119.
クレスの言葉の意図はすぐにわからなかったが、ヤーフが少し考えてから、懐から端の擦り切れた紅色の紋様が描かれた灰色の布札を取り出した。早く助けてほしければつまり証拠を出せと言ったのだ。
布札をよく見ればその紋様は〈疑心〉の効果を持った魔道具に彫られていた紋様と酷似していた。一見普通の布のように見えてどこか気味悪い雰囲気を纏ったそれが、先ほど話に上がった〈疑義の呪い札〉だとすぐに思い当たった。
「これをお持ちください。これはわしがかつて探索の中で手に入れ、無辜の人々を傷つける為に使った…罪の証拠にございます。」
「お預かりします。これをどこで?」
「……昔、ある依頼を受けた時に手に入れたのです。
願わくば、貴方方のもとでそのまま死蔵させてください。これはこれ以上広めてはいけない。わしにはもう要らず、わしらが持っていてはいけないものです。」
「…承りました。」
「近いうちに救いがあることを…お二方にお祈り致しましょう。」
ヤーフはゆっくりと立ち上がり、布札を置いて、扉を少し開いて周囲を探った後、家を出て行った。残された灰色の布札は不気味な存在感を放っていた。
「…潜入した甲斐はありました。
こうなるとリュドミラ殿には早いうちに撤退してもらいたい…しかしこうなることを考えていませんでした。」
「確か、合流は二日後だったな。」
「とりあえず、今日のところは休んでおきましょう。」
「ああ。先に休んでくれ。」
「リュドミラさんが心配ですか?」
「あいつなら大丈夫だ。腕も立つし、俺と違って危険とわかれば逃げることもできるはずだ。」
「信頼しているのですね。」
「ああ。」
クレスが先に休み、クロムも再び家の外へと注意を向ける。何事もなく時間が進み、真夜中にクレスと交代して休んだが、朝日が昇るまで何事もなかった。
「…おはようございます。何も起きなかったのですね。」
「ああ、そうだな。襲撃があると思っていたんだが。」
「いますぐこちらから仕掛けるわけにはいきません。まずこの布札を証拠に領主を説得して、挙兵をしなければならない。手続きにも少し時間がかかります。
強行は弟が嫌うので出しゃばってくると思いますが、一日程度で終わらせてみせます。彼もそこまで理解できない人間ではありません。
それでも急いでここまで来て…北へ向かって適当なところで転進して…九日から十一日後ですね。」
怨敵が目の前にいて、早く交戦したいというのに待ったをかけられている状態は酷くもどかしい。クレスの言葉は尤もだが、心の奥の苛立ちが愚痴をひとつこぼした。
「昨日の奴等程度なら、俺一人でも勝てる相手だ。それでもか。」
「駄目です。貴方が戦力差では引けを取らないことは確かです。しかし相手には〈召喚〉があるのだから、想定外の出来事が起こる可能性もあるのです。冷静になられて下さい。」
「……すまん。」
「いえ。仕方ありません。敵陣にいるのですから、気が逸るでしょう。」
それ以降は二人とも何も言わず時間は過ぎ、やがて扉が叩かれた。昨日村長の言っていた食料の取引だ。クロムが扉を開けると、昨日賄賂を渡した男が小さなずだ袋を持っていた。
「起きていたか。食料だ。水は手持ちの袋に入れろ。」
「いえ、水は大丈夫ですよ。私の魔術で賄えますから。」
「そうなのか?まあいい、持っていけ。」
ずだ袋の中は一日分のパンと少しの野菜が入っていた。この食料はすべてクロムの〈収納袋〉に入れて、袋は返した。金額は銀貨七枚とすこしばかり割高だったが、辺境では妥当な金額だ。クレスは何食わぬ顔で支払っていた。
「確かに。今日は嘘みてェに晴れてるから、涼しいうちにさっさと去りな。」
「おや、それは良かった。そうですね、そうしましょう。村長にも例をお伝えください。」
「ああ。」
見張りの男が村の入口までクロムたちを送り、押し出されるように村の外へと出され、少し歩き出したところで村の入口の門が閉まった。
「クロム殿、あまり詳しく聞きませんでしたが。」
「なんだ。」
「リュドミラ殿は諜報能力に長けているのですか?」
「どうだろう。ひとの機微というものはよく読み取れるし、頭も良い。魔術の種類も豊富だ。最低でも迷宮深層に潜れるような奴じゃないと相手になんぞならん。あの村の連中位なら、何とかなるだろう。」
「成程。では、信じて待ちましょう。」
クレスは気追わない程度の感覚でいたが、クロムは少し心配していた。
〈隠匿の耳飾り〉があれば周囲数歩離れた相手からは見えなくなる。しかしその認識の誤魔化しを正しく認識できる効果の迷宮品も存在する。万が一連中がそういった類の迷宮品や魔道具を持っていると思うと、危険が増す。あの迷宮品は強力で安心感があるのだが、その強力な効果に心の隙が生まれる。
「この辺りにしましょう。」
荒野を半日ほど北へと歩いてから、クレスが立ち止まる。周囲の草を適当に刈り取ってから、薪と石を集めて竈を組む。その間にクレスは野宿のために天幕を用意して、日が沈む前に野宿の用意が終わった。
食料は元々用意していたものを使い、貰った食料はすべてクレスが〈鑑定〉を掛けた。食料は普通のものだったが、水には毒が入っていた。
「…お節介気味に渡してきたのは、やはり毒でしたか。」
「飲んだら死ぬか?」
「鑑定結果は馬腹草の液が混じっているので、数日酷い腹痛が起きますね。それと体に力が入らなくなるので、下手したら荒野で動けなくなったかもしれません。」
「毒草か。」
「はい。結構えげつないことをしますね。
鑑定結果だけ記しておきましょう。証拠として利用できそうです。」
水はクレスの魔術で賄いながら三日後にリュドミラと合流した。リュドミラは水と簡素な料理を一気に平らげてから泥のように眠った。リュドミラが起きたのはその日の深夜だった。
「うぅん…。」
「起きたか。」
「あー、うん。ちょっと待ってね。すぐに報告する。」
リュドミラは眠い目を擦りながら欠伸を一つして、大きく伸びをし、クロムたちの囲む火の側に座った。クレスに差し出された水を飲んでから、報告書を取り出した。三枚にまとまった報告書の内容はクロムたちが見た以上に詳しく村内のおおよその配置と人の数まで書かれていた。クレスが報告書を読み進める間に、その情報をリュドミラが補足した。
「ふむ。我々よりも詳しく書かれていますね。四十数人ほどの集落。しかし構成のほとんどが男で、女が十三人ほど?そして村長以外の老人が少ない。農作業をしているのは一部で、ぎりぎり賄える程度の作物量しか作っていなさそう、ですか。他所から食料を運んでくる手筈があるんでしょうか。
昼に戦闘訓練、農作業。夜は集会所のような場所で集まって何か話していると。しかしそこまでよく調べられましたね。」
「あはは…。夜こっそりとしか食べられませんでしたよ。寝ることはできませんでしたし。」
「どうやって出入りしたんだ?」
「夜に〈観測〉で人のいないところを探して、塀は〈風〉で超えたよ。
昼間は〈隠匿の耳飾り〉と〈幻影〉で何とか誤魔化して、夜になってから同じように逃げた。
あ、それと、これを見つけたよ。」
「これは?」
リュドミラの取り出したものは小さな鉄の札だったが、その表面には〈盤割の鎚〉が使っている印が彫られていた。この札とクレスが見つけた指輪。このふたつと、ヤーフの証言があればすぐに挙兵できるだろうと思った。
「そうか。頑張ったな。」
「うん。でももう少し寝ようかな。少し疲れた。」
「そうなのか?なら、そう少し寝ておけ。」
「うん。」
リュドミラは蛹のように毛布にくるまってまた寝始めた。息苦しくならないのだろうかと思いながらもその様を見ていたが、報告書をもう一度読み終えたクレスは溜息を吐いてリュドミラへと目線を遣り、それからクロムへと移した。
「…クロムさん、リュドミラさんは何者ですか?」
「俺の頼もしい仲間だ。他は…まあ、俺が話せることは無い。詳しく知りたければ本人に聞いてくれ。」
「それはそうですが。…これ、結構しっかりまとまっていますし、欲しい情報は書いてありますし、文字もきれいです。推測も書かれていて、探索者としては教養があるように見えます。」
「ふうん。まあ、駄目というわけじゃないんだろう?」
「勿論です。クリスタあたりに技術を教えられれば、諜報員としてもやっていけますよ。」
最近どこかで聞いた気がして考えていると、ヤマノユに行く前、領主館へ招聘された際に地味だが独特の暗い表情で異彩を放っていた女がいた。クロムへと飯を持ってきてくれた侍女が確かそう呼ばれていたのを思い出した。
「ええ。侍女ですが、ナルバの外へ赴いて情報を集める役目を担っている一人なのですよ。」
「そいつは腕が立つのか?」
「いえ、身を守るための技術は幾つかあるようですが、最低限と聞いています。魔獣と戦うのは出来ませんが、対人なら通用するくらいのものです。
諜報員はいざこざなんて起こさないほうがいいのです。」
「ふうん。」
「119.」以降を書き直し中のため、しばらくお待ちください。