110.
クロムは左肩に手を遣り、深い傷が無いことを確認した。触ってもわかる通りクロムは無傷でその場にいた。イングリッドのほうを見れば、戦いの最中に手放したもう一本の剣を拾って悔しそうな表情で立っていた。
クレスがイングリッドに駆け寄り、その身の安否を確かめていた。
「それで、俺は認めてもらえたか?」
「………認める。…帰る。」
ゆっくりとクロムのほうを向いたイングリッドは暫く悔しそうに口籠りながらもクロムを認め、双剣を収めると踵を返して一人で先に町へと戻っていった。
「あ、イングリッド様、待ってくだされ!すみません、クロム殿。」
「いや、いい。それより、後であいつに聞きたいことがある。」
「クロム、相手は間違っても使徒様だからね。せめて名前で呼んであげて。」
「そうか?どこかで話せる時間が欲しい。」
「わかりました。今は気が立っているようですので、明日話せるように話を付けておきましょう。では先に失礼。」
クレスは軽くクロムたちに頭を下げ、イングリッドの背を追って去っていった。
その背を見送ってから、足元に落ちた〈夜叉の太刀〉を拾う。砕けた剣のかけらも拾い集めた。戦場や迷宮ではこういったものは放置していいのだが、そうでなければ鏃や剣の破片なんかは回収するのが探索者としての作法だ。売れば多少の足しになるし、これをうっかり踏んだ馬車馬が暴れてしまうこともある。
回収が終わってから、帰り道ではリュドミラから立場だの責任だのを説かれたり、抜き身の剣で殺す気の立ち合いだったのかなどと説教を受けた。リュドミラの言い分は少しはわかっていたので、甘んじて言われ続けた。
「…もう。一応これあげるから、次にああいうことするときは使って。」
〈仮初の帳〉を受け取る。金貨より少し大きな硬化型のこの魔道具を手元で弄びながら、再び始まったリュドミラの説教を聞き続けた。
その日宿へ帰ってからは風呂で汗を流して布団の上でだらだらと過ごした。夕餉にはクレスの姿はあったが、イングリッドの姿は無かった。
「おや、クロム殿、リュドミラ殿。」
「イングリッドは?」
「部屋にいますよ。今は誰とも会いたくないと。
…気に入らないことがあるとああなるんです。群れの獣を一匹逃したとか、商人に足元を見られたとか、何も知らない探索者に笑われたりとか……。
今日のはクロム殿と実質的に引き分けたからでしょうか。明日には元通りになると思いますので、気を悪くされませんよう。」
「ふうん。子供っぽいな。」
「ふふ、まあ、子供ですよ。何せまだ十七、貴族の世界ではまだ若造も若造、探索者としてもまだ駆け出しが多い年齢でしょう?」
「そうなのか?」
「うーん、特別な理由が無ければ、そうなんじゃないかな?」
夕餉を食べながら、クレスの知るイングリッドの来歴を聞いた。
イングリッドは東大陸の中央、竜の国と呼ばれる国に生まれた。尤も周辺の都市や町と関わりのあるところではなく、古くから続く外界とは殆ど隔絶された村で育った。十四まではその村で育ったのだが、魔獣に襲われて村が燃え尽き、命辛々逃げ出して人前へと初めて姿を見せた。
初めて村の外へと出たイングリッドは負傷してなお凡百の探索者や騎士よりも強かった。傷を癒してからは唯一持ち出した剣と剣の技を頼りに生活していた。それから一年は村を襲った魔獣を探して竜の国中を駆け回った。百二十の魔獣の屍を積んで装備も金も手にしたが、村を襲った魔獣はその中にいなかった。
その折に武神が夢に現れて使徒に任じられ、武神の導きで東大陸へ渡ることにしたという。
「西大陸に来てからは、彼女の産まれた村はおろか竜の国の常識とは全く異なる。そんな環境に慣れるまで見守る者が必要です。使徒ともなれば、不要ないざこざを回避するための庇護も要るでしょう。…俺がそれを担うものだと信じています。
しかしどうか、クロム殿、リュドミラ殿にもイングリッド様の助けになっていただければとも思っています。」
クレスもすべて知っているわけではないだろうが、イングリッドの過去は中々に壮絶だ。クロムの過去はそこまで悲しいものではないが、天涯孤独という点でイングリッドにわずかな親近感を覚えた。
「その、村を襲った魔獣はどんな奴なんだ。」
「…私も詳しく聞いていませんが、炎の蝶だったと。」
「蝶?虫型の魔獣か?」
「恐らく。どこからか一匹で飛来して、瞬く間に増殖して村や人を埋め尽くしたと聞いています。」
「恐ろしい魔獣だな。逃げようがないだろうに。」
「全くです。」
少し重苦しい空気になったが、リュドミラは空気を換えようと話題を振り直した。
「全く想像がつきませんね、そんな魔獣は。
ところで、クレスさんとイングリッドさんはどこで知り合ったんですか?庇護すると言うには、それなりにかかわりができたのだと思いますが。」
「うーん、あれは丁度二年程前でしたか。夏の頃でした。
あの時私は父の名代として外遊に出ていてその帰り、ナルバ近辺まで来た時に、疲れた様子で馬車の前にふらふらと出てきまして。」
「うんうん。」
「慌てて馬車を停めたら彼女も棒立ちになってこちらを見てきました。
様子がおかしかったので、馬車を降りて近付いたところを斬りかかられまして。」
「うん…うん?」
「随行の騎士が三人酷い怪我をしました。私も乱闘に割り込んで刃を交えまして、恥ずかしながら手も足も出ませんでした。ひたすら身を守るだけで精いっぱいでしたよ。
不意に攻撃の手が止まって彼女が倒れたあと、私はマルバス迷宮の傷薬を使って事なきを得ましたが、騎士は深い怪我でしたから、治った後も少し腕に違和感がある者もいました。あの時は焦りましたね。」
「ええ…貴族を襲ったんですか?それは…。」
「はは、今は笑い話ですよ。
彼女が起きた時、朦朧としていたところに装備をそろえた者が現れて、冷静に判断できず戦った気がすると言いまして。歳も若そうだというのに訓練された騎士三人を倒せる実力もある。何か事情があるのではと思って連れ帰ったんですよ。
それからしばらく、私が常識に着いて指導をしつつ、私はイングリッド様の戦い方を学ぶことにしたのです。」
今日知ったイングリッドの像と事前に集めていた情報では随分と違った。献身的で冷静な猛者と聞いていたから、今日目の前にいた子供のような意固地で負けず嫌いな人物とは随分と乖離している。
ふとバティンポリスでのことを思い出した。クロムはその気は無かったが町の人々から見ればクロムは使徒の危機を救い出し、都市を守り、初めて迷宮を踏破した英雄のように扱われていた。それはクロム自身が望んだ扱いではないし、偶然やクロムがしてきたことの積み重ねでそう見えただけだ。
イングリッドは確かにクロムが見てきた猛者の中でも指折りだ。討伐の依頼を出す前に魔獣を殺して回るのは人々からすれば献身的に見えるかもしれない。毒を吐くのも隠し立てしないようにも見えるし、今のようなさまも実力を疑わず自信にあふれ高潔なようにも見えるのかもしれない。