114.
突如目の前に現れた女神は何かに気付いたように小さく声を漏らし、咳払いしてからまた口を開いた。
「今はクロムだったかな。済まない。」
「え?あ、ああ、いや、そんなことより。どうしてここに。」
「お前が呼んだんだ。して、何の用だ。」
「…そうだ。神々の争いの話だ。」
「〈デートルイースの鎚〉は手に入ったのか?」
「いいや。ちょっとやることが増えた。」
「…聞かせて。」
「〈盤割の鎚〉だかいう連中を潰す。」
「ふうん。私との約束よりも優先するの?」
少しだけ顔を顰めて嫌そうな顔をしたラピアだったが、すぐに何かに思い当たったのか何か納得したようにクロムの側に座り、杖を置いた。
「いや。両方やる。」
「そう、欲張りね。でもそれならいいわ。…鎚、鎚ね。どういう連中なの?」
「神殿に反抗して、使徒を襲撃したり神殿を敵に回すような連中だ。」
「ふうん。わかったわ、神の威を借りて信仰を滅茶苦茶にするのも不愉快だけど、信仰無き暴徒なら潰したほうがいいわ。」
「信仰にも種類があるのか?よくわからんな。」
「人間の尺度ではそうだろうな。神は本当に欲しければマナも信仰も奪い合う…今の兄妹たちのようにな。そこに邪心が紛れ込むことは神々にとって権能の変質を引き起こしかねないから、毒にしかならない。」
「ふうん。
ああ、そうだ。二つ聞きたいことがある。
一つは俺があんたの使徒だというのを、リュドミラとイングリッドに話してもいいか。」
「丸くなったな、誰かにそれを話すとは。お前から見て、それだけその者たちが信頼がおけるのだろう?」
「ああ。」
「良い仲間に巡り合ったようで良かった。好きにするといい。
それで、もう一つは?」
「四年後、神々の間で争いが起きるらしい。そこで、俺はシバメスタとかいう神を倒しに行く。」
「!」
クロムはイングリッドから聞いたことを思い出しながら話した。クロムのうろ覚えの説明でどこまで伝わったか怪しいが、一先ずシバメスタとデトロダシキ、キシニー、エノディナムスが対立することは伝わったようだ。クロムとリュドミラ、イングリッドはデトロダシキ側に与して参戦することも伝えたが、頭を抱えてしまった。
「……兄上に姉上に、シバメスタまで敵。シバメスタが敵に回れば二人は共闘するかもしれないが…倒したらまた直接的な争いが起きかねないな。
シバメスタが…奴は中立を守ることを是としているのに、一体何があった?」
「さあな。そのきょうだいはニタスタージとイリアオースのことか?
元々はその二柱を倒す予定だったのか?」
「そう。元々〈デートルイースの鎚〉は彼等、というか奴らの使徒に対抗するために必要だと思っていた。」
「どういう武器なんだ?」
「破壊神デートルイースの持っていた武器で、破壊の意を込めて振うことであらゆるものを打ち砕ける、私たちの知る限り最高の武器だ。一振りの対価は膨大なマナだが、ここぞの時に使うことで活路が生まれるだろう。
どちらにしろ、シバメスタと戦うならあったほうがいい。奴の権能すら打ち破れるかもしれん。」
「…どういう奴なんだ、そのシバメスタは。」
「あらゆる物事に公正で公平。契約と秘密の神で、契約と秘密を守るものにはよく手を貸すが、契約を破った者に対しては誰に対しても容赦なく罰する。奴がいるから、神々の世界にある程度の秩序があると言っていい。」
「ふうん。なんだ、真面目な奴なんだな。」
「理解が浅いが、まあそうだ。融通が利かない頭の固い奴。クロムの話からではどういう経緯かはわからないが、乱心したということだな。」
瞑目してこめかみを抑えながらクロムの話を整理し、一応の理解をしたようだ。クロムからすると元々ラピアが何を想定していたかわからないから、この状況もいまいち繋がらない。静かにラピアが話すのを待った。
「そうだな…。これから話すのは創造神が死ぬ遥か前。私たちがこの世界に来た時の事から話さないといけない。」
最初からはるか遠くの事を言い出したラピアを思わず二度見した。体を起こしてラピアに向き直り、最初の言葉を反芻して聞きなれない単語を聞き返す。
「この…世界?」
「そう。世界とはこの一つだけではない。幾つもの世界が存在する。私たちは異界と呼んでいた。
ある異界は人間同士の戦火が絶えず続き、ある異界は人間が亡びて魔獣が地上を支配し、ある異界では魔術がこの世界よりも発展している。意思を持てるいきものがすべて死んだ異界もあった。不思議なことに言葉は数種類しかなくて、そしてどの異界にもマナが多かれ少なかれ存在した。
今この異界で神と呼ばれる私たちは、そのうちの一つからこの世界へと渡った。私たちが元居た世界は少ないマナを魔獣や同族から奪い合う世界だった。
私たちは同族を抑え込み、魔獣を倒して生存を続けていた。他の同族たちよりもはるかに優れていた私たちは慢心していた。あのときも千年を驕り、更に千年の時を同族との戦いに明け暮れて、そして魔獣は力を付け、私たちの戦いに割り込んできた。
同族と魔獣と三百年程戦いを続け、私たちの仲間が七十程に減り、そして私たちは魔獣と同族らに負け……そして元居た世界を捨てた。」
「捨てた?」
「そう。〈異界渡り《トランシンラト》〉と呼ぶ魔術。アリヒが使った魔術のひとつで、幾つもある世界を意図的に渡れる魔術。これを使って私たちはこの異界へ渡った。つまり、かつての世界を捨てたということね。
貴方にわかるよう簡単に言えば、故郷を捨てて新天地を目指したということ。」
「…ああ、まあ、わかった。」
「この異界は故郷の異界と違ってマナが溢れんばかりに充満していた。だからか、地上にも天井にも魔獣が跋扈していた。私たちはまず魔獣を殲滅した。膨大なマナは戦い、身を癒し、身に蓄えてなお有り余った。生きるためにマナが必須の私たちにとってこの異界は極楽であり、強さという点でも頂点に達せる能力があった。
…古きものさえいなければ。」
「前に言っていた奴か。」
「そうだ。今の言葉にすれば古きもの、或いは古神、魔神、大魔獣などと呼ばれる魔獣たちだ。古きものたちはマナを奪う私たちを赦せなかったのか、当然のように私たちと対立し、驕っていた私たちは奴らと争った。ほとんどは我々が古きものを殺したのだが、時折私たちの同朋も死んだ。惨い死に方をしたものも多かった。」
「同朋らが四十八まで減ったとき、誰だったかが人間を見つけた。我々の誰もが、私たちと瓜二つの姿に驚きを隠せなかったが、同時に知能はそれなりにあっても戦う術を持たぬことが私たちを安堵させた。同族に似ていたが、人間はマナを奪い合うほどため込まないし、同族ほどの脅威でないとわかったから。
やがて戦の中核を担っていたデートルイースが最後の古きものと相打ちとなったとき、漸く天上世界にも平和が訪れた。古きものどもの残党を殺し、アリヒは古きものの死骸を封印した。この異界は私たちの手に渡った。
この時は紛れもなく私たちの勝利だった。」
ラピアは遠い目をしながらも手元へと視線を落とし、長い呼吸をしてから話を再開した。
「それからどれだけだったか…百年か、二百年したとき。
…父、アリヒは心を狂わせた。最愛の者を失ったことは、彼にとって耐えられなかったらしい。実子であり母に姿のよく似たイリアオースをデートルイースそのものだと思うようになり始めた。それだけなら誰も何も言わなかった。そういうことはかつて故郷ではよく在る話だったから。
父、いや、アリヒの不幸はイリアオースに手を出そうとしたことじゃない。
クロム、この世界の動物は親と子の間で子を成すか?」
「……少なくとも俺は知らない。獣は…子同士であればあるかもしれんが、しかし親と子で子を成した話があるかはわからない。
ああいや待て、確か血のつながりが近い者同士で子を成すことは滅多に無いと聞いた気がする。」
「そう。この異界では血のつながりが近い者同士では子を成すことは殆ど無い。アリヒはそれをよく見ていたのだろう、己の行いがこの異界の本来ではありえないことだと理性で気付き、己の常識を否定できず心を壊した。
あの頃は兄上も姉上も二人とも力を付けてきていて、アリヒの跡目争いが起きていたから、それもあったのだろうな。年を追うごとに父の姿は壊れていき、最期には私に介錯を求めてきた。」
「…介錯?だが、神話だと確か、お前が殺した。」
「ああ、そうだ。間違っていない。アリヒは自らを殺せる強力な毒を創造し、服毒した。それを私は父、偉大なる創造神の最期の願いを叶えるべく酒に混ぜて飲ませた。このやり取りを知っているのは私と父だけだったはずだった。しかし都合悪く介錯の場に兄姉たちが現れて私を糾弾し、私は天上世界を追われた。
あとはお前たちの知っての通り、私は天上世界を追われ、二柱の争いが激しくなり、シバメスタが介入して人間を導き始めた。最初は順調ではなかったけれど。」
神話の裏話を知り、クロムは戸惑った。良くわからないことは多いし、半分も理解できていない。クロムは神をろくに信仰していないから、この話を与太話とも嘘と切り捨てることもできず、むしろ史実を語っていると信じられた。何せ今目の前で語っているのは歴史の当事者である。
「千年かけてこのゲームのやり方を学んで、考えて、二千年間膠着させて僅かな優劣を競い合わせるべく暗躍した。」
「面倒そうだな。対立しているという二人のどちらかが勝ってはいけないのか?」
「どちらが勝ってもいけない。
兄上は人間に露ほども興味が無い。勝てば神々からの人間への干渉は一切しないようになる。信仰が届かぬとなれば神殿の制度や権威が崩壊するし、神の威に頼っているような政治も混乱するだろうな。
姉上は真面目だから、勝てば築いた文明はすべて三千年以上前に戻すと断言できる。自分たちの都合でやったことだからと、あらゆる記憶、記録を丁寧に消し去るだろう。
どちらが勝っても人間たちの社会は大きく減衰するだろう。」
「神とかいう奴は身勝手だな。だがまあ、すぐに滅ぶというわけではないのか。」
「まあ、そうね。でも彼らにとっては親切心よ。逆に心があるからああいうことをする。」
「お前も含めて面倒な奴らだな。」
「神も人も本質的には意思で考える生き物だもの、倫理や論理は違っても、根底にある思いというものは変わらない。」