第四話 仮設聖座
中央広場は、拍手の形をしていた。
ラクリマ=アルバの民は、広場を囲むように整列している。
子どもは前列。大人はその後ろ。老人は椅子に座り、兵は通路の両端へ等間隔に立っていた。
誰も押し合わない。
誰も声を張り上げすぎない。
それでも、イリスが広場へ足を踏み入れた瞬間、拍手が起きた。
一拍目が、揃いすぎていた。
遅れる手も、早まる手もない。
喜びの波というより、見えない指揮棒に従って鳴らされた音だった。
「調律の巫女様」
白い礼服の使者が、広場の中央へ手を向ける。
「どうぞ。民はあなたの御姿を待っております」
その先に、壇があった。
白い布を垂らしただけの、簡素な壇。
だが、壇上には椅子が置かれている。
聖座、と呼ぶには軽すぎる。
本物ではない。
ただ、その形だけをなぞった、儀式用の座だった。
けれど、座る者を中心へ置くには十分だった。
民衆の視線。
兵の配置。
記録係の筆。
壇へ続く通路。
そのすべてが、イリスがそこへ座るためだけに整えられている。
イリスは、ほんの一拍だけ足を止めた。
自分が来る前から、自分の居場所だけが用意されている。
座る場所。
見られる角度。
祈られる高さ。
拒めば、民の願いを踏みにじったように見える位置。
ここには、まだ本物の聖座はない。
それでも、塔の円環に似ていた。
「……私のための座、ではありませんね」
イリスは静かに言った。
使者は微笑む。
「民が祈るための中心です」
「中心に置かれた人間は、祈られるのではなく、動けなくなることがあります」
広場の拍手が、そこで止まった。
止まった、というより、止められた。
音が切れたあとの静寂に、ざわめきはない。
戸惑いもない。
民はみな穏やかな顔で、次の合図を待っていた。
その顔を見た瞬間、イリスの胸の奥に、ひどく古い白が触れた。
調律の塔の中で、白の核越しに見ていた世界。
怒りを薄められ、恐れを均され、悲しみすら深く沈められた人々。
争わない。
叫ばない。
怯えない。
凪の時代の民。
あの頃の世界は、壊れていなかった。
けれど、生きていたと言い切れるほど揺れてもいなかった。
今、広場を満たす穏やかな顔は、その記憶にあまりにも似ていた。
ルーファが、風鈴を指で包む。
「ここ、風が通ってない」
「止まっているのですか」
「違う。通り道を、先に決められてる」
ルーファは広場を見回した。
「人の声も、拍手も、息の吐き方も。全部、どこへ流れるか決まってる。だから乱れない。でも……逃げられない」
アッシュが壇を見る。
「人体反応は欠落。恐怖残滓は、鐘楼、壁面、壇下、聖座影に偏在」
「街が、怖がっているということですか」
「肯定に近い」
イリスは、仮設聖座の足元を見た。
そこだけ、影が薄く震えている。
陽は傾きかけている。
影が揺れること自体は不思議ではない。
けれど、その影は風に揺れているのではなかった。
椅子そのものから、半歩ぶん逃げようとしているように見えた。
その時、広場の端にある鐘楼が鳴った。
誰も触れていない。
鐘楼の下に兵はいる。
けれど綱は動いていない。風もない。
それなのに、鐘は一度だけ鳴った。
低く、乾いた音だった。
民衆は、誰も驚かなかった。
子どもも。
老人も。
花を持つ女も。
ただ、穏やかな顔のまま、壇上の椅子を見ている。
「鐘が鳴りました」
イリスは言った。
使者はすぐに答える。
「奉迎式に合わせた祝鐘です」
「誰も鳴らしていません」
「帝国都市の設備は、祈りに応じて作動します」
「祈りではなく、悲鳴に聞こえました」
その言葉に、使者の笑みがわずかに薄くなった。
代わりに、オルド・ガレスが一歩前へ出る。
「恐怖を抜かれた民を、異常とお呼びになりますか」
老将の声は、広場によく通った。
イリスは振り向く。
「異常です」
「ならば、巫女様」
オルドは静かに続けた。
「この光景は、あなたが塔で守ってきた凪と、何が違うのですか」
息が、止まった。
「……何を」
「制御できぬ感情を均し、過剰を沈め、世界を静める。それが、あなたの役割だったはずです」
オルドは広場の民へ視線を向ける。
「ここにいる者たちは、争わない。怯えない。叫ばない。感情に呑まれ、誰かを傷つけることもない」
民衆は穏やかなまま立っている。
拍手を止められれば止まり。
祈れと言われれば祈り。
怖がるべき鐘にも、顔色を変えない。
その整いすぎた静けさが、イリスの記憶の底にある凪と重なる。
オルドは問う。
「巫女様がかつて世界へ与えたものと、帝国が民へ与えているもの。どちらも過剰を退ける静寂です。ならば、なぜ一方だけを否定されるのです」
イリスは、すぐに答えられなかった。
違う、と言いたい。
でも、言い切るための言葉がない。
塔で自分は、世界を壊さないために感情を均していた。
怒りを削り、恐れを沈め、歓びの暴走を静めていた。
その結果、世界は灰色に凪いだ。
人は薄くなった。
けれど、壊れずに済んだ。
それを救いと呼んできたのは、他でもない自分だ。
「……同じ、ではありません」
ようやく落ちた声は、弱かった。
オルドは目を逸らさない。
「なぜです」
イリスは民衆を見る。
笑っていない。
泣いていない。
怖がっていない。
ただ、穏やかに待っている。
その姿は、痛いほど静かだった。
「塔での私は、壊れ始めたものを止めようとしていました」
イリスは言った。
「でも、あなたたちは……壊れる前の震えまで、先に取り上げている」
「震えが、暴走の始まりになる」
「震えがあるから、人は自分で危険を知れるのです」
イリスの声が、少しだけ戻る。
「恐怖は苦しい。けれど、逃げるための一拍でもある。誰かを守るために手を伸ばす一拍でもある。それまで奪ってしまえば、民は穏やかではなく、ただ自分で揺れられないだけです」
「揺れが民を殺すこともある」
「知っています」
イリスは即座に答えた。
そこだけは逃げなかった。
「だから私は、今でも怖い。自分がしてきたことが、本当に正しかったのか。あなたたちの民を見ていると、なおさら分からなくなる」
オルドの皺深い顔が、わずかに動いた。
イリスは仮設聖座を見る。
「けれど、分からないからこそ、座れません」
広場の壁面が、かすかに震えた。
石が鳴ったのではない。
建物が怯えた時の、喉の奥みたいな震えだった。
ルーファの風鈴が、ちり、と鳴る。
「今の、街の奥から来た」
アッシュが続ける。
「恐怖残滓、増加。仮設聖座周辺に集中」
使者がすぐに言う。
「聖座という呼称は、あくまで儀礼上のものです。本物の聖座は帝都にございます。こちらは民に安心を示すための仮設――」
「仮設でも、街は怖がっています」
イリスは遮った。
使者の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「街が恐怖するなど、詩的な表現です」
「では、見てください」
イリスは壇の背後を指した。
椅子の影が、また半歩ほど退いた。
民衆の影は動かない。
兵の影も動かない。
ただ、仮設聖座の影だけが、座られることを拒むみたいに後ずさっている。
それでも民衆は平静だった。
おかしいと思わない。
怖いと思わない。
見えていないのか、見えていても心が跳ねないのか。
どちらにせよ、ここでは人より先に街が震えている。
「ラクリマ=アルバは、感情管理の成功例でしたね」
イリスはオルドへ向き直った。
「なら、この恐怖は誰のものですか」
オルドは答えなかった。
沈黙。
それは、否定ではなかった。
使者が一歩進む。
「巫女様。民が待っています。どうか、壇上へ」
その言葉を合図にしたように、民衆が一斉に胸へ手を当てた。
「巫女様」
誰かが言う。
続いて、別の声。
「巫女様」
ひとつずつ増え、やがて広場全体へ広がっていく。
「巫女様」
「巫女様」
「巫女様」
祈りのはずだった。
けれど、同じ高さで揃いすぎている。
願いではない。
呼び声でもない。
人を座へ押し戻すための、やわらかな壁だった。
アッシュの両腕の奥で、黒い符文が微かに灯る。
「提案。壇の破壊」
「駄目です」
イリスは短く止めた。
「理由」
「民の祈りごと砕く形になります」
「祈りではない」
「それでも、そう見せられています」
アッシュは黙った。
ルーファがそっと囁く。
「じゃあ、座らずに受けるしかない」
イリスは小さく頷いた。
逃げれば、拒絶になる。
座れば、承認になる。
壊せば、暴力になる。
なら、残る道はひとつしかない。
イリスは壇へ向かった。
民衆の声が高くなる。
使者の顔に、安堵が差す。
オルドだけは、表情を変えなかった。
壇の一段目へ足をかける。
二段目。
三段目。
仮設聖座の影が、また退いた。
イリスは椅子の前で止まった。
そして、座らなかった。
広場が静まる。
イリスは椅子の横に立った。
民衆から見れば、壇上に上がった巫女はたしかに祈りを受けている。
けれど、帝国が用意した中心には収まっていない。
使者が一瞬だけ言葉を失った。
「巫女様、聖座へ」
「ここで聞きます」
イリスは言った。
「民の祈りを拒むつもりはありません。けれど、この座には座りません」
「それでは式次第が――」
「式次第のために来たのではありません」
声は大きくなかった。
だが、広場の奥まで届いた。
「私は、あなたたちが何を恐れ、何を預かり、何を消そうとしているのかを見に来ました」
民衆は穏やかな顔のまま見ている。
理解しているのかどうかは分からない。
それでも、イリスは続けた。
「そして、私自身がかつて何を均してきたのかも、もう一度見なければならない」
オルドの目がわずかに細くなる。
イリスは言った。
「祈りは受けます。けれど、私の身体を使って、あなたたちの安心を証明することはできません」
その瞬間、誰も触れていない鐘が二度目を鳴らした。
今度は、はっきりと震えていた。
鐘の音に混じって、広場のどこかで鏡が割れる音がした。
イリスが振り向く。
屋台の軒先に掛けられていた小さな手鏡。
そこには、広場の民衆が映っているはずだった。
けれど、鏡の中にだけ、怯えた顔があった。
花を持つ女。
胸へ手を当てた少年。
椅子に座る老人。
現実の彼らは穏やかなまま。
鏡の中の彼らだけが、目を見開いていた。
恐怖は、消えていない。
人の外側へ追いやられているだけだ。
ルーファが息を呑む。
「……やっぱり、抜かれてる」
アッシュが低く言う。
「人体反応は欠落。反射面、影、構造物に恐怖残滓を確認」
使者の顔から、初めて笑みが消えた。
オルドは壇上のイリスを見ている。
イリスは仮設聖座へ触れなかった。
触れないまま、その横に立つ。
椅子の影が、もう一度だけ小さく震えた。
まるで、座られなかったことに安堵したみたいに。
「……本物の聖座は、帝都にあると言いましたね」
イリスは使者を見た。
「はい」
使者は硬い声で答える。
「なら、これはただの影です」
イリスは仮設聖座を見る。
「影でこれほど怖がるのなら、本物は何をしているのですか」
広場に、答えはなかった。
民衆は穏やかなまま。
鐘楼は黙ったまま。
割れた鏡の破片だけが、夕陽を受けて小さく光っている。
その欠片の中で、怯えた無数の顔が、声もなくイリスを見上げていた。




