103.
アスタロト迷宮最奥、二十九層。巨大な竜の魔獣の尾の薙ぎ払いと共に放たれた幾つもの魔術に、四重に重ねられた〈結界〉が激しい音と共に割れながらもクロムを守り切った。クロムが跳躍しながら魔獣の頭目掛けて〈夜叉の太刀〉を振り下ろす。
「グオオオオォォォ!」
「おおおおおおおっ!」
乾坤一擲、クロムのすべてを乗せた一撃が竜型の魔獣へと入る。〈剛力〉を二重に掛け、その上でリュドミラの〈力〉を重ねた一撃は魔獣を真っ二つに叩き割り、巨大な血渋木と共に決着がついた。
「―――ッハア、ハア、ぐぅ…すまん、担いでくれ。」
「も、勿論だけど。ちょっと待って。」
竜と呼ばれる蜥蜴のような魔獣を叩き切ったクロムは力尽きたように地へと倒れ伏した。巨躯から繰り出される質量攻撃に加えて、強力な〈火〉と〈水〉を操る魔獣だった。半端な物理攻撃や魔術攻撃が通じない非常に硬い鱗と筋線維を断つには〈剛力〉を二度も重ね掛けするという切り札に加えてリュドミラから〈力〉を掛けてもらうしかないと判断し、クロムが持てるすべてを以て攻撃した。全てを擲つような一撃は一つ間違えれば死にかねなかったが結果としてアスタロト迷宮を踏破が叶った。
倒れ伏した竜の魔獣は姿を消し、一対の脛当てへと変化した。迷宮ではまれに倒した魔獣が迷宮品という特殊な効果を持つ道具へと変わる、書き変わりという現象が起きる。稀少主という極稀に現れる魔獣や最奥層の魔獣との戦いで得られるような迷宮品は特別強力なものがある。
クロムは今、〈デートルイースの鎚〉という迷宮品を探している。これはクロムの過去にも関することのようで、この迷宮品を手に入れるよう反逆と薄明の神ラピアから伝えられたのだ。ラピアとはバティン迷宮以来会えていないが、またどこかで会えると楽観的に考えている。
「竜の魔獣の素材、欲しかったなあ。一匹分あれば全身丈夫な革素材なんか夢じゃなかったのに。
しかし苦戦した割に普通の防具…かな?私も〈鑑定〉覚えようかな。でもあれ凄い難しいんだよなあ。」
「……リュード、まずは地上に。」
「ごめんごめん。よいしょっと。〈階層〉〈転移〉」
リュドミラは周囲に散らばった装備や〈夜叉の太刀〉、〈白輝蜈蚣の外套〉を回収した。他に何も落としていないことを確認した後で、クロム担いで地上へと戻った。
地上はもう夕方になっており、迷宮の入り口となる洞窟の前は都市ナルバへ帰る探索者と稼ぎ時とばかりに御者で溢れていた。リュドミラは何とかクロムを支えながら適当な御者を捕まえ、ナルバまで乗せてもらう契約を取った。
「お、おう。いいが、その兄ちゃんは大丈夫なのかい?」
「多分、すぐは…。早く休ませてあげたいんですよ。」
「毒か?」
「いえ、疲労ですよ。マナを使いすぎて倒れているんです。」
「ああ、中毒。そりゃ…大変だな。すぐ帰ろう。」
御者は気の毒そうにクロムを見つめながら、肩を貸して馬車へと乗せた。背後からは後から出てきた探索者が大声を張り上げた。
「め、迷宮が攻略されたぞー!」
「ナニィ!どいつだ、誰がやった!?まさかお前らか!?」
「いや、俺たちじゃねえ。今日は二十四層を周回してたんだ。」
「そ、そうか。じゃあ一体、誰が。」
いったい誰が、と騒ぐ探索者たちはその場で集まって迷宮を攻略した者を探していた。
御者はちらりとリュドミラたちを見て、たった二人であの迷宮を攻略できるはずが無いと思い馬を進ませた。
探索者たちの探し人は興奮と混乱を尻目にナルバへと一足先に帰っていった。
クロムが目を覚ましたのはそれから四日後である。
―――
木剣を振る。空を裂く。剣先はぶれながらも止まり、誰もいない深夜の稽古場に舌打ちが一つ響いた。
少しの間だらりと腕を下げて休んでから、黒い男は再び木剣を上げる。しかし振り下ろすことなく時間だけが過ぎた。振り下ろすのを躊躇っているのか、それとも何かが目の前に現れるのを待っているのか。
カランと音がして、稽古上の戸が開いた。現れたのはクロムのよく知る男をそのまま若くしたような男だ。
「精が出るね。少ないけど水と御夜食だよ。」
「……コクマー。俺に構わなくていい。」
「言葉遣い。まあ、いいんだけどね。」
男は剣を下ろしてコクマーの下へと寄り、水を受け取る。一息に水を飲み込み、長い息を吐いた。パンに小さな肉と野菜を挟んだものを受け取り、ばりばりと食べた。短い食事の様子を見ながら、コクマーは困った様に男へ尋ねた。
「何か迷っているのかな?」
「…さあ。誰かに話すことではない。」
「ふふ、悩みごとだね。悩むということは真剣に考えている証左だ。」
「……どうなんだろうな。」
「ひとつ立ち合いをお願いしようかな。少し体を動かしてから寝たいんだ。」
コクマーは立ち上がると木剣を中段に構え、男が立ち上がるのを待った。男は静かに立ち上がると、木剣を緩く握り自然体で向き合う。
「いいのかい?そのままだと今日は僕が勝つよ。」
「勝ってから言え。」
二人の間にわずかな時間火花が散り、コクマーが動いた。コクマーの狙いは男の右手、持っている剣だ。負けを認める、急所に剣を受ける、剣を落とす、剣が折れる等した時点で勝敗が決まると事前に取り決めがあった。コクマーは腕力も瞬発力も持久力もクロムに劣る。唯一剣技は勝っているとはいえ、力尽くでねじ伏せられる程度の差だ。ならば技量を以て剣を落とさせることを狙ったのだ。
「〈鋼鉄〉」
コクマーの狙いは正確だった。男は魔術で手の甲を硬化して受け止めた。コクマーが驚いた顔をしながらも素早く次の狙いである首筋へと剣を走らせようとした。しかしそれよりも早くバンッと大きな音と共にコクマーの躰がクロムから離れた。男が左手で突き飛ばし、狙いを失った木剣はクロムの頭の上をかすった。コクマーは二歩ふらふらと後退りながらも体勢を立て直したが、その間に男は剣を左胸へと柔らかく当てられ、力が抜けたように尻餅を搗いた。
「はあ、また負けか。君との勝負はいつもこうだね。あっという間にけりが着いてしまう。」
「もっと強くなってから出直せ。」
「一体どうやって君を倒せばいいのかわからないよ。武神に見込まれたなんて言われている君にはさあ。」
「そんなもの気のせいだ。俺を倒したければ魔術でもなんでも使えばいいんだ。あんたはそっちのほうが得意だろう。」
「まあね。でも、剣の勝負なんだから。無粋じゃない?」
「…いつも思うが、その考えがわからん。魔獣相手にそんな甘い考えでは死ぬぞ。」
「はは。そうだね、でも君は人だからさ。」
男が差し出した手を取ってコクマーは立ち上がると、大きく伸びをしてから木剣を片付けに向かった。
「グラム。」
「なんだ。」
「僕は明後日、演習で魔獣退治に同行する。きっと生きて帰るから、その時はまた手合わせしてくれよ。君の悩みも解決するといいね。」
コクマーは最後にそれだけ伝えると稽古場を出て行った。男はその後姿を見送ってから、木剣を何度か雑に振り回した。最後に強烈な踏み込みと共に空を薙いで、木霊が消えるまで振りぬいた姿勢を崩さなかった。緩慢に木剣を下ろして、息を整えた。
「……俺は…ラピア神の話を信じるべきなのか?到底信じ難いが…わざわざ神が謀るのか?」
小さなつぶやきは誰かに聞かれることなく、静かに修練場の暗がりへ消えた。
―――
今では見慣れた宿の天井の模様を見ながら、クロムは重い体を起こした。思考がまとまらないまま周囲を見渡すと、そばには水差しが置いてあり、強烈な喉の渇きを覚えたクロムは椀に移すこともなく水差しから水を飲んだ。口元から垂れて布団に零れたが、すべて飲み終えたところで満足した。喉の渇きが解消されたら、今度は腹が減ってきた。ぐるぐると腹が鳴ったが、食べるものはそばには無い。
(…腹が減った。)
布団から立ち上がると、長い眠りから覚めたときと同じく足に上手く力が入らずふらふらとしながら宿の外へと向かおうとしたとき、リュドミラが部屋へと戻ってきた。
「あっ、起きたんだね!良かった。」
「リュード…腹が減った。」
「そりゃ三日も寝てればね。でも今日は粥とか果実水とかだけだよ。」
「肉が食いたい…。」
「何日も食べてないところでそれは体壊すから駄目。」
「む、う…」
ともあれ空腹が酷かったクロムはリュドミラに連れられてすっかり常連となった飯屋で粥を頼んだ。店主はクロムの姿を見るなり無事を喜び、肉がいいかと尋ねたが、すかさずリュドミラが粥を頼んだ。
「…もうなんでもいい。腹に入れられるものをくれ。」
「ははは。野菜汁と粥だな。すっかり尻に敷かれてるな。」
「尻に…?」
「もう!いいから、早めにお願いします!」
「お、おうよ。」
店主は厨房へと戻り、しばらくしてから粥と汁を二つずつ持ってきた。クロムはすぐにそれらを腹に流し込み、汁をもう一杯頼んだ。あまりに早い食べっぷりに店主は驚いていたが、また時間をおいて持ってきた。寝込んでいたクロムが早く食べすぎたために体調を気遣ったのだが、クロムとしては早く何かを食べたかったから、届いてからすぐに勢いよく飲み干した。
「もう、そんなに早く食べちゃ駄目だよ。」
「良いだろう、別に。どうせ今日はこれしか食えないんだろう。」
「勿論。明日から少しずつ食べられる量を増やすから。」
リュドミラが食べ終えるまでクロムは不服そうにしていたが、十日掛けて以前と同じ量を食べられるようになってから、日課となっている鍛錬のほかは屋台で買い食いばかりしていた。ナルバでの稼ぎは思いの外良く、バティンポリスでの稼ぎにはまだほとんど手を付けていないから金の心配はあまりしていなかった。