52.
目が覚めると見慣れない天上があった。窓からは幽かに東の空が明るくなるのが見えた。いささか痛む頭を摩りながら身体を起こすと、やはり知らない部屋にいた。
(……こんなことが前にもあった気がする。)
(…俺は、昨日何をしていたんだったかな。)
順番に昨日の出来事を思い出す。迷宮に行ったのは一昨日の記憶だ。ぼんやりと思い返して、探索者協会で情報屋のことを聞いたことを思い出した。この町では酒場なんかに屯していないことを思い出したが、他に何を聞いたか忘れてしまった。
(それから…なんだったかいう男に連れられて……そう、ヘルリックと会ったんだったな。)
(ええと、あとは…そうだ、飯に連れていかれたんだ。海老が旨かったな。)
(うん?そこからがよく思い出せん。何があったんだったか。)
思い出せずしばらくうなっていたが、やはり思い出せなかった。諦めたクロムは勢いよく布団から起き上がると、頭がくらりとして、思わず横たわった。少し動かずにいたら、その感覚は落ち着いた。再びゆっくりと起き上がり、身に着けているものを確認した。
(〈武器庫〉はある。〈収納袋〉もある。あとは…)
脳裏に普段から腰に差している剣を思い出せば、すぐに手元に現れた。〈白輝蜈蚣の外套〉も取り出したが、すぐに仕舞った。
(…まあ、何か盗まれたわけでもないから、敵がいるわけじゃないな。
身体の調子もいいわけではないし、もう少し寝るか。)
もう一度布団に横たわると欠伸が出た。眠りはすぐに訪れた。
次に目を覚ました時は昼前だった。今度はヘルリックが傍の椅子に掛けて、何やらかを書いていた。クロムが起きたことに気付くと、書き物の手を止めた。
「おお、起きたか!よかった、まさかあんな程度の酒で落ちるなんて思わなかった。」
「酒…?」
「ああ。そんなに量があったわけじゃねえのに、すぐに酔いが回ったのか…」
そこまで言われて、クロムは牡蛎が運ばれてきたときのことをなんとなく思い出した。それからすぐに、かつて〈深淵の愚者〉と初めて邂逅したときに強力な酒を渡されたときの記憶も思い出した。
(…こんなにも酒に弱いのか、俺は。)
自身の明確な弱点を知って、密かに落胆した。同時に、もし敵に酒に弱いことが知られたらと思うと恐ろしかった。
(ガハラがあの時出してきたなんとかいう強い酒を撒かれて、〈火〉で酒精を蒸発させて…それで吸ってしまったら、すぐに俺は倒れるだろうな。匂いでわかるだろうが、やられたら避けようがない。)
「…クロム。クロム?」
「あ、ああ、大丈夫だ。少し思い出してきた。」
「そ、そうか?」
「…酒に強くなる方法はあるだろうか。」
「ねえな。沢山飲めばいいっていう奴もいるが、俺はそれで強くなった奴を知らん。
いいか、絶対にやるなよ。」
「わかっている。だが、流石に…こうも倒れるのはな。」
割とどうでもいいことではあると自覚しながらも、クロムが悩んでいることが分かったらしい。ヘルリックは待っていろと言って部屋を出た。
クロムはヘルリックを追おうと立ち上がろうとして、急に気分が悪くなった。
クロムはまた布団の上に転がり、浅い呼吸をしていた。
しばらく横になっていたが、気分の悪さは変わらない。そうしているとヘルリックが戻ってきた。
「気休めだが、これを飲んでおけ。」
クロムに差し出されたのは〈マルバス毒消し〉だった。マルバス迷宮の一層、二層で手に入る丸薬型の迷宮品だ。これはクロムもいくつか残していた迷宮品だった。
「これを飲めば多少は良くなると思う。まあ毒消しの道具だからな、間違って飲んでも問題ないさ。効果が出ないだけだからな。」
ヘルリックの物を貰い、口の中で噛砕いて飲み込む。飲み込んでからすぐに気分の悪さが和らぎ、体調が良くなった。体を起こしても気分の悪さには襲われなかった。少し待てば体調はいつも通りになるだろう。
「…気持ち悪さが消えた。もう大丈夫だ。」
「お?早いな、普通少し和らぐ程度なんだが。クロムは飲んだのも少量だからよく効いたのかもしれんな。」
「…成程。これはもう少し持っていたほうが良いな。」
「そうだな、だが連続して使うと効果は薄れるから気を付けろよ。」
「わかっている。」
「まあ、昨日の話の続きを聞かせてくれ。」
「ああ。」
復調したクロムは、その後ヘルリックと飯屋での続きの話をした。
「どこまで話したかな。」
「どこぞの貴族家の騎士と手合わせしたところかな。娘さんを誑かしたんだろ?」
「そうじゃないが、そこまで話したか。」
有力な仲間たちを連れて、〈霊峰山脈の悪夢〉と呼ばれる魔獣に挑んだこと。
一緒に戦った仲間が二人死んだこと、クロムがもっと早く行動していれば二人は死ななかったこと、それに動揺して悩んだこと。
…リュドミラを仲間に引き入れるつもりだったことと、それをせずにクロムが急遽帝都を奔出した理由は話さなかった。今、帝都を奔出したときに人を五人斬り殺したなど言えるはずがない。
一通りの話を聞いて、ヘルリックはどこか感慨深げに何度か頷いた。
「クロム、お前…随分人間らしくなったな。」
「はあ?」
「ウルクスが死んで、あの山から連れ出したとき、お前は何をしても感情が動かなかったし、命のやり取りにも躊躇いが無かった。
だから実をいうと、ふとした時にいつか自分の命を投げ出してしまうんじゃないかと心配していた。
…今は少しだが感情に出てるし、生き死にについてよく考えてもいる。もう心配は要らなさそうだな。」
「……そうだったかな。」
「ああ。その二人だって、挑むとわかった時に命を落とすことだって覚悟していたんじゃないか?それをいつまでも言うのは、彼らの覚悟を踏みにじることでもある。
それに、もう終わってしまった事だろう。いつまでも悩むものじゃない。」
〈霊峰山脈の悪夢〉を討伐したすぐ後、いろいろな人間に同じようなことを言われた。その時は心が塞いでいたせいかもしれないが、少し時間が経って落ち着いた今は、そんなことはないという気持ちが湧いてきた。彼らの言う通り、彼らは覚悟して挑んだのだから。
(…俺は、俺を許せない。だが、必要以上に責める必要もない。それはどちらもできる。
次、同じようなことがあった時に間違えないようにすればいい。
それでいいんだ。)
心に刺さっていた棘が抜けた気がした。クロムの眉間に寄っていた皺がとれ、それを見たヘルリックも安堵したのか話題を変えた。
「まったく、ウルクスは体の動かし方を教える前に感情の動かし方を教えるべきだったな。
まあ、アイツもそういうことは苦手だったが…。」
「へえ。」
「お、興味が出たか?」
「ああ。話してくれ。」
「あれは俺がシャデアであいつと出会ったばかりの時―――」
過去のウルクスはクロム以上に無表情で、無口で、頑固で、反面短気だったこと。挑発などされたときには怒鳴ることはなく静かに怒り、相手構わず殴りかかった。
ヘルリックと共にオセ迷宮に潜っては素材を得て、それを売り払ったり鍛冶で使い潰してまた迷宮に潜るという生活を続けていたこと。ヘルリックが近隣の都市へ行商に行ったとき、一人で三十二層まで潜って蟻型の魔獣を倒してしまい、大怪我をしながら全滅させてきたこともあった。話を聞けば質の悪い連中に煽られて迷宮へと挑んだらしい。
鍛冶では師匠にあたる者の教えはよく聞いたが、ほかの弟子の言葉には一切耳を貸さなかったという。しかし他の弟子、特にこれまで目を掛けられていた兄弟子に並ぶような腕だったから、あまり強く言われなかったこと。この兄弟子とは互いに無関心だったという。
たまに飯を一緒に食えば、幾ら金がかかっても決まって酒と川魚を頼んでいたこと。ウルクスの故郷では川魚はよく食べられていたらしく、わざわざ繁殖させる専門の狩人までいたらしいこと。無関心の塊のような男だったが、案外心のどこかではそうでなかったのかもしれない。
互いに少しずつ生活が安定する中で、ヘルリックはバティンポリスで修業をしにシャデアを離れた。この時に世話になったのがブラインの父親だったという。
それからしばらくした頃に、ウルクスが妻を娶って子を成した。
ウルクスの子、コクマーが六つになった時、妻が流行り病で死んだ。このときヘルリックはバティンポリスから帝都までを行商しており、探索者から〈マルバス万能薬〉をいくつか仕入れていたが、ヘルリックがウルクスからの手紙を受け取ったのは一年後、シャデアへ帰ろうとした直前だった。
シャデアへ戻る機会は一年前には何度かあり、その時にシャデアへと戻っていたら、〈マルバス万能薬〉を与えることができたことに悔やんだ。
それからウルクスはコクマーを鍛えた。鍛冶を教え、魔術を教え、戦い方を教えた。コクマーはそれらを乾いた砂のように吸収した。
コクマーが十七になった頃、神殿騎士になるために修業へ出たことがきっかけだった。ウルクスは猛反対し、コクマーを叩きのめした。しかしコクマーの決意は固く、最後にウルクスを払いのけて去って行った。
神殿騎士になるには深い信仰を持ち、厳しい修行に耐えながら魔術と武術を磨く必要がある。神殿騎士として認められるには十五年かかるとまで言われている。コクマーは特別力が強いわけでも、魔術への造詣が深いわけでもなかった。コクマーの訃報が届いたのは、コクマーが出て行って三年経った頃だった。霊峰山脈中腹の修験場に現れた魔獣に殺されたとだけ記されていたという。
その知らせからしばらく抜け殻のように過ごしたが、ある日ヘルリックにのみ行き先を告げて人の世から消えた。
そして山へと入って二年後、クロムを拾ったのだ。




