1、事件のニオイ
季節は春。
所は某県某市の地球学園。
使い古された陳腐な台詞ではあるが、あえてこの言葉を使うことにしよう。
今、学園は狙われている!!
キーン、コーン、カーン、コーン……。
終業の鐘の音が、学園中に響き渡る。
「……あ、終わった」
東大地は口からよだれを拭いながら、机から眠そうな顔を上げた。
(いかんなー……)
目をこすりながら、大地は委員長の号令に従っておざなりに礼をする。
着席すると、大地はもう一度机の上にうつ伏した。
(……いかん。今日は一限目から、ずーっと寝っぱなしだ)
大地は大きく息を吐いて顔を上げると、首を左右に振った。
(今、何限だっけ?)
大地は黒板に書かれていた数式から、今終わったのが四限の数学だろうと判断する。それからふと目を机の上に落として、教科書が二限の現国であることに気が付き、一人苦笑する。
(いやー、いかんいかん。やっぱ、昨日の徹夜RPGがいけなかったかなぁ)
大地は大きく伸びをして、あくびをひとつすると、ゆっくり席を立った。
「昨日は販売部のパンだったから、今日は学食でなんか食うことにしよう」
大地は伸びをしながらそうつぶやき、教室から廊下に出ようとして、ふと妙な違和感を感じた。
「ん~~?」
(……妙に、静かだな)
昼休みだというのに、まるで人気がない。
いつもなら教室でお昼を食べる連中が、おしゃべりしながらお弁当を広げている時間帯のはずだ。だというのにみな出て行ってしまって、教室の中には誰もいなかった。
「あれ、次なんかあったっけ?」
大地は、ちょっと考えて、壁の時計を見て、それから自分自身の腕時計を見て、今が丁度四限が終わった所であることを確認する。
「……もしかして、何か事件が?」
急に真剣な顔付きになってつぶやく大地。
「仮説その一、みんな早退した。その二、実は時計が狂ってて、ほんとはもう放課後。その三、実はまだ夢の中……」
だがその緊張も三秒とは持たなかった。
ぐきゅるるる~う。
大地の腹が大合唱を始めたためである。
「その四、どっきりカメラ」
ちょっとの間首を傾げてから、大地はふう、とため息をついた。
ぐきゅううう~、きゅるるっ!
大地の腹が、再び何か食わせろとだだをこねる。
「……んなわけねーか。ま、何にしろメシを食いにいかねば」
大地は、「廊下を走るな!」と書かれた張り紙を引っぺがすと、ぐしゃぐしゃにして放り投げた。
それから、「廊下はキレイに!」と書かれた張り紙を見て、それも引っぺがした。
「無駄な思考に時間を費やしてしまった。早く行かねば、食券が売切れてしまう」
階段を一気に飛び降りて(駆け下りてではない)校舎から飛び出した大地は、超音速で校門近くの学食に駆け込んだ。いや、駆け込もうとして慌てて急ブレーキをかけた。
「な、なんだぁ?」
学食の前に駆けつけると、そこは人、人、人! 見渡す限りの人の海だったのだ!
冗談や誇張でなく、人の海である。どうやら文科系クラブらしい、一年生が人の波に飲まれて溺れていたりする。
「うおお~っ! 食券をくれぇ~!」「うぬら、退かねば斬る!」
「後ろ、おすんぢゃねぇっ!」「きゃ、いや~ん」「誰か助けて、ゴボゴボ……」
黒い学生服と藍色のブレザーが入り混じり、波のようにうねり、学食の入り口に押し寄せては砕け、引いては返し、怒鳴り、どつきあい、引きずり倒す。
もはやこの荒海に一歩でも踏み出したら、二度と生きては帰れない。そんな気がしてくるほどの凄まじさ。
いや、そんな気がするどころか、本気で命を落としかねない状況になっている!
「うわっちゃぁ~。なんだよこの騒ぎ?」
大地は思わず呆然としてしまい、ただ立ちすくむばかりである。
よく見ると、生徒だけではなく教師までもがこの大騒ぎに加わっていた。
「そこ、先生に道を開けなさい! 単位が欲しけりゃ言うことを聞け~っ!」「君、今度の期末の問題用紙あげるから、そこを退きなさい!」「教師の言葉は、神の言葉じゃっ!」「ねぇ、ふたりっきりで個人授業したげるからさぁ……」
大地は完全にあっけに取られていた。
「どーなってるんだいったい……?」
普段なら、あまりの不味さに営業停止処分を三度もくらった学食に行くのは、自殺志願者か、味覚が完全にいかれている大地のような人間くらいのものであった。
それなのに、この人の数はいったいどうしたことだろう? これは異常である。どーかんがえたって異常である。全校生徒約二千人のうち、ほぼ半数が座席数五十というちっぽけな学生食堂に押しかけているのだ。
大地は一瞬あきらめかけたが、すぐに朝飯も食い損ねたことを思い出して意を決した。
「俺は今日の日替わりの、納豆ヨーグルトラーメンを楽しみにしてたんだぁ~っ!!」
大地は、ふん、と腹に力を入れて、人の海に頭から飛び込んだ。
「うおおおおっ! 食券よこせえええ!」
「力こそ正義ぃ!」「え~、毎度おなじみちり紙交換で……」「うぎゃああああっ!」
「精進が足りんわ」「え~っ、うそぉ、それマジ?」「パクパクやっちゃえ!」「十年早いんだよっ!」「なぁ、いいだろう?」「そこどけよこの××野郎!」「俺のこの手が光って唸る!」「大自然のおしおきです」「ハハァ~ン?」「……好きです」「ちょっとまったー!」
(……このままじゃ、昼休みが終わっちゃうな)
飛び込んだはいいものの、普通に進もうとしたって進めるわけがない。
悩む大地のすぐ脇を、どうやら水泳部らしい女生徒がみごとなクロールで人の波を越えて学食の入り口に泳いでゆく。
「どうすればいいのだろう?」
泳ぎ行く女生徒のスカートがめくれるのを眺めながら、大地は考えた。その彼の上をボート部のものらしいゴムボートがカヌー研と競争しながら通り過ぎる。
十秒ほど悩んだ末、大地は結論を出した。
”自分の腹を満たすためには、多少の犠牲はやむを得まい”
とことん自分勝手な理屈だが、この時の大地は自分の腹を満たすことが最重要事項で、まわりのことなんかぺぺぺのぺ、であった。
「うおお~っ! 実力行使ぃ~っ!」
大地は目の前の男子生徒の背中に体当たりをかまし、横の女生徒に蹴りを入れながら人の波の上に浮かび上がろうとした。
波の上に乗りさえすれば、なんとかなる! その考え自体は悪くなかったのだが、やはり方法が強引過ぎた。
「てめーっ! なにしやがるっ!」
「何すんのよぅ、変態っ!」
たちまち大地は大勢の手によってたかって引きずり落とされ、足元に押し込められ、本格的に溺れてしまう。
どかっ! ばきっ! げしっ! ぐしゃぁっ!
大勢の足に蹴り飛ばされ、踏まれ、大地は息も出来ず、ただただもがく。
もし、レスキュー部の浮き輪が投げられなかったら、本気で窒息死していただろう。
「はぁ、はぁ、はぁ。死ぬかと思った」
なんとか命だけは助かったものの、大地にはもう一度この荒海に挑む勇気は残っていなかった。
ボランティアのレスキュー部員に礼を言うと、大地は”アンパンでも食えないよりはマシ”
と、販売部に向かうことにした。いや、向かおうとして挫折した。
「こっちもかぁ?」
どう考えても、パンの絶対数が足りないと思うのだが販売部の方も恐るべき人の海になっていたのである。しかも、学食とは違い販売部は校舎内にあるので、冗談抜きで押しつぶされて死んでいるやつがいるかもしれないくらいにすごい。
あ、かもしれないじゃなくてほんとにつぶれてるやつがいる……。
「まいったなぁ。メシ抜きだけは避けたかったんだが……」
ぶつぶつとつぶやきながら大地が考え込んでいると、その彼の肩を、骨が折れたんじゃないかと心配させるほどすさまじくド派手な音を立てて思いっきりぶっ叩く者がいた。
どっぐぁしゅぶぁゅああんっっ!!
「……ってぇ~!! 誰だぁ?」
あまりの衝撃に、くそう痛恨の一撃をくらっちまったぜいっ、と荒い息を吐く大地。
その背後から、底抜けに明るいのーてんきな声がかけられる。
「よー、だぁいちぃー。おまえもメシ抜きかぁ~?」
振り返ると、後ろに大地の親友の飛野明がにやにやしながら立っていた。
大地と同じある同好会に所属する彼は、じっとしてりゃ美形で通るが行動するたびに何かを壊さなくてはおさまらないという、凄まじい馬鹿力の持ち主である。
「むむ。俺に気付かれずに背後を取るとは、腕を上げたのぅ」
「ば~か。おまえがとろいだけじゃ」
とう、と明が軽くチョップをして、大地がそれを両手で挟むようにして受ける。
「秘技、真剣白刃取り!」
「流石は東白雲斎。なかなかやるでござるな」
そこで二人して、がははと笑いあう。何の他愛もない、いつものやりとりである。
ぶっ叩かれた左肩がじんじん傷むのも、たまにゃ手加減してくんないと、いつか冗談で殺されかねんな、と大地が思うのもいつものことである。
「ところであきら、おまえっていつも弁当だったろ? 今日はどうしたんだ?」
ふと大地が問うと、明は「いい質問だな!」と言って人差し指を立てた。
「家に忘れてきたみたいなんだ。鞄に入れた覚えはあるんだがな。まぁ、そういうわけでパンでも食おうと思ったらこの騒ぎだ」
「うむぅ。おい、あきらよぅ、これは何か事件のニオイがしないか?」
大地が鼻をひくつかせながら言う。
「確かに匂うよなぁ。これはカツサンドにカレーパンにその他もろもろのニオイ」
ただし匂いは前方の販売部からではなかった。後方、それもどうやら近づいてくるようである。
「ねー、あずませんぱぁーい、ひのせんぱぁーい、そんなとこでなにしてるんですかぁ?」
妙に間延びした声がして、台地と明が同時に顔を向けると、双子の女生徒が二人の方に向かって駆けてくるところだった。
「むぅ。出たなおーぼけ姉妹!」
大地がすぺしうむ光線よろしく腕を十字に組むと、双子は同時にあいすらっがーで切り返す。
「おーぼけ姉妹はやめてくださいよぅ、あずまセンパイ! かわゆく、おちゃめな双子って呼んでください」
双子の片割れがにっこり微笑む。
向かって右が水瀬はるか、左がかなたであるが、外見上まったく区別がつかないし、中身も大して違わないので、ここではとりあえずひとまとめにしておく。
彼女らもまた、大地と同じ同好会に所属する一年生である。とりあえずは美少女で通るが、二人そろうと”はるか”と”かなた”なだけに、どんな問題もどこか遠くの異次元世界へすっとんでしまうという恐ろしい双子である。
「なんでもいーよ。俺達は昼飯食い損ねて困ってるとこなんだ。何かつてはないか、はるか、かなた?」
明がすきっ腹を鳴らして双子に言う。
「さっきから、この匂いがきになっているんだが、なぁ? おちゃめな双子」
大地の腹が、凄まじい音量でじゃ、じゃ、じゃ、じゃーんとベートーベンの運命を演奏し始め、双子はぷっと吹き出した。
双子はそのまま、くすくす笑いながら大きな紙袋をどこからともなく取り出すと、にっこり微笑んだ。
「そういうことなら、早く言ってくださいよぅ。よかったら、わたし達のお昼、おわけしましょうかぁ?」
「いいのか?」
「悪いな」
口では謙虚なことを言いつつも、大地と明の手は既に紙袋をあさくっている。
「どれにしますぅ? いろいろ取り揃えてますけど」
言いながら双子がさらにバッグから取り出した紙袋の山は、ダンボール箱でゆうに六箱分はあった。
「おい、二人で食うにしちゃ、量が多すぎないか?」
大地があっけにとられていると、
「それ以前に、あれだけの量がよくあのバッグに入ったもんだ」
と明がつぶやく。
「うふふ、”ふぇありーず”の新商品、四次元バッグなんですぅ」
双子はにこにこしながら、パンの入った木箱を紐で首からぶら下げると、”ふぇありーず出張店”と書かれたのぼりを地面に突き刺した。
「いらっしゃいませ~、”ふぇありーず”へようこそぉ!」
「何にいたしますかぁ? せんぱぁ~い」
にこにこする双子を前に、大地と明は思わず顔を見合わせた。
「……おまえら、商売する気か?」
「せんぱい達だけ、特別に二割引したげますぅ」
美少女二人に微笑まれては、タダで寄こせなんてとても言えない。
「おれ、カツサンドとカレーパン」
「俺は、塩辛マヨネーズぱん」
ふぅ、とため息をつく二人。
「おふたり、しめて千五百円になりまぁす」
「おいっ、それは暴利だ! 販売部なら五百円もかかんねーぞ?」
大地が出しかけた財布を引っ込めた。
「あら~。販売部で変えなかったんじゃないんですかぁ、せんぱぁい?」
「いいんですよぉ、この値段でも買ってくれそうなお客さんは、あっちにいっぱいいらっしゃいますしぃ」
双子がにやぁ、っと微笑む。視線をたどると、どうやらのぼりを見かけたらしい生徒の波が、こちらへ押し寄せようとするところだった。
「……わかった。その条件、のもう」
大地も明も、いい加減、腹の虫を抑えるのが限界になっていたので、しかたなく財布の底をはたくことにした。
「毎度ありがとうございますぅ~☆」
「もーけたら、せんぱいたちに何かおごったげますねぇ」
「……そんときゃたのむ」
「期待してないけどなー」
すっかり疲れ果てた大地と明。
そして、騒ぎは五限が始まっても終わる素振りを見せようとはしなかった。