風邪
年越し祭を控えた日。
寒い朝だった。
私は、ベッドから起き上がれなかった。
「これは……まずいな……」
「風邪ですな」
往診に来たアレクサンドロは、心配ないといいながら、また苦い薬を処方した。
「ちゃんと眠っておいでじゃあありませんな」
「まあ、忙しくてなあ」
「ここへは転地療養に来たのではなかったのですかな?」
表向きは、そうなのだが。
「しかし、すごい部屋だ」
アレクサンドロが私の部屋を見渡しながら感嘆する。
「これは、何の機械ですかな?」
「製図版じゃ」
「ほう、製図版ですか。これは?」
アレクサンドロはクルム苔入りのガラス瓶を持ち上げる。
「クルム苔を、なんとか使えるものにできないかと思っておる。実験中じゃ」
「ほう、なるほど」
私の部屋は、とても女の子の部屋には見えない。
引っ越してきた当初は、美しい絨毯と壁掛けで飾られた部屋だったが。
今では、機械やら書類やらで足の踏み場も無いありさまだ。
「部屋の換気もしてほしいですな。空気が悪いと、風邪が治りませんぞ」
「風が入ると書類が飛ぶ」
呆れた顔のアレクサンドロが。
「書類は、また拾えばよいですがな。失った健康を戻すのは容易ではありませんぞ」
少しアレクサンドロの顔が怖かった。
「……うむ、気をつける」
なんだか、私は駄々っ子のようだ。
「そう言えば、蒸気ポンプが動き出しましたが、あれはユリアナ様の考案ですかな?」
「違う。あれは技師長の成果じゃ。私はアドバイスしただけじゃ」
蒸気機関とは、簡単に言ってしまえば圧力差を運動に変換する装置だ。
私のアドバイスは、圧力差を大きくする事。
ここで大切なのは、圧力を上げることばかりに気をとられて、圧力の低い場所をつくることをわすれてはならない、と言う点だ。
単に蒸気の圧力を大気に放出するだけでは効率は上がらない。
ピストンを押し下げた蒸気を急速に逃がし圧力を下げる工夫が必要となる。
まず、ピストンを二個に増やしてリンクで繋ぎ、片方が圧力を受けるときは、片方が圧力を逃がすようにする。
そして、逃がした蒸気は熱交換器に通して急速に冷やしてから、またボイラーに戻す。
このサイクルが肝心なのだ。
「ですが、ユリアナ様の言葉がなければ、この冬の間に蒸気ポンプが動きましたかな?」
「動いたかも、しれんじゃろう」
強情な方だ、と笑いながらアレクサンドロは帰っていった。
「ハンナ、私は生意気かのう?」
「そうでございますね、ますね」
心で思っただけなのだが。
なんとハンナが返事をしてきた。
と言う事は……声を出していたのか、私!
思考だだ漏れではないか。
「心配ばかりかけされらますし、ますし。口答えばかりされますし、ますし。人の言う事は聞き流されますわ、ますわ」
うう、その通りなのだが。
「ですが、私はお嬢様の事が好きですわ」
「ふん、慰めなぞいらんぞ」
私がふくれていると、ハンナがベッドの横に座り。
「お嬢様は、本当はお優しい方ですわ、ですわ」
そう言い、私に毛布をかけ直してくれる。
そんな事をしていると。
「失礼いたします。ユリアナ様」
と、グレゴリオがやってきた。
「宮廷医師が逃げました」
ほう、逃げたか。
「監視はしていただろう?」
「はい。しかし、追跡を振り切られました。何者かの手引きがあったと思われます」
やはり、複数か組織が動いていたか。
さて、真犯人とやらは、どう動くかな。
とは言え、今は風邪を治すことが優先だな。
「ユリアナ様。何をなさいました」
と、ハンナが問うてきた。
えっ、何って?
「宮廷医師様に、何か悪戯とか、脅迫とか、暴力とか、迫害とか、弾圧とか」
「ちょっと待て、ハンナ。私は何もしていないぞ」
と言うか、さっき「お優しい」とか言っておきながら。なんだ、その悪逆非道な独裁者のごとき、非難のされようは。
「いえ、ハンナ殿。この件は、ユリアナ様の落ち度ではありません。宮廷医師にとってユリアナ様が生きていること自体が恐怖でありまして……」
「お医者様を、そんなに怖がらせてどういたしますか! ますか!」
ううう、暗殺されかかって、何でこんな風にイジメられるのだ。
それから、グレゴリオ!
フォローになっておらんぞ!
騒いだら、また熱が上がったので、しばらく眠ることにした。
薬が効いているのか、すぐに眠りに落ちる。
いや、普段の寝不足の反動かもしれない。
かすかな、潮の香りで目が覚めた。
もう、外は暗かった。
今は何時であろうか?
「グレタか?」
「はい、ユリアナ様」
いつの間にか、グレタがベッドの側に立っていた。
「幽霊みたいな奴だな」
「それは、最高の褒め言葉ですわ」
まあ、忍びにとっては、そうだろうな。
「で、何の用だ」
「姫様がお風邪と聞きまして、その様を覗きに……」
「出てゆけ。二度と来るな」
私は、毛布を被った。
「冗談ですわ。実は、コノリーの件で」
ええっと……コノリーって誰だっけ?
「……宮廷医師の件で」
察しの良いグレタが、私にも分かるように言い直してくれた。
気が利く奴だ。
「どうした? 行方が分かったのか」
「コンラート伯爵の下におります。しかし、少々厄介な事に」
「厄介とは?」
「それが……」
グレタの説明で、事態が本当に厄介な事になっているのが分かる。
「それでは、明朝にはコンラート伯爵がコノリーを連れてガルムントに来るのだな」
「はい。まず、間違いないかと」
「会わぬわけには、いかんなあ」
「はい」
そして、それはコノリーの思う壺なのだ。
「グレタ……手伝ってくれぬか?」
「コンラート伯を足止めですか」
私は、一呼吸おいて答えた。
「いや、会う。そして、殺す」
暗闇に、グレタの驚いた様子が伝わる。
「……止めようとは思いませんが。おできになりますか? 失敗すれば、それこそ取り返しがつきませんよ」
そうなのだ。
これは失敗が許されないミッションなのだ。
「実のところ、自信は無いが……これは避けては通れない」
少しの沈黙の後。
「お手伝いいたします」
とだけ、グレタは言った。
翌朝。
まだ、熱は下がらなかったが、私はベッドから出てテーブルで朝食をとった。
朝食が終わると同時に、コンラート伯爵一行が訪れたと知らせが入る。
「グレゴリオに、コンラート伯爵一行を『北の間』にお通ししろ、と伝えろ」
知らせの者に言付る。
服を整えながら待っていると、グレゴリオが飛び込んでくる。
「ユリアナ様!」
「いいタイミングだ。グレゴリオ」
私は、服の襟を直して言った。
「北の間は準備できておるか?」
「ユリアナ様。なぜ、北の間を使うのですか!」
グレゴリオは、いつにも増してうるさかった。
「必要だからじゃ」
「相手は伯爵ですぞ!」
「宮廷医師のコノリーも、一緒であろう?」
一瞬、言葉を失ったグレゴリオは、少し静かな声で。
「ですが、コノリーは縄をかけられております」
まあ、そうだろうな。
「わざと捕まったのだぞ。縄をかけられるくらいは想定していよう」
「……それでは、これは」
「ゆえに、北の間じゃ。コンラート伯爵の身は任せたぞ」
「ユリアナ様は、ここでお待ちください。北の間へは、私が」
「それは聞けんな!」
グレゴリオが全てを言う前に、私は拒否をした。
「いつかは通る道じゃろう。それが、今日と言うだけの事」
「ですが……」
「出過ぎるなよ、グレゴリオ。決めた事じゃ」
しばらくも間の後。
「ご無礼をご容赦ください、ユリアナ様。北の間は整ってございます」
と、深く礼をする。
「うむ。では、コンラート伯爵を案内せよ。私は、後から行く」
もう一度、礼をしたグレゴリオが出てゆくと、私の口からは深い息がもれた。
「……これは、地獄の入り口にすぎんのだ。私が求める地獄は……この先にある」
独り言が口からもれる。
その声が、意外なほど大きく耳に響いた。
私は、恐れている。
正直に言えば、ここから逃げ出したかった。
しばらく立ち尽くしていると、側らのメイドが手をさしのべた。
「そうだな。行くとしよう」
私達は、北の間へと向かった。
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