117.
一日緩やかな時間を過ごしてから、クロムとクレスでウッツ村へと向かった。リュドミラは少し後から〈隠匿の耳飾り〉を付けて彼らの後ろを追った。
イングリッドは情報屋からナルバ領の西の森林に巨大な蝶型の魔獣が見かけたと聞いたらしくクロムたちが発つよりも先に荷物を纏めて飛び出して行ってしまった。
「仕方ありません。俺たちは予定通りウッツ村へ向かいましょう。」
「そうか。ああいう思い切りの良さも、高潔に見えるということかもな。」
「ええ。イングリッド様は裏表のない方ですから、今の行動も…我々を置いてでも向かうべきだと思ったのでしょう。そこまで考えてないと思いますが。」
「クレスも中々言うじゃないか。」
「俺も連れて行ってもらいたかったですから。…誰かと衝突していないか心配です。」
「…まあ、大丈夫なんじゃないか。」
「…そう信じましょう。」
発ってから三日目の日暮れにようやくウッツ村へと辿り着いた。頑丈そうな柵と木々に囲まれ、外からの侵入を拒んでおり、入口の門前には見張りらしい男が数人警戒するように立っていた。
普通であれば、そもそも魔獣や野獣の心配のある麓に村を構える理由は多くない。ヤマノユのように観光資源があるとか、猟や採取を生業にするとか、何か理由があるはずだ。村ができるまでには人が集まって、生活に欠かせない水源や農耕地を用意するのはどれも時間がかかるのが常だ。
この周囲に他に互助できるような村落は無く、はるばる来た商人も入れず、しかし魔獣や野獣の被害が無いという点がウッツ村という場所の異質さを際立たせていた。
クロムたちに気付いた見張りが警戒を強めた。クロムたちが門前に歩み寄った時、見張り達はクロムたちを警戒するように剣に手をかけて声を上げた。
「この村に何用だ!」
なんて答えようかとクロムは困ったが、すかさずクレスが温和な調子で口を開いた。
「我々はただの旅人です。この辺りに村があると聞き、寝床と食料を供して貰えないかと思いまして。」
「……食料は分けてやる。食料の値はこちらで決める。村に入れることは出来ぬから、寝床は諦められよ。」
「そこを何とか。我等は貴方方に何かするつもりはありません。雨風を凌げるなら農具小屋でもよいのです、どうか。」
クレスが頭を下げるが、見張りの一人はそれを鼻で笑った。
「雨など降っていないし、今は夏だ。外で寝ても問題などあるまい。」
周りの見張りも口々にそうだ、そうだと言ってクレスを笑ったが、ぱらりと水滴が落ちてきてすぐに大粒の雨が降ってきた。
実はこの雨は仕込みで、リュドミラが〈火〉〈水〉〈風〉の魔術を使って降らせていた。〈精霊の指輪〉、〈飄風の足鎧〉のおかげで、以前ではできなかったこのようなことが広範囲でできるようになっていた。
「えっ…?」
「はあ?」
「どうか、慈悲をいただけませんかな。礼金は弾みますよ。」
驚いて天を仰ぐ見張り達の視線を盗んで、最も態度の大きかった目の前の見張りにクレスは金貨を一枚、男に握らせた。男は手の中のものをちらりと見て、わずかに顔を喜びにゆがめた。水滴を拭くかのように額を拭うふりをしながらさり気なく衣服の隠しに入れた。
「…俺の一存では決められん。村長を呼んでやる。
食料の交渉もそこでしろ。だが、幾らになるかはわからんぞ。」
「心得ております。」
「え?いいんですかい?」
「雨など降らんと思っていたのに、こいつが頭を下げたら丁度良くこんな雨が降るなんて何かがあるに違いない。それに、そこの男には俺たちじゃ勝てん。暴れられでもすれば困るのは村長たちだ。
それに、そういう者は入れても良いと村長も言っていただろう。」
「へ、へえ。あっしには見分けがつきませんや。」
「運のいい客人たちよ。村長に話を通すから少し待たれよ。」
「助かります。ありがとうございます。」
見張りの男は門の奥へと去ったが、その間も他の見張り達はクロムたちを敵視するかのような視線を投げて武器の柄に手をかけていた。しばらくして見張りの男が戻ってきた。
「村長がお前たちを連れてくるようにと仰った。案内はするが、くれぐれも無礼な真似はするな。」
「はい。供にも言い聞かせておきますので。」
「……わかった。」
「まあいい。着いて来い。」
村の中へ入る。農具小屋のようなものと大きくない畑が幾つかあり、馬小屋がある。奥には集落のように小さな家々が建ち並び、村人らしい者たちがクロムたちを珍し気に見ていた。その眼には好奇と敵意が混じっていた。
「おいクロム、きょろきょろするな。失礼だ。」
「む、すまん。」
見張りの男が一度振り返ったが、何事も無かったように前へ向き直り、最も大きな家の前に立った。
「ここが村長の家だ。もう一度言うが、無礼な真似はするなよ。
村長、例の客を連れてきました!」
「…入ってくれ。」
内からは小さくしゃがれた声がした。扉が開く気配はなく、見張りの男が扉を開けて中に入るよう促した。
竈の火に照らされた土間の先、座敷には小さな老人が居た。枯れ枝のような体に禿げかけた頭と白い毛、かすかな光に反射したぎょろりとした目。その様は幽鬼のような翁だった。
クレスが土間から座敷へ上がり、村長の前で正座した。クロムは土間に立ったまま、後ろで手を組んで待機することにした。
「…この村へよくぞ入った。ここに入る者は我々か、特別な者か、お前たちのように運のよい者だけだ。」
「一晩泊めていただけるとのことで。急な雨でしたから、助かります。」
「よい。この辺りには何もない。なぜここを通った。」
「都市カリレアに急ぎの用事がありまして、ヤマノユからだとこの道が近いのです。」
「ふん。大分遠いな。ここからでも四日はかかるぞ。馬は無いのか。」
「ありませぬ。ここで食料を得られると非常に助かるのですよ。」
「聞いている。寝床と食料が欲しいということだったな。
寝床は空き家があるから、そこを使うといい。だがこの村は生産が少ないから、食料は少ししか出せん。金もとる。」
「構いません。これは気持ちです。」
クレスは金貨を一枚差し出し、村長は緩慢につかみ取って側の棚の上に置いた。
「食料は明日の朝に用意させる。寝床は表の男に聞くといい。」
「わかりました。クロム、お前も礼をしなさい。」
「恩に着る。」
「良い。」
村長は不愛想にそう言って座布団へと座り直し、クロムを見た。
「邪魔にならぬよう行くぞ。我々は失礼します。」
「待て…そこの黒いの。」
「クロムがどうかしましたか。無礼がありましたら詫びましょう。」
「そうでない。お前、少しこちらに来い。」
座敷の前まで近寄ったが、老人はクロムを手招きした。座敷には上がらず腰を下ろし、体を老人に向けた。
「…まあええ。あんた、探索者か。それとも騎士か。」
「探索者だ。こういう喋り方しかできないから、許してくれ。」
「まあいい。なぜここに来た?」
「後ろの奴の護衛だ。」
「あの男は何をしている男だ。」
「さあな。探索者は契約以上の事は守らないし、同時に首を突っ込まない。あいつは依頼人で、俺は護衛だ。それだけだ。」
これはあらかじめ決めておいたことだ。クロムがなるべく嘘を言わないように、事実に即した形で関係を説明するようにクレスから言われていた。
「ふむ。では、お前は金を払えば雇えるか。」
「今は無理だ、先に依頼してきた者を裏切れない。こいつとの依頼関係が終わってからは、別だ。」
「そうか。なら、いい、行け。」
「では、失礼します。」
老人はクロムたちが家を出て行ってから、側にあった瓶を開けて中身を口に含んだ。口元から液体が零れ、それを手で拭う。何かを思い出すかのように老人は宙を睨みながらまた酒を呷った。