神聖なる密約
「ハノウス!」
床に突っ伏していたベクルトが俺の胸に飛び込んでくる。
泣きじゃくる彼女の背中をさすってやる。
「もう大丈夫だ」
自分で言ってみて、自分のセリフを白々しく感じてしまう。
ちょっと良心が痛むが、精一杯慰めてやる。
しばらくそうしていて、ベクルトが落ち着いてきたところで、後ろを振り返る。
シャーリーが片手を腰にあてて、ちょっと苦笑している。
俺も苦笑いを返して、近くにあったベッドのシーツをひっぺがし、ベクルトにローブのような感じでかけてやる。
「シャーリー。ベクルトを頼む」
「うん。わかった」
シャーリーに付き添われ、ベクルトが部屋を出て行った。
出て行く直前の、ベクルトの泣きはらした目と、赤い頬の色が妙に視界に引っかかる。
頭を振り意識を現実に引き戻す。
ここからが本番だ。
「そろそろ気絶した真似を止めて、服を着てくださいよ」
倒れている男、ラカスル枢機卿に声をかける。
ラカスル枢機卿は、いそいそと身支度を始め、服を着終わったところで、俺は椅子を勧めた。
髪の毛を完全にそり上げた五十過ぎの太った男、漆黒の法衣の上に枢機卿を表す紫の帯をかけると、なにやら聖職者らしく見えるのが不思議だ。
先ほどの凶行がうそのように思える。
「な、何が目当てだ?」
俺の方を上目遣いで覗き込みながら問うてくる。
俺を買収でもしたいのだろうか。
俺はにこやかに、獲物を前にした猛禽類のような笑顔を浮かべながら、ラカスル枢機卿の足元に書類を投げ渡す。
訝しげな視線をこちらに向けながら、書類に目を通す枢機卿。
しばらく読み進むうちに、最初は驚き、そして今はこちらを怯えた目で見つめている。
どうやら、自分の立場がわかってくれたらしい。
「ラカスル枢機卿。私はあなたの能力を高く評価しております。そして可能ならば私の側に立っていただきたいと考えております」
やさしい猫なで声で、声をかける。
「今は不幸にも、教皇派としてランス王国の皇太子と組んでおられる猊下ですが、ここは是非とも、私とくつわを並べて歩んでいただきたい、そう考え、こうしてお話をさせていただく機会を設けさせていただきました」
今回の全ては俺が仕組んだ出来事だということを暗ににおわせる。
「法に照らすと猊下の所業は、大変申し上げにくいのですが死罪を免れません。しかし、猊下の能力をこのまま地下に埋めてしまうのも勿体無い。人類の損失です。そう考えると、このまま告発するのも忍びない、という気持ちがありましたので、こうしてスカウトさせていただいております」
「し、しかし‥‥」
枢機卿の目に少し力が戻ってきている。自分の立場が大きいとちょっと誤解してくれたらしい。
「さすがに猊下には教皇派の重鎮、というお立場がございますので、一足飛びに私の陣営に飛び込むのは節操がないようにも思えてしまいます。そこで、今回の公会議では、可否同数になりそうな場合には、大勢を見て棄権を選択していただいて、教皇派の中での穏健派、というご立場を取っていただければと思います」
「う、うむ。そうじゃな。私とて、同じ教会の者同士が流血の惨事になることには反対じゃ」
つい先日まで、ランス王国の皇太子と組んで、信教派を根絶やしにしようとしていた人間のセリフとは思えないことを、なんの躊躇もてらいも無く言ってのける、その精神に俺は脱帽する。
まぁ、これくらいの節操の無さがないと、海千山千の猛者が闊歩する宗教業界では生きていけないんだなー、とも思う。
「では、余と、そなたとの間柄じゃ。大船に乗った気持ちでおれ。あとは、そなたには申し訳ないことをした、と謝罪せねばなるまいな。あの小娘、そなたのイロであったか。そなたに断り無く、手を出そうとしてしまった件、謝罪させていただく」
ラカスル枢機卿が、頭を深々と下げて謝罪してきた。
謝罪する相手が違うのと、俺とベクルトはそんな仲ではない、と主張したかったが、概ねこちらの期待した展開になったので黙っておく。
まぁ、結果的に、ベクルトの立場が助かるのだから良しとしよう。
「では猊下。明日の公会議では、よろしくお願いいたします」
頭を深々と下げながら、すでに、次の計画を練っている自分がいた。