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一章、古処千日参禅

「歴史」ジャンルにカテゴライズしていますが、歴史小説でなく『時代小説』です。登場人物や出来事の多くも、実際の歴史を基にしてかなり忠実に描いていますし、時代考証や史実・風俗等においても、なるべく忠実にと調査・研究した上でとの考えで執筆しておりますが、主人公を初め、“あくまで『フィクション』です”。また、描かれる実在の人物や歴史描写において、解釈の違いや好き嫌い、また今後、文章中の表現に、現代では受け入れられない表現等が出てくる場合もあるかもしれませんが、あくまでその時代をより的確にあらわす為のみであり他意はありません。創作の文学作品ですので、これらをご理解いただいた方のみ閲覧くださいませ。(2004.冬頃に文庫相当400ページくらい執筆していたものを再チェックしながらアップしています)

           一、古処千日参禅

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」

ひたすら山道を登る息遣いだけが、深い雪に覆われた険しい細道を頂へと向かっていた。

日頃は修験者が行き交う山道も、さしもの大雪に野兎の他には出会う者とてない。

始めには、木々が庇となって道を覆う雪を防いでくれた処もあったが、登るにつれて、膝の辺りまで、時には吹き溜まりの中、腰の辺りまでも埋まりながら只ひたすら進む行程であった。

「ハッ、ハッ、ハッ…」

規則正しく続いていた息遣いが不意に途切れ、一瞬だけ立ち止った若者が右手を振り見ると、木々の間に大きく視界が開けた。

未だ雪のちらつく仄暗(ほのぐら)い谷間から見下ろす城下も里も、全てが白く覆われていた。

この冬は例年になく雪が多く、昨日の昼前から降り続いた雪は、麓では一尺ほどに積り、見下ろす下界は川以外、野も畑も、道さえも区別が付かなかった。

九州の地に、神々が住まいする阿蘇や高千穂などの高地でも無いのに、このように雪深い土地があろうとは、他所(よそ)に暮らす人々は思うまい。

だが若者は気にする事も休む事も無く、ひたすら深雪(しんせつ)の山道を登って行く。

若者にとって、子供の頃から何度も登った、そしてこの三年近くは一日たりとも休むことなく踏んで来た通いなれた道だ。

たとえ滅多に遭わぬほどの大雪であろうとも、自分の庭のような山で、雪ごときに勘を狂わされて道を踏み外す様な事は無い。

五尺五寸(約167cm)ほどの均整の取れた身体が、雪を掻き分け掻き分け、山道をぐんぐん進んで行く。

またしばらく行くと、十ニ、三尺はあろうかという切り立った大岩に行く手を塞がれたが、これを乗越えれば山頂まではもう一息だ。

若者は嬉々として岩肌に穿(うが)たれた鎖に取り付き、一気に岩壁を登りきった。

頂を目指そうと再び進みだしたとき、三、四間ほど先の黄楊(つげ)の枝々に積もった雪が雪煙とともに突然崩れ落ち、不意に左手の雪に覆われた笹群が割れた。

(しまった!)

雪で気配が消されていたとはいえ、感付くのが遅れたと自分を悔いながらも、若者は次の瞬間には背中を丸めて自ら後ろに転がり、突然現れた大きく黒いものを一気に後方へと投げ飛ばしていた。

振り向くと三間ほど後ろの杉の大木の根元に、三十貫(約115kg)はあろうかと思われる大猪が気を失って倒れていた。

若者が猪に近づき、右の掌で猪の肩口を突くと、倒れた猪が俄かに気を取り戻し、

―何が起こったのか解らぬ―

という態で目を回しながらも、よろよろと笹群の中に戻っていった。

「ふぅー」

っと若者は小さな溜息を一つ吐いた。

―未だ修行が足らぬ。たまたま身動きの取れる、雪の浅い所だったから助かっただけだ―

そう思いながらも、最後の登りを頂へと向かった。

雪は既に止んでいた。

しかし、まだ薄暗い夜明け前の山頂には、雪に覆われた幾つもの巨岩が累々と横たわり、その真中に二つに割れた一際大きな岩が(そび)えていた。

その昔、雷によって割られたという大岩によじ登り、雪を払い落として背中の木刀を降ろすと東に向い静座した。

岩肌は凍るように冷たかったが、夜半過ぎからニ刻以上ひたすら登り続けた若者の身体には却って気持良く感じられる。

双眸を閉じ、気息を鎮め、無心になり、ただひたすら日の出を待った。

一人きりの山頂に無音(むいん)の時が流れ、大岩に座してから凡そ四半刻(三十分)。

正面から左右の瞼に紅い光が射し、顔に熱が伝わってくるのが分かった。

若者は、日の出を全身に感じるとゆっくりと立ち上がり、目を見開いた。

すると、遥か彼方、輝く日輪に照らされて豊前豊後の峰々が連なる、神韻縹渺(しにんひょうびょう)とした風景が目に映った。

北に伸びる尾根には、藤原純友の乱を鎮圧した大蔵春実の子孫が、建仁の昔に築いたという秋月城の址が静かに横たわり、南に目を転ずると遠く阿蘇の高峰が望め、西には、背振と耳納の山々に囲まれた大平野を雪が白一色に染め上げ、その真中を一本の大河が、筑前と筑後の二国を分けて悠然と貫いていた。

若者は腰の竹筒を外すと、手を清め、懐から出した手ぬぐいに浸して顔を拭い、次に口に含み静かに飲み(おろ)した。

これは、中腹に小さな祠が築かれ、その裏手の岩場から滴り落ちる、霊験(あら)たかなる清水であった。

暦の上では、今年の立春は十五日であったが、

―春立てる日の若水に―

と想い立ち、登りの途次に竹筒に汲んでおいたのだ。

天明四年(一七八四)正月遡日の朝日に向かってニ拝すると、若者の唇から祓詞(はらえことば)が流れ出した、

けまくもかしこ伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ筑紫ちくし日向ひむかたちばな小戸おど阿波岐原あわぎはら御禊みそぎはらへ給ひし時にせる祓戸はらえど大神等おおかみたち…」

 玲瓏としたその声に、山頂の空気は次第に研ぎ澄まされ、まるでそこにあるものを超越して八方の空へと響き渡って行くようだった。

「…諸々(もろもろ)禍事まがごと、罪、けがれあらむをば祓へ給ひ清め給へとまおす事を聞こしせと、かしこみみ恐み白す〜」

次いで、古処山への千日の参禅が無事終えたことを謝し、世の安寧と領主・長堅(ながかた)公の病平癒(たまいへいゆ)を祈願して、拍手を二つ打って後、再び一拝した。

(母上、右京之典(うきょうのすけ)は二十歳になりました)

若者は心の中でそう問い掛けると、懐から一尺ほどの錦の布に包れたものを取り出した。

布袋の紐をほど解くと、出てきたものは一振りの短刀であった。

詳細は解らぬが、この短刀は世に「左文字(さもじ)」として知られた南北朝期の筑前の刀工「左衛門三郎吉安さえもんさぶろうよしやす」の作といい、一年ほど前に亡くなった母の形見であった。

左衛門三郎は正宗十哲にも数えられ、鍛えた刀は数々の伝説に彩られる名人であった。

「母の命はもはや永くはありませぬ。この短刀はそなたを身篭ったとき、そなたのお父上様が下されたものです。そなたは大いなる天命を負い、この世に生をう享けたのです。その定めから逃れようとせず、どのような時もそなたの心の想うままに行きなされ。そなたなら必ずやそれが出来ましょう程に」

そう言い遺し、この短刀だけを託して母が亡くなったのは、薄紅の梅の花が儚くも清く咲き出した頃であった。

父の名も、その『天命』についても明かさぬまま、母は、短刀に後世つけられたという『小夜左文字(さよさもじ)』の銘と、その名の由来となった、

―年たけて また超ゆべしと思ひきや いのちなりけり 小夜の中山―

との、二度目の奥州路を踏んだ西行法師が詠んだ歌のみを教えてくれた。

その小夜左文字を新玉の年の来光に(かざし)し、これから自らの運命が何か大きく変わっていく予感に不安と期待を抱きつつも、

(天命を全し、生きておらば、またいつの日かお会いできましょうや…)

たとえ何事が起きようとも、母の遺命に従い、天命に逆らうことなく、人の道に照らして、己の信じる道を往くのみと誓った。


九州筑前国中南部の嘉麻かま夜須やす下座げざ上座じょうざの四郡の中心に聳える霊峰、『古処山こしょさん』は、凡そ二千九百尺(八六〇m)。天明のこの頃は天台宗の修験道場として栄えていた。

その西麓に、三方を山に囲まれて、筑前福岡の太守・黒田家の分家である秋月の城下町はあった。

武家屋敷と僅かな商家が軒を寄せ合い、箱庭のような町中を野鳥のとり川が流れ、その小ささの割には寺が多く、その佇まいと澄んだせせらぎは、まるで小京の趣であった。

この地は、関が原の合戦の後、黒田長政が筑前と豊前の一部、五十二万余石を封ぜられて以来、黒田家が治めてきたが、もともとは鎌倉将軍から大蔵氏一族の原田氏が秋月の荘を拝領し、やがて秋月氏を名乗り数百年の間守ってきた土地である。

長政には三人の男子がいたが、嫡男である忠之ただゆきは幼少の頃より粗暴・暗愚であったため、長政は一時、廃嫡も考えたという。

将来を危惧した長政は遺言によって、ニ男・長興ながおきに南部の秋月五万石、三男の高政たかまさに東部の東連寺とうれんじ四万石をそれぞれ与え、代々の安定を図った。

その後、東連寺黒田家は五代・継高つぐたかが、後継ぎの絶えた本家の養子となったため享保五年(一七二〇)廃されたが、秋月黒田家は幾多の危機を乗越え、七代・長堅ながかたの時代を迎えていた。

江戸初期の黒田家家臣の学者、貝原益軒かいばらえきけんは妻・東軒とうけんの故郷である秋月について、その著書『筑前国続風土記』の中で、

―この里山林景色うるはしく薪水の便よく材木乏しからず。且つ山中の土産多き事国中第一也―

と述べている。

しかし、僅か五万石の小名にとって、江戸参勤、幕府よりの諸役賦課は大きな財政的圧迫であり、長興が没し、二代・長重ながしげが就位する寛文の頃(一六六五)には既に財政は窮乏状態で、相次ぐ飢饉や風水害がそれに追い討ちをかけた。

これを克服する為に領主以下、家臣の家族、奉公人に至るまで、衣服から食事の内容までを細かく定め、倹約に次ぐ倹約で支出を抑え、葛、和紙などあらゆる産物を特産化し殖産を奨めた結果、少しずつではあるが財政が好転し、明和の頃(一七六四)から天明のこの時期まで、二十年近くで二万金に及ぶ備蓄金が蓄えられた。

順風満帆に見えた秋月黒田家にとってただ一つの気懸りは、先代・長恵ながよしが二十一歳の若さで亡くなり、今また十六歳の領主・長堅が、病の床に就いたまま世継のない事だった。


古処山への千日の参禅を終えた若者は、雪の山道を飛ぶように駆けくだ降り、一刻足らずで上り口のある野鳥のとり村まで降りてきた。

雪に埋もれた景色は同じだが、なんとなく里に近づいた暖かさが伝わり、何処からか聞こえてくる鳥の鳴き声に足を緩めた。

小川に沿った緩やかな里道さとみちを暫く下ると、土塀に囲まれた風雅な佇まいの屋敷が見えてきた。

屋敷へと懸かる板石の小橋を渡って冠木門かぶきもんを潜ると、老人が箒で玄関先の雪を掃いていた。

じい、今戻った」

「おお、戻られましたか。ご苦労にござりました。千日の参禅のご無事を、月青院げっしょういん様にご報告なされませ。そうじゃ、湯も沸かしておりますで、先に湯屋に行かれませ」

「贅沢なことじゃが、このまま母上様の前に参るわけにいくまい。先に湯屋に参ろう」

「おお、そうなされませ。ばばが腕にりをかけて正月の祝肴いわいざかなを用意しておりますでな」

足拵を解いて湯殿に行った若者は、頭からざぶんと湯をかぶり、身体を念入りに洗うと湯に浸かった。

長い間雪に晒された全身の皮膚が一瞬硬直したが、しばらくすると心地よくほど解けて行くのが分かった。

これから、己が望むと望まざるとに拘らず、何かが起こっていくのであろうかと、複雑な思いを抱いたが、暖かな湯の中に至福のひと時を感じ、束の間の安寧を素直に享受することにした。

湯から上がり母屋に戻ると、先程婆と呼ばれた老女が迎え、若者を縁側に座らせて髪を結い直した。

「ご苦労に御座りましたな」

じいばあのお陰じゃ。しかしこの千日、確かに何かが成長したのであろうか。考えばかりがあれこれと巡る」

「また左様なことを申されて。何より逞しくなられ、また、直ぐに思い通りにならなくとも我慢するということを身に付けられましたことは、婆にはよーく分かりまするぞ」

「左様であろうか」

「ちょうどもう一年。月青院様が生きておいいでであればどのように…」

老婆は声を詰まらせ、両の目を潤ませた。

夏でもひっそりとしているこの辺りでは、遠くに炭焼小屋があるきりで、見渡す限りこの屋敷以外には人家もない。

低い土塀を巡らしたさして広くない敷地には、母屋とそれに続く湯殿、小さな離れが建ち、縁側からも見渡せる庭には見事な枝振りを見せる老梅が、雪の下にしっかりと蕾を付けていた。

土地の百姓や子供が『だんごあん』と呼ぶこの屋敷は、本当は『澤空庵たんくうあん』といい、凡そ十年前、若者の母であった月青院が、大宰府の観世音寺の戒檀かいだん院でいましめを受けて結んだ庵であった。

そこに、ニ年程前、秋月黒田家の家老を二十余年の永きに渡り勤め上げ、破綻寸前だった財政を立て直し、中興の臣と云われる渡辺典膳(てんぜん)が隠居して、妻女の綾野あやのとともに移り住んで来た。

里の者は、まさかそのような身分にあった者とは思わず、優しげで品の良い安主と、それに良く仕える正直な下僕の夫婦と思っていた。

三人は、まるで親子のように仲睦まじく暮らしていたが、一年程前に月青院が亡くなり、その後暫くして、この若者が一緒に住むようになった。

若者の名は新免右京之典興真しんめんうきょうのすけおきまさといい、七歳の時より、秋月黒田家の家臣、新免九郎右衞門武政くろううえもんたけまさの養子として育った。

しかし、新免家には別に嫡男がおり、後継ぎとして入った訳ではなかった。

新免家は「古御譜代こおふだい」と呼ばれる関が原以前からの黒田家譜代で、代々、馬廻うままわり二百五十石を給わる家柄であった。

当時、九郎右衛門は二人いる剣術指南の一人として、また、重役からの相談も預かる者として任じられていたが、嫡男の勇太郎に家督を譲り隠居した後、卒然と出家し宗弦と号して、城下から数里程離れた三奈木みなぎ村にある、臨済宗涼安(りょうあん)寺という、荒れ寺寸前の小さな寺の僧房に移り住んだ。

城下では、突然の九郎右衛門の隠居や出家とそれに続く領外への退出、また何故養子などを取ったのかなど、訝しい九郎衛門の行動を皆が噂しあったが、養子の出自が日田の掛屋かけやの縁者らしいということ意外は分からず、半年ほどで噂は立ち消えてしまった。

三奈木村は、秋月城下より東南へ二里余(約10km)、本家である福岡領下座郡(げざごおり)にあるが、こおりの北半分は秋月領で、残りの南半分の内、三奈木を中心とした一万二千余石を、藩祖長政の義兄弟として育ち、功により黒田姓を賜った加藤一茂が、三奈木黒田家として知行し、大部分の重臣が取り潰される中、大老職とともに代々受継いでいた。

そして、すぐその南は上座郡じょうざごおりで、さらにその南は「御料所ごりょうしょ」と呼ばれる幕府の直轄地である天領・日田と境を接していた。

右京之典は、秋月城下にある新免家の屋敷には住まず、出家した九郎右衛門とともに、この三奈木村の涼安寺に住んだ。

最初、十歳までの三年間は、四書五経などを始め一通りの学問と、正式なものではないが禅の修業をさせられた。

また、新免家には戦国の頃よりの実戦兵法(ひょうほう)が密かに伝わっていて、十歳を過ぎてからは剣術、体術、槍術、銃術、馬術の他、用兵の法なども含め、厳しい武術の稽古もさせられたが、数人を除いて家内かないにこれを知る者はなかった。

さらに三年ほど前からは、右京之典自らが発起して、古処山への千日の参禅修行が始まった。

そして、今日のこの日、千日目の参禅を終えたのであった。

典膳と妻の綾野は、右京之典が物心付いた時から、

―爺と呼びなされ―

―婆と呼びなされ―

と言っては本当の孫、いやそれ以上に、まるでしもべのように世話を焼いてきた。

「婆、泣かずとも良いではないか。千日の修行が成就したのだ。母上様も笑顔でお喜び下さろう」

「それはそうでございますが、もし生きておいでならば、右京之典様のご成長をどのようにお喜びになられたことか…」

「ご報告して参るゆえ、後で一緒にな、正月を祝おうぞ」

髪を結い終えた若者は、綾野に優しく言うと離屋に行き、母の位牌に手を合わせ、千日修行成就の報告と仏の加護を願った。

母屋に戻ると、正月の祝肴の膳が用意され、典膳と秋野の他、三人の来客があった。

「おお、これは」

右京之典は慌てて廊下に座して平伏した。

「右京之典、ようやってのけた」

「右京之典殿、誠に祝着にござる」

「お師匠様、先生。お導きのお陰を持ちまして、右京之典、何とか誓願を全う致して御座います」

お師匠とは、出家して宗弦を名乗る新免九郎右衛門。また、先生とは、筑前福岡の儒者にして医家である亀井南冥(なんめい)であった。

亀井南冥は先進の医家としてまた、徂徠派そらいはの学者として既に名声が高く、この年には、福岡黒田家が創設する学問所『甘棠館かんとうかん』の教授となる事が決まっていたが、秋月領主・長堅に度々講義を請われて、頻繁に秋月に下向した南冥は、ここ数年来の右京之典の学問の師でもあった。

「右京之典様、誠に御目出度うござります。お由布ゆふ様もさぞお喜びでござりましょう」

三郎右衛さぶろううえもん様、有難うござります。ひとえに皆様のお力添えのお陰にござりまする」

今度は三郎右衛門に向かって、再び頭を下げた。

筑前の南端と境を接し、九州の天領十二万三千余石を差配する西国筋郡代が置かれる日田で、三郎右衛門は蝋、油商や掛屋などを手広く営む博多屋こと広瀬家の当主で、右京之典の亡くなった母、月青院こと由布の従兄妹であった。

秋月のある筑前南部から豊後にかけては、良質な蝋や油の産地であった。また、掛屋とは、江戸でいう両替商の如きものであり、日田のそれは、九州中の天領から日田に集る公金や上方からの資本を集めて、高利で諸方に貸し出し利鞘を稼ぐ金融業であった。

その莫大な資本は『日田金ひたがね』と呼ばれ、江戸開幕より百数十年、大小を問わず財政難に喘ぐ九州を中心とした諸大名家を始め商人、庄屋、百姓などにも貸し付けられ、次第に九州の金融経済の中心をな成していくのである。

この掛屋と日田金が、日田を日田たらしめる所以であって、今日の財政繁栄を築き上げた秋月黒田家を、家老職の典膳とともに外部から支えたのが、先先代の久兵衛きゅうべえと先代・平八へいはち、そして当代の三郎右衛門であった。

幼い頃広瀬家で育った右京之典は、農産物を始め様々な商品や役務がどのように流通していくのかを肌で感じ、飢饉の折、飢えた百姓が日田に流れ、施しを求めて行列をなして彷徨さまよう様なども見て育った。今でも祖父母の墓は日田にあり、墓参に行き十日ばかり滞在すると、その都度経済の事など三郎右衛門から熱心に聴いた。

その三郎右衛門も目の端に涙を浮かべていた。

「早々、挨拶はその位にして、祝の膳を囲みましょうぞ。うちの婆が腕にりを掛けて肴を用意しましたでな」

「早々、杯を。この婆の酌ではご不満でごさりましょうが」

鑓り手の高級官僚から、今ではすっかり好々爺へ変わった典膳と綾乃の二人が言うと、

「おお、そうじゃ、そうじゃ。ご家老、忘れており申した」

「綾野様に酌をして頂き、何の不満がございましょうや」

「ほんに、ほんに、目出度い正月。涙はいりませぬでしたな」

三人がそれぞれ言い、六人が座に着いた。

膳の中身は、椎茸や薯蕷やまいもの入ったなます木煉柿ふゆがきの寒天寄せ、川海苔かわたけの酢の物、鯉の洗い、小鮠こはやふきの甘露煮、栗と塩漬けのわらびを戻したものを炊込んだ強飯こわいい、鶏と野菜の煮染にしめ、鯉の頭を味噌汁で煮込んだ鯉濃こいこく山鱒えのはの焼物など、素朴だがどれも色取りどりの山の幸で、

「これはこれは。益軒先生も感心なされた、秋月の土産尽くしにございますな」

南冥が言うのに続いて、

「馳走じゃ」

「何と美味しそうな」

と皆も口々に揃えた。

典膳が殖産した秋月の特産品を使って、綾野がひと工夫もふた工夫も為した心づくしの料理が並び、さらに雑煮は、干椎茸とあご(・・)で取った出汁に醤油で味をつけ、将軍家にも献上される特産の葛でとろみを付けたものだった。

「ほう。これは長崎のあご()でございますな?」

「さすが博多屋の主様。三郎右衛門様はようお分かりでございますな。甘木の町で求めた焼あごで出汁を取りました」

あご(・・)』とは飛魚のことで、小振りなものを煮干や焼干にして、保存を効かしたものだが、出汁を取るのにも用いる。

もともと肥前の長崎や平戸あたりのものであるが、九州の入口である小倉から長崎へ続く長崎街道と、そこから分かれて熊本へ続く肥後街道。それに筑前福岡の城下から天領・日田へ通じる日田街道が交差する甘木あまぎ町は、同じ夜須郡やすごおりにある秋月の城下から、西に一里半程ある日田往還沿いの拓けた門前町で、月に九度の市が立ち、近隣諸国から様々な物産と商人が集る一大交易地であった。

海産物も福岡や博多などから多く持ち込まれ、人々は遠く筑後、豊前、豊後からまでも求めに来たといい、貝原益軒も、

―凡博多より甘木の間、人馬の往来常に絶えず。東海道の外、此道のごとく人馬の往来多きはなしといへり―

と、『筑前国続風土記』の中でその繁盛振りを伝えている。

「山のものの椎茸と、海のもののあご(・・)の出汁がよう効いて、また、この葛のとろみが何とも言えずそれを包み込んで…」

皆も夢中になって雑煮を食べた。

食し終えて、ひと心地ついたところに、南冥が言った。

「綾野様、工夫なされましたな。この料理の仕方も添えて売れば、秋月特産の食材の良さを広く知らしめる事となり、また高く売れましょうぞ」

「おお、それは良い考えじゃ」

「早速、倅どもから物産方へ教えさせねば」

口々に言うのへ、

「先生、料理の仕方をまとめ、『食す』の字を取りて『筑前国()風土記』などど題し、本にして世に出したならば如何にござりましょうや」

右京之典の思いもかけない言葉に、南冥が唸って、

「貝原益軒先生の『筑前国続風土記』に掛けて、食とな?」

「はい、秋月のものだけでなく、秋月のものと合う諸国の物産をも広く探し、それを用いて秋月の品と組み合わせ、新しき料理を提案し得ればと。また、これは和紙など、食材となる土産の他の物にても出来得る事かと愚考致しました」

「うむ。食は、人の生きる根幹じゃが、江戸や上方などでは、歌舞音曲と同じく、料理屋なども、ひとつの贅を楽しむ為のものとなり、近頃富に栄えておってな」

南冥の話に皆も真剣になる。

「実はな、右京之典殿。わしも聞きかじったことじゃが、近年『料理秘密箱』なるものや、豆腐の料理ばかりを扱った『豆腐百珍』などという食に関する書物が沢山書かれておってな、これがまた江戸、上方なぞで大層な評判となっておるそうな。左様な繁華なる地でならば、料理屋の主や料理人だけでなく、諸侯や全国の大商人などの通人にも知られるところとなり、秋月の土産は諸国中に知れ渡ろう。右京之典殿、よう思われた。誠に良き考えじゃ」

皆も頷く。

「御公儀よりも「交易できる産品の増産に力を入れよ」と御達しが出ておるやに聞いておりました故、ただ想いついたままを述べただけにござりまするが」

そう師弟が問答するのへ、綾野がまた、

「ほんに、立派におなりになられました。月青院様が生きておいでならば、どのようにお喜びでござりましょうや―」

と言ってまた涙ぐむのを、右京之典が、

「婆。それは今日は言わぬ約束じゃぞ」

「左様ゞ、綾野様。正月でござれば、綾野様も少しお飲みなされ」

涙顔だった綾野も、九郎右衛門や皆に勧められて一杯だけ頂くと破顔した。

皆で、ひとしきり風土記の案などを語り合いつつ、綾野の心づくしを堪能し、酒が行き渡り、何度も杯が交わされた。

ささやかながら、ニ刻ばかりの和やかな宴が終わり、八つ過ぎ(午後二時頃)。

寺へ帰る九郎右衛門と、甘木町の旅籠はたごへ泊まるという二人を城下の外れまで送りに出た右京之典に、九郎右衛門は、

「明日、待っておるぞ」

と言い残し、雪道を三奈木村へと帰っていった。

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