隣の影
捨てたはずの“私”を、隣人が拾っていた。
大学まで通う日々は、いつも同じだった。アパートとキャンパスを往復するだけの単調な生活。
友人たちと遊ぶことも少なく、夜は部屋で一人、静かに過ごすのが常だった。それなのに、最近になって友人から奇妙な話をよく聞くようになった。
「この前、隣町のカフェで見かけたよ」
「駅前で誰かと一緒にいたよね?」
私は否定する。隣町に出かけた覚えなどない。大学の近くを少し歩くことすら稀だ。
けれど友人たちは「絶対にあなただった」と笑いながら言う。最初は見間違いだろうと思っていた。気のせいかもしれない、と。
そんなある日、隣の部屋に新しい住人が引っ越してきた。
完璧な美男子だった。整った顔立ち、丁寧な物腰、穏やかな笑顔。挨拶を交わしただけで、なぜか安心してしまうような親切さがあった。
荷物も少なく、静かに暮らしているようだった。だが、違和感はすぐに訪れた。
ゴミ捨て場で見かけた彼のゴミ袋。中に入っていたのは、数ヶ月前に私が捨てたはずの古いノート、使い古したペン、破れたマフラー。間違いない。
私自身が処分した私物ばかりだった。それからも続いた。彼が捨てるものは、いつも「私の過去」だった。
そして、彼自身も変わっていった。最初は少し似ているだけだと思っていた服の選び方。髪型。話し方の抑揚。笑うときの目の細め方――
気づいたときには、鏡に映る自分と、彼の仕草が重なって見えた。女である私と、男である彼が、どこかで溶け合い始めているような錯覚。
ある日、見知らぬ男性に声をかけられた。なれなれしく、まるで以前から付き合いがあるかのように肩に手を置いてくる。
しつこく絡まれた末、強く拒絶すると、男は困惑した顔で言った。
「…ごめん。別人だったみたいだ」
その頃から、隣人への違和感は無視できないものになっていた。廊下ですれ違うたびに、彼の視線が私の輪郭をなぞっている気がした。
まるで、私という存在を少しずつ剥ぎ取っているように。そしてある朝、隣の部屋は空になっていた。引っ越しの気配すらなく、静かに消えていた。
それから友人たちの噂が変わった。
「最近、色々な男と会ってるらしいね」
「素敵な知り合いが多いんだってね」
身に覚えのない話ばかりだった。私はただ大学とアパートを往復しているだけなのに。けれど、不思議と悪い気分ではなかった。
否定する気も起きなかった。まるで、誰かが私の代わりに生きてくれているような、薄い安心感さえあった。
しばらくして、また声をかけられた。以前、私を隣人と間違えた男だった。素性の良さそうな、穏やかな目をした人。私は拒否しなかった。
そのまま関係を続け、やがて付き合うところまでいった。ある夜、彼は私の体に触れた瞬間、青ざめて悲鳴を上げた。
「お前…男じゃないのか…?」
彼はゲイだった。
男は蒼白な顔のまま消え、二度と連絡は来なかった。そして今日も、知らない男に声をかけられた。
「前にも会ったよね?」
私は静かに彼の顔を見つめる。この人は、私に興味があるのか。それとも、かつての隣人に――
気づけば私は、あの男が残していった残り香を追うように生きていた。
私の服を、髪型を、話し方を、誰かに見せるための「私」を、知らないうちに演じていたのかもしれない。
鏡を見る。そこに映るのは、確かに私の顔だ。けれど、どこかで見たことがあるような、完璧に整った微笑みが浮かんでいる。
隣の部屋は、今も空いている。けれど、夜になると廊下の向こうから、誰かがゴミをまとめる音が聞こえる気がする。
私がかつて捨てたはずの、私自身の断片を、丁寧に袋に詰める音が――
読んで頂き有り難う御座います。




