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黒い表紙の電話帳



 (これで、俺の出世の目は無くなってしまった)

 平井は嘆息した。つい先ほど、同期の真田が部長に昇進する、という通達があった所だった。

 周囲の人々に祝福され、浮かれている真田を、平井は内心の忌々しさを隠し切れない渋い表情で眺めていた。

 (もう、ずっとヒラのままなのか……)

 平井や真田と同期入社した人間は非常に多かった。だから、一人が出世すると、必然的に、他の人間はその下に就くしかなかった。

 つい二週間前には、平井にも、昇進とまではいかないが、昇進した人間のおこぼれに預かれるチャンスがあったのに、それも今やふいになってしまっていた。

 (本田の奴が、あんなことにならなければ……)

 本来は、真田のポジションには、同じく同期で、平井とは近い関係であった本田が収まるはずであった。

 社内での役得にあずかるには、別に自身が出世する必要はなかった。要は、出世しそうな人間の派閥に与していれば良かった。どうあがいても、ニ番手以上にはなれないと思ったら、一番手の取り巻きになることだ。そうすれば、一番手が昇進した暁には、自分の地位は自然に上がる。同期で誰が出世しそうなのかを見極めるのも、会社で生き残って行くには必要な才覚であった。

 その点では、平井は今までは上手くやってきたのだが、運が悪いことに、その一番手だった本田は、ニ週間前に、部長昇進の辞令が届く前に、事故死してしまったのであった。しかも、自分が健康のために日課にしていた散歩中に、歩道橋で足を滑らせて、それで頭を打って死ぬ、という何とも皮肉な死に方をしたのであった。

 本田さえ生きて部長になっていれば、数年後には、派閥の二番手であった自分がそのポジションに収まれるはずだった。それが真田では、もう見込みは万に一つもなかった。

 (飲まなきゃ、やってられん) 

 その夜は、真田の昇進祝いが開かれる事になっていたが、今さら真田にすり寄る気もない平井は、飲み会には参加せず、一人で、行きつけの居酒屋で、深夜まで飲むことにしたのであった。

 夜遅くまで家を空けていても、妻に文句を言われる気遣いはなかった。彼女は既に、仕事一筋で家庭を顧みなかった彼に愛想を尽かして、娘と一緒に出て行ってしまっていた。最近、ローンを返済し終わった、庭付き一戸建て二階の家は、一人で住むには広すぎて、自分の家なのに、帰るのはとても気が滅入った。

 それに加えて、今回の真田の出世である。はっきり言って、真田のことは、入社時から虫が好かなかった。そして、真田もそのことをよく知っていた。平井が自暴自棄に似た心持になるのも、仕方が無いことではあった。

 (まったく、面白くない)

 平井は、酔いと苛立ちを体いっぱいに抱えながら、夜の街をふらふらとさまよい歩いた。酔った頭には、色々とりとめもない考えが浮かんでは消えて行った。

 (しかし、真田の奴も運がいい。こう言ったらなんだが、タイミングよく本田が死んだのだからな。まさか、あいつが何かしたわけじゃあるまいな)

 ちょうど、そんなことを考えていた時、ふらついた足が滑って、平井は、思い切り地面に引っくり返ってしまった。

 「ええい、畜生め」

 幸いにして、彼が無様にひっくり返って悪態をついた所を、誰も見ていなかった。平井は立ち上がると、タクシーを呼ぶために、酔って震える手で、内ポケットから携帯を取り出した。だが、生憎とバッテリーが切れていた。運が悪い時には、とことん、運が悪いものであった。

 平井がタクシーを諦めて、歩いて帰ろうとしたその時だった。目の前に、ぼうっと明るく輝く四角い物体が見えた。

 (おう、電話ボックスか。今時、珍しいな)

 携帯電話の普及で、すっかり姿を消したと思っていたが、ちょうどいい所に、それがあったものであった。

 (そういえば、タクシー会社の電話番号も覚えていなかった。電話帳で調べるか……)

 平井は、電話ボックスの中に入ると、備え付けてある電話帳へと手を伸ばした。

 「あん?」

 思わず、頓狂な声を上げた。

 「何だこりゃ。黒い表紙の……電話帳なのか?」

 そんなものは、今までに見たことも聞いたこともなかった(何かの歌にあったような気はするが)。しかも、その電話ボックスには、その黒い表紙の電話帳らしきものが一冊しか置かれていなかった。平井は、仕方なしに、冒頭のページを開いてみた。

 「ん?」

 また、先ほどと同じような間の抜けた声を上げた。

 そこに大きく書かれていたのは、『殺人、請け負います』という文字だった。


 文字の下には、デフォルメされた漫画タッチで、ピストルを持った黒服の殺し屋のイラストが描かれていた(小学生が描いたのか? と思われるほどの稚拙な絵柄だった)。その殺し屋から漫画みたいに吹き出しが出ていて、そこには、こう書いてあった。


 ――殺人のことならお任せ下さい。憎いあいつ、邪魔なあいつから、嫁、姑、うるさい隣の犬まで、なんでも消します。一切、仕損じナシ。依頼主の秘密も、生きている限り、絶対に守ります。料金格安。電話番号は……。

 

 何ともふざけた話だった。それと似たような内容が、最初の10ページほどを埋めていた。だが、電話番号はどれも同じだった。そして、広告が終わると、ちゃんと普通の電話帳の体裁になっていた。

 平井の酔いは醒めはじめていた。だから、それを見て、

 (何だ、馬鹿馬鹿しい)

 と思う程度には分別が戻って来ていた。だが……。

 (試しにかけてみるか)

 単に、その方が面白そうだから、という程度の軽い気持ちで、平井は、財布をひっくり返して、出てきた小銭を投入口に入れ、その"殺し屋"の電話番号を回した。

 しばらく呼び出し音が響いた後、ガチャリと向こうが受話器を取る音が聞こえた。

 繋がった、と解った途端に、平井は、急に、不安を感じはじめた。まさか、本物の殺し屋が電話に出るとは思っていなかったが、本当に出たらどうすればいいのか……。

 『はいはい、こちら、殺し屋ですが』

 だが、あまりにもふざけた第一声に、平井は拍子抜けしてしまった。その、およそ殺し屋とは思えない、間の抜けた男の声を聞いた途端に、これは、絶対に何かの悪戯だな、と思った。

 『お電話ありがとうございます。で、誰を消すんです?』

 男は、平井の反応になど、まったく頓着しない様子で、そう訊いて来た。

 「あんた、本当に殺し屋なのかね?」

 つい、そう聞かずにはいられなかった。

 『ええ、この電話番号を回したということは、黒い電話帳に載っている広告を見たんでしょう? それ、市内に一冊しかないんですよ。そのイラストも自分で描いたんですよ……。しかし、お客さん、それを見つけるなんて、運がいいですねぇ。しかも、更に運がいいことに、今は何とキャンペーン中で、漏れなく一人、タダで殺してあげますよ』

 ああ、こいつは、きっと、どこかがおかしいに違いない。平井はこの電話が、実はどこかの病院に繋がっている、と告白されたとしても、信じられるような気がした。相手の陽気な口調と反比例して、彼の気持ちは急速に冷めて行った。

 『で、どこの誰を消して欲しいんで?』

 殺し屋は、同じ質問を繰り返した。俺の顔が見えれば、こんな間の抜けたことは言うまいに、と平井は思った。

 そこで、急に、どうせ悪い冗談ならば、悪ふざけで返してやるか、と思いついた。タイミングよく、邪魔だと思っている人間がいた。

 「じゃあ、今度、部長になった真田を消してくれよ。出来るもんならな」

 『はいはい。承りました。じゃあ、しばらく待っていて下さい。確かに消しますから』

 「おいおい、住所とか聞かなくていいのか?」

 『それは自分で調べますよ。何せ、プロなもので。じゃあ、そういうことで』

 受話器の向こう側で、男は一方的に電話を切ってしまった。

 その後、平井はもう一度、同じ番号を回してみたが、通じなかった。

 (タチの悪い冗談だな)

 そうとしか思えなかった。

 翌日、二日酔い気味で出勤した平井は、元気な姿の真田を見て、やっぱりあれは冗談だったのだと、何となくほっとした気持ちになった。やはり、日ごろ嫌っている相手でも、自分の言葉が原因で死ぬとなると、気持ちのいい物では無かった。

 それきり、平井は、殺し屋のことを忘れてしまった。

 ニ週間後に、真田が交通事故で死ぬまでは。



 ――辞令 下記の者を、部長に任ずる。

 廊下に張り出された辞令の紙には、大きく、平井の名前が書いてあった。


 念願の部長の椅子に座りながらも、平井は落ち着かなかった。あの殺し屋に電話をかけた後に真田が死んだ、ということが、とても偶然とは思えなかった。

 平井は、必死に、偶然だと思い込もうとした。だが、どんなに頑張っても、耳の奥には、あの殺し屋の陽気な声がこびりついてしまっていた。頭の中に響くその声は、調子の陽気さとは正反対の、どす黒い陰険さを感じさせた。

 仕事で気を紛らわそうと、平井が、部下の書類をチェックしていたその時だった。彼のデスクの上の電話が、突然、不吉な音で鳴り始めた。

 平井は受話器を取るのが、何となく怖かった。だが、周りに人がいる手前、取らざるを得なかった。

 「もしもし?」

 『やあ、平井さん』

 聞こえてきた声は、まさしく、あの殺し屋と名乗った男の声だった。途端に、平井は、心臓を掴まれたようなショックを受けた。

 「何で、俺の名前を知っているんだ?」

 平井は、周囲に聞かれないように、声を落として、男に尋ねた。

 『言ったでしょう。自分で調べるって。どうです? ちゃんと死んだでしょう?』

 「本当に、君がやったのかね?」

 『そうですよ。じゃあ、また殺したい人がいたらよろしく。今度は、しっかりお金は頂きますがね』

 そこで、平井に、ふと、ある疑問が湧いて来た。

 「もしかして、本田の死には、君が関わっているのか?」

 何でそう思ったのかは解らない。直感とでも言うのだろうか?

 『ええ、そうですよ。真田さんの依頼でね』

 殺し屋は、あっさりと認めた。そのあっけらかんとした物の言い方に、平井はぞっとした。まるで人間の言葉を話す機械と喋っているような、そんな印象を受けた。

 「そんなに人を殺して、平気なのか?」

 『人の死なんて、世の中にありふれていますよ。じゃ、あなたも人に恨まれないように気を付けて下さいね』

 「あっ……」

 殺し屋は、また一方的に電話を切った。

 (これは悪い冗談なんだ、そうに違いない。違いないんだ)

 それを確かめるために、平井は、例の電話ボックスを再度訪れて、例の黒い表紙の電話帳を探した。だが、あの殺し屋の電話番号を記した黒い電話帳は、影も形も無くなってしまっていた。

 (何だ、無いじゃないか……)

 念のため、覚えていた殺し屋の番号にも電話してみたが、殺し屋は出なかった。そのことと、黒い電話帳が無かったことが、殺し屋など存在しなかったことを裏付けている。平井は、無理にそう思おうとした。だが、それが単なる誤魔化しだということは、自分でも嫌なくらい、よく解っていたのであった。


 それから、また数日が過ぎた。平井が、どうにか殺し屋のことなど忘れてしまおうと苦労していたその頃に、突然に、また不吉な呼び出し音が、デスクの電話から鳴り響いたのであった。

 「も、もしもし?」

 平井は、おそるおそる受話器を取った。

 『やあ、平井さん。どうも、殺し屋です』

 「なっ……」

 男の声は、まるで、悪夢の中から聞こえて来るかのようだった。

 『実は、平井さんを殺してくれという依頼が来ましてね。じゃあ、そういうことで、死んでください』

 「じょ、冗談じゃない!!」

 思わず叫んだことで、周囲の部下たちが驚いて、彼の方に注目した。平井は、慌てて、仕事に戻れと身振りで示して、改めて受話器に向かった。

 「警察に通報するぞ。お前の電話番号は知っている。そこから住所だって解るぞ」

 『どうぞどうぞ。尻尾を出すようなヘマはしませんよ』

 最悪なことに、平井には、殺し屋の言うことには間違いがない、という嫌な確信があった。殺し屋は、少なくとも、本田と真田の二人を殺して、何の追及も受けていなかった。平井だけが狙われたのに生き延びる、という都合のいい話など、期待できそうになかった。

 「ど、どうやって俺を殺すんだ?」

 『そうですねぇ……食べ物に毒を盛るというのはどうでしょうかねぇ。平井さんには、それがいいんじゃあないですかねぇ』

 やる気のなさそうなコンビニの店員のような、投げやりな口調だった。平井は、何か言ってやりたかったが、生憎と、効果のありそうな文句は思いつけなかった。

 『じゃあ、そういうことで。サヨナラ、サヨナラ』

 男は、今はもういない映画評論家の物マネをしながら、また一方的に電話を切った。そのふざけた態度が、ひどく癇に障った。



 それから、平井は、街中を歩いている時、背後に人の気配を感じるようになった。そこで、振り返ってみると、黒いコートと帽子の男が、いつもちらりと姿を見せては視界から消えるのが見えるであった。

 男は今のところ、平井には接触してこなかった。偶然、背後を振り返った時に体の一部分だけを見せたり、鏡を見た時に、わざとらしく自分の姿を映して見せたりするだけで、そのやり方は、平井を精神的に消耗させようという陰険な策略のようであった。そして、平井は、まんまとそれに嵌ってしまっていた。

 さらに不気味なのは、平井が行く先々で、彼を追いかけて来るようにして、近くにある電話が鳴り始めることであった。それは、オフィスの備え付けの電話だったり、公衆電話だったり、果ては、誰かの携帯だったりもした。しかも、それらは、平井が出ようとすると、決まって、切れてしまうのであった。

 警察に駆け込んで、かような男に命を狙われている、と訴えてみたが、そうすると殺し屋は全く姿を見せなくなり、電話が追いかけて来るのも止まってしまった。結果、警察も平井の話を信じなくなってしまった。

 やがて、平井は、極度の不安から、誰も信用できない、という状態に陥った。誰もかれもが、殺し屋に自分の殺しを依頼した人間に思えてきて、仕事では部下に怒鳴り散らし、上司にさえも食ってかかるほどだった。

 平井は、遠くに逃げることも考えて、それを実行したが、駅でも空港でも、振り返れば殺し屋の影がちらつき、さらに、逃げ込んだ先のホテルのフロントにまで、彼を呼び出す謎の人物からの電話があった。殺し屋からの追跡を振り切るのは、不可能であった。

 当然のごとく、平井は命が惜しかった。何より、あんなふざけた男に殺されるのだけは御免だった。しかし、男を追及する手段も、逃げる手段も無くなり、襲われる事を過度に恐れるようになった平井は、遂に、自宅に籠って、外からの連絡を、一切、断ったのであった。

 

 籠城してから数日が過ぎた。平井は、毒殺を警戒して買い込んだカップラーメンとミネラルウォーターでどうにか凌いでいたが、そろそろ限界が近かった。

 会社も連絡なしでもう何日も休んでいた。最初の内は、自宅に何度も電話がかかって来た。それが全部、殺し屋からの電話だと思えて、平井は、電話線を抜いてしまった。その方が良かった。とにかく、あの男の声も、それを予感させるような不吉な呼び出し音も、絶対に聞きたくはなかった。

 だが、無情にも、家の電話が鳴り始めた。

 (電話線は抜いたはずなのに!)

 会社からの電話では無い、と解っていながらも、平井は、吸い寄せられるようにして、受話器を取ってしまうのであった。

 相手は、やはり、あの男だった。

 『やあ、平井さん。元気ですか? 駄目ですよ。電話線を抜いちゃ。ちゃんと繋いでおきましたから』

 男は、相変わらず陽気だった。平井は、自分が気付かない内に、男が家の中に侵入していたことに恐怖を感じたが、どうにか、怒りを呼び起こして、受話器に向かって叫んだ。

 「き、貴様、よくもそんなことが言えるな!」

 『まあ、そう興奮しないで、興奮しないで』

 それは、かなり昔に流行した、元プロ野球選手の物マネだった。男は、自分で自分のギャグが面白かったのか、一人で忍び笑いを漏らしていた。自分を殺そうとする男の、あまりにも人を小馬鹿にした態度が、平井の苛々を倍加させた。

 『平井さん、そろそろ死んじゃいましょうよ』

 男は、車を買い替えようと勧めるのにも似た調子で言った。

 「ふ、ふざけるな!!」

 いい加減に、平井の怒りは爆発した。男の言動は、平井の神経を逆撫でするばかりであった。

 「大体、貴様は、何でこんなことをするんだ!!」

 『まあ、それが仕事なもので』

 いくら話しても、無駄だということは解っていても、何か言わねば気が済まなかった。

 「き、貴様は、悪党だ。畜生だ。人間の屑だ!!」

 『まあ、そう興奮しないで、興奮しないで』 

 だが、男には、何の痛痒も与えないようであった。

 『じゃあ、近いうちに伺いますので。どうぞ、よろしく』

 平井は、今回ばかりは、切られる前に、自分から受話器を叩きつけるようにして、電話を切った。ついでに、また電話線を抜いた。だが、怒りが収まると、強烈な不安がこみ上げて来た。

 (近いうち、とはいつだ?)

 もしかすると、今夜? それとも明日?……。そのことを考え始めると、一晩中、眠れそうにもなかった。



 結局、その夜、殺し屋は現れなかった。平井は、そこで、少し緊張を解いた。まだ自分が生きていることが有り難かった。

 (いや、もしかしたら、罠かもしれん)

 陽気な口調とは正反対の、陰険な手口を使うあの男なら、大いにあり得る事だった。平井は、また緊張した。時刻は早朝の四時半。ようやく、外が明るくなり始めた頃だったが、周囲はしんと静まり返って、何の物音も聞こえなかった。

 突然、静寂を切り裂くようにして、携帯電話が鳴った。

 平井はぎょっとした。それは、自分の携帯の呼び出し音では無かった。

 一階にある和室のテーブルの上に、いつの間にか、見知らぬ携帯電話が置かれていた。平井は、恐る恐るそれを手に取って、その待ち受け画面を見てみた。

 非通知であった。

 だが、相手が誰なのかは明白だった。平井は電話に出ざるを得なかった。

 「も、もしもし?」

 『やあ、平井さん。そろそろ行きますよ』

 電話越しに、ガラスが割れる音が聞こえた。

 『今、庭の方からリビングに入って来たところですよ』

 平井は、全身が凍りつくのではないか、と思うほどの寒気を感じていた。リビングは、和室とは廊下を挟んですぐ反対側にあった。

 その瞬間から、携帯電話を耳に張り付けたかのような格好で、平井の腕は固まってしまった。そこから聞こえてくる音以外の、あらゆる物音が周囲から消え去ってしまったような気がした。

 『平井さん、玄関に出てみたらどうです?』

 『トイレにでも行ったらどうです?』

 『風呂場は確認しましたか?』

 『台所はどうでしょう?』

 男は、まるで、いくつもの場所に、同時にいるかのようだった。

 平井は逃げる場所から、男が口にする場所を、必死に除外した。そうすると、一階にはもう逃げ場がないように思われた。追い詰められて、平井は、二階へと駆け上がって行った。もう冷静な判断が出来なくなっていた。

 『おやおや。二階に上がるなんて……却って好都合ですよ……』

 男が、廊下を踏んで、床がきしる音が電話越しに聞こえた。しばらくして、階段をゆっくりと登って来る足音が、これもまた、電話越しに聞こえてきた。

 階段の上から男に反撃する、という手段も考えられるはずだった。だが、今の平井は、男と出くわすことは、(矛盾しているが)死んでも避けたかった。

 もう、携帯から男の声は聞こえなかった。それが却って不安を誘った。平井は、必死に、逃げられそうな場所を求めた。

 その時、平井の視界に入ったのは、二階の窓だった。だが、その向う側には屋根が無く、とてもそこからは逃げ出せそうには無かった。

 『平井さん』

 そこへ、自分の名を呼ぶ男の声が、やけにはっきりと聞こえた。自分の名前を呼ばれて、恐ろしいと思ったのは生まれて初めてだった。

 もう躊躇してはいられなかった。平井は、窓に向かって突っ込んで行った。

 凄まじい音がして、窓から飛び出した平井の体は、ガラスの破片と一緒に、地面へと吸いつけられるようにして、ゆっくりと落ちて行った。

 落ち切るまでの間、やけにスローで動く景色の中で、平井は、家の外に、黒いコートと帽子の男が立っているのを見た。男は、携帯電話に、レコーダーらしきものを当てているように見えた。

 (あいつめ、家の中にはいなかったのか!)

 気付いた時には、平井はもう地面に叩きつけられていた。衝撃で、体のあちこちに刺さっていたガラス片の一部が深々と体に食い込み、たちまち平井の体から、夥しい量の血が流れ始めた。

 平井は、血で濡れた自分の手から、携帯電話が引き抜かれるようにして取り上げられるのを感じた。そして、薄れ行く意識の中で、黒いブーツを履いた足が、向こうに遠ざかって行くのを見た。

 足音も立てずに、やがて、それは、すうっと消えてしまった。



 平井の死は、籠城の末に錯乱し、自殺した、ということで処理された。同僚たちの、ここの所、落ち着きが無かった、という証言も、何かに過剰に怯えて、警察の助けを求めていたが何も起きなかった、という事実も、それを裏付けた。

 平井が殺された、などとは誰も思わなかった。実際に、何者かが平井の家に侵入した形跡すら、見つからなかった。

 最近、不自然に不幸が続くな、と考える人間もいたが、そういう人間もやがて、そんなことを考えるのを止めてしまった。

 人の死など、世の中にはありふれているのだ。


 それから、数日後……。真田、平井らが座っていた席には、新たに別の男が座っていた。男は、前任者たちがしていたのと同じように、部下に指示を出しながら、仕事を処理している。

 そこへ、不吉な呼び出し音を鳴らしながら、電話がかかって来る。

 男は、何気なく受話器を取る。そして、向こうにいる人物が誰か解った途端に、表情を強張らせる。

 「本当に、君がやったのか?」

 男は問いかける。だが、電話は一方的に切られてしまう。

 それから数日後、男が落ち着かなげにしている所へ、また、電話がかかってくる。

 男は、受話器を取ることが出来ない。

 無駄だと解りつつも、電話に出ないことで、何かを避けられるのではないか、と期待しているかのように、それを見つめている……。


 電話は、不気味な呼び出し音を立てながら、ずっと、鳴り続けている……。


〈終〉

※この物語は、さすがにフィクションです。実在の人物・団体・事件とは、いっさい関係がございません。

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