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スカイ・ハイ・ルーザー

作者: 遠吠負ヶ犬
掲載日:2026/01/25

初めまして。遠吠負ヶ犬と申します。

「まけいぬ」ではなく「まがいぬ」と読みます。

ライトノベルだったりそうじゃなかったりの、「そうじゃなかったり」の方です。

 野良犬が空を飛ぶ光景を、この目で見たのは五歳の時だった。


 あまりに現実離れした光景だったものだから、二十年以上経った今でも鮮明に覚えている。

 羽の無い犬が、まるで聖夜の空を駆けるトナカイのように、月夜の空を飛んでいく。

 口を大きく開け、尻尾と耳を振りみだしながら。


 幼い日の俺は、その光景に魅せられてしまったのだった。


飛ヶ崎(ひけざき)先生! 受賞おめでとうございます!」


 何の思い入れもない名が、振動となって俺の鼓膜に届く。俺は適当な返事をしながら目を逸らした。

 若くしてあらゆる賞をほしいままにする天才画家。

 人は皆、そんな目で俺を見ている。けれど、こうも露骨に擦り寄ってこられたら鬱陶しさを通り越して呆れてくる。


「流石は先生! 今回の作品も一段と独創性に富んで……」


 以前は、若造のの落書きだとこき下ろしたジジイ共までこんな調子なのだから、どうもやりにくい。


 ウンザリなのはこれだけじゃない。得体の知れない不快感が、俺の心にずっと巣食っている。


 絵描きを始めた時には虫ケラほどの大きさだったそいつは、今や化け物と呼んでも差し支えないほどの大きさになって、今にも俺に食いかからんとしているようだ。


 そんなことにさえ、つい最近まで俺は気づいていなかったのだから笑ってしまう。

 自分の中に渦巻く感情すらよく分かっていないのに、よくもまぁ内面を表現する芸術家が名乗れたものだ。


 そして俺が自分の中の不快感にハッキリ気づいたのは、忘れもしない、初めて個展を開いたあの日のことだった。


「先生見てください! この人だかりを!」

「個展は大成功ですね! 飛ヶ崎先生!」


 彼らの言う通り、確かに初めての個展にしては大成功と言っても差し支えないだろう。俺の絵を見に、老若男女あらゆる人々が訪れている。


 けれど俺の中には、やはりあの何とも言えない不快感が蠢うごめいていた。


 有象無象の称賛を受けている最中も、知ったような顔で自分の絵について語っている間にも、背後から化け物の唸り声が聞こえてくる。俺は全力で、それを意識の外へ追いやっていた。


 そんな時だった。彼とも彼女とも呼べない、その子に出会ったのは。


 俺にゴマをする鬱陶しい奴らから何とか逃れ、気分転換に個展の中を散策していると、ある一枚の絵の前にその子は立っていた。


 五歳くらいだろうか? 少女とも少年とも取れそうな、あどけない顔立ちの子供が俺の絵を見ている。

 きっと親に無理やり連れられ、興味も無いのにここまで来てしまったのだろう。あんな絵、見ても何のことか分からないし、つまらないだけだからな。俺はそう考えた。

 だがどうだろう、近くに親の姿が見えない。


 迷子だろうか? しかし、迷子と言うには泣く訳でもなく、一心不乱に俺の絵を凝視している。少し躊躇ったが、俺はその子に話しかけることにした。

 泣かれたら困るなとも考えたが、その子は意外にも俺の挨拶に素直に答えた。


「おじさん。このえ、おじさんがかいたの?」


 親がパンフレットか何かで俺の顔を見せたのだろうか。子供の記憶力は侮れない。

 それにしても、『おじさん』か。

『若き天才画家』も、子供から見れば確かにおじさんだな。心の中で自嘲気味に笑いながら、俺はそうだと答えてやった。


「ふーん……」


 また目線を絵に戻す。釣られて俺も絵に注目してみた。

 思わずはっとする。


 これは俺が最初に描いた絵だ。


 月夜の空を一匹の犬が飛ぶ絵。ここで俺は思い至る。俺があの光景を目にしたのは、確かこの子くらいの歳だったかと。


「ねぇ、なんでワンちゃんがそらをとんでいるの?」


 そんな素朴な疑問で我に返る。


 確かにこの歳の子供がこれを見れば、まず真っ先にその違和感に気づくだろう。

 別に大人がそれに気づいていない訳では全く無いが、いかんせん、大人は自分の理解できないことを「芸術」と呼ぶ悪癖がある。


 作者の俺だって何でこれを描こうと思ったのか、さっぱり分からない。子供相手に取り繕う必要も無いので、素直に「分からない」と伝えてみた。


 彼、もしくは彼女はつまらなさそうに相槌を打ちながら、それでも絵から目を離さない。


「ねぇ、おじさん」


 俺のスーツの袖を引っ張る。随分と好奇心旺盛な子供だ。

 面倒臭いジジイ共の話に付き合うよりマシなので、俺は少しの間この子に付き合ってみることにした。


「おじさんはワンちゃんがスキなの?」


 犬派か猫派かと聞かれれば犬派だが、別に特段好きではない。好きだから犬をテーマにした訳ではないのだ。


「うーん……じゃあおつきさまがスキなの?」


 確かに犬が飛んでいる夜空には大きく光り輝く満月が描かれているが、それも俺の思い出の中に印象強く残っているから描いただけで、あまり意味は無い。


「えぇ…………じゃあ、おじさんは、うーん……」


 呻き声をあげる小さな頭は、やがて答えを見つけたように俺の目を見上げる。


「絵が好きなの?」


 時が止まった。辺りの音が全て遮断されたかのように、何も無い静寂が訪れる。もちろん、本当に時が止まった訳でも、その子の様子が変な訳でもない。

 ただ、子供の純粋無垢な質問で、俺の頭が真っ白になってしまっただけだ。


 本当に俺は絵が好きなのか?


 俺は絵が好きだから、絵を描いているのか?


「…………違う」


 初めて自分の本音を言えた気がする。言えたというより、零したと言えった方が正確か。


 まるで表面張力によって水が限界まで張り詰められたコップを運んでいる時、どうしようもなく溢れてしまうように、俺の心から零れてしまった。


 俺の場合、零れたのは水ではなくもっとどす黒い、コールタールのような液体だ。

 俺から零れたそれはみるみるうちに化け物へと形を変えていく。ここで流石の俺も気づいてしまった。


 自分が完全に化け物の牙にかかってしまったことを。


 その日、俺はどうやって個展から帰ったのか、全く覚えていない。


 気づけばアトリエで一人呆けていた。まるで、魂まで零れ落ちてしまったように。ただ、頭の中からあの子の質問がこびりついて離れない。


 俺はなぜ絵を描いている? 絵が好きじゃないのならなぜ……


 描いて、描いて、ただ描いて、いつしか世間から認められて、天才だともてはやされて?


 そんなもの、望んでいた訳じゃない。


 俺はただ…………


「ただ、描きたかった」


 そう、ただ描きたかっただけだ。


 あの光景を、子供の時に見た、あの鮮烈な夜空を。


 犬が空を飛ぶという、あのシーンを切り取って、ただの記憶にならないように。ずっとずっと、あの時の気持ちを忘れないように。


 気づけば俺は筆を取っていた。


 無我夢中でキャンバスに描き殴る。


 描いて、描いて、ただ描く。


 描いては次のキャンバスを。また次のキャンバスを。


 キャンバスが無くなった。仕方ないから近所のスーパーのチラシを使おう。


 あの夜空の色が無くなった。仕方ないから緑色を使おう。


 あの満月の色が無くなった。仕方ないから赤色を使おう。


 そうやって描いていく内に、気づけば俺はアトリエの壁一面に、赤色の月が浮かぶ緑色の空を飛んだ紫色の犬を描いていた。


「はは……」


 あまりにも突飛すぎる絵に思わず笑ってしまう。風邪の時に見る悪い夢か? この絵は?


 それでも不思議な解放感があった。本当の自分をさらけ出せたような解放感が。


 初めて絵を描くことが楽しいと感じた。


 化け物の牙を振り切って、俺はこの世の何者よりも自由だと、踊る。

 やがてその解放感は虚無感へと変わった。当然と言えばそうなのだろう。俺は絵が好きなのではなく、あの光景を形として残す方法に、絵を好んで用いていただけのこと。


 もし俺に文才があれば、媒体は絵ではなく文字だったはずだ。


 俺にとって絵は、あの記憶を留めておくただの方法に過ぎない。何が天才画家だ。これじゃあただの負け犬じゃないか。


 それを理解してしまった今、俺に筆を取る熱意は残っていなかった。


 スカスカになった頭と反対に重苦しい身体で、俺はアトリエを逃げるように飛び出す。振り切ったはずの化け物の足音が、再び俺の背後から聞こえてくるようで、俺は恐ろしかった。


 これが今、俺が何も持たずに夜道をふらふら歩いている理由である。


 化け物に追いつかれてしまえば、今度こそ骨も残らず食い殺されてしまう。妙な確信が俺にはあった。


 どこへ行けばいいのか、当てなんかあるはず無くただ歩を進める。これが俺の本当にしたいことだったのか? あの時の子供の質問が耳にこびりついている。


「まだだ……」


俺はまだ何かを見落としている。あの日に、あの絵の中に、そんな気がしてならない。


気づけば辺りからほとんどの街灯が消え失せ、見上げると雲ひとつ無い夜空に一際目立つ満月が浮かんでいた。


 この夜道は、まるで……


「あ! やっとわかったあ!」


 夜の静寂を切り裂くように、間の抜けた声が聞こえる。

 頭の中で何度も聞こえた、子供の声だ。



「おじさん、空を飛びたかったんだね」



 振り向くと、あの子供が立っていた。


 四肢がもげて、首が変な方向に曲がった犬を引きずって。


 あの夜、血を撒き散らしながら月光が照らす空を飛んでいた、あの犬を引きずって。


口が喉まで引き裂け、耳も尻尾もちぎれ飛んで、弧を描いて落下していく、あの犬を引きずって。


 そうだ……あの夜、あの空を飛んだ犬は、月を眺めて……あの、月に魅入られた犬に、夜空に魅入られた哀れな犬に、俺は魅入られていた。


「あぁ、そうか」


 笑顔でこちらに手を振るあの子供が天使だろうが悪魔だろうが、もうそんなことはどうだって良い。迫り来る車のライトで視界が染まっていく中、俺は子供のようにワクワクしていた。


強風が正面から吹いてくる。


眩しい。


意識が遠のく。


 空へ。




『次のニュースです』


『本日、アーティストの飛ヶ崎さんが日本人として初めて○○賞に受賞し――


『授賞式には飛ヶ崎さん本人も出席し、これからの活動についても言及し――


「飛ヶ崎先生! 受賞おめでとうございます!」


 あの日から、あの子供の声が頭から離れない。


 空も飛べない負け犬の俺には、今でも化け物が巣食っている。

ネットでの書き方に慣れていないので見ずらかったかもしれません。これから慣れます。

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