裏野ハイツはうら騒がしや
第零話 ~出会い~
ミーン、ミン、ミン、ミン、ミーン。
ミーン、ミン、ミン、ミン、ミーン。
種類が入り交じった蝉達の大合唱。
雲1つ無い青空の下。陽光が燦燦と青葉輝き、日陰の無い場所をジリジリ灼き付け、道路・歩道から発せられる地熱。その為、吹きゆく風は蒸される様な息苦しい風。汗を一つ垂らそうならば、蒸発し気化する程の熱に辺りは包まれており、蝉達の鳴き声と共に夏という季節を一層引き立てている。そんな茹だるような暑さの中、汗だくになりながら、スマートフォン片手に鴇色の歩道を歩く男がいた。
様々な店の前を通り過ぎ、ある店の前で足を止める。それは不動産屋。スマートフォンから視線を逸らし、店に入っていく。数分過ごすと渋い顔のまま店を出てきて、再び歩道沿いの店をスマートフォンで確認しながら歩き、また不動産屋を見つけると中に入り……という事を繰り返していた。
暫く、その一律の行動を繰り返すと、疲弊したのか道の半ばにあった、バス停のベンチに腰掛ける。「ハァ……ハァ……ハァ……」額から流れる汗を拭い、やや大き目のハンカチを頭に被せると、スマートフォンに視線を落とした。このバス停は青いビニール製の屋根が張られており、遮光には成功したが、後ろと前から熱気に曝され、眉間に深く刻まれた皺を流れるぽたぽた汗。時折、スマートフォンの画面を拭わなければなかった。
それでも陽光の下よりは、息をするのが楽だった。1度液晶から目を逸らし、バス停の青いビニール屋根を仰ぐ。
「ふぅ……」と一つ吐息を漏らすと、スマートフォンと再びにらめっこするこの男、唐偵芳寛は高校卒業し、大学生になると、自立と就職活動という二つの目標を立て、上京したまでは良いものも、住居探しに苦虫を噛んでいた。
スマートフォンの画面に指先を当てて、滑らすと現在地点から先は不動産屋は見当たら無い。今日の物件探しはここまで……か。本体の側にある小さなスイッチを押し込み、一時的に電源を落とす。
前屈みになっていた体勢を崩し、無機質で硬い背もたれに背中を預ける。大きく手足を伸ばした際に背もたれより後ろの風景に首を傾けると、そこには茜色に染まるラーメン屋の扉、そして夕映えする扉のはめ込みガラス。歩道もすっかり染まり、ノスタルジックな感情が引き起こされた。「もう……夕方だったのか。」ぼそりと漏らすとベンチから腰を上げ、屋根の日陰から出て夕日が差す方向を見る。斜陽が眩しく、思わず右手掌を向け、翳す。ふと左側にある、店仕舞いしたラーメン屋の扉を見る。はめ込みガラスには茜色に立つ、ひょろりとした男が写っており、やけにくたびれた様子だ。今日はホテルに帰るとするか……。
「あーあ。長時間の徒歩が水泡に帰した気分だよ」そう言うと肩を落とし、スマートフォンをポケットに滑り込ませた。今まで歩いて道を戻る為、右足を上げた……。
その時、冷えた一陣の風が背中に吹き付けられた。背中から胴回りを包み込む様に流れる風。夕方と言えど暑さは変わらない、寧ろ西日が強いこの夕方にはそぐわない、冷風である。
だが、この風には奇妙な所があった。身体を押す様な物質的な感触が一切無いのだ。押される事は無いが、後ろに倒れる事が出来ない奇妙な感触。奇妙ではあったが、何か痛みの走る現象等の変化は起こっていない。また、業者の冷凍室から漂う様な冷風なので、長時間触れるのは身体にとって思わしくない反応が出るのかも知れないが。
気にしないで帰路につき、ホテルに帰ってもいいのだが、ホテルに帰っても何をするか容易に想像出来る程、退屈な時間を過ごす事になる。少し抗って、変化を見てみたくなった。先ずは上げた右足を茜色に染まる歩道に戻し、左足に体重を偏らせる。その分右足は軽くなるが、振り返るには仕方ない。そうして振り返った瞬間、冷えた風が「避けて行った」のではなく、「通り抜けて」いった。身体を通り抜けて行った突風は何の変哲も無い冷たい風だったが、顔を通り抜けて行った風は「言葉」が込められていた。
幼き少女の声で「こっちだよ」と。
遊び場所を変える時に、遅れた友達に発せられる言葉の様な優しい印象を受けた。だが瞬間的な恐怖が、声を聞いた時に発生し、収まりつつも今も継続しているのは確かだ。
「一体、何が…………?」波打つ心臓の鼓動で身体が震え、漠然とその場に立ち尽くす。暫くその状態が続いた。茜色の太陽が半ば程沈んだ頃。
興奮も収まりはじめ、胸に手を当ててみる。胸の鼓動は荒波からさざ波に変わり、荒波の時よりも息が吸いやすくなると安心し、顔を上げた時、辺りは茜色から藍色の暗闇が迫りつつあった。
すっかり落胆し、颯爽と帰路につくと思われた。だが、この男の目はある一点に注がれている。その視線の先には「ハピネス・オン・ザ・バック不動産屋」と黄色いネオンサインがあったからだ。
不動産屋の入口に向かう足並みは自然と駆け足になった。赤と緑のラインが特徴的な自動ドアを抜け、店内に入る。「いらっしゃいませー」男性と女性の重なった声が掛けられた。店内は広く、白い壁に囲われていて、緑の床の為か更に白く見える。
左側にはバックヤードだろうか、白色の扉があった。縁を鈍い銀色の細い金具で補強した、事務用の灰色の机が4つ、横に並んでおり、どの机にも書類が入ったファイルを黒いブックホルダーに立てて、「基本的」には整頓されているだろう4つの机。
その内、机の持ち主が居るのは3つのみ。今の時間は男性社員が多い様だ。とりあえず、自らの前にある焦げ茶色の丸いスツールに腰掛けると、目前の浅黒い中年男性が「どのような部屋をお求めですか?」とはにかみながら問いかけて来た。
「安くて、交通の便がいい所がいいです」目を外さず聴いていた浅黒い男性は、手元にあったファイルから、何件か取り出し、私の前に提示するが、見せられた物件に目を通していた私の顔は渋く。「そうですか……それなら少しお待ち下さい」浅黒い男はそう言い、手早く資料をファイルに入れると、座ったまま踵を返し、腰を上げると左右2列の机に挟まれた場所を通り、最も奥にある書類棚に手を伸ばす。
手始めに一番上の引き出しに手をかけて、取り出すと資料が入ったファイルをパラパラとページを送る。どうやら探していたのとは違ったらしく、ファイルを戻す。違う引き出しでも、同じ事をした。中々、見つから無いらしく、様々な高さの引き出しをまさぐっている。
そうして待って居ると、その間を埋めるかの様に、麦茶だろうか、焦げ茶色の液体が入った、ガラス茶器が載せられているおぼんを持って、男のお茶汲みが、左側にあるバックヤードの扉から出てきて、こちらに歩いてくる。
私の左側、丁度バックヤードの扉と重なる位置に止まると、笑顔と共にコルクのコースターが敷かれ、その上に麦茶入りのガラス茶器が置かれた。そのお茶汲みは軽く会釈をして、バックヤードの扉近くの席に戻った。ひとまず茶器に手を伸ばす。
ここに来るまで、ろくな水分補給が出来ていなかったので、茶器の中は一口目で半分近く減り、2口目で飲み干した時、浅黒い男がファイルを手にこちらに帰って来た。「いやぁ。お待たせ致しました。」苦笑い混じりの浅黒い男。ファイルから、ある一つの物件情報の資料を取り出す。
「裏野ハイツ?」「ええ、ここならあなたの希望通りだと思いますよ。」値段も今まで見てきた物件より家賃は安く、最寄り駅7分と記されていた。徒歩10分以内にコンビニ、郵便局、コインランドリーもある。確にここなら私の希望通りだ。
私が探し足りない無いだけで、ここより良い物件があるかも知れないが、明日にはホテルをチェックアウトしなければならないので、余裕が無かった。私は契約し、鍵を貰うと不動産屋を後にした。
自室の扉を開け、「疲れた」と一言、吐露した後、唐偵は黙々、服を脱ぎ、浴室の扉近くに置いてあった藤のカゴに全て入れ、入室した。
頭の泡を洗い流していた時の事。
シャーというシャワーの音とシャクシャク泡を流す音にまぎれて
妙な物音が聞こえて来た。
ドンドンドン……ドンドンドン……ドンドンドン。一定のリズムで発せられる、叩く音。洗い流している間、シャワーと流れるシャンプーの音で気付かない唐偵。流し終えた時、後ろから聞こえる叩く音に気付く
「えっ…………」左側の扉を見た。「うわぁ……ああ……。」仰け反り、少し距離をとる。凹凸ガラスの向こうに白い服を来た女の子らしき姿があった。掌をぴったりと、つけたり離したり、凹凸ガラスの扉を叩いている。ドンドンドン……ドンドンドン……ドンドンドン。リズムを保ったまま、叩く女の子。何処から入って来たか、目的は何なのか、色々と気になる事はあるが、好奇心よりも無言で叩き続けている不気味な行為に心が震えた。数回か、それともそれ以上なのかよく分からないが、一向に止む気配は無い。
このまま続く様ならば、ガラス戸を出て、女の子如き捕まえる事は他愛ないだろう。然し、相手は「人間」なのだろうか?人間では無いのなら、「何が」、扉を叩いているのだろう。
行方の知らない恐怖に再びおののき、扉から目を逸らすと、浴槽に滑り込んだ。目を瞑り、両手で耳を塞いだ。
暫くして、瞼を開ける。首を傾け、扉を見つつ、恐る恐る両手を緩めた。「………………………」音は消えていて、いつもの静寂に戻っている
だが、心はどよめき、あの女の子に対する警戒は解けていない。
幸い、頭は洗い流していたので、他の部位を手早く済まし、勢いよく、浴室の扉を開け放つ。バン!という浴室の扉が衝突する音ともに辺りを見回すと、そこには静謐な、オレンジ色に照らされているシングルベッドと夜の帷に落ちた風景が見える窓。浴室の入口から離れ、窓とベッドの間に入り、屈んで下の空間を見る。暗闇で風通しの良い場所だった。その場所から離れ、洋服ダンスを開ける。何も無く安心して、ベッドの近くに戻り、濡れた頭を拭き取っていると、背中に視線の様な物を感じた。
後ろを振り返り、この部屋の扉を見る。そこにも誰もいない。頭を傾げ不審がったが、明日にはチェックアウトなので気にしない事にした。
その夜、ある夢を見た。
真っ白な空間の中に1人の子供が立っている。よく見ると女児の様だ。服は白いワンピースで、スカートの裾にピンクの花が一定間隔で縫われた可愛いらしい物。髪は黒髪のストレートで何の工夫も髪飾りも無かった。顔以外の所に注目していて、気付かなかったが、この女児、こちらを何も言わず視線を注いでいる。思わず、ギョ、とした。長くその状態が続き、物言わずの女児に向かって、何て声を掛けようかと頭を巡らせていると、目を逸らさず急に口をパクパク、何かを言っている。彼女の言葉に耳を傾けようとした時、彼女との距離が広がった。後ろに引っ張られる様な力の体感。グングンと引かれ、彼女は小さくなっていく。そうして豆粒程に遠くなり、目の前が光に包まれ初め、全てが覆われ、彼女が見えなくなると鮮明に耳に届く声。「助けて、助けて、助けて」残響し、空間のあらゆる角度から飛んで来る。
左から差す陽の光で意識が覚める。「うぅ……ううう」頭にズーンと重い感覚を感じる。上体を起こすとじんわりとした、ベルトで締め付けていく様な痛みが襲った。スルスルと肌を滑る掛け布団から足を出し、左側にある僅かに開くカーテンをおおっぴらに開け、光を浴びる。外は昨日と同様、燦々とした日照りに見舞われていた。
ジャラァン。近くにあった机の上、置かれていた「203」と赤いネームプレートが付いた鍵。眺めている唐偵の顔に自然と笑みが。多分、これからの生活について明るい展望があるのだろう。淡々と荷物をまとめ、乱れたベッドと横に広い窓に背を向け、扉を出た。
バタン、ドッドッドッドッ。扉から離れる足音。人の居なくなった部屋はいよいよ静けさに包まれる。長方形を横にした様な窓から採光しているとは言え、薄暗くしんみりとした室内。
「ふふふ、ふふふふふふ」
そんな室内の雰囲気を割いて現れた含み笑い。カチャン、キイィィ。含み笑いに続いて、この部屋の扉近く、浴室の扉が独りでに開き、
奥の暗闇からヌッと現る白いワンピースの女の子。スカートの裾には、ピンクの花が一定間隔で縫い付けられている。小さな手で内側から扉を押すと、浴室から出てきて、部屋の扉に染み込む様に消えた。
続く。