春節の宴 8
しばらくしてヨアヒムが私から体を離し、涙を拭いて。
「ごめん……みっともないな、私は」
と、少し微笑んだようだ。
思い返すと、ヨアヒムは再会してから一度も笑っていないような気がする。
子供のころは、いつもニコニコとしていたのに……
「ヨアヒム、私といるのはつまらなかったか?」
「いや、そんな事はないけど……」
「でも、笑わなかった」
「そうかな……皆が見ていたし……緊張もしていたし……」
「今は二人きりだぞ」
少し拗ねたように言ってみる。
「そう……だね……」
そう呟きながら、ちょっと硬い笑顔を返してくれる。
「枝に髪が絡んだのを助けてくれた時に、約束と言ったが……私は、何か約束をしていたか? すまないが……忘れてしまった」
ごめんね、この笑顔で許してください。
と、ちょっと首を傾げた仕草で笑顔をつくりながら問うと。
「……最後に……私が領地に帰る時のことだけど」
それは、ヨアヒムの父上が公爵となって、王都からエッセン領へと帰った時の事だろう。
「お別れのキスをしようとしたら……そのキスは、再会の時にしようと……約束した、と……思っていたのんだけど……違ったかな?」
ああ、そう言えば……
あの時は、妙に恥ずかして……
キスしたくなかったのだが……
まてよ。
私……以前も、ヨアヒムとキスしていた!
天恵前だし、子供の頃だけど……していた。
まあ、こっちの世界では……親しい間柄なら普通にしているし。
文化ちがうし、問題ないよね!
「思い出した。約束していたな……私が、忘れていた……」
私はヨアヒムの手を握り謝るが。
気にしなくて良い、とヨアヒムは言う。
思い出したら、また……キスしたくなった。
私は、少し上を向いて、目を閉じた。
少しの間をおいて、ヨアヒムの顔が近づいてくる気配がある。
もうすぐ、ヨアヒムの唇が、私のに触れる。
今度は、どうしようか?
ちっとだけ、舌を使ってみようかな。
それとも、抱きしめてしまおうか。
ベッドの方に倒れてもいいかも……
そう思う間に、ヨアヒムの唇は私に触た。
今度は、最初のように、すぐに私たちは離れなかった。
お互いの唇の形を確かめるような。
子供のでも……挨拶のものでもない……これは……
ヨアヒムの舌が私の唇に触れた時、体の中を何かが突き抜けて……膝の力が抜けた。
ヨアヒムが片手で私を支える。
頭がフラフラとして、目の焦点が曖昧だった。
体に力が入らないし、キュッとして、頼りなかった。
ボーっとなった私を椅子に座らせたヨアヒムは、大丈夫か? と聞いてくるので、大丈夫と答えたが。まだフラフラだった。
しかし、天幕の外に人の気配がある。
取次が、来客を告げた。
コンラート伯と従者に、ヨアヒムの部下のビンセント男爵。
「ユリアナ様、お忘れ物でございますよ」
と、コンラートが言うと。従者が布が掛かった大きなトレイを差し出した。
「それは、こちらにいただきますわ」
と、グレタがトレイを受け取った。
中身は、私の外套だろう。
ヨアヒムが驚いていた。
なぜだ?
「しかし、ユリアナ様は大胆な方だ。若い者には刺激がすぎます」
苦言を言うコンラートに。
「昔の怪我が痛むものでな。許せよ」
と、弁解しておいた。
コンラートは「そうしておきましょう」と肩を竦める。
「ヨアヒム様も、お迎えにあがりました」
と、ビンセント男爵。
「すまないな、ビンセント」
と、笑顔で答えた。
それを見たビンセント男爵が驚いたようす。
「それではユリアナ姫。私は」
と言いかけたヨアヒムに。
「ヨアヒム、一つ頼みを聞いてほしい」
と頼みごとをすると。
「そのくらいの事なら、すぐにでも」
軽く了承をもらった。
よし、一つ懸案事項クリアだ。
ヨアヒムとビンセントが天幕を出てゆくのを見送り、コンラートに向き直る。
「狐狩りの準備を無駄にさせてしまったな」
「いえ。予定の内ですから」
グレタがトレイを従者に返すと。
「では、明日の準備もございますので」
と一礼をしたコンラートと従者も帰っていった。
「グレタ、すまないが使いを頼む。それから、紙とペンを」
「はい、ユリアナ様」
グレタは、すぐに用意してくれたので、書状を二枚書いて、それぞれを届けるように言いつける。
「では、すぐに」
と、私か書状を受け取ったグレタの笑顔に、重要な見落としをしている事に気がつく。
グレタは……いつから天幕の中にいた?
「……つかぬことを聞くが……いつから、ここにいた?」
「ずっとおりましたわ」
「私を送り出してから、ずっといたのか?」
「はい」
笑顔で答えるグレタ。
「私と……ヨアヒムが天幕に入ってきた時にも……」
「おりましたわ」
「……気配がしなかったが?」
「あら、昔の癖で、気配を消していましたかも」
いや、それワザとだろう。
「……そうであったか。では、使いを頼むぞ」
と、内心の恥ずかしさに悶え狂いそうな思いを強引に押し込めて、出来る限り冷静なふりをする。
「ユリアナ様、お可愛らしくございましてよ」
グレタは意味ありげな笑顔であった。
「……早く行け!」
私は、なんとか感情を殺して、言い放つと。
グレタはサッと天幕から飛び出していった。
まだ力の入らない体で、なんとかベッドまでたどり着き、私の体より大きそうなクッションを抱いて倒れこむ。
体に溜まった、疲労やら何かがつまった息を深く吐き出す。
まだ、体の奥がズキズキと甘く疼く。
あそこで、私が倒れなかった……どうなったろうか?
その後も、来客がなかったら?
ここが、野営の天幕でなく、ガルムントの館であったら?
そんな仮定が、頭の中をグルグルと現れては消える。
そんな頭の中のグルグルと連動するように、体の中をズキズキがグルグルしている。
ああ~もう……どうしたらイイのだろうか?
「お慰めいたしましょうか? 姫」
耳元で囁かれた。
「ひぎゃぁ!」
思わず悲鳴をあげると。
そこには、グレタがいた。
「……使いに行ったのではないのか?」
「終わりました」
えっ? 随分と早いな。
と、思ったが。考えてみれば、グレタは忍びの末裔だ。身体能力は常識外かもしれない。
「気配を消して入ってくるな!」
「あら、消してましたかしら?」
そう言いながら、グレタの体が私に重なる。
いや……、ちょっと待て!
「待て……今は……ひぃん」
「今宵は、敏感でございますね」
いや……だから……待てと……言って……
ああ……ひょこぉ~~、らめぇ~~
次の朝、夜が明けると同時に目が覚める。
ベッドには、私しかいない。
「おはようございます、ユリアナ様。今、お茶をいれますね」
と、ツヤツヤとした肌のグレタが洗面用具を持って立っていた。
「ああ、すまん」
体が、だるい。
やはり、グレタは私の精気を吸っているに違いない。
洗面を済まし、ガウンを着て茶を飲んでいると、来客があった。
ヨアヒムの部下であるビンセント男爵だ。
昨夜、ヨアヒムに頼んだモノを持ってきてくれた。
「無理を言ったと思うが、すなぬな」
それは、エッセン公爵領の詳細な地図だ。
「申し訳ありませんが。私が立ち会っての閲覧に限らせていただきます」
とビンセントは恐縮するが。
「いや、無理を承知で頼んだのだ。それくらいは良い」
私は、早速に地図を広げてみる。
エッセン公爵の領地はガルムント山脈の中にもあり、王領ガルムント鉱山にも接しているが、この部分は非公開である。
先日、送電線らしきものを見つけた場所は、エッセン公爵領内だった。
地図には、送電線らしき書き込みがあり、それは大きな池から流れる谷側にある建物から、公爵領内の大きな建物へと伸びていた。
「この池の堤は、人工のものか?」
「はい、先代がおつくりになったものです」
やはり、人工の堤。
つまりはダムか。
「この辺りの警備は、どうなっておる?」
「私からは、お話できません」
まあ、そうだろうな。
「この建物は?」
私が送電線が繋がった大きな建物を指すと。
「工房でございます」
「ほほう、工房なぁ」
普通の工房にしては、かなり大きい。
知りたいことは分かったので地図を返そうしたが、公爵領の地形に奇妙な特徴がある事に気がついた。
私は、真円形の池と同心円形に連なる小山を見つめた。
その中心、真円形池の中心に何かの建物があった。
「これは?」
「私では、お答えできません」
コンラートは答えを拒否した。
それで十分だった。
「すまない。手間をとらせたな」
と、私は地図をビンセントへと返した。
ビンセントは地図を納めると、私に向き直り。
「これは私事になりますが。ユリアナ姫殿下にお礼を申し上げたくぞんじます」
と、深く一礼し。
「ヨアヒム様のお心を慰めていただいた事、深く感謝いたします」
どうやら、ヨアヒムの落ち込みは酷いものだったようだ。
「デンネンダル領での戦は、壮絶と聞いているが」
「……まさに、地獄と言えます。あれは、もはや戦ですらありませんでした」
「その話、詳しく聞きたいが……」
と、話していると。
天幕の外が騒がしい。
どうやら、昨夜のアレで苦情を言いに来た輩がいるようだ。
「またの機会にしよう。ヨアヒムに礼を言っておいてくれ」
ビンセントは、また一礼して天幕を出ていった。
天幕を出ると、そこにはジョン伯とランキン伯がいた。
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