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第五話 凪の悲しみ、再彩の悲しみ

ミラのあとを追って哭塔のさらに奥へ入った。

王の間を離れると、広さだけが背中で閉じた。

代わりに残ったのは、人の手が届く大きさの静けさだった。


回廊の壁は近く、浅い水鉢も、垂れた薄青の布も、誰かが毎日見て、触って、整えてきた距離でそこにある。

前を歩くアッシュは角を曲がるたびに視線だけが短く動かし、足を置く位置を選び直している。


やがてミラが、低い扉の前で立ち止まった。


王の間ほど大きくはない。

けれど、開いた隙間から流れてくる空気は、妙に人の手に近かった。

古い布と石と水、それに毎日ここへ来る誰かの指先の気配が混じっている。


中へ入ると、低い棚が壁沿いに並び、布包みや木札や、束ねられた細い紙片が静かに置かれていた。

浅い水鉢もいくつもある。


整っているのに、片づきすぎてはいない。

いま誰かが入ってきても、迷わず自分のものへ手を伸ばせる余白が、どこにも残されていた。


けれど、よく見れば同じではない。


手前の棚にあるものは、布の色も結び目の形もばらばらで、数も少ない。

乾いていて、長く触れられてきた落ち着きがある。


その奥になるほど、束は急に増えていた。

布にはまだ湿りの名残があり、紙片の端は新しい。

結び方も揃いすぎていて、返すためというより、崩れないよう先に固めたみたいに見えるものが混じっている。


「保管室」


アッシュが短く言う。


ミラが頷いた。


「ええ」


イリスは棚の並びを見たまま問う。


「……何を保管しているんですか」


ミラは近くの棚へ歩み寄り、木札のひとつへ指先を添えた。


「泣いたあと、すぐには持ち直せないものです。言葉にできなかったもの。泣き終われなかったもの。胸の奥で固まって、自分では抱え直せなくなったもの」


ルーファが棚の一段を見て、ふっと息をつく。


「……これ、しまうための並べ方じゃないね」


「どういうことですか」


「返すための並べ方」


ルーファは木札と布包みの並びを目で追った。


「あとで本人が戻ってきて、自分で触り直せるようにしてある。ここで片づけて終わり、にはしてない」


ミラの水灰の瞳が、ほんのわずかにルーファへ向いた。


「よく見ていますね」


ルーファは肩をすくめる。


「風って、触られ方の癖が残るから」


イリスは黙って棚を見つめた。


泣いたあとに残るものを、いったんここへ置く。

けれど奪うわけではない。

持ち主が戻ってきた時、また自分の手で持てるようにしておく。


そこまでは分かる。


だが、なぜそこまでして返す必要があるのか、その芯がまだ胸の中で繋がりきらない。


ミラはそれを見抜いたみたいに、静かに続けた。


「返せないままだと、その悲しみが誰のものだったのか、曖昧になってしまうことがあるのです」


どこかで雫がひとつ鳴る。


「泣ける子が、ずっと泣く側へ残ってしまうことがあります。泣けない子は、その輪の外へこぼれる。そうなる前に、戻れる形で預かっておきたいのです」


イリスの喉が、わずかに詰まった。

広場で見た、あの乾いた目がふいに脳裏をよぎる。


ミラの声は静かだった。

けれど、その静けさの底には、何度も同じ光景を見てきた人の重みが沈んでいた。


「だから一度だけ預かるのです。奪うためではなく、本人へ返すために」


ルーファが小さく頷く。


「抱えるのと、住まわせ続けるのは違うってことだね」


「ええ。少なくとも、私はそうあってほしいと思ってきました」


イリスはそこでようやく、胸の内に落ちてきた感覚の形を掴む。

自分にはなかった手つきだと思った。

自分はいつも、溢れたものを削る側だったからだ。


ミラは棚から手を離し、三人を振り返った。


「改めて、名乗ります」


今度の声は、査定者のものではなかった。


「私はミラ・アルメリア。悲哀律国エレリアを預かる者です」


それから静かに促す。


「おまえたちも、名を」


ルーファが先に小さく頭を下げた。


「ルーファ」


「アッシュ」


最後に、イリスが白杖を握り直す。


「……イリスです」


ミラがごく浅く頷く。


「分かりました、イリス」


その呼び方が落ちた瞬間、部屋の空気がほんの少しだけ変わる。

ミラは改めてイリスを見た。


「お前たちに敵意がないことはわかった。しかし、この国を守る者として私は知らなければならない」


水灰の瞳が細くなる。


「まず、イリス。おまえのことを」


イリスの喉が、わずかに詰まる。


ミラは続けた。


「私の中の蒼は、おまえを断彩の魔女と読んだ」


ルーファの表情から、さっきまでのやわらかさが引く。

アッシュだけは動かない。

だが、視線の焦点がわずかに深くなった。


「断彩の魔女とは本来、感情を宿さないはずのものです。切り分け、均し、色に呑まれずに立つもの」


静かな声だった。


「それなのに、王の間でおまえが見せたものは違った。あれは空の器ではない。始まりの色に触れた時と同じくらい、濃く、強く、閉じていない感情でした」


「……私にも分かりません」


イリスは逸らさずに答えた。


「何を切ってきたのかは、身体が覚えています。どう均せば静まるかも、役割が先に知っている。でも、私が何者で、どうしてあんなふうに感情が噴き上がるのかは、私も探している途中です」


外套の内側で、銀輪がかすかに熱を返す。

ルーファがその横顔を見る。


「未解明」


アッシュが短く補う。


「補足が雑です」


イリスが言うと、ルーファが小さく笑った。


「でも合ってる」


そのひと言だけで、張っていた空気が少しだけ人のものへ戻る。


ミラはその揺らぎごと見ていたが、今度は視線をアッシュへ移した。


「それに、アッシュ。おまえも異質です。私の蒼に沈まなかった」


「不要だった」


短い返答だった。


ミラは静かに首を振る。


「耐えたのではない。沈む先の輪郭そのものが、薄い。色を壊せるのだな」


ルーファが息を止める。

イリスも思わずアッシュを見た。


ミラは続けた。


「それでも、王の間でおまえが踏み込もうとした一歩は、ただ壊すためだけのものではなかった」


「守るのが優先だ」


低い声だった。


ミラの水灰の瞳が、ほんのわずかに和らぐ。

それから彼女は次の問いへ進んだ。


「では、おまえたちがここを訪れた理由は」


「恐怖の痕跡」


アッシュが即答する。


イリスはその短さを受けて、自分の言葉を継いだ。


「私たちは始まりの恐怖の色を追ってます。本命は遠い。でも、恐怖はただ前を走るだけではなく、深い悲しみの底へ沈んで育つ。ここは、その流れを読むために外せない場所だと判断しました」


ミラは黙って聞いている。

責めも、肯定も、まだない。


だからイリスはもう一歩だけ言葉を進めた。


「それと……色の落ちたこの国が、どうしてまだ壊れていないのかを見たかったんです」


ルーファが、そこでやわらかく言葉を継ぐ。


「風も、まだ全部は拒んでなかったから」


「感情喰らいもいない」


アッシュが短く重ねる。


イリスは頷いた。


「始まりの色が落ちたなら、本来は均すべきです。それほどに過剰な感情は危険だと、私の身体は覚えています」


その言葉を口にすると、自分の中の役割が確かに頷くのが分かった。

けれど、そこで止まらない。


「でも、この国は壊れていない。悲しみは濃いはずなのに、まだ人の暮らしの形を保っている」


ミラは静かに聞いている。


イリスは一度だけ息を吸った。


「……それは、あなたが抱えて守っているからだと思いました」


ルーファがわずかに目を見開く。

アッシュの視線も、今度はほんの少しだけイリスへ寄った。


「私には記憶がありません。調律の塔……そこで私は考えることを放棄して役割を優先してきました」


言いながら、胸の奥がひりつく。


「だからこそ、自らの意思で歓迎したい悲しみまで抱えたまま、壊さないように抑えているあなたを、尊いと感じます」


ミラはしばらく答えなかった。

やがて手前の古い棚へ視線を移す。


「凪の時代、この国には泣きたくても泣けない者が多くいました」


指先が、乾いた古布の端をそっと撫でる。


「悲しいのに、そこへ辿り着けない。胸の中にあるのに、涙の側へ出てこない」


水灰の瞳が、遠いものを見るみたいにわずかに細くなる。


「私は、それが悲しかった」


王としてではない。

悲哀を預かる者として、どうしようもなく引き裂かれた人の声だった。


「泣けないまま終わる悲しみを、ずっと見てきました」


今度は、少し奥の新しい束へ手が移る。

数が増え始めた場所だ。


「だから、始まりの色が落ちて、人々が泣けるようになった時、最初は、ようやく届いたと思ったのです。泣けなかった人たちの胸へ、やっと道が開いたのだと」


その言葉には歓喜がない。

あったはずの救いを、いまは痛みごと抱えている響きだけがある。


「皆が泣けること自体は、間違いではないと思いました。むしろ、この国にとっては祝福だったのでしょう」


ミラの指先が、その途中で止まった。


「ですが、ひとりだけ残りました」


イリスの胸が、細く軋む。


ミラは新しい束から、さらに奥の、まだ触れられた回数の少ない布包みへ手を伸ばした。


「悲しみを抱えているのに、どうしても泣けない子が」


広場で見た小さな肩。

乾いた喉。

泣けないまま輪の外で立っていた、あの子の姿が重なる。


「皆が泣けることを、この国の者として喜びたかった。悲哀の色を冠した者として、本来なら歓迎すべき変化だったのだと思います」


言い切りではなかった。

自分に言い聞かせることさえ、どこかためらっている声だった。


「けれど、あの子だけは違った」


ミラの手が、布包みの結び目に触れたまま止まる。


「私が悲しみに身を預ければ、この国はよく泣く。ですが、泣けないあの子は悲しみをその身に溜め込み……壊れる」


ルーファの睫毛が揺れる。

アッシュの視線が、初めて棚からミラへ戻った。


「だから、抑えてきました。皆が泣けることが嬉しくて泣きたい。そんな気持ちごと抱えて、流れすぎる悲しみだけを止めてきたのです」


ひとりの子のために、ミラは歓迎したい悲しみまで抱え込んでいる。

だからこの国は、まだ崩れずにいるのかもしれないとイリスは思う。


ミラは棚のさらに奥へ視線を向けた。

そこは部屋の中でもっとも湿りが濃く、束の増え方も急だった。


「ですが、私ひとりでは、もう抑えきれない場所が出てきました。下へ行くほど、重さが戻らなくなる。泣き終わるはずのものが、終わらないまま沈んでいくのです」


ルーファが低く問う。


「……それが、恐怖を呼んでる?」


ミラはわずかに目を伏せた。


「正しい」


アッシュが短く言う。


ミラはその言葉に頷くと、いちばん奥に置かれたひとつの束へ指先を触れさせる。


他のものより結びが固い。

返すための結び方ではない。

閉じるために縛ったみたいな硬さだった。


「そして最近、そこへ別の気配まで混じり始めた」


ルーファが眉を寄せる。


「……甘い?」


ミラが、今度ははっきりとルーファを見る。


「ええ。悲しみに似つかわしくない、やわらかすぎる甘さです」


「外圧」


アッシュの符文が、ごく薄く明滅する。


ミラは静かに首を振った。


「断定はまだ早いですが、内側だけの歪みではないように思います」


イリスは息を整えた。

別々に見えていたものが、そこでようやく一本の線へ寄る気がした。


ミラは三人へ向き直った。


「おまえたちの力を貸してほしい」


そこで、ミラは一度だけ言葉を切った。

水灰の瞳が、ほんのわずかに伏せられる。


「……頼む。あの異質な甘い感情を取り除いてほしい」


イリスは白杖を強く握る。

ルーファも笑みを消す。

アッシュだけが、視線を深くしたまま動かない。


ミラは、何かを壊さないように小さく息を継いだ。


「国のことだけなら、私はまだ、見ないふりもできたのかもしれない」


その声は低い。

王としての判断を語っているはずなのに、そこにはもう、ひどく個人的な痛みが混じっていた。


「……でもあの子だけは壊させたくない」


その一言のあと、雫の音がやけに遠くなった。


イリスはその沈黙を見つめた。

役割でも制度でもなく、たったひとつの願いが、この人をここに立たせている。

それは、自分がまだ持てていない強さだった。


イリスは白杖を握る手を、今度は握り直さなかった。

代わりに、まっすぐミラを見る。


「分かりました」


自分の声が思ったより静かで、けれど揺れていないことに、言ってから気づく。


「ここから先を、私たちにも見せてください」


ミラの水灰の瞳が、わずかに上がる。

イリスは続けた。


「私は、まだあなたの国を異常だと言い切れません。ですから、見誤らないためにも、自分の目で確かめたい」


喉の奥はひりついたままだった。

それでも、言葉は止まらない。


「そして……あなたが守ろうとしているものが本当に壊れかけているのなら、私はそれを見ないまま通り過ぎたくありません」


ルーファが、そこでやわらかく息をついた。


「うん」


短い相槌だった。

でも、そのひとつで空気が少しだけ人のものへ戻る。


ルーファはミラを見る。


「ミラがひとりで抱え続けるの、もう限界なんでしょ」


責める言い方ではない。

泣いている人の隣へ座る時の声だった。


「だったら、ここから先は一緒に見るよ。あなたとその子のためにも」


ミラの睫毛が、かすかに震える。


アッシュは最初から答えを決めていたみたいに、短く言った。


「行く」


それだけだった。

けれど、その一語で十分だった。


壊すためではない。

止めるためでも、測るためでもない。

守るべきものがある場所へ踏み込む時の、ためらいのない音だった。


ミラはしばらく何も言わなかった。

三人の答えを、ひとつずつ胸の奥へ沈めるみたいに受け取っていた。


やがて、低く息を吐く。


「……ありがとうございます」


その礼は、王のものではなかった。

ひどく小さくて、ひどく切実だった。


その時、後ろで扉の開く小さな音がした。


振り向くと、回廊の向こうから薄青の影がひとつだけ覗き、ためらうみたいに足を止める。


広場で見た、あの少女だった。

薄青の肩掛けを胸元で握りしめ、泣けないまま人の輪の外へ立っていた、小さな子。


イリスが息を呑むのと同時に、少女の方も三人を見て目を見開く。


「あ……」


迷ったように唇が動く。


「ひろばの、おねえちゃんたち……」


その声にだけ、ミラの静けさが揺らいだ。

さっきまで決意で持ちこたえていた顔が、ひとりの子を見つけた瞬間に、どうしようもなくやわらぐ。


その変化があまりにもはっきりしていて、イリスは確信した。

この国を繋ぎ止めていたのは悲哀の理ではなく、たったひとりの子が呼ぶその声なのだと。

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