丹伴天連きりしたんばてれんのニ刀の術を取り入れて無ニ之助が創案したものじゃ。武蔵玄信むさしげんしんも、もとは新免の一族の者であり、無ニ之助の弟子の一人であった。武蔵玄信はニ刀の技を究めんとしたというが、功名心ばかりが人一倍強く、戦いの不要な太平の世へと移り行く中、左様な大げさな剣法を遣う場も見せる場も次第に無くなり、外に名声を求めて出奔したのじゃ。本人が仕合うたと云われる数も、云伝えの半分も無いであろう」

「左様に御座りましたか」

「円明流は他家にも伝わっておるが、その隠された真の奥義を相伝するは秋月円命流のみ。秋月円命流は殺人せつじん剣に非ず。黒田家、そしてこの太平の世を守る為にのみ遣うを許される。良いな」

「はい」

「秋月円命流奥義、一刀太刀法二十手、二刀太刀法六手、居合法十四手、小太刀法五手、短剣法五手、手裏剣法四手。この内、秘奥義が隠されておるのは小太刀まで、見せるのは一度限りじゃ。よいな、心して見よ!」

そう言い放つと、宗玄こと新免九郎右衛門は円い平地の真中に、両足を軽く開いて静かに立つと、両の目が閉じられ、時折風花が舞うだけの静謐せいひつときが辺りを包み込んだ。

と、その腰間から水が流れ出るように、ひとつの無駄も無い動きで剣が抜かれ、

「一刀太刀、水月」

「流水」

「深谷」

「稲妻」

右京之典は目を見張った。それは初めて見る不思議な剣であった。

音も無く縦横に剣が振るわれ、森閑とした冷気が両断されてゆく。

しかし、ちらちらと降る雪は・・そよとも乱されることなく、何事もなかったかのように地上に舞い落ちてゆく。

その動きは、まるで能の達人が舞を舞うかのようで、右京之典は声も無くその動きをただ見詰めていた。

凡そ四半刻(三十分)。

一刀、二刀、居合と、右京之典は瞬きをするのさえ忘れたように見入った。

そしていつしか小太刀の技に移り、

「風車」

「短長…」

小太刀法5手目、「深胴」を終えると、最後に九郎右衛門は血振りの型を終え、脇差を静かに鞘に納めた。

「見たか?これが真の円命流じゃ」

「はい…」

右京之典は継ぐ言葉も無く頷いた。

「そなたには既に並みの者では適わぬ。これが戦場なら、何ら恐れる事は無い。馬を駆り、鉄砲を撃ち掛け、鑓を操り、当に一騎当千じゃ。しかし、平時の相手は顔が見ゆる。事情が分かる。直前まで信じておった友かも、契った女子かも知れぬし、幼い子供をたぶらかしてのことかも知れぬ」

「これから私は、そのような戦いを為して行かねばならぬのですか?」

しばし間を置いて、九郎右衛門はゆっくりと口を開いた。

「分からぬ。しかし、そなたの定めを想えば、恐らく…、な」

「しかし右京之典。このような『型』で闘いに勝てる訳ではない。円命流はそもそも、馬術、体術、銃術の外、戦場の乱戦を勝ち抜く為の全ての技と策を纏めた兵法じゃ。しかし先程も言うたが、平時の戦いは決して力だけでは勝てぬ。普段の政事や様々な術を以ってのいましめに対して、如何に抗してゆくか。然して、一旦剣を以っての闘いになれば明鏡止水。惑う事無き鏡の如くに心を研ぎ澄まし、そしてその無の心にて剣を遣わねばならぬ」

「無の心で剣を…」

「そうじゃ。真の敵、正邪を見抜く心剣じゃ。」

「心で遣う瞑想の剣でございますか?」

「その通りじゃ。邪な心を抱いて向かって来るなれば、たとえ美しき女性にょしょうの白き肌でも躊躇ちゅうちょ無く斬り裂かねばならぬこともあるやもしれぬ。それが、秋月円命流と右京之典、そなたに課せられた使命じゃ。ひと月の後、検分いたす。よいか?」

「畏まりましてございまする」

そう言い置いて去りゆく九郎右衛門を見送りながら、果たして自分に出来るのだろうかと、先程の師の動きを思い返していた。


翌日から、奥義会得の為の孤独な修練が始まった。

夜明けから日暮れまで、田代村の明神社の裏手から通じる切支丹墓の前の平地に座して瞑想し、九郎右衛門の動きを頭の中で何度も繰り返しなぞってみたが、一見軽やかに見える微風そよかぜのような太刀捌きの内には決然とした豪壮な力が秘められ、舞の様に緩やかに振るわれたのに、その刃先から逃れることは至難の技と思えた。

それはまさしく、よこしまなもの寄せ付けない凛とした聖者の剣であった。

右京之典は毎日、半刻。長い時は一刻余りの瞑想の後、立ち上がっては剣を振るう事を繰り返した。

しかし何度繰り返しても、それは何処かぎくしゃくとしていて、師の見せてくれた「奥義」とは程遠いものであった。

師は、一度だけその奥義を見せ、

―決して力ではない。何者にも惑わされぬ無の心じゃ―

と言った。

三日目から右京之典は、明神社の境内の外れに建つみすぼらしい小屋に泊り込み、未明に起き出しては、まだ冷たい風が吹き抜ける社殿で結跏趺坐けっかふざすること一刻。自ら炊いた塩粥で朝餉を終えるとまた、休みもせず瞑想と剣を振るう事を続けた。

それは、日暮れてもなお、五つ(午後八時頃)の鐘が打たれる頃まで続けられ、再び社殿で半刻ばかり座禅を組んだ後、刀の手入れを終えてからやっと寝に就く。毎日を一人きり、自らに向き合う事こそが必須の事ではないかと考え、己に課したのだ。

二十日をニ、三日過ぎた辺りから、ようやく最初のもやもやとした雑念が次第に消えてゆくのが感じられた。

そして二十八日目の今日。

午前の座禅と昼餉を終え、久しぶりに穏やかな晩冬の陽が射込む平地の真中に座し、瞑想する事一刻。

右京之典は、膝上の銘刀「信国重包のぶくにしげかね」を掴むと、眸を閉じたまま静かに立ち上がり、脇差の横に差し添えると、柄に手を掛けゆっくりと抜き放った。

筑紫住源信国は、黒田長政が筑前入封の際引き連れて来た黒田家御(とめ)鍛冶で、十五代重包は享保六年(一六二二)、武芸を奨励した八代将軍吉宗が行った「全国鍛冶御改(おあらため)」にて葵一つ葉紋を彫る事が許された刀工四人の内の一人であり、重包は信国一門では珍しく、相州伝の堂々たる豪快な刀を打った。

刃長ニ尺三寸一分。同じ重包の脇差と共に、九郎右衛門から譲り受けた厚重ねの豪壮な刀身が振るわれた。

「秋月円命流奥義。一刀太刀、水月」

刹那。さして大声でもないその声に驚いた番の目白が、楠の枯れた一葉を落として慌てて飛び去って行った。

太刀が左から右に水平に回された時、そのひらひらと舞い降りる枯葉が偶然にも刃先に触れ、音も無く両断された。

両断された葉は二つに分かれてもなお、その軌跡を変えることなくゆっくりと地面に落ちていった。

まるで緩やかな舞に似て、その動きは「動」の中に「静」を想わせ泰然自若。無意識に振るわれるその剣は正しく「静」の内に「動」を感じさせ、幽玄であった。

最後の『小太刀、抜胴』を終え、血振り納刀の後、刀身を鞘に納めると静かに息を吐いた。

(なんとか出来た!)

―しかし、まだ何時でもこうは参るまい―

そう想ったが、やはり一つの頂きに到達したようで、その喜びと自信は右京之典の内に、大いなる勇気が湧いてくるのを感じさせた。


翌々日、平地の真中に瞑想する右京之典は気配を感じると、ゆっくりと立ち上がり、振り向いて片膝を着いた。

「秋月円命流秘奥義。ご検分下さりませ」

「うむ」

凡そ四半刻(三十分)。右京之典は、一刀太刀、二刀太刀、居合、小太刀の隠し奥義全ての型を遣い終え、再び片膝を着いた。

「終えましてございます」

「右京之典。見事じゃ」

「お教えによりまして」

「秋月円命流。奥伝許し遣わす」

「ははっ。有難き幸せに存じまする」

九郎右衛門は懐から小さな巻物を取り出すと、右右京之典に向けて胸前で広げた。その巻頭には、「秋月円命流奥伝之書」と大書されており、続いて秋月円命流奥義、一刀太刀法二十手、二刀太刀法六手、居合法十四手、小太刀法五手、短剣法五手、手裏剣法四手に付いての解説が書かれてあった。そして最後に雄渾にも書かれた三行を声にした。


以一剣祓禍神いっけんをもってかしんをはらい

|以ニ剣佑天下成平《にけんもっててんかをたいらかになすをたすく》

|以此合心剣為聖剣門《これをもってしんけんにあわせせいけんのもんとなす》―


「技にても力にても、ましてや伝書にても無し。今一度言う、その心にて剣を遣うのじゃ」

「はいっ」

「剣は人を斬るが為にあるは自明。されど、秋月円命流は殺人せつじん剣に非ず。この意よくよく噛締め、御役目努々(ゆめゆめ)疎かに致すべからず」

「ははっ。神明に誓いまして」

「うむ。秋月円命流奥伝、見るべき者無ければ伝うる事(あた)わず。また、他の芸にて御役目為さしむ事(かな)わばうけたまわるに能わず。子々孫々迄相伝致すも、そなた一人(いちにん)のみのて途絶ゆるも構わず」

そう言うと、九郎右衛門は平地の奥にある祠の裏側まで行き、三段程積まれた石垣の前にしゃがみ込み、小柄こづかを抜いて石垣の隙間に差し入れて真中辺りの石を慎重に一つだけ外した。

石垣の真中にぽっかりと開いた穴の奥は空洞になっているらしく、九郎右衛門はその穴に手を突っ込んで中にあるものを確かめると、幾重にも油紙に包れた四角い箱のような物を取り出した。

包みを解かれた物をよく見ると、それは所々青錆びが浮いた銅造りの銭箱であった。

懐から鍵を取り出して、掛けられた錠前を外して蓋を開けると、もう一つ木箱がぴったりと入っており、さらにその蓋を開けると、中には油紙にしっかりとくるまれた書状らしき包みが二つ収められていた。

二つの紙包みを取り出して、銭箱を穴に戻し、石垣を元通りにすると、訝しく見詰める右京之典の傍まで戻って来た。

「今宵、庵に戻りて、目を通して置くのじゃ。中に書付が入っておる。誰にも見せてはならぬ。また、決して肌身より離してもならぬ」

厳しく言って、二つの包みを渡した。

「南冥殿も下向されておる。明日は日田より三郎右衛門殿も御出でじゃ。明日宵五つ(午後八時頃)、古心寺まで参れ。今の事、忘れてはならぬ」

「はい。心得ましてございます」

右京之典は、平地の端に置いた小さな荷を背に負うと、九郎右衛門とともに石段を降っていった。九郎右衛門は、別れ際、

「これよりは何時にても旅立てる様、常に仕度を致しておくのじゃ」

と些か不可解な事を言った。


新たに月が立ちうるう一月となった翌遡日(ついたち)

夕暮れてもなお半刻程、離れで一日中仏壇に向かっていた右京之典は、昨日九郎右衛門より受け取った書状を懐に入れると立ち上がり、両刀を手挟んだ。

母屋に戻り綾野に外出を告げると、典膳は後任の家老、田代半太夫の屋敷に出掛けているとの事であった。

草鞋を付け、何時もの小袖のみで出掛けようとするのへ、

「今日は寒が戻ってよう冷えますれば、これを羽織って行かれませ」

と言って、背中から羽織を着せ掛けてくれた。先程縫い上がったばかりだと言う。

それはこの数ヶ月、綾野が自ら紡ぎ、近在の百姓の女房に教わりながら織り上げた生地で仕立てた袷の道中羽織であった。

「婆、何時このような物を」

「ちゃんと小袖も、袴も揃えてございまするぞ」

と胸を張った。

「立派なものじゃ。遠慮のう着せて貰おうぞ」

素直に喜んで礼を言う右京之典に、

「気を付けてお行きなされ」

と言って送り出した。

暦の上では春といえども「衣更着きさらぎ」とも謂われる如月きさらぎ二月を控え(天明四年は閏一月有)、風は無いが寒が戻り、澤空庵から城下へと向かう野道は深とした冷気に包まれていた。

道すがら、書付に書かれてあった内容と、何故その様な大事な物が自分に託されたのかを想い返していた。

九朗右衛門から渡された書付の内、まずひとつ目は大変に古いもので、


―慶長五年九月十九日大戦にて東軍勝利並に天下平均の儀、

誠に筑前守殿の御忠功御味方第一等の故と存じ候事一時にても忘じ候事之無く、

御料地御子孫永く疎略の儀之在る間敷く候事約定致し候―


と冒頭にあり、関ヶ原直後、戦に勝利できたのは黒田長政のお陰であると、その軍功を誉め称え、徳川家康が手を取って感謝の言葉を述べたとの言い伝えを証明する内容であった。

続いて、


―今太平天下永世の事計るに、栄華を極めし豊家ほうけが如く世子定ら不りて家絶ゆる事甚だ多くして、愚と云え供長子優先致し、外に優る庶子を別けて家を興させ補佐致す可候

万一、嫡流途絶たりし折には之より新に嫡流立つる可相図りて決す可候

若し永きに亘り図る事能わず定ら不れば筑前守殿御定め在る可く御役目申付者也

又、筑前守殿にても其御役目末永く相伝得あいつたうるる可、家を分け御子孫にて後々迄御役目相勤可(あいつとむるべき)者也

尚、岡本正宗短刀一振与え証左と為す者也

慶長十四(一六〇九)年三月四日

黒田筑前守殿   

前内大臣さきのないだいじん 源家康 ―


と、立派な花押まであった。

〔慶長五年九月十九日大戦〕とは、言うまでも無く関が原の戦いのことであり、永きに渡る年月と、大きな犠牲を払って成し遂げた、その天下の太平を永続させんが為の影の役目を、家康は黒田長政、そして黒田家に託したとする誠に重大な内容であった。

さらに元和元年(一六一五)九月九日付けの裏書がなされ、その内容は大凡次のようなものであった。

―家康の九男・義直(よしなお)を尾張、十男・頼宣よりのぶを駿府に配してそれぞれ一家を興させ、宗家である将軍家と三家体制にする事。

黒田家でも長子忠之に宗家を相続させるが、長興、高政を分家させ三家とする事。

そして将軍家に世継問題が起こり、政事に空白が生じるようであれば、黒田家が采配する事。

また平世は役目を秘し、それを代々然るべき者が負うべき事。 ―

など、将軍位を秀忠に譲り大御所として駿府にあった頃の徳川家康と、筑前黒田家の始祖・長政が太平の世を存続させる為に、二人で様々に謀った事が記されていた。

徳川幕府の政治に、黒田家がこれほど大きく、そして深く関わっていたことは、右京之典にとって、誠に驚くべき事であった。

そして、今ひとつの書付は、なんと八代将軍であった徳川吉宗から、秋月黒田家四代・黒田長貞に宛てた書状で、


―八代就位候儀、柳営幕臣朝臣乱騒の兆候在りし折、誠に甲斐守殿の御忠節を以って平なるを保ち、甚だ有難く奉謝致し折候、末まで努々ゆめゆめおろそかに此れおもう事無く候…―


と、八代将軍の座を巡って幕閣直参、諸侯、朝廷迄分かれて紛糾し、争いが起きようとしたが、八代位に就けた事は三代・長軌(ながのり)殿のお陰であると始まり、以下は凡そ次のような内容であった。

―三代長軌公のお陰で将軍位に就けた事と神君家康公よりの御役目を今後共万一に備え謹んで継承して欲しいこと。

先代・長軌殿より提起のあった、現三家も血筋が遠くなった為に、将来新たに血筋の近いニ家を設けて継摘問題を防止する案を実施する積りである事。

今後万一、改めて継嫡問題が起きた場合も采配の御役目を役立てて欲しい事…―


などなどが記されていたが、最後には更に驚くべきことが書かれていた。


―宝永七年の先〃代・甲斐守殿並びに正徳五年に先代・隠岐守殿急逝されしは、尾張が謀りたる事判明致し候。無念也。営中にても尾張が謀りし諜者居りし由判明致し候、御当家にても御気を附けられ度申送り候、向後尾張殿如何(いか)なる所以ゆえんにても将軍位に就く事能わず…云々

享保元年六月… ―


これは吉宗の八代将軍就位が決定した直後で、それまで五代綱吉が身罷みまかって後、六代・家宣、七代・家継と将軍の存命が短く、僅か十年足らずの間に代替わりが三回も続いた上、何れも世継問題が拗れて政情不安が続いていた時代であった。


―暗殺―


幕府の重職である奏者番そうじゃばんをも勤め、甲斐守に任ぜられていた秋月黒田家のニ代・長重が、六代家宣就位の翌年、宝永七年(一七一〇)に、鹿狩りの後急死した事と、正徳五年(一七一五)、三代・隠岐守長軌が在位僅か五年足らずで、江戸上屋敷にて没した事は暗殺であり、将軍継承問題に絡んだ尾張家の謀略だと言うのだ。

昼間、あまりに天気が良かった所為か、日が落ちてからの急な冷え込みに道の端には既に霜が降りかけていたが、事の重大さに右京之典には寒さを感じる余裕など無く、星明かりの野道を足早に降ると、城下の手前で、町中を東西に貫いて豊前小倉から肥後へと至る秋月街道へと入った。

野鳥川に懸かる橋を渡り城下に足を踏み入れ、かぎの手を幾つか折れて城下の中ほどまで来た時、遠くで犬の遠吠えが起こり、右京之典の左側の武家地から右側の町屋へと移動していった。

高札場である札の辻から右へ折れてニ、三町も行けば古心寺へ続く石段が見えてくる筈だが、春まだ浅く、宵五つ(午後八時)ともなれば表を行く人も絶えて、無月の深い闇が城下を包んでいた。

北へ転じて穂波郡ほなみごおりへ抜ける『白坂道しろさかみち』となった緩い上り坂を登って浄覚じょうかく寺の門前を過ぎると、右手に古心寺の細い石段が現れ、数間置きに立つ燈篭とうろうに灯りが入り、山門へと続いていた。

難しい話が続きますが、次章はいよいよ殺陣シーンも。【これは歴史小説でなく『時代小説』です。時代考証や史実・風俗等、なるべく忠実にと調査・研究した上でとは考えていますが、あくまで『フィクション』です。今後、文章中の表現に現代では受け入れられない表現等が出てくる場合もあるかもしれませんが、その時代をより的確にあらわす為のみであり他意はありません】(2004.冬頃に文庫相当400ページくらい執筆していたものを再チェックしながらアップしています)

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