112.
「まず、俺は森林神の使徒じゃない。森林神なんて奴も知らん。」
「…よくわからない。なら、それこそ…ただの人間みたいじゃないか。
神とあろうものが、ただの人間を頼るわけがない。クロム、お前には何かがあるのだ。」
「知らん。それとも自分が特別とでもいうつもりか?」
「勿論だ。私は強い。そして天意というものがあるなら、それこそ私が受けている。
あらゆる魔獣を殺してきた中で、勝てない、死ぬと確信した瞬間はいくらでもある。しかしそのたびに窮地を脱し、勝利してきた。
努力を積み重ね、偶然を積み重ね、それでもどうしようもないときに生きられるのは、そこで死ぬ定めではないということ。お前もあるだろう?」
否定しようと口を開きかけて、過去の事を思い返してみる。オセ迷宮では単身で潜った時には死ぬかどうかの危ういところだった。白輝蜈蚣との戦いも、〈霊峰山脈の悪夢〉も仲間がいたとはいえ思えばよく勝てたものだ。バティン迷宮ではどうしようもないところでラピアに救われた。
天意だというならそうなのだと思わせるだけの経験をクロムは既にしていた。
「…いや、あるな。否定はしない。」
「だろう!私を追い詰めたんだ、お前は何かの天命を持っているに違いない。」
「だから俺が使徒だと思ったのか?」
「結果としてはそうだ。だが、そうではないなら別の何かがある。恐ろしく強力な運命だと私は思うぞ。」
「その話はもういいだろう。俺がなぜその武神だかから協力しろとか言われていたのかがわからん。こっちは武神なんぞ知らん。それに事情も知らないのに協力なんかできない。」
「…それもそうか。まあいいだろう、クレスとリュドミラは席を外してくれ。」
「私はクロムに着いていくと決めているので聞かせてください。あとでクロムから聞き出すのも大変ですし。」
「聞かせていただけませんか?イングリッド様の力添えをしたいのです。
ナルバ領主、その周囲、神殿に至るまで、他言致しません。神々の名のもとにお約束いたします。」
「それでもだ。今この部屋に人を近づけたくない、外で見張っていてほしい。」
「……わかりました。お話が終わりましたら呼んでください。」
クレスは立ち上がると部屋の外へと出ていく。去り際に寂しそうな表情をしていたのが少し引っ掛かりを覚えた。
「クレスには言わなくていいのか?仲間なんだろう?」
「いい。彼との契約が終わったら、私は死ぬか殺すかの戦いに身を投じることになる。」
「物騒だな。」
「ああ、物騒だ。そこにあいつを巻き込みたくない。」
「そこまで言う相手とは。」
「〈盤割の鎚〉とかいう異端者共。神の意を汲まない神殿の上層部に、神々を妄信するだけの使徒たち。これを四年、このたった四年で弱体させるか、潰すかしないといけない。使徒は味方に引き入れることも考えるが、基本的には潰す。」
「と、とんでもない話だ。なんで急ぐ必要があるんですか?」
「四年後、神々の間に大きな戦が起きる。これはエノディナムス様たちが中心となって起こすそうだ。
敵は契約の神シバメスタただ一柱。神々をもってしても、シバメスタ神を誤魔化すのは長くても四年が限界だという。」
イングリッドの語りは、神々の争いや神話に疎いクロムすら思わず耳を疑う内容だった。
事の発端は森林神デトロダシキが自身の呼び名に夜叉という聞きなれぬ単語を聞いたこと。信仰の妨げになるとして探りを入れた結果、光の神と闇の神の争いに与している神がその異なる名を呼ばれていた。余程の事が無い限りありえない状況に、神々の素性を探っていたところシバメスタが最後となった。
そのことを問い詰めたところシバメスタとの戦いになり、森林神、武神、嵐神は劣勢になり逃走。今は天上世界の隅でひっそりと身を隠している。
「…あの三柱が、負けた?信じられない。だって、あの三柱は神話じゃ何が相手でも敵無しだったんだ。契約神シバメスタはそんなに強いの?仲裁とか裁きの話はあるけど、武勇の話は……。」
「それでも強かったらしい。デトロダシキ様は近接戦で敗れ、キシニー様は魔術の撃ち合いで負けたと。」
「…馬鹿な。」
「負けた原因は、相手がシバメスタだったこと。シバメスタはこの勝負を二大神へと持ち掛けた時、そこにいたすべての神と契約を結んだ。
この勝負の決め事は幾つかあったのだというが、その最初にこんな文言があったらしい。〈神々同士の争いを避けるべく契約により管理する〉。この神々同士の争い、というところが原因だったようだ。」
「どういうことだ?」
「シバメスタとの間に交わした契約を破ることはできない。契約を破ると言うことは違反したことでの制裁を受けることになる。
神同士の直接的な戦いを避けるための契約を破ったということになるようだ。違反したものに制裁を下すという体でシバメスタが強化されたのだと、エノディナムス様は言っていた。」
「そこに俺たちが入る余地があるのか?」
「ある。我々は神々との契約をしても、シバメスタと手出ししてはいけないというような契約はしていない。
強大な敵だが、我々にこそ彼の神に付け入る隙があるのだ。」
イングリッドが話し切った時、部屋を静寂が包んだ。クロムもリュドミラも、想像を絶する話をされてしまい困惑した。
(ラピアはこの話を知っているのか?何かの際に会ったら伝えないと。
…どうやって会うんだったかな。それも聞いてみるか。)
「どうやってそれを知ったんだ。」
「使徒は深く祈りを奉げると、神に通じれば話すことができる。
…それを知らないと言うことは使徒じゃないのか?」
「知らん。」
「とんでもない話になったね、クロム。」
「…そうだな。」
クロムの頭はどこでその祈りを試してみるかを考えていた。どこであってもリュドミラは着いて来るだろうから、一人になる時間は少ない。自分の部屋へ戻ったら試してみるか、いっそこの場で曝け出すかと思っていた。
「わかりました。使徒という立場だから出来ること、ということですね。
ところで今はエノディナムス様とは通じることができるのですか?」
その問いにはイングリッドは首を横に振って否定した。
「できない。今私と渡りをつけるのはシバメスタに気付かれる可能性がある。だから、今は…少なくとも四年後までは話すことはできない。その時が来たら話せると思う…。」
「そうですか。そうなると難しい話ですね。」
「うむ。だから、今ある少しの情報だけで何とか協力者を増やし、エノディナムス様の懸念を少しでも取り除かなければならない。」
「それでいろいろなことをしようとしたのか。」
〈盤割の鎚〉は巨大な組織だという。やけに腕の立つ者もいて、しかし一端を潰したところで他が無事でいれば活動は止まらないこともわかる。その集団を導くものが居て、こそこそと動く様は恐らく相当に慎重で損切りが上手い。崩壊させるには相当な労力が要る。
神殿は単純に兵や騎士が多くいるようだ。過去の記憶からすれば〈夜叉の太刀〉に並ぶような迷宮品も幾つもあり、それを十全に使える者がいる。
他の神の使徒たち。森林神の使徒ハイラルは既に死んでいるが、他にも幾人も使徒は居るようだ。全員がイングリッドのように一騎当千というわけではないだろうが、ランカのように特別な能力を持っている者もいるだろう。
それらを相手取る間にもイングリッドはその傍らで魔獣を倒すことはわかっている。彼女の村を襲った魔獣は恐らくここにはいないはずだが、どこかで魔獣の話を聞けば倒しに行くだろう。
これから戦う者たちはどれをとっても一筋縄ではいかない相手たちだ。神殿一つとっても、クロムは昏い道を進むことを覚悟していた。一つでそれなのだから、イングリッドの覚悟は相当なものだ。
(生意気な奴だと思っていたが、改めよう。イングリッドは大した奴だ、こういう奴は嫌いじゃない。
こいつになら手を貸したっていい。ラピアのことを知るにしても俺の過去をもっと知るにしても。)
(だが、ここでラピアの使徒だと言うのはどうなんだろう。そもそもラピアという神の、今の立ち位置がわからん。言い伝えではかつての主神を殺して地上に追放されたんだったか
やはり使徒の前で言うことでもないのか?)
イングリッドが真っ直ぐにクロムを見つめる。その眼は力強くまっすぐに前だけを見ていて、吸い込まれるような魅力があった。少しの間黙って考えを纏めているとイングリッドに急かされた。
「どうだ、クロム。人と神のために、手を貸してはくれないか。」
「イングリッド。あんたの覚悟に敬意を払い、可能な限り俺も手を貸そう。」
「…クロム。最初の態度を謝罪する。貴殿の協力に感謝する。」
「ああ。気にしていない。」
イングリッドは真面目腐った顔で謝罪してから、どちらからともなく小さく笑って手を差し出した。イングリッドの手は思いの外小さかったが、力強い。ひとつの利害が一致した今、イングリッドとは頼もしい味方になる。クロムは躊躇なく差し出された手を握り返し、堅く握手を交わした。
「クロム、イングリッド様、私も協力するよ。」
「ああ。リュドミラと言ったな、イングリッドでいい。敬語も要らない。歳も近いだろう?」
「え?ええ。じゃあ、イングリッドさん。私も手伝うからね。」
「イングリッドでいいって。強い奴は歓迎する。」
リュドミラもクロムとイングリッドの手の上に自身の手を重ねる。変則的な握手だったが、三人の間に一つの信頼が生まれた瞬間だった。