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【番外編】日野宮あかる、世界を釣る 〜 カワハギ編 〜

 梅雨が明け、灼熱の太陽が熱光線を大地に降り注ぐ。

 大地に生きとし生けるものたちが、等しく夏の恩恵を受けていた。



 そんなある日の週末。

 場所は、とある町の海辺にある公共機関が設営した海釣り公園。


 そこに、一人の釣り人アングラーの姿があった。



 彼の名は、権田原ごんだわら 魚之進うおのしん。自称セミプロ・シーバスオカッパリアングラー。

 そんな彼が、なぜファミリーが集まるような公営海釣り公園に居たのか。それには……海よりも深い理由があった。


 彼の横に立つのは、ショートカットの女性。そう、なんと彼は女性を釣りーーすなわちデートに誘い出すことに成功していたのだ。

 苦節29年。釣り一筋に生きてきた彼に、一世一代のチャンスが訪れていた。


 --彼女ランカーをゲットするチャンスが。




 ◇◇◇




 はぁはぁ。焦るなよ、魚之進。せっかくここまでチャンスをこぎ着けたんだから。

 俺は焦る気持ちを落ち着けながら、隣で釣り道具を準備する彼女--鯨井くじらい 紗世梨さよりちゃんに視線を向ける。


 彼女は、うちの取引先の事務員のおねーちゃんだ。適当に雑談の際に釣りの話をしていて食いついてきたのだ。

 ……実際の流れはこうである。


「へぇー、権田原さんは釣りをするんですか」

「ま、まぁ軽くね」


 本当は軽くどころではなくドップリと浸かっていたのだが、どんな趣味であれオタクが敬遠される世の中だ。俺は慎重を期してそう答えたうえ、追撃とばかりに補足する。


「それに、釣りたての魚は美味しいんだよねぇ」

「あっ、それは食べてみたいですね! 私、魚大好きなんですよ!」


 おや、予想外のポイントにサヨリちゃんが食いついてきたぞ。もしやこれは……押せばイケる?


「じゃあ鯨井さん、釣りに行く? 道具は俺のを貸してあげるからさ」

「えっ? 本当ですか? やったー!」


 ーーこうして俺は、ラッキーにもサヨリちゃんとの「釣りデート」にこぎ着けることに成功したんだ。

 あぁ、これもあの『釣り女神』のおかげかな? 俺は携帯の待ち受けにしている例の彼女の写真に、感謝の気持ちを込めて手を合わせたのだった。








 俺の運転で鯨井さんとやってきたのは、近場の釣り公園だ。

 ここは釣り場としてはとても有名な場所で、トイレや休憩所などの設備も完備されていることから、カップルや家族連れの姿も多数見受けられる。ゆえに、釣り初心者であるサヨリちゃんでも安心して来れると考えたんだ。

 ふっ、この俺のリサーチは完璧だ。魚も女も、事前の調査が大事なことは共通事項だ。セミプロたる俺がそんな大事なポイントを外すわけがないっ!


「へぇー、思ってたより人が多いですね! なんだか楽しくなってきました」

「だろ? それじゃあ釣り座を決めようかね。んー、あのへんでいいかな」


 俺は比較的空いているゾーンを指差す。そこは外洋に向いていて、手前にある釣りやすいゾーンに比べて一発大物狙いの釣り座だった。ゆえに人も少ない。

 でも俺は入念にリサーチして知っている。このゾーンはポイントさえ選べばちゃんと釣れるということを。



 ……なによりこのゾーンにはアイツがいる。

 見た目は滑稽、釣り難さは天下一品、だがその味は『海のフォアグラ』と呼ばれるほどの美味。


 --そう、この釣り座では【カワハギ】が釣れるのだ。




「よし、これで準備完了。その辺にぽいっと投げてみてね」

「はぁーい」


 準備完了した釣りセットをサヨリちゃんに渡す。彼女は初心者なので、今回はサビキ釣りでアジを釣ってもらうことにした。

 サビキ釣りとは、蒔き餌として冷凍の小エビを使い、小エビに似せた針……サビキを使って釣る釣り方だ。サビキ釣りは生き餌が苦手な女性にも向いているし、なにより手軽で釣りやすいから初心者にはとてもオススメの釣り方だ。


 サヨリちゃんに竿を渡すときに、サッと手と手が触れ合う。うほっ、柔らけぇ! 思わず心の中で歓喜の声を上げる。


 ……いかんいかん、我を忘れそうになっちまった。俺はすぐに平常心を取り戻すと、彼女に投げ方を教えたんだ。



 何度か投げてサヨリちゃんがサビキ釣りのコツを掴んだところで、俺は自分の準備をすることにする。サヨリちゃんはぷかぷかと浮くウキを真剣な表情で眺めていた。うむ、もう大丈夫そうだ。


 さーて、そしたら俺は例のあいつカワハギを狙うかね。

 本当はカワハギのベストシーズンは秋なのだが、贅沢は言ってられない。なにせサヨリちゃんと釣りに来るなんて絶好のチャンスはそうそう来ないのだから。この場で釣れて、魚好きな彼女の心を射止めるほどの美味な魚といえば、カワハギくらいしか思いつかない。シーバスは……それほど美味しいわけじゃないしな。


 そんなことを考えながら準備を整えていると、ふと俺の耳に、若い男女の声が聞こえてきた。


「あっつーい! おにーちゃん、マヨ日焼けしちゃうよぉ」

「ったく、煩いなぁマヨは。だったら付いてくるなよ」

「だってー、おねえちゃんが行くって言うんだもん。マヨだけ置いてけぼりとかイヤだしぃ!」


 どうやら兄妹で釣りに来ているようだ。実に釣り公園らしい和やかな雰囲気ではないか。

 あー、俺もサヨリちゃんと家族でも作ってこんな感じで週末を過ごしたいなぁ。


「おねえちゃん、暑いダルい!」

「ほーら、だから言ったでしょ、すごく暑いって。仕方ないなぁ、じゃあこのアイスでも食べて日傘の下に居なよ」

「わぁーい、アイス! アイス! おねーちゃん準備いいね!」

「ふふふっ、まぁね」


 その声を聞いて、俺は全身に電撃が走るのを感じた。

 俺の耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある女性の声。


 --なっ……い、いまの声はっ⁉︎

 --も、もしかして⁉︎


 慌てて顔を上げると、俺の目に……信じられないものが飛び込んできた。




 ◇◇◇




 それは、まるで太陽が遣わした女神のようだった。

 スラリと伸びた長身に、麦わら帽子から漏れる長い黒髪が海風に靡いている。日焼け防止のためか、長袖のシャツにジーンズを履き、顔にはサングラスをしているが、間違いない。彼女は……あのとき出会った【釣りの女神】だ!


 どうやら【女神】は今回、兄と妹と一緒に釣りに来たようだ。顔立ちの似た美男美女が左右に控えている。

 美男美女の兄妹と一緒にいても、やはり女神の美しさは際立っていた。



 彼女たちは俺たちのすぐ横に陣取った。【女神】はあれやこれやと兄や妹に指示を出しながらテキパキと釣りの準備を進めている。とはいえ【女神】以外はあまり釣りをやる気はなさそうに見えた。


 ーーそれにしても、なぜ彼女がここに……。

 そんなことを考えてしまっていた俺は、気がつくと自分の準備の手が完全に止まってしまっていた。


「やったー! アジが釣れたよ! ……って、権田原さん、どうしたの?」

「はっ! サヨリちゃん! い、いや、なんでもないよ。ちょっと忘れ物したことに気付いたんだ」

「あれー、じゃあ権田原さんは釣り出来ないの?」

「ううん、それは大丈夫。あり合わせでなんとかなったからさ」


 ふいー、危ない危ない。サヨリちゃんに疑われてたよ。

 いかんいかん。いまは【女神】よりもサヨリちゃんの方が大事だ。

 ここは【女神】の存在を無視して進めるとしよう。



 気を取り戻した俺は、改めて仕掛けの準備を進める。

 この日、俺が準備した仕掛けは二つ。

 一つは『天秤』という名の重りをつけた投げ釣りの仕掛け。重りの先に数本の針が付いている。この仕掛けは、キスとかの底魚--砂地にいる魚を釣るためのものだ。

 エサには青虫というミミズみたいなグロテスクな生き物をチョン掛けする。楽な釣り方で初心者向きではあるんだけど、この青虫が曲者だった。こいつに針を通そうとすると激しくウネウネ動くので、若い女の子なんかにはひどく不評なのだ。なので今回サヨリちゃんにはあえてさせなかった釣り方だったりする。

 餌をつけた仕掛けを軽く遠投して、竿先に鈴をつけて放置しておく。これでこの竿については完了だ。


 次に俺は、本日の本命である『海のフォアグラ』カワハギを釣るための仕掛けを準備する。

 こちらは『天秤』とは打って変わって、先端に重りをつけ、その途中に針、そして当たりを見抜くためのウキをつけるタイプの仕掛けだ。

 なにしろカワハギは別名『エサ取り名人』と呼ばれるほどエサ取りが上手な魚だ。当たりがあった瞬間にフッキングしないと、すぐに口から餌を離してしまうのだ。だからこのように当たりをすぐに取れるような仕掛けが必要となる。


 使うエサはやはり青虫だ。本当は水抜きしたアサリがベストなんだけど、アサリなんて高級品をそうそう用意できるわけがない。今回はデートが最大の目的だから仕方ないしね。


「うわー、なにそのエサ。気持ち悪い」

「ははっ、こいつは青虫っていうんだ。まぁ海のミミズみたいなもんだよ」


 その間に、最初以降また釣れなくなって仕掛けを巻き上げたサヨリちゃんが青虫を見て嫌そうに声を上げた。ほーら、やっぱり青虫苦手だった。

 人間は足が多すぎる生き物か足が無い生き物のいずれかが生理的に苦手だと聞いたことあるが、彼女は後者だったみたいだな。ちなみに俺は前者だったりする。ゲジゲジとか超苦手なのよね。


 そんなことを考えながら、戻ってきたサヨリちゃんの仕掛けに冷凍エビを突っ込んであげる。ついでに釣りの感想を聞いてみることにした。


「どう? 退屈じゃ無い?」

「んー、楽しいですよ、さっき釣れたし。あ、ときどきウキがチョンチョンするんですよね。上げてもいいかな?」

「いいんじゃないかな。またアジが釣れるといいね」

「そうですね!」


 サヨリちゃんは明るい声でそう言うと、そのままスタスタと元いた場所に戻っていった。

 んー、やっぱサヨリちゃんは可愛らしいなぁ。


 ……さーて、俺の方も勝負を始めるかね。




 餌を付け終えたところで、用意したカワハギの仕掛けを遠投する。投げる場所は、海藻が生えている場所の近く……すなわちカワハギの住処だ。

 重りが着底するのを確認したところでラインをピンっと張り、些細なアタリも逃さないように全神経を集中させる。さっきも言った通り、カワハギはエサ取り名人だ。針を口に入れた瞬間に吐き出す。だからこうでもしないとカワハギは釣れないのだ。

 ときおり竿を軽く振ってアクションを起こし、カワハギに誘いをかける。一瞬ラインを緩ませたあと、コツンというアタリを感じた。


 ……きた!

 素早く竿を立ててフッキングし、リールを巻いていく。竿先にビクンビクンという微かな生命反応。間違いない、なにか釣れてる。


 --釣り上げたのは、ペラペラで平らなボディにザラザラの肌の奇妙な魚……今回の本命、カワハギだ。


 やった! いきなり一投目から本命を釣ることができたぞ!

 幸先の良い出だしに、俺は思わず会心の笑みを浮かべる。


「サヨリちゃん、釣れたよ!」

「えっ⁉︎ 本当⁉︎ 早いですね! ってなにその魚、気持ちわるーい」

「ふふふ、こいつはカワハギといって、とっても美味しい魚なんだよ。刺身が特に美味しいんだ」

「あーこれがカワハギなんですか。生きてるの初めて見ました。……食べてみたいなぁ」

「ははっ、帰ったら捌いて食べさせてあげるよ」

「えっ、本当ですか⁉︎ 楽しみぃ!」


 おおっ⁉︎ こ、この反応はもしかして……自宅に誘い込むことに成功した⁉︎

 そ、そんなバカな……これは夢か?


 この時の俺は最高に有頂天になっていた。

 だがそんなーー有頂天になっていた俺の心を、地獄のどん底に叩き落とすかのような声が、俺の耳に飛び込んできた。




「よし、釣れた!」

「うわっ、おねーちゃんなにその気持ち悪い魚!」

「うふふ、これはカワハギだよ。海のフォアグラって言うくらいとっても美味しいんだよ」

「こ、こんなデカくて気持ち悪いのがぁ?」

「うん。このサイズだと、お店だったら2000円くらいするかもよ?」

「えーーっ。うっそー⁉︎」


 ……な、なんだとっ⁉︎


 聞き捨てならない台詞を耳にして、慌てて声がした方に視線を向ける。 

 すると、なんとそこにはーー俺が釣ったのよりはるかにデカいカワハギを手にする、例の【女神】の姿があった。


 --ば、ばかな。

 --夏というこの季節に、あれほとのサイズのカワハギを釣るだとっ⁉︎

 俺は【女神】の釣ったカワハギに完全に目を奪われていた。


 なにせ、俺の釣ったカワハギはせいぜい手のひらサイズ。だが【女神】の釣ったそれは……その倍はあるのではないかという巨大サイズだった。はっきり言って陸釣りオカッパリでは見たことがないサイズだ。


「うっわー、あの娘の釣ったカワハギ大きいですね。しかもあの子、すっごい美人--タレントさんかなにかかな? 妹さんも美少女だし。……権田原さんもそう思いません?」

「ほうわぁっ⁉︎」


 いきなりサヨリちゃんに問いかけられ、思わず変な声を出してしまう。

 し、しまった。完全に【女神】に見惚れてしまっていた。

 カワハギの王とも呼べる一匹を手にした彼女の姿は、まるで釣り公園に舞い降りた天女のように美しかった。ゆえにサヨリちゃんの存在さえ忘れて見入ってしまっていたのだ。


 --いかん、いかんぞ魚之進。

 今日の本命ターゲットはサヨリちゃんなんだから、他の女性に見惚れるなんてもってのほかだ。


「い、いやぁー、女の子にサイズで負けちゃったね。残念だなぁ」

「そうですね、じゃあ次は私がでっかいの釣ってリベンジしてみせますね!」


 あぁ、健気だなぁサヨリちゃんは。

 なんだかほっこりした気分になったところで、改めて俺たちは釣りを再開したんだ。




 ◇◇◇





 その後、サヨリちゃんのサビキ釣りのほうにはポツポツと魚がヒットしていた。ほとんどは幼魚と呼べるような類の小さな魚ばかりであり、キャッチアンドリリースだ。

 でも中にはまぁまぁのサイズのアジも混じっていたのでクーラーボックスに入れていく。

 うん、間延びもせずいいペースで釣れている。悪くない釣果なのだろう。



 ……だが、【女神】のほうは違っていた。

 俺たちみたいな初心者の釣り方じゃなく、ガチで釣りに来ていたのだ。


「おいおい、エサにアサリ付けてるのかよ!」

「朝日兄さん、釣りに餌は重要だよ。メインは私が抑えるから、兄さんはマヨちゃんと適当に釣っててね」

「あ、ああ……」


 妹である【女神】の気配に圧倒され、スゴスゴと退散する兄と思しきイケメン。まぁ彼女は本物の釣り師アングラーだ。素人が圧倒されてしまうのも致し方ないだろう。


 --それにしても彼女、エサにアサリを使っていたのか。

 でもこれではっきりした。間違いなく【女神】は本気でカワハギを狩りに来ている。


 実際、彼女の竿さばきは見事なものだった。俺と似たような仕掛けを使い、ラインを張って小刻みにアクションを入れる様など素人の技ではない。時折パタパタと誘いをいれてるあたりなど、実に堂に入っている。

 あ、また一匹釣れた。これで5匹目だ。さすがに最初の一匹みたいなビッグサイズは無いものの、いずれも食すには十分なサイズである。



 ……一方の俺は、カワハギは最初の一匹のみ。あとは別のエサ取り……フグなんかにヤられてばっかりだ。


 あぁ、このまま終わってしまうのだろうか。

 せっかく久しぶりに【女神】に会えたというのに、まともに戦うことすらできずに負けてしまうのか。


 確かにサヨリちゃんとのデートは楽しかった。

 彼女も喜んでいるみたいだし、ここまでは成功していると言える。

 たぶん……これで良かったのだろう。


 だけど、釣り人としての俺の魂が問いかける。

 お前は、それでいいのか?

 あの【女神】に負けっぱなしで良いのか? って。



 なぁ、魚之進。これで良いわけないよな?

 俺は大きく息を吸うと、自分の心に回答する。


「あぁ。負けっぱなしなんて……俺の釣り魂が許さないぜ!」


 そうして俺は、最後の勝負を仕掛ける決心をした。






「サヨリちゃん、ごめん。最後に少しだけ本気で釣ってもいいかな?」

「えっ? あ、はい……」


 俺はサヨリちゃんに詫びると、完全戦闘モードに入ることにした。狙いはもちろんカワハギ。あの【女神】以上の数と、サイズを釣ってやる! 勝負は、これからだっ!


 放置していた--全く釣れない投げ竿のほうを一度回収し、最後の餌を付けて再投入したところで準備完了。

 いよいよ、俺と【女神】の本気の釣りバトルが開始される。

 ……とはいっても、俺が一方的にそう思ってるだけなんだけどな。




 それからの俺と【女神】は、一進一退の攻防を繰り広げた。

 俺が釣れば彼女が釣る。サイズもピンキリだったが、やはり最初ほどの大物は出ない。状況は完全に互角だった。


 一方【女神】のほうも、どうやら俺がバトルを仕掛けていることに気付いたらしい。サングラス越しにニヤリと笑いかけてきたかと思うと、発せられるオーラがガラリと変わる。


 --な、なんだと⁉︎ まさか彼女はまだ本気を出してなかったというのか⁉︎

【女神】の背からは、まるで不動明王のようなオーラが発せられている。

 俺も負けじと、風神雷神のようなオーラを発して対抗することにした。

 ……そこには、神々の戦いの縮図があった。



 いつしかサヨリちゃんと【女神】の兄妹も釣りを止めており、ギャラリーとなって俺たちの戦いに見入っていた。

 それでも俺たちは、戦いを止めることはない。

 もはや素人には立ち入ることのできない世界で、俺たちは戦ってたんだ。



 --そして一時間後、勝負が決することになる。







 最初に勝手に決めた制限時間は1時間。まもなくその時間が経過しようとしていた。

 俺と【女神】の現状のカワハギ釣果数は9対10、ほぼ互角。この数字はここ1時間の釣果数だ。悪くないどころかかなり良い釣果だ。だが……それで満足はしない。


 とはいえ、まもなく1時間が経過しようとしていた。

 残り時間的に次の一匹が勝負が? そう思った、そのとき。


 ビビンっ! 

 【女神】の仕掛けのウキが、一気に海中に沈み込んだ。


 一瞬で女神の竿が曲がる。

 なっ、つ、釣れたのかっ⁉︎

 だが彼女はまだ竿を上げない。


 その瞬間、俺は彼女の意図に気付いて愕然とした。

 ーーも、もしや彼女は……「追い食い」を狙ってるのかっ⁉︎


 追い食い。

 それは一匹釣れているにもかかわらず、ぐっと我慢して他の針に魚が食いつくのを継続して待つことを指す。

 カワハギのようにバレやすい魚の場合、普通は我慢できずにすぐに巻き上げてしまうのだが、彼女は違っていた。

 彼女は圧倒的な精神力で我慢してみせたのだ。


 そうして粘り強く仕掛けをコントロールし続けた【女神】が、ゆっくりとリールを巻き上げる。すると、彼女の仕掛けには……なんと三匹のカワハギが付いていたのだった。


 恐るべき釣果。

 その結果を目の当たりにした瞬間、俺は今回の釣りバトルの負けを認めた。


「おお! すげー!」

「おねーちゃん、やるぅ!」

「わー、あの娘すごい大漁だぁ!」


 【女神】の兄妹やサヨリちゃんが感嘆の声をあげる。そんな歓声を横耳に聞きながら、俺は絶望に苛まれていた。

 現在の釣果は9対13。残り時間を考えても、もはや挽回できないレベルの完敗だった。


 --また、俺は負けてしまった。

 --もう一生俺は【女神】には釣りで勝つことはできないのか。


 俺は悔しかった。

 長年釣りに魂を捧げてきた俺にとっては簡単には受け入れられない現実だった。

 気がつくと俺は、ガックリと膝を落としていた。


 ……だが、今回の相手は例の【女神】だ。彼女に負けたのであれば、きっと仕方のないことなのだろう。

 なにぜ彼女は、尊敬すべきテクニックを持つ本物の釣り師アングラーなのだから。


 こうして完全に負けを認めた俺であったものの、最後の最後に奇跡が--鈴の音とともに俺の元に転がり込んできたんだ。




 チリンチリン。

 な、なんだこの音は? 鈴の音?

 そう思ったものの、すぐに自分が投げて放置していた投げ竿の鈴の音だと気付く。


 あちゃー、完全に存在を忘れてたよ。だけど鈴が鳴ったとうことは、魚が釣れたってことか?

 それに……な、なんだあれは、竿が持って行かれてるっ⁉︎



 俺は慌ててズルズルと海に吸い込まれて行こうとしている置き竿を手に取ると、すぐに巻き始めた。途端にぐいっと力強い感触と魚が暴れる感覚が竿ロッドを通して伝わってくる。


 ーーこ、これはもしや……。

 予想外に強い反応に、心を落ち着かせながらリールを巻き上げていく。



 そうして上がってきたのは……



 --体長40センチを超える、グッドサイズのヒラメ・・・だったんだ。





 ◇◇◇




 結局ヒラメを釣り上げたのを契機に、この日の釣りは終わりとなった。

 テキパキと道具を片付けて、帰り支度を整える。横を見ると、どうやら【女神】たちも引き上げるようだ。俺たちは自然と解散という形になっていた。

 去り際に【女神】が俺に向けてサムズアップをしてくれた。俺も素早く親指を立てて返す。釣りに魂を捧げたものたちだけが感じることができる、戦友としての交流だった。


 あれだけの美人とこうして交流が図れたのだ。しかも最後には高級魚のヒラメも釣れた。

 俺は【女神】との釣り勝負には負けた。だけど釣果としては決して負けてない……むしろ高級魚のヒラメを釣れた時点でこちらの勝ちと言っても良いだろう。

 本来は大喜びして良いはずだった。


 だが………俺は素直にいまの状況を喜ぶことはできなかった。なぜなら、バトルモードに入ってしまったせいで肝心の″サヨリちゃん″のことを完全放置してしまったからだ。



 帰りの車の中を、沈黙が包み込む。助手席に座っていたサヨリちゃんも口を開かない。

 実に気まずい、沈黙の時間。なぜかサヨリちゃんも無言で前を向いたままだった。


 ーー失敗した。

 そんな思いが俺の脳裏をよぎる。

 せっかくデートに誘ったのに、女の子を放置して釣りバトルに熱中するなど、ありえない失態だ。


 もはや挽回不可能かもしれない。

 だけどせめて……謝罪はしたい。

 そう思って、俺はサヨリちゃんに謝ることにしたんだ。


「ね、ねぇサヨリちゃん、ごめんな。なんか……自分の釣りに夢中になっちまって」

「えっ? あ、いや、別にいいですよ。あの綺麗な子との釣り勝負、見てて楽しかったですし。それに……権田原さんが真剣に釣りしてる姿はカッコよかったですよ?」

「へっ?」

「あ、うわ、私変なこと言っちゃったかな? その、変な意味じゃなくて……あはは」


 俺とサヨリちゃんの間に流れる微妙な空気、だけどその空気は……決して悪いもんじゃなかった。

 どうやらサヨリちゃんは怒ってないみたいだった。それどころかもしかしてこれは……良い感じだったりする?


「そ、そういえば隣で釣りしてたあの子、すごい美人だったですよねぇ。モデルさんか女優さんとかかな?」

「あ、う、うん。そうかもね」


 俺も彼女ーー【女神】の正体は知らない。兄や妹がいることさえ今日知ったくらいだ。

 ただ、相当な釣りの腕を持っていることだけは確信している。


「しっかし、たくさん釣れたなぁ。ヒラメとか美味いんだぞぉ、高級魚だしね。このサイズなら刺身でいけるな」

「あ、権田原さんってヒラメも捌けるんですか?」

「うん、もちろんだよ」

「やったー! ヒラメの刺身食べるのが楽しみです! カワハギもアジも楽しみだなぁ」

「えっ?」


 ……ちょっとちょっと、いまサヨリちゃんはなんて言った? これから食べる、だって?

 それって、もしかして……


「サヨリちゃん、もしかしてこれからその……魚を食べてくれるの?」

「ええ、もちろんですよ。だって最初からそう話してたじゃないですか。なにより権田原さんが魚を捌いてくれるんですよね? 私、魚食べるのは好きなんですが、捌けないんですよねぇ」



 その言葉を聞いた瞬間、俺の心の中で歓喜の渦が巻き起こった。

 なんと、サヨリちゃんが俺の釣った魚を喰ってくれるというのだ!

 てっきり釣りに夢中になりすぎて嫌われたかもと思ってた。だから、喜びはひとしおだ。


 しかも捌いた魚を出すということは……つまり、うちに招待することになるわけでして……。それって、もしかしてこのままイケちゃう⁉︎

 あ、やばっ!部屋の片付けするの忘れてたよ!


 俺は新たな問題に気付くと、今度はどうやってサヨリちゃんを部屋に入れる前に片付けるのかに、必死で頭をめぐらせたんだ。



 --それにしてもあの【女神】は、俺にとって本当に【幸運の女神】だよな。

 今回もこうして……俺に最高の釣果・・をもたらしてくれたのだから。


■■■■ おまけ ■■■■



マヨ「た、たくさん釣れたねぇ」

あかる「ふふふ、今日はカワハギ尽くしだよ」

朝日「カワハギか、まぁこの前のモンスターよりはマシだが……」


あかる「じゃあ捌きまーす。頭落としてーの」

ズドン。


あかる「カワハギだから皮を手で剥いでーの」

ズビビッ。


あかる「内臓を手で取って、三枚におろしてーの」

ブチブチッ!

ザンッ! ザンッ!


あかる「はい完成! 調理が簡単なのがカワハギの良いところだよね」

マヨ「そ、そうだね……簡単、かなぁ?」

あかる「何言ってるの、マヨちゃんもやるんだよ? これからの女の子は魚も捌けないとね?」

マヨ「え、えええぇぇぇっ⁉︎」

朝日「コソコソ……」

あかる「朝日兄さん、逃げちゃダメ。兄さんもやるんだよ?」

朝日「ぐぇぇ……」




--夕食時--


アカルパパ「おお、カワハギの刺身か! 美味いなぁ! これで肝が付いてれば完璧だったんだけどな、夏だから仕方ないか」

アカルママ「朝日たち三人が釣ってきて、捌いてくれたんですよ! 三人とも良い子になってママ嬉しいわぁ」

朝日「ははっ……カワハギ……」

マヨ「皮が……バリバリっと……うぅぅぅ」

あかる「さ、みんな! 一緒に食べようよ!」

朝日「い、いただきます……う、うまっ‼︎」

マヨ「お魚さん、ごめんなさい……あっ、おいしー‼︎」

あかる「でっしょー? やっぱり釣りは最高だねっ!」

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