120.
朝日が昇った頃に出立し、そこからは西方向を目指して移動した。適当なところで南へと移動をはじめ、夜も道を進んでナルバ領へと戻ったのはその四日後である。クレスはすぐにレンビスへと具申しに向かい、クロムたちは一旦借りていた宿へと戻った。
丁度同じ日にイングリッドが帰って来ていた。蝶型の魔獣を討伐して先に戻ってきていたが今回も仇の魔獣とは違ったらしく、暗い表情で町を歩いていた。クロムたちがその姿を見て声をかける前に通りの角を曲がり雑踏に消えてしまった。
ウッツ村の挙兵はクレスの弟のエルネストとその一派が大反発した。貴族が平民に剣を向けるなど何事かというのが彼らの言い分で正しかったが、今回ばかりは事情が違う。報告して議論が平行線を辿り、エルネストが納得し折れるまでに二日半がかかった。兵の編成と手配に一日半かかり、ウッツ村へ向かうことが決まった頃には七日が経過していた。
出立の報せを受け取った時、クロムは渋い顔をした。ヤーフとは口約束でしかなく、契約したわけでもない。今から向かっても、当初の予定だった十日程には間に合わない。尤も期日もないのだが、いつ倒れても不思議でないような姿のヤーフが少し気にかかっていた。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。明日出立だそうだ。俺たちも一緒に向かうから用意しておけ。」
「わかった。私の準備は大丈夫だよ。」
その間にリュドミラは幾つかの魔道具を補充し、〈集積爆竹〉のほかに叩き割るとすぐに煙幕を出せる煙玉や〈光〉が刻まれた使い捨ての硬貨型の魔道具を幾つも用意していた。
クロムにも〈光〉の魔道具が二つと煙玉をいくつか渡された。〈光〉の魔道具は指先で弾くことでマナを注がずに使えるという。
「よし、これで行けるね。
ところで…イングリッドさんは大丈夫かな。最近見ないけど。」
「前の報せの時にクレスの下で何か貴族のことを教わっているとか聞いたぞ。」
「ああ、貴族たちは言い回しが面倒な人が多いもんね。相手に合わせて言い方を変える人は多いけど、わざと言い回しを回りくどくする人もいるしね…。」
「ふうん。」
「クロムも勉強しとく?」
「頭が痛くなりそうだ。やめておこう。」
リュドミラから逃げるように外出し、数日分の食料を買ってから宿へと帰った。
翌日の朝、日が出た頃に領主館へと向かった。クレスとイングリッドのほかに三人の騎士と十五人の兵士のほかに、クロムたちを含む探索者が住人程同行した。
探索者は三人組と五人組で別れていたが、どちらも荷の運搬係兼負担を減らすための護衛だった。空きのある〈収納袋〉を持っている探索者を雇って、兵士たちの鎧をはじめとした荷物の多くを〈収納袋〉に入れることで非常に速く移動ができ、五日程度の道程を三日に短縮した。
村から四半日程離れた位置に陣取って休息を入れ、探索者たちは帰りの食料と資材を買いに帰っていった。明日の朝にウッツ村へ到着できる予定だ。
野営の用意が整った後、まだ日も高いというのにクレスは景気付けだと言って兵士たちに酒を振舞い、兵たちは気が抜けたように酒を楽しんだ。
イングリッドがどこか苛立った様子でクロムたちの下へときて、木剣をクロムの足元へ投げた。イングリッドを見れば片手にしか木剣を持っていない。
「鬱憤晴らしだ。相手しろ。」
「イングリッド様、駄目ですよ。」
「うわ、クレス!いつの間に!」
「今の今です。ところで今何をしようとしていましたか。」
イングリッドの後ろに突然生えたように現れたクレスに二人は驚いたが、笑顔のクレスのこめかみには薄く筋が浮かんでいる。この暑さのせいで浮かんだものではないだろう。クレスの静かな怒りにクロムは最速の回避を見せた。
「俺は何も知らん。何もしていない。」
「うわ、裏切り者!」
「リュードを怒らせると説教が長いんだ。」
「誰の何が長いって?」
「うわあ!」
突然背後からリュドミラに肩を掴まれ、柄にもない声を上げて驚いた。背後に立たれたという気配が一切無かったのだから、迷宮の主たちと相対した時よりも心の臓が暴れた。クロムの様子を見て、平静を取り戻したイングリッドはクロムを笑った。
「…はは、お前もやっぱり驚いてるじゃないか。」
「…クロム殿、驚きすぎでは。」
「すまん。…いや、気配が無かったんだ、驚くだろう。」
「ごめんごめん。〈幻影〉の魔術を使ったからね。」
「気配を消せるのか?」
「少しなら誤魔化せるかな。達人は術士相手でも完全に気配を消せるらしいよ。」
「俺にはもうやらないでくれ、臓腑に悪い。」
「クロムが変なことしなければね。」
「…まだしていない。」
実際には一戦交えるつもりだったから、リュドミラにそう言うのは少々ばつが悪かった。しかしイングリッドは悪びれもせずクレスに食って掛かっていた。
「イングリッド殿、それにクロム殿も。明日、存分に暴れてください。我々にはナルバ領主も認められた、体勢に楯突く〈盤割の鎚〉らを掃討役目があるのです。
噂からすれば、猛者の一人二人はいましょう。ここで互いに争って消耗などすれば、猛者との戦いを逃すやもしれませんから。」
「……クレス、お前が私に暴れないように釘を刺していなかったら、私は今頃鬱憤を晴らせていたんだ。」
「我慢して下さい。使徒という身分で決闘など、エノディナムス様の名に傷をつけるおつもりですか。」
「クロムほどの奴なら、別に問題ないだろう。」
「大ありです。使徒から喧嘩を売るなど…」
二人の言い合いを聞きながら、リュドミラが溜息を吐いた。結局戦うことなくその場は解散し、騎士の一人が振舞った硬い肉をほおばりながらその日は何事もなく終わった。
翌朝、日の出よりも前に全員が起床し、日の出までに荷を片付けると素早くウッツ村へと歩を進め、昼前にウッツ村へと着いた。
村の入口には以前に見た見張り達が居た。既に臨戦態勢に入っており、弓兵は既にいつでも放てるように弓を番えていた。一団が近付くと、纏め役らしい男が剣を抜いて叫んだ。
「なんだ、お前たちは!この村に何の用だ!」
兵士たち全員がぴりぴりとした空気を纏いながら、クレスの号令を待つ。既に全員が今すぐにでも戦える状態になっていた。
「〈盤割の鎚〉どもよ、既に調べはついている。貴様らはやりすぎた!ナルバ領主の名のもとに、貴様らを討伐する!罪状は治安を乱した罪、国家転覆を企てた罪、そして無辜の人々を殺した罪だ!
兵ら、構え!」
兵たちは一糸乱れぬ動きでそれぞれの武器を構え、次の号令を待った。纏め役の男が攻撃を命じるとほぼ同時に、クレスの号令が響いた。
「撃て!」
「ヤれ!」
敵方が数本の矢を射ち、騎士たちを襲った。矢は殆どが盾や鎧に当たり刺さらず、突進の勢いは殆ど弱まらなかった。若かった兵の二人が当たり倒れたが、すぐにリュドミラが〈回復〉を使い、事なきを得た。
最初に到達した騎士たちと見張り達が衝突し、すぐに見張り達を倒した。纏め役の男は粘ったが増援が増えるごとに劣勢になり、成す術なく倒され簀巻きにされた。
「クソッ…あっお前は!」
男はクロムに気付いたが、兵の一人が頭を槍の石突で撃って気絶させた。クレスと騎士たちはなおも村の奥へと突き進み、凄まじい速さで村人たちを捉えていた。クレス達の侵攻に遅れていたクロムもそれに続いて走った。
「…ああ、やはりこうなるのですね。」
諦めのような掠れ声がし、見張り達はその男を通り過ぎた後は振り返らす村の奥へと逃げて行った。兵士たちは獲物を道の真ん中に立ちはだかっていた人物に向けた。
その男は手には粗末な剣を一本持っていて、その佇まいは隙が無く、彼の剣が届く距離へ踏み込んだら斬られると直感した。
「…ヤーフ殿。抵抗なされるな。」
「まさか、貴方が倒すべき貴族の一人だったとは。いえ、こうなっては私が殺そうとも、他の者が殺そうとも最早変わりませぬ。
この〈くちなし辻〉、最期に立ちましょうぞ。」
「〈くちなし辻〉!?生きていたのか!」
「クレス様、撤退しましょう!」
「逃げろ、斬られる!逃げろ!」
ヤーフの剣はただ静かに構えられていただけなのだが、〈くちなし辻〉の名を聞いただけで兵たちが震えあがり及び腰になった。
「なんだ、そんなに怖いか。」
「知らないのか!〈くちなし辻〉は…一級探索者を何人も殺した人斬りだぞ!」
「ほう。」
「クロム、あいつは私の獲物だ。
私は武神の使徒、イングリッド。私が貴様の生涯最後の相手をしよう。」
イングリッドが名乗りを上げて前へと出る。適当な兵を捕まえて聞けば、〈くちなし辻〉は二十数年ほど前に現帝国領の各地で要人と護衛を切裂いた人斬りなのだという。いつからか噂は消えたが、当時の騒動と斬られた者の胸の上にくちなしの枝が添えられていたことは恐怖の象徴として広まっているのだ。
「おまえたち、落ち着け!イングリッド殿が倒してくださる!我等は成すべきことを成すのだ!気を強く持て!」
クレスが檄を飛ばし、兵たちが落ち着きを取り戻す。イングリッドとヤーフはにらみ合って動かないが、ヤーフを超えようとした兵の一人が凄まじい速さの突きで足の健を切られた。助けようとした兵を斬り裂いて、しかしその視線はイングリッドだけに集中している。
「…申し訳のうございます、しかしここからは通しませぬ、通せませぬ。死人を増やすわけにはいきませぬ。
こうするしか、わしが死ぬ道は無いと悟りました。使徒よ、わしを―――」
絞り出すようなヤーフの御託を遮るようにイングリッドが仕掛け、しかしそれをやすやすと躱してイングリッドへと斬りかかる。その間にも斬られた者達に駆け寄ったものの、足を裂かれて動けなくなってしまっていた。
ヤーフの攻撃を受け止めながら次の攻撃を放ち、少しの距離を作る。距離を詰めながら連続の突きである〈紫電・雲霞〉と幾つもの魔術がヤーフを襲った。