第二話 女王の居場所
授業を終えた午後の回廊を、私は一人で進んでいた。
一定の歩幅、一定の速度で。
フィオーラが整えてくれたタイの結び目を喉元に感じながら、私は誰とも視線を交わさない。
すれ違う生徒たちが、波が引くように道を空けていく。
この静寂が、私の聖域だった。
けれど、時折、その静寂に石を投げ込む声。
隠そうともしない無遠慮な囁きもあった。
「……見た? あの澄ましたお顔。ランフォール侯爵家、もう屋敷の維持すらままならぬとか……」
「ええ、伺いましたわ。あんな風に気取ったご様子で……いかにも侯爵家を演じておいでで」
「家名の凋落も、まだ夢のうちだとお思いなのかしら。必死ね。痛ましくて見ていられませんわ」
足を止めない。表情も動かさない。
何も聞こえていない、何にも傷つかない。
そうでいなければならない。
――彼女達は、正しいことを言っているだけだ。
胸の奥で、何かが折れるような、嫌な軋みが走る。
指先に力が入り、爪が手のひらを突く。
彼女たちの視線が、私の歩みを虚勢に変えていく。
――これは、プライドじゃない。
息が少しずつ浅くなる。
首元を締めるタイが、急に重い鎖のように感じられた。
――止まれば、崩れる。
私が一歩でも立ち止まると、この氷の城は足元から崩れ去る気がした。
――大丈夫。私には、フィオーラが居る。
生徒会室の重厚な扉が見えてくる。
私は一つ、深く息を吸い込む。肺を冷たい空気で満たした。
私は扉に手をかけ、一瞬だけ瞼を閉じる。
次に瞳を開くとき、そこにあるのは冷徹で一点の曇りもない「氷の女王」だ。
扉の向こう側には、張り詰めた沈黙が満ちていた。
高等部の生徒会室。磨き上げられた調度品と、整然と積み上げられた書類の山。ここには鋭利な「格」の競い合いがある。
私が席に着くと、室内には微かな緊張が走った。
視線の端で、上座に座る生徒会長――兄、エルリックが、一瞬だけ私を見た。
言葉はない。互いにランフォールの氷を纏ったまま、事務的に会議は始まった。
「次は、文化祭の予算修正案です」
三年生の役員が、私の前に書類を置いた。
今の私の役割は、各部署から提出される書類の最終確認。
書類に目を落とす。
文字の羅列をなぞる指先は、まだ廊下での「軋み」を覚えている。けれど、ひとたびペンを握れば、私の指先の熱が、すっと冷えていく。
「……三ページ、四行目の計算が合いません」
「えっ……。あ、いや、それは予備費の枠から……」
「項目が分かれていない以上、これは不備では? 承認はできません。……それから、この申請書、昨年度の書式を使っていますね。新書式については、既に入学前、中等部の方へも通達されていたはずですが」
顔を上げず、淡々と事実だけを指摘する。
三年生の役員が言葉を失い、周囲の役員たちが小さく息を呑むのがわかった。
落ちぶれたと囁かれる家名。
けれど――その名は、兄だけのものではない。
ランフォールは、私の名でもある。
綻びを許さないのは、誰かのためではない。
私が、そう在りたいからだ。
「差し戻します。放課後までに再提出を」
差し出された書類を、私はわずかに押し返した。
「す、すみません……すぐ、直します」
上級生のその返答は、下級生に向けた言葉のようには聞こえなかった。
一瞬、兄様の方を見た。
兄様は何も言わず、ただ私の判断を黙認していた。助け舟を出すことも、労うこともない。
それでいい、私の判断は、私のものだ。
けれど、その沈黙はランフォールとして立つ覚悟を、静かに共有している証のようでもあった。
――これでいい。
私は次の書類を手に取った。
指先の震えを、冷たい紙の感触で押し殺しながら。
昼休みの喧騒から切り離された、中庭の片隅。
ベンチに、私とフィオーラは並んで座っていた。
周囲には、春の陽光を楽しむ生徒たちの姿が点在している。けれど、私たちの周囲だけは、まるで目に見えない壁があるように誰も近づいてこなかった。
遠巻きに交わされる視線は、憧れか、あるいは腫れ物に触れるような警戒か。
私は、フィオーラが用意してくれた昼食の包みを、小さく解いた。
「大丈夫ですか、クロエ」と隣から、穏やかな声が届く。
フィオーラは私の横顔を覗き込むこともせず、ただ前を見つめたまま、そっと言葉を添えた。
「……ええ。大丈夫」
短い返答。けれど、それだけで十分だった。
午前中の回廊での噂、生徒会室での息詰まる時間。
それらで軋んだ心が、彼女の声に触れる。
それだけで、少しだけ静かになった。
「少し、肩が硬くなっていますわ」
「……そうかしら」
フィオーラは何も聞き出そうとはしない。何があったのかを語らせることもない。ただ、私が「大丈夫」と答えることを含めて、すべてを受け入れている。
「紅茶は、少し香りの強いものを淹れましょうか。きっと、気分が晴れますわ」
「……お願い」
他愛もない会話。
けれど、この公の場において、私を「クロエ」と呼び捨て、これほど自然に接する人間は彼女しかいない。
周囲の生徒たちが、眩しいものを見るように私たちを盗み見ている。
彼らの目に映っているのは、傲慢な女王とその悲しき側近だろうか。だが、今の私を支えているのは、女王のプライドなどではない。
私の肌を撫でる、穏やかな春の風。
そして、隣に座る彼女が放つ、いつもの花の香り。
その温もりに触れるたび、張り詰めた糸がほんの少しだけ緩んでいく。
――夜まで、あと少し。
それまで私は崩さない。
私は、彼女の用意してくれた昼食を、噛み締めるように食べた。
中庭での短い昼食を終え、フィオーラの花の香りを纏い立ち上がる。
午後の講義、放課後の生徒会室での残務。
差し戻した書類が再び私の机に置かれるたび、私は一点の妥協も許さず、ペンを走らせた。
窓の外の光が白から橙へ、そして深い群青へと溶けていく。
時間が経つにつれ、首元のタイは重さを増し、背筋を伸ばし続ける筋肉は疲労の色を見せ始める。
生徒会室を出る頃には、学園は夜の静寂に包まれていた。
誰もいない廊下を、フィオーラと二人、影を並べて歩く。
ここでは「女王と側近」の距離を保つ必要はないはずなのに、私はまだ、彼女の手を取ることすらできなかった。
一度でも指先を絡めてしまえば、寮に着く前に私のすべてが崩れ去ってしまう気がした。
石造りの廊下を叩く私のヒールの音だけが、やけに虚しく響く。ようやく辿り着いた寮室の扉。そのノブに手をかけたとき、私の指先はもう、感覚を失うほどに冷え切っていた。
部屋に入り、扉の鍵が「完了」を告げる小さな音を立てた。
その響きが合図となって、私の膝からふっと力が抜ける。
廊下での囁き声や、生徒会室での張り詰めた沈黙。それらを遮断した部屋の静けさが、今は重苦しいほどに感じられた。重い足取りでクローゼットの鏡の前まで辿り着く。
そこに映っているのは、まだ完璧にタイを結び、髪一筋の乱れもない氷の女王。
その内側では「うまく、やった……今日も」と鏡の中の自分に、言い聞かせるように囁いた。
結び目にかけた指先が、震えていた。
自分で解くことすらままならない。生徒会室で紙を握りしめていたあの時の痛みが、今になって熱を伴ってぶり返してくる。
「クロエ、無理をしていませんか」
背後から、花の香りが私を包み込んだ。
フィオーラ。彼女の手が私の震える指先に重なり、優しくそれを鏡から遠ざける。
彼女の指が私の喉元に触れ、今日一日私を縛り続けていたタイを解いていく。
一つ、また一つと、女王としてのパーツが剥ぎ取られていくたびに、私は自分を支えていた骨組みを失っていくような感覚に陥った。
「……手が、冷たいですよ」
タイを外し終えた彼女が、私の両手を包み込むように握った。
フィオーラの温もりが、冷え切った指先から心臓へと流れてくる。私はその熱を求めるように、彼女の肩に額を預けた。
外の世界では、凛として立っていなければならない。
でも、この四角い部屋の中だけは。
私は、彼女の胸元に顔を埋めた。
「今日も、お疲れ様でした。……もう、大丈夫ですよ」
フィオーラが私の髪に指を通し、もつれを解くようにゆっくりと梳いていく。
私は彼女の腰に腕を回し、縋り付くように力を込める。
「フィオーラ……」
「ええ、私はここにいますよ。クロエ」
彼女は私の顎をそっと持ち上げる。その深い紅の瞳で私を見つめていた。
その瞳は、私を評価する目でも、畏怖する目でもない。
ただ私を、一人の脆い少女として見つめる光に感じた。
彼女の唇が、私の額にそっと触れる。
それは、今日一日浴びてきた無遠慮な視線や、冷たい沈黙を受け入れてくれるような、温かさがあった。
一瞬、昨日感じたあの「視線」が脳裏をよぎった。
私の氷を見透かしてきた、あの瞳。
その視線を、フィオーラの温もりが押し流していく。
けれど、完全には消えることはなかった。
それでも、フィオーラが居れば、私は女王として立っていられる。
――だから、離せなかった。
この救いがなければ、明日の朝、私は再び冷酷な女王を演じることなどできない。
私は彼女の膝に顔を預け、本当の、深い呼吸を一つ吐いた。
寮日記:
――今日も、女王は無事だった。




