神々の疑心
シバメスタの住処は湖の畔にある小さな城である。ここにはかつて大量に湧き上がる蟻の魔獣が居た。神々が総出で討伐したものの、当時拠点だった場所とは随分と離れていた為に誰もこの土地を欲しがらなかった。しかしシバメスタはこの場所を気に入って住み着き、以来シバメスタはこの場所で生活していた。
ある夜分、波の音と風の音、木々の擦れる音に紛れて遠くに三つの足音がした。シバメスタはゆっくりと目を開け、側に立て掛けてあった錫杖を掴んだ。
「久方ぶりの客人…ですね。」
錫杖を地に打ち付けてしゃん、と鳴らす。すると暗い城内が明るくなり、光が伸びて遠くにいた来客たちまでを照らした。
(……キシニーにエノディナムス、そしてデトロダシキですか。
デトロダシキはまあ、いいでしょう。キシニーたちは腐れ縁で巻き込まれたのでしょうか?かわいそうに。)
やがて三柱はシバメスタの城へと辿り着いた。同時にシバメスタは門を開いて三柱を招き入れた。
「こんな遅くに悪いな。ちょっと聞きたいんだが、いいか?」
「ええ、答えられることならば。何を聞きたいのです?」
「古きもの共の呼び名を俺たちにあてがったのはお前か?」
エノディナムスとキシニーの表情を窺う。彼らは何も言わないが、シバメスタを警戒しているように腕を組んだり杖を握っていた。シバメスタは薄い笑みを浮かべたまま次の言葉を待った。湖から冷たい風が吹き抜けたが、四柱の間には凍り付くような雰囲気が漂っていた。それからすぐ、空気を笑い声が震わせた。シバメスタが笑っているのだ。
「ふふ、うふふ、ふふふふふふ!デトロダシキ、貴方、創作の神になるつもりですか?理論がなっていませんが、面白い発想ですよ。」
「いや、大真面目だ。他にこんなことをする神はいなかったからな。」
「ふふふ、ふむ?では、貴方の事ですし。…他の神々すべてに声をかけたとでも?」
「ああ。天上にいる神には片っ端から聞きまわった。その間に俺がそうだと思った。」
「それはそれは…酷い力業、ご苦労様でした。…それで?私が黒幕だ…とでも言いたいのでしょうか。
消去法としては正しいでしょうが…そう思うに至った根拠などは?」
シバメスタは否定も肯定もしない。むしろ自身が疑われて楽しんでいる様子だ。理解できないと三人は思ったが、すぐに切り替えて話を続けた。
「そりゃもう黒幕って認めてるぜ、シバメスタ。
ひとつ、このゲームに関しては天上世界の神々は皆がお前と契約している。参加者は地上世界に干渉しない、非参加者はゲームに手出ししない。細かいルールは幾つもあったが、大事なのはこの二つだろう?
変な名が流れていたのは全員、このゲームの参加者だ。」
「…ええ。殆どの神とはそのような契約を結んでいますよ。しかし異名が流れているというのは知りませんでしたね。」
「あんたの契約に縛られねえ神は三種類。
地上世にいて契約を結んでいない、追放された神。あるいは風神や賭博神のように所在不定か、更なる異界に渡った神。…アリヒみたいに死んだ神はこの場じゃ関係ねえしな。
…それから、契約を結ぶ必要が無い神にも契約を持ちかけたのもお前だった。」
「…ほう。ラコンティンフィオあたりの悪ふざけの線などは?」
「無いね。ラコンはあれでいて噂や情報には厳しいんだ。真実の含まれる噂は大いに流すくせに、そういうことはしねえの。
だから、神のうちにそういうことをするのは別の奴さ。」
「美しい信頼ですね。そのついでに私の事は信頼してくださらない?」
「いや、俺はそう疑ってんだ。信じろってのは無理だろ。」
困った様にシバメスタは頬を描きながら、少し唸った後でデトロダシキへと問いかけた。
「そうですか。それで、私は何をすればいいのですか?
仮に私が黒幕として、私を咎めるつもり出来ているのでしょう?」
「あんたが犯人ならだがな。あんたじゃ戦いで俺には勝てねえ。想定外の事が起きてもいいように、俺に並ぶのも二柱も付けた。
さあ教えてくれ、お前の目的を…っ!」
デトロダシキは腰に佩いていた剣を抜き―――急激に力が抜け、剣先を床へと落としかけた。思わず四本の腕で剣を支えて構え直す。
「貴方たちは私に手出しをできないんですよ。今すぐお帰りなさい。そうすれば今回の非礼は目を瞑りましょう。」
「……正体現したな?目的はなんだ?」
デトロダシキの剣先は定まらずにいたが、シバメスタとの距離はわずか十歩程。一度振りぬくだけならば十分な力を出せるはずだと踏んでいた。
「ふふ、正体?いいですか、やったことは証明出来ても、やっていないことを証明するのは殆ど不可能なのですよ。故に私は否定しますが、証拠となる証言はできません。
古きもの共に与したなどと思われても心外ですが、しかし証明できませんからね。どうしましょうか。」
「なーにがやってねえだ。どうにもお前は煙に巻こうとしているようにしか思えねえ。」
「それは…謂わば直感でしょうか?」
「ああ、そうだな。」
「論理的ではない。だと言うのに鋭いとは嫌になる。」
小さく悪態を吐いたシバメスタの言葉を目ざとく拾い、デトロダシキは床を蹴って一息に距離を詰めた。颯が駆け抜け、キシニーが幾つもの魔術を飛ばした。次の瞬間濃霧が漂い、デトロダシキの姿を失わせた。エノディナムスも槍を構え、キシニーを守る体勢に入った。
シバメスタは戦いに慣れた神ではない。この場を切り抜けるには弁舌による証明しかなかったはずだが、それを放棄したということは策があるのだろうと二柱は思った。
キシニーが〈風〉の魔術を使い濃霧を払った。そして二柱は信じがたい光景を目にした。
「なっ…」
「デトロダシキ!」
二柱の見たものは倒れ伏したデトロダシキの躰、そして余裕の笑みを浮かべて悠然と立ったシバメスタだった。
「はあ。野蛮ですね。もっと強力な契約で縛るべきでした。」
「……貴様!やはり!」
「否定はしませんが、すべては私たちのためなのです。まあ…あなた方を生かしておく理由もないですし、死んでください。」
杖をエノディナムスへと向けたシバメスタが呪文を発する前に、キシニーが幾つかの魔術を放った。矢のように迫る魔術に、シバメスタは軽く身を引いて回避した。デトロダシキから距離を取ったことを確認して、更に魔術を紡ぐ。
「〈木〉〈束縛〉〈追尾〉〈土〉」
「おやおや。」
操られた木や土によって壁ができ、網ようにシバメスタの逃げ道を塞ぎ、あっという間にシバメスタを包んだ。エノディナムスが素早くデトロダシキを抱えて離脱し、キシニーは必殺の魔術を唱える。
「〈存在抹消〉」
光球がシバメスタを飲み込んだ。〈存在抹消〉はその名の通り、以後の未来に痕跡ひとつ残さず消し去る魔術だ。光球が失せて砂煙が晴れるまでキシニーは気を抜かなかったのだが、砂煙が落ち着いたとき思わず目を見開いた。
「――――――〈存在抹消〉まで使うなんて。殺す気ですか?」
「なっ…!一体どうやって…?」
「さて、どうやったでしょうね。外したんじゃないでしょうか?それとも貴方の魔術に守られたんでしょうね?」
「馬鹿な…」
「キシニー!撤退するぞ!」
「どこへ逃げるつもりですか?」
シバメスタがおかしそうに笑い、来た道を戻ろうとした二柱に動揺が走った。入ってきたはずの出口が無い。まっすぐに進んだ廊下だったこの場所が、いつの間にか背後に壁があった。通り道はシバメスタの背後だけだ。
エノディナムスが両足にマナを集中させて壁を蹴りつける。ただの壁であれば破壊できるのだが、この壁は衝撃は伝わったはずだがびくともしなかった。
「正直、ここで投降してくれるなら貴方方を殺す気はありません。またいずれ古きもののような者たちが出た時の保険に置いておきたいのと、他の神々から私が危険視されても困るでしょう?ですから、貴方方にはまだ生きてもらわないと。
それとも逃げますか?〈転移〉もまともにできない貴方が。」
「クソっ…いつまでも成長が無いと思うなよ。〈転移〉!」
キシニーがそう唱えた直後、三柱の姿が消えた。〈転移〉は任意の場所に移動するための魔術だ。転移した先はキシニーの住まう離島のひとつだったが、その場所をシバメスタは知らない―――とキシニーは思っていた。
「ふふ、ふふふ。逃げるなら殺してしまいましょう。〈遠視〉〈観測〉〈追尾〉」
暫く宙を見つめていたシバメスタは、やがて口角を上げて呟いた。
「………見つけた。」
―――
「―――っ!成功したな!」
実のところ〈転移〉はキシニーが苦手とする魔術のひとつだ。移動距離が離れるほど失敗しやすくなるために、いつでもどこでも使えるわけではないが今回は運良く最も離れた島へと転移できた。
「…ああ。エノ、デトロは?」
聞くまでもなくエノディナムスは手早く処置を始めていたが、デトロダシキは苦悶の表情を浮かべたまま意識を失ったままだ。普段の元気で気楽な姿からかけ離れた様子に思わず二柱は顔をしかめた。
「…一応無事ではある。血も一時的に止めた。だが早くまともな治療をしないと死にかねん。」
「そうか。一応ここで誤魔化しておこう。…〈結界〉〈幻影〉〈気配〉。
更に近くの島に飛ぶ、そこで〈回復〉を掛けよう。〈転移〉」
四里離れた島に転移してデトロダシキへ〈回復〉を施そうとした直後、巨大なマナの塊が迫るのを感じた。振り向いた瞬間、先ほどまでいた島が爆発するかのように巻き上がり掻き消えた。紛れもなく〈存在抹消〉の魔術が使われたときの現象だ。島に残した全ての魔術も今の一撃で消滅しただろう。
「…っ!」
「しっ…潜めて。
……シバメスタめ、〈存在抹消〉も使えるのか。あいつが今まで戦わなかった理由がわからないな。」
「ここはシバメスタの城とどれ程離れている?」
「…地上の西大陸と東大陸くらいは離れているはずだ。」
「…あれほど強大な魔術を、その距離に狙って飛ばせるとは。キシニーならできるか?」
「無理。…これじゃ攻撃魔術の頂点なんて呼ばれ方は浮名になってしまうね。」
暫く二人は身を潜めていたが、続く攻撃は無かった。もし〈回復〉を使っていたら補足されていた可能性があると気付いて背筋に冷たいものが伝った。
「…デトロダシキには悪いが、魔術による治療はしばらく諦めてもらおう。」
「そうだね。でもこれはチャンスだ。あんなにあっさり正体を現すなんて、シバメスタは油断してるよ。」
「ああ。だが、これではニタやイリアとは連絡が取れんだろうな。恐らく張っているぞ。」
「でも、戻らなかったら俺たちが裏切り者扱いになるだろうね。」
「む…やはり斬り殺すしか。」
「ある意味チャンスでもある。今の攻撃で俺たちを殺したと思っているなら、俺たちは自由に動ける。最悪、真実の証明は…ラコンに頼むか。」
「…仕方あるまい。奴が動いてくれるかどうか…。」
「まあ、そうだな。だがまずは…デトロが起きるまで待とう。
…成り行きとはいえ、とんでもないことになってしまったね。」
「…うむ。だが一撃でデトロダシキを倒し、キシニーの魔術をいなし、とんでもない距離と精度の〈存在抹消〉など…一体どうやっているのだ?」
「わからないよ、そんなの。だが、そういうことができるとわかったのは収穫かもね。」
「余計に倒し方がわからん。
…正直、デトロダシキが倒されるまではどう動いても倒せると思っていた。それほどまでに隙だらけの立ち姿だった。
しかも、魔術の撃ち合いでお前が負けるなどありえないとも思っていた。」
「そりゃあどうも、でも撃ち合いにすらなってなかった。こっちが仕掛けてたはずなのに、一切通用してなかった。」
二柱は初めての敗走に戸惑いながらも、シバメスタは黒だと断定した。
シバメスタは遥か古来から争いを好まず、中立に立って物事を進めることを良しとしていたはずの神だ。そもそもあのような力がもとからあるならば、アリヒやデートルイースがいた三千年前でも天上世界を手の内に納めることだってできたはずなのだ。それをしなかったということは既にこの世を去ったアリヒらの影響力を受けなくなったことで心変わりをしたか、あるいは虎視眈々と契約神、秘密神としての役割に徹していたかのどちらかだろう。
「だが天上世界を獲ったところで何になるというのだ?
この次元とて所詮は数あるうちのひとつ。これから更に異界に殴り込みをしようとでもいうのか?」
「…まあ、エノのそれが間違ってないと言い切れないのが困るところだね。」
「…割に合わんだろう?我々は知っているはずだ。」
「俺もそう思うよ。ハア、困ったね。」
「ウッ…」
うめき声と共にデトロダシキが跳ね起き、慌てた様子で周囲を警戒した。敵がいないとわかるや、急に痛みを感じたかのように傷口を抑えて悶絶した。
「いっで!いててて。」
「あーあー…落ち着けって。ちょっと今は〈回復〉かけてやれねえんだ。自然治癒を待ってくれ。」
「な、なんでだよ。」
「シバメスタに補足されたら何もできずに死ぬぞ。」
「つつつつ…そ、そうだ、シバメスタ!あいつ、とんでもなく強いぞ!」
「知っている。だが、詳しく聞かせてくれ。」
「あ、ああ。
あの時、俺が霧の中に突っ込んだだろ。あの時、シバメスタと二人きりに空間に落とされてな。」
「うむ。」
「…ちゃんと数えていないが、三百回は殺したはずなんだ。」
「…不死ということか?それとも幻でも見たか?いや待て、あの短い時間でか?」
「短い?何言ってんだ、滅茶苦茶長い間戦ってたんだぞ。
それで、最初の数十回はあっさり殺せた。だが、百回目くらいから俺の技を真似るようになった。二百回目くらいには俺と互角になって、最終的に俺の奥の手を出した。」
「何?あの蜈蚣を葬った時のあれか?」
「ああ。それは知っていたかのように跳ねのけられて、気が付いたらまた濃霧の中にいた。それからすぐ一撃を貰っちまって…な。」
デトロダシキの説明はいまいち要領を得ない。キシニーたちからすれば僅か数舜のやり取りだったはずだ。しかし彼が嘘を言ったとはこれまでなく、これもまた彼なりの真実なのだと理解した。つまり、シバメスタはデトロダシキを修行相手にして大層な強化を施してしまったということだろうか、とエノディナムスは考えて頭を抱えた。一度殺すだけならばどうとでもなるが、何百回と殺さなければならぬのならいつかこちらの技が尽きてしまう。
キシニーは時間感覚の大きなずれに心当たりがあった。〈無間奈落〉という封印する空間を作る魔術がある。これはアリヒとデートルイースが開発した魔術で、この二柱を除いて術理を知る者はいなかったはずだ。キシニーすらその名と効果だけを知っているくらいだ。
本来抜け出すのは術者を倒した時か、魔術を上回った時だ。倒されたデトロダシキが出てきたということは〈無間奈落〉ではないか、あるいは未完成ということなのだが、別の魔術については見当が付かなかった。
「…いやー、考えれば考えるほど倒すのなんか無理だろ、これ。
古きものと俺たちの名前の事を知りたかっただけだったのにな。」
キシニーのぼやきにデトロダシキはバツの悪そうな顔をして、二柱へと頭を下げた。
「…俺のせいですまねえ、巻き込んじまった。」
「いや、奴に聞くことを提案したのはそもそもこの俺だ。
それにデトロダシキよ、お前が我々を騒動に巻き込むのは今更。我々の仲だろう。」
「確かに。久しぶりに組むね。エノとデトロが前衛。俺が後衛で司令塔。この布陣で、どれ程強大だとしても勝てない相手はいなかった。」
「流石荒神、強がりだな。頼もしいぜ。」
「ふふ。でも、まだ心許無い。ヴェタとリベリアスもこちらへ付けるべきだ。」
「あいつらか。味方にしても心許無いぞ?」
ヴェタは賭け事の神、分の悪い賭けが好きなおかしな神ではある。そのような性根のヴェタを巻き込んで運を味方にしたい。リベリアスは風と旅の神であり天上地上をふらふらする自由な神であるが、彼は何の敵にもならず、同時に味方にもならない。もしシバメルタがリベリアスに何かしようとも、不信感を覚えてくれれば、有利に転がるかもしれないと、そんな打算があった。
三柱は皆、ラピアやステイルメティスも味方につけられればと思っていたが、地上に落とされた彼らを見つけることは困難だと思って言葉にはしなかった。
「所在のわからん奴が多すぎるな。」
「…ああ。」
シバメスタを倒すには課題が多い。もしかしたらまだ隠している手の内もあるかもしれない。しかし早急に動かねばならないことだけは明白だ。迂闊に神々の前へ出るのは憚られた。既にシバメスタは神々から信頼を勝ち得ている。もしかしたら既に天上世界中に彼らが離反したと伝わっているかもしれない。多数の神々の前に現れることは憚られた。
他に助けを求められる神はいたかと三柱は思考を巡らせているうちに、デトロダシキが呻くように言った。
「あとは…屈辱に思うかもしれんが、人間に助けを求めよう。シバメスタに対抗できそうなホネのあるヤツがいる。」
「なに?俺たちと肩を並べるなど、無理だ。生き物としての格がそもそも違う。」
「…いや。あいつならできると思っている。」
「だが、お前の使徒はもう死んでいるのだろう?」
「ああ。だが、いるんだ。俺の使徒を下した奴。そして、シバメスタを倒すための隠し弾として…あの男が最高の切り札だと俺は言える。」
「へえ。今、その男はどこにいるんだい?」
「その男の名は?俺の使徒を接触させよう。人間ならば二人もの使徒から頼られれば、嫌とも言わんだろう。」
自分たちに劣る生き物を頼らねばならないというのに、彼らは快く協力を申し出た。何としてでもシバメスタを討つという二柱の覚悟を見てから一つ頷いて、その男を。
「…本来なら俺が使徒にしたかった男だ。
場所は…西大陸西側南部。前の帝国の首都だ。」