第三話 避難所の主
微かな鳥の声が、薄氷を叩く音のように響いて、私は眠りの底から引き上げられる。
学園がまだ眠りについている、灰色の朝。
カーテンの隙間から差し込む光は頼りなく、この四角い部屋に居座る沈黙を、不器用に照らし出していた。
そっと身を起こし、隣のベッドへ視線を向ける。
そこには、学園の視線を集める「氷の女王」の姿はない。
無防備に開かれた唇から漏れるのは、柔らかく規則的な吐息。
私は吸い寄せられるように、ベッドの端に腰を下ろす。
指先を伸ばし、その陶器のような白い肌を、なぞるように触れた。
「……ん……」
クロエが微かに眉をひそめ、眠りのなかで身じろぎをする。
指先から逃れるように、シーツを握りしめ、顔を背ける。
その仕草さえ、無意識のまま。
彼女の重い瞼が開くことはなかった。
彼女がどれほど不愉快そうに眉を寄せようと、どれほど身を捩ろうと、この部屋の扉が開くまでは、彼女の呼吸は私のすぐ側にある。
喉の奥が、僅かに熱を帯びる。
私は、指をゆっくりと離す。
――クロエが目を覚まさぬうちに。
立ち上がり、クローゼットからクロエの制服を取り出す。
濃紺のタイを手に取り、ゆっくりと眺める。
ひとつ、ため息を吐く。
「……起きてください、クロエ」
低い声が、部屋の空気を僅かに震わせる。
私は、まだ眠りの中にいる彼女の枕元へ歩み寄った。
これから私が彼女を、女王へと仕立て上げていく。
思い返せば、中等部の頃からずっと、こうして彼女の喉元に触れてきた。
出会ったばかりの私たちは、まだ家格の近いだけのルームメイトだった。
鏡の前で、教本通りの角度にならないタイに苦労していた彼女の指先。
「手伝いましょうか」と声をかけた時の、耳まで赤くして俯いた、令嬢らしからぬ不器用な姿。
今の彼女からは想像もつかないほど、当時の彼女は「柔らか」かった。
その柔らかさが、いつから硬い殻に覆われ始めたのか、私は知っている――。
ランフォール家を巡る噂が、学園の回廊を這い回り始めた頃。
すれ違う彼女の背筋は、日を追うごと、鉛を流し込まれたかのように垂直に固まっていった。
周囲の視線を跳ね返すように、彼女は自ら心を凍らせ、誰も寄せ付けない、殻を纏い始めた。
けれど、寮室という二人きりの箱庭に戻れば、彼女は依然として気丈なルームメイトのままだった。
不器用だったタイの結び方も、いつの間にか私を頼る必要がないほど完璧になっていた。
だから、私はあえて踏み込まなかった。
その必要を感じなかった。
彼女が自分一人で立とうとするのなら、それを見守るのが対等な友としての礼儀だと信じていたから。
――あの日、放課後の廊下で、半開きになった教室の扉を見つけるまでは。
窓から差し込む斜陽が、教室を無残に照らしていた。
誰もいないはずの部屋の隅。机に突っ伏し、折れそうなほど細い肩を震わせている背中があった。
……喉の奥が、嫌な軋みを上げた。
寮では一度も見せなかった、誰にも見せるはずのなかった、その震え。
名門の看板も、殻も脱ぎ捨てた、ただの壊れそうな少女。
気づいてあげられなかった。
同室者である彼女を、クロエを、この絶望の淵まで一人で歩かせてしまった。
その事実が、冷たい刃となり、私の胸を浅く切り裂いた。
助けるのは、ローレンティアの人間として当然の務め。
けれど、扉に手をかけた私の足を動かしたのは、そんな高潔な義務感などではなかった。
私は彼女の隣に座り、その震える手を包む。
彼女が必死に築いたであろう拒絶の壁など、最初からそこには存在しないかのように。
「クロエ、そんなに肩に力を入れていたら、息ができなくなるわ」
かけた言葉は、自分でも驚くほど静かで、当たり前の響きを持っていた。
顔を上げた彼女の瞳は、涙で濡れ、ひどく怯えていた。
けれど、私の姿を認めた瞬間、その瞳の奥に、縋るような光が宿るのを私は見た。
彼女の手が、私の手を握り返した。
痛いほどの強さで。
離せば溶けてしまうとでも言うように。
私の手のひらに、彼女の熱が伝わる。
震える手に共振するように、私の胸が高鳴った。
その瞬間、私の内側に何かが芽吹いた。
握りしめられた手のひらの熱が、甘く、痺れるような感覚となって全身に回る。
彼女の涙を、孤独に震える背中を、私だけが引き受ける。
その背中を私だけが守り、私だけが知っていればいい。
鏡の中の少女は、もう静かに眠ってはいなかった。
私は枕元で、彼女の銀色の髪を一束、ゆっくりと指で梳いていた。
不器用だった頃の彼女の面影を、私だけが知っている。
窓の外で、太陽がゆっくりとその輪郭を崩していく。
自分の講義を終え、寮室に戻ってから数時間。
私は一人、主のいないこの四角い部屋で、刻一刻と伸びていく影を眺めていた。私は彼女の机の上にある、まだ何も記されていない日記帳を指先でなぞりながら。
やがて、廊下の奥で一定のリズムを刻むヒールの音が聞こえ始める。
その音が部屋の前で止まる。鍵が回る小さな金属音が響いた。
「……ただいま戻りました、フィオーラ」
扉が開く音とともに、外の冷気と、張り詰めた沈黙が流れ込んできた。
私は椅子から立ち上がり、クロエを迎え入れる。
「おかえりなさい、クロエ」
この言葉を彼女に捧げられるのは、私一人だけ。
私は、彼女の首元へ、自然に指を伸ばす。
朝、私が結びあげた濃紺のタイ。
今日一日、彼女を「女王」として縛り続けてきたその結び目に触れる。
指先が喉元の布地を解いていくたびに、彼女の肩から、見えない鎧が剥がれ落ちていくのがわかる。
一つ、また一つと、指先に伝わる彼女の呼吸が、次第に深く、重くなっていく。
タイを外し終えると、彼女は吸い寄せられるように私の肩に、その額を預けてきた。
崩れるような重み。
学園で見せる凛とした背筋はどこにもなく、私の腕の中に、一人の少女が溶け出していく。
「……クロエ、手が、冷たいですよ」
私は彼女の両手を包み、その指先に自分の熱を移す。
クロエは何も答えず、私の胸元に顔を埋めたまま、小さく吐息をついた。
髪から微かに漂う、外の世界の冷えた空気。
それが、私の肌に触れる熱で、ゆっくりと消えていく。
「フィオーラ……」
掠れた声で私の名を呼ぶ彼女の背中に、私はそっと手を回した。
薄い制服の布地越しに、彼女の心臓の鼓動が、私の胸へと伝わる。
外の世界では、決して許されないひそやかな距離。
彼女の体温が私の服に移り、私の熱が彼女の冷えを奪っていく。
私は、彼女の耳元に唇を寄せた。
「もう、大丈夫ですよ」
囁きは、静寂の中に溶けて消える。
彼女が私の腰に回した腕に、僅かな力がこもる。
離れたくないと、その指先が言っているような気がした。
どれほどの時間が流れただろう。
部屋を満たす影がより一層深くなった頃、彼女は名残惜しそうに、ゆっくりと私の胸から離れた。
体温を奪われた場所が、夜の空気に触れて、微かに疼く。
彼女は視線を落としたままソファへ腰を下ろし、私はその隣に座って、銀色の髪に指を通した。
もつれを解くように、ゆっくりと、丁寧に。
指を通すたびに、彼女の意識は外の世界から切り離され、私の側へと深く沈んでいった。
やがて彼女は顔を上げ、静かに私の隣を離れた。
彼女は、デスクへ向かい、日記帳を開く。
ペンを走らせる、その小さく頼りない背中。
私はソファに座ったまま、その背中をじっと眺めていた。
彼女が何を綴っているのか、私は知らない。
ただ、ペンが紙を擦る乾いた音だけが、この四角い部屋に、穏やかな波紋を広げている。
喉の奥に、甘い痺れが走った。
この背中を見つめていられるのは、私だけだ。
彼女が一日を終わらせ、自分を取り戻すその瞬間に立ち会えるのは。
――私だけ。




