106.
二人で話してみればクレスは真っ直ぐな男だった。わかりやすく喜怒哀楽を伝え、クロムの問いにも正直に答えた。クロムの知らない迷宮のことを知ることができたし、現在の帝国南部を取り巻く状況も少しだけ知れた。
シラー帝国南部はそもそも帝国の庇護下になくても十分独立できる土地である。それでも帝国の一部として組み込まれているのは現ナルバ領主レンビスと皇帝アンドレアスの間で重大な契約があったからだ。それがどのような契約かは両者しか知らない。
レンビスはおとなしくアンドレアスに従っているが、元々レンビスを擁立していた貴族たちの殆どは、本心では帝国からの独立を望んでいる。最近は特にその気運が高まっていて、有力な貴族家が奏上に来るのだという。
無論クロムは貴族のいざこざに巻き込まれないようにするために、興味ないと言ってその話題を避け、魔獣や南部の料理の話を振った。二、三度そのやり取りをすればクレスもその話題を避けたがることはわかったようで、短い詫びをしてからすぐに貴族の話題を止めて美食の話題や野獣や魔獣の動向の話を多く振るようになった。
ここ十数年は魔獣や野獣の大量発生は無かったが、近ごろはその予兆があると学者たちが言っている。クレスもイングリッドに着いて南部の各所に足を延ばして野獣や魔獣を討伐しており、手の届かないところは探索者を雇って山狩りや討伐を繰り返しているのだが、この数か月ほどは発生数が例年よりも増えているという。
獣たちの動向はクロムにも覚えがあった。〈霊峰山脈の悪夢〉が現れた時、〈霊峰山脈の悪夢〉から逃げるように人里に下りてきていた。それに似た行動だと思ったのだが、この動きは南部各所で起きているという一点が異なった。
(…まさか、各所で強力な魔獣でも出たのか?そんなことがあるのか?)
「…ときに、クロム殿。冬にバティンポリスで騒動があったことはご存じですか。」
「ああ。」
「ここだけの話、あの騒動の背後では神殿と対立する組織が関わっていました。
強力な魔獣を魔術で呼び寄せ、暴れさせたのだとか。」
クロムはその渦中にいたから、伝聞で聞くよりも詳しく知っている。しかし今南部の話をしているのに、なぜ突然バティンポリスの話が出てくるかわからなかった。
クレスは小声で〈風〉の魔術を唱えると、クロムの耳元にクレスの声が届いた。同時にクロムの耳元と口元にかすかに風を感じた。
「〈盤割の鎚〉という連中だそうです。帝国のみならず各地に拠点があり、強力な戦士や術士までもが所属しているのだとか。」
「…知っている。そうらしいな。」
「ああ、やはり海神の使徒の護衛というのはクロム殿だったのですね。黒髪の男だったと報告で聞いていたので、今日貴殿を見てもしやと思ったのですよ。
我々は今この地で起きている魔獣や野獣の発生は、その連中が関わっているのではないかと考えています。
その時はクロム殿、貴殿にもお力添えを願えませんか。一人でも戦力が欲しいのです。」
クレスの声こそ潜められているが、態度までは周囲の目を誤魔化すことができない。真っ直ぐにクロムを見つめて小さく頭を俯かせるだけにとどまったが、頭を下げたのだとわかった。
以前ランカを襲った敵と対峙したとき、確かに大規模な集団だと話をされた覚えがあった。その後も何かと騒ぎを起こしたのもその連中だ。クロムからすれば〈盤割の鎚〉は海神の使徒ランカを襲撃し、ドレークを嵌め、アゼルを殺したバティンポリスを荒らした到底許せない敵であった。
「…そいつらとは少し因縁がある。奴らが関わっているとわかったら教えてくれ。」
「なんとも頼もしい。勿論です。」
「それと、あいつらは変な魔術を仕込んだ魔道具を市井に流す。人の心を操る魔術が使われているそうだ。そういうものが無いか、よく探してくれ。」
「魔道具?ふむ、そんな手口が。わかりました、探させましょう。
申し訳ないですが、この後適当に話を合わせていただきたい。」
「うん?わかった。」
耳元に感じていた振動は消えて、再び周囲の音が良く聞こえるようになった。クレスは何事もなかったかのように振舞いながら、今度は周りに聞かせるように笑いながら話を始めた。
「まあ、イングリッド様や僕の武功がその周辺の平定に繋がるなら本望ですがね。たまにはのんびりとヤマノユで休みたいものです。」
「どこだ?」
「南部でも大きな温泉地ですよ。霊峰山脈のふもとにあるため、そのままヤマノユと名付けられたそうです。」
「そこに旨いものはあるのか?」
「ええ。あのあたりは養鶏が盛んですから、卵が手に入りやすいんです。一風呂浴びている間に卵を温泉に沈めておくと、柔らかい茹で卵ができるんです。塩を少し振ると滋味深くなるので、ヤマノユに行かれたときは是非お試しあれ。」
「へえ。山脈の麓なら、ここから西のほうにあるのか?」
「ええ。十日に一度ほど馬車が出ていますよ。四日ほどで着きます。もしやクロム殿も興味がおありですか。」
「…いや。」
「おお、なら近いうちに…三日後などどうです?ここしばらくは働き詰めで、漸くひと段落したのです。僕もイングリッド様と向かう予定だったのですよ。
それにクロム殿とは交友を深めたい。…依頼したいこともありますから。」
「おい待て。」
「ではまた後日。その時は先触れを出します故、都市内にいていただければ。」
「あ、ああ。」
周りからはクレスとクロムが友誼を深めたかのように見えていた。長々と戦いを語り、互いの戦いぶりを認め、合間の享楽として食について語っているように見えていた。時期領主と目されるクレスと対等に話すことのできるクロムという探索者は、権力者から十分に価値のある者だと、周囲からは認められたのだ。
クレスが離れてからすぐ、周囲にいた者たちがクロムと縁を繋ぐべく寄ってきた。口々に話しかけられ混乱していたクロムの下に料理を山のように取って戻ってきたリュドミラが居なければ、口車に乗せられてとんでもない口約束をされていたところだった。
リュドミラは元貴族としての能力をすぐさま駆使してクロムに不利になるような交渉はすべて断り、どのようなものでも依頼は探索者協会を通すように釘を刺した。これでクロムとリュドミラが束縛されるようなことはなく、あるいは将来的に探索者協会を通して依頼をするかもしれないという小さな口約束くらいのもので収まった。その様子を見ながら、クロムはリュドミラを労わらなければと思っていたこともあり、クレスの厚意でヤマノユに向かうことが悪いと思わなかった。
それからは大きな出来事もなく、腹がくちくなるまで食べ、合間に数人の職人や剣士と会話をしたくらいで宴会は御開きとなった。
「クロム、本当によかったの?使徒様や貴族とは関わらないようにしたいって言ってたじゃない。」
「…少し面倒に思っていたが、気が付いたらなあ。
それに、アスタロト迷宮に挑んでいる間、リュードはずっと魔道具を手入れしたり作ったり、魔術の練習に剣の練習もしていてあまり休めていなかっただろう。一区切りついたし、少し休みを入れるのもいいかと思ってな。」
「ランカちゃんのときもそうだったけど、クロムは仲間に甘いね…悪いとは思わないけど。
…あ、もしかして食べ物に釣られたとかじゃないよね。」
「……ああ。」
「まあいいや、そういうことなら久しぶりに戦いとか魔術とか忘れて、のんびり休もう。そういう時間も必要だよね。」
リュドミラも何かは納得したようで、帰り道は何も言わず機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら歩いていた。