ヨアヒムと
私の前を群青色のマントが揺れる。
群青はエッセン公爵家を現す色。
そのマントをなびかせて、私の前をヨアヒムが、歩いている。
私は、群青のマントの後を歩いてゆく。
目的地は、城門だ。
これで、私はガルムントへと帰る。
私は、目的を果たした。
このマウリスにある数々の異世界の知恵で造られた『オーパーツ』の製造拠点を手中とする鍵を手に入れた。
我が身の『王家の血』を差し出すことによって。
そう……私は、望む物を手に入れた。
だが、心が高揚しない。
すぐ前を歩くヨアヒムは、数年後には私の伴侶となるだろう。
そうなるために、私はあらゆる手をつくす。
それは、フランシス工房を手に入れるため……
割り切れば良い。
政略結婚は貴族社会では普通の事だ。
まあ、その政略を嫁に入る娘から提案して交渉するのは、ちょっと珍しいだろうが。
これは、必要な事。
これは、私が望んだ事。
これは、手に入れたい未来への布石の一つ。
これは、私の計画なのだから……私は、私の行動と結果を納得しなくてはならない。
なのに私は……
ヨアヒムに声をかけたい。
声を出して、話さなくてはならない。
いや、話したいのだ。
だが、なんと言う?
なんと言うのだ!
どう言ったところで、私は望む物を手に入れる代償に我が身を売った。
それも、ヨアヒム本人ではなく、エッセン公爵家に売ったのだ。
それを知ったヨアヒムが何と思うかは……考えなかった。
嫌われても良い。
形だけの夫婦なぞ、貴族では珍しくもない。
そう思っていた。
私の前を、ヨアヒムが歩く。
その群青色のマントに包まれた姿に、何と声をかけて良いのか分からない。
いや、これは恐怖だ。
私は恐れている。
何を恐れる?
拒否される事?
嫌われる事?
あるいは、私は薄汚いと罵られるのだろうか?
まあ、それも仕方が無いと覚悟はしていた。
実際の所、女の身で戦の企てをしているのだ。
誹りや罵りは覚悟の上だ。
だのに、これには耐えられない。
私が後ろを歩いているのに、振り返ろうとしないヨアヒム。
私を無視するヨアヒム。
ただ、アイリス夫人に命じられたから私を案内しているヨアヒム。
ヨアヒムの心の中に、気持ちの中に、私がいない事に。
私は、耐えられそうにない。
これは、予想外だ。
こんな事に、恐怖する私を『私』は予想していなかった。
この回廊を歩き終われば、多分城門のはずだ。
この回廊が早く終わって、この場から逃げ出したい。
この回廊が終わることなく、いつまでもヨアヒムの後ろを歩いていた。
すぐに逃げたい。
ここに永遠にいたい。
矛盾する欲求が同時に発生している。
私は、たぶん混乱している。
一瞬、床が傾いたように感じられた。
次に視界が揺れて、目の前に石組み壁があった。
すこし遅れて鈍い痛みが、自分から遠いところでおこっている。
ああ、つまづいて転んでしまったらしい。
立ち上がらないと……
どうやって……立ち上がったら……いいのかな?
「……ユリアナ!」
あれ、いつの間にか立ち上がっている? あれ? 違うかな?
「血が出ているぞ……聞こえている? 大丈夫か? ユリアナ」
誰かに抱きかかえられているのか?
「おい、そこの者。布を……いや、薬。違う、医者だ」
おお、この声は好きな声だ。
ああ、だがそんな風に慌てた声ではなく、静かに語る声の方が好きだな。
「何を?」
と、固まっていた私の唇が動いた。
「ユリアナ!」
声を主に抱えられているらしい。
体が、なんだか温かい。
布団の中にいるようだ。
いや、何かの大きな布で包まれているのか。
この布は何だろう?
ああ、マントだな。
群青色のマント……このマントを着ていたのは……
「ヨアヒム?」
「ユリアナ、分かるか? 大丈夫か?」
酷く動揺している声だ。
「どうして……慌てている? 何かおこったのか?」
いきなり合戦が勃発する事も無いとは思うが。
「何がって……自分が倒れたのが分からないのか? 本当に大丈夫か!」
ああ、そうか転んだのだった。
「少しふらついただけ……たいしたことは……」
なんとか起き上がろうとするが、どうにも体に力が入らない。
「動かないで。頭を切っている出血がひどい」
そう聞くと、なにやら額の上が熱い。
「大丈夫だ。たいしたことは……」
それでも何とか立ち上がろうとすると。
「動くな!」
と、ヨアヒムの怒声が響いた。
「ひっ!」
私は小さな悲鳴をあげる。
すると、急に体の中に渦巻いていた不安やら恐怖が塊になって胸から喉に上がり顔から噴出しそうになった。
だめだ。
これは、いま出したはいけない。
この塊は、けっして人に見せてはいけない。
なんとか、その塊を押し戻そうと息をつめる。
だが、その拍子にしゃくりあげるように喉が鳴り、その苦しさから目頭が熱くなる。
喉のひくつきは止める事ができず。しゃっくりのように何度も喉が鳴り。その度に目頭が熱くなり。ついに、涙が流れ出した。
だめだ。
涙を流してはいけない。
酷いことをしたのは私だ。
だから、泣いて良いのはヨアヒムの方だ。
「驚かしてすまない。だが、頼む。動かないでくれ」
清潔な布を受け取ったヨアヒムは私の額にそれを押し当てて、群青のマントごと私の体をきつく抱きしめる。
そうされると、胸がおさえつけられて、中につまっている息が言葉になって漏れ出した。
「……私は酷い奴だ……酷く強欲な女だ」
押し留めようとした言葉は、一言漏れると堰を切ったようにあふれてくる。
「私は、新しい戦の道具が欲しかった。だからエッセン工房を望んだ。それだけでいいと思っていたのだ。なのに……なのに、まだ欲しいものがあるのだ。こんな事は強欲と分かっているのに。それでも欲しいものがあるのだ」
「ユリアナは昔から欲張りだったからな」
ヨアヒムの言葉が少し軽くなる。
「菓子の事ではない……それに、こんな事では……そもそも取引が成立しない」
「取引と言うのは、フランシス工房の事?」
「そうだ。私はフランシス工房が欲しい。だか、対価が……『王家の血』しか……思いつかなかった」
深く息を吐いたヨアヒムが。
「あの工房は、それほどの価値があるのか? 変なものばかりつくっているのだぞ」
「世界を変えるほどの価値があると思う」
私の言葉に、信じられないとヨアヒムは呟いた。
「では、もう一つ欲しいものとは何だい?」
「……」
「フランシス工房の他にも、もう一つ欲しいものがあるから悩んでいるのではないのかい?」
いや、そうだけど。
それを本人に言うのか?
これ、どんな羞恥プレイだ。
心拍が上がり顔が熱くなってくる。
だが、言わないと、この事態は打開されない。
もう、言うしかないのか。
「……ヨアヒム」
「?」
ヨアヒムは、その一言では理解できない様子だった。
鈍感! バカ! 阿保!
ああ~~はっきり言わないと……だめなのか。
「ヨアヒムがほしい……私は、お前を好きだ……だから、嫁ぎたい」
ちゃんと言ったぞ。
これで分らなかったらマジ殺すぞ!
「……とても嬉しい告白だね……でも」
ええ! まさかここで断らないよねぇ。
「なぜ、その事で悩んでいたんだい?」
えっ?
私は、いまアホのような顔をしています。
「その……ユリアナは嫁いでくれるのだよね……なら、僕は……とても嬉しいし……いや、残念な事もあるかな」
「私では不満なのか?」
そうですね。
特に胸のあたりは私でも不満ですが……なにか。
「違う。実は僕からプロポーズしようと思っていたんだけど……ユリアナは直接に母上と話してしまうし……その、ちょっと間が悪かった言うか……どうユリアナと話すか悩んでいたんだ」
あれ?
「それでは、結婚と引き換えに取引した事は?」
「? 結納の事かい。まあ、ユリアナが直接に母上と掛け合うのは驚いたけど、ユリアナが欲しいものが分って良かったよ」
……結納って事でイイのですか?
私は何を悩んでいたんでしょうか。
「では、言ってはくれないか?」
私はヨアヒムの瞳をのぞき込む。
「……プロポーズかい?」
ニコリとほほ笑む首肯する。
「ありきたりだけど……ユリアナを愛している。僕と結婚してほしい」
「喜んで」
ああ、私は転生前を含めて初めてプロポーズされて、したけど。相手は男だよ。
以前なら嫌悪感で拒否していたかもしれないけど。今は脳内祭り状態だよ。
私が目を閉じると、ヨアヒムの顔が近づいてくる気配がする。
ああ、またしちゃうのね。キス!
と思ったが。
医師を連れた侍女が乱入。
私は治療状態となった。
まあ、治療が優先だよね。残念。
額のケガは、出血が多い割に大したことはなくて跡も残らないとの事。
倒れた原因は『寝不足・過労・栄養失調』のトリプルだった。
医者とヨアヒムとアイリス様に怒られました。




