ex-3
ディンは時折、これまでの人生を振り返るような夢を見る。
まだ幼い頃、魔術の研究者だった父に見せてもらった数々の魔術。単純なものから、複雑そうなものまで千差万別であったが、しかし実際に魔術を知ってからは意外にも魔術というものの種類が少なかったことの落胆。そして魔術をもっと解き明かしたいと夢を語った父の笑顔。使い方でこれだけできる、しかしきっと魔術はこれだけじゃない。そう思わせるだけの説得力を感じた。
ディンの実家は代々続く学者の系譜だった。二十年前に現在のシラー帝国が樹立したとき、旧派と呼ばれていた父とその仲間たちは最後まで反発してしまい、処刑された。その際にディンの母はディンを生かすために貴重な資料をすべて売り払い、ディンと自身を守った。
この時幼かったディンは自分から父を奪った帝国に憎しみを覚えていたが、十四の頃、母が死ぬ間際にディンへと渡した父の形見だった日記帳を読んで父が帝国に反発していた理由を知った。
父等は元々学術機関の養成に携わるように打診を受けていたが、それが思いの外良い条件だったようだ。研究の自由も書面で保証されていたようだ。父等の反発心の正体は、つまりは猜疑心からのこじつけであったのだと、後から当時の手記を読んで冷静に考えなかった父に大いに落胆した。事実、帝国がまとまってから父等へ申し出ていた約束の通り学術機関を幾つも作り上げた。父が疑っていたことはすべて杞憂だったのだ。作られた機関のうちの一つにはセンドラー魔導学院もあった。
天涯孤独になってからすぐ、センドラー魔導学院へと入学した。皇帝が直々に集めた魔術の研究者や術士たちが多く教鞭を執るこの場所はすぐにディンを魅了した。それから十年余り、学生としてディンは父親の跡を継ぐかのように研究に没した。すぐに修了し、そのまま教員として働くようになり、しかし魔術は優秀でも人格に難が強かった。教鞭に向いていないと解雇されかけたが、反面で研究者として手放すには惜しいとも思われていたから、教授という役職を与えられた。魔術の研究を行い、研究に興味を持った学生を部下にして研究の傍ら育成をする役目だ。
ディンの研究は華々しいものはないから、若い学生たちからは殆ど見向きされなかった。悪いことにディンの人見知りはこの頃は更に強烈で、誰かが来ても喋ることはなく、黙々と研究室で魔術の研究に明け暮れた。興味を持って来訪した何人の学生もすぐに愛想を尽かして別の教授の下へと向かった。
静かに研究に没頭できたために、論文は簡易なものであれば二十数本は書いたし、戦争における魔術の活用と題した理論も二本ほど書いた。一方で基礎的な魔術の研究を進めて、強力な魔術のいくつかは実は〈火〉や〈水〉といった魔術にマナをひたすら飽和させた強力な魔術と提唱した。実際のところ基本的な魔術にマナを飽和させるだけで発動呪文は〈火〉などの基礎的な魔術でも〈業火〉同様の魔術となることを証明した。
ディンの研究はある種革新的なものであったが、同時に強力な魔術を使える権威からはあまりよく思われなかった。何度も繰り返し修行し使えるようになった強力な魔術が、実際は基礎的な魔術と変わらない発動呪文で同規模の現象が起きるなど考えたくなかったのだ。この論理は未だに認められていないし、ディンもあまり声高に提唱するつもりはなかった。声高に物事を言うことが苦手ということもあるが、何よりこの研究結果はディン自身で父の夢を砕くことになったからだ。
夢から覚めれば現実の問題を思い出す。ディンはクロムと出会ってから少しだけ他人との交流が増えた。だが同時にこれまでディンの人柄が近寄りがたいと思っていた者も集まってくるようになった。ディンが元々わかりやすい講義をしていたことに加えて、昨年次席となったリュドミラが在籍したこともあり、多くの人が集まってきた。リュドミラは貴族であることを鼻に掛けず、常に明るく振舞っていたから多くの学徒から好かれていたから、大いに興味を持たれたようである。
人当たりが多少改善されたところで、ディン自身の気質が急によくなるわけではない。ディンは机に積まれた、ディンの研究室へと所属したいという大量の願書に頭を悩ませていた。
教員としては嬉しい悲鳴であるが、しかしディンではそうはならない。慣れた相手以外の人付き合いは未だに苦手なのだから、教導する立場というのはディンにとっては致命的に向いていない職であった。
(…はあ。ぼくもリュードくんみたいに旅に出ればよかったかな。いや、ぼくだとすぐに死んじゃうかな、餓死とかで。)
死ぬときは魔獣に殺されるよりも餓死するほうが怖い。刃物でいきものを殺すよりも、得意な魔術で殺すほうがずっと怖い。道に迷うよりも、人の悪意に惑うほうが怖い。荒野で想像もできない死が訪れるよりも、帝国という存在に睨まれるほうが怖い。
帝都、いや研究室の外はディンが恐れるものが多い、あまりに多すぎる。〈霊峰山脈の悪夢〉を倒すと決めた時、ディンは心のうちではそれらの恐怖に打ち克ったものの、クロムがディンの側を離れてからは結局元通りである。最後の意地としてリュドミラに魔術の理論を叩き込んだが、リュドミラを送り出してからは生来の気弱さが戻ってしまった。
(変わったと思ったのはぼくだけか。クロムさんがいたから強くなったような気がしたのかもしれない。
…そうだ。勝手にしろと放り投げよう。)
ディンは起き抜けの回らない頭で願書すべてに仮了承の判を押した。積み上げた書類をすべて学院の庶務へと渡して研究室へと戻った。心の中に渦巻いていた懸念もすっきりと片付いた気がした。
翌日、教室へと向かうとディンの研究室への入室の許可を得られた学徒たちが押し掛けていた。実際の人の多さに怯んだものの、彼らは〈霊峰山脈の悪夢〉よりも圧倒的に弱いとそう思いながら言葉を発した。
「…さて。君たちにはこれから、課題を出します。」
学徒たちの前ではたどたどしく噛むような口調は出ず、さらりと思った言葉が話せた。
「〈霊峰山脈の悪夢〉は知っていますね?知らなければ出ていきなさい。知らなくともやる気があるなら残ってよろしい。」
五十人ほどいた学徒は誰も席を立たなかった。知っているか、やる気があるか。それとも、ディンを甘く見ているか。そういった機微はディンにはわからないが、続きを話すには十分な時間が経った。この人数を減らすのに丁度良い題材を思いついていたのだ。
「〈霊峰山脈の悪夢〉の発生地点と縄張りとしていた地域の予想、それから初めて探索者たちが遭遇して帰ってきた日時。〈霊峰山脈の悪夢〉に関する被害が帝都へ到達すると予想される日数。これらを報告書としてまとめなさい。
期限は一月、春節までとします。できた者はぼくに提出してください。」
学徒たちの間ではざわりと騒がしくなったが、ディンが咳払いすると静かになった。学徒の一人がおずおずと手を挙げているのを見て、ディンは発言を促した。
「はい。すみません、教授のおっしゃっている意味が解らないため、もう少し教えていただきたいのですが。」
「考えない者は学者に向いていません。わからなければ調べなさい。魔術、魔獣についての情報収集は基本です。」
「は、はい。すみません。」
「他には?」
「は、はい!研究室への入室許可ではなかったのですか!?」
「そんなものは出していません。判をよく見てください、仮承諾です。」
「えっあ…。」
「君はもう来なくてよろしい。ほかにも仮承諾と思っていなかった者は去ってください。」
誰も去ろうとしなかったため、ディンは溜息を吐いて諦めた。
探索者たちが遭遇した日と、発生地点はともかく縄張りは調べればすぐに予想が立てられる。これに関する書類はまだ出回っていないが、情報屋か探索者を当たればすぐにわかることだ。〈霊峰山脈の悪夢〉に関する被害が帝都へ到達すると予想される日数については、縄張りから逃げてきた他の魔獣の動向を調べれば予想はそれなりに付けられるだろう。
「この報告書で及第点を取れた者には承諾を出します。頑張って。」
ディンはそれだけ言うと、教室を出て研究室へと帰った。ばくばくと跳ねる心臓を抑えながら足早に去ったディンは気付かなかったが、教室は静かでこそあったがまさに阿鼻叫喚だった。〈霊峰山脈の悪夢〉の事を知らなかった者。知っていたが興味がなかった者。魔獣に興味はあったが〈霊峰山脈の悪夢〉を多少知っていた者。帝都に迫ることのなかった〈霊峰山脈の悪夢〉自身とその二次被害のことを果たして知っている者はどれだけいたか。
春節まで待ったところで、報告書を出せたのは半数以下しかいなかった。ディンは明確な回答を求めることはしていない。事実に基づいた考察がどこまでできるか、それをディンは問いたかったのだ。
このうち十五人は調べればわかる事実をまとめた報告書か、御世辞にも御粗末とも言えないほどの物を出してきたため、不可を突き付けた。
残る九人は多少の考察を添えた報告書を持ってきた。このうち四人はどこかで見た考察であった。はてと思って記憶を探るとすぐに思い出した。これはディンが探索者協会に出したものがそのまま使われていることを思い出した。報告の構成や内容も四人ともディンが出したものと同じであるから、当然不可とした。
二人は妄想の気が強く内容は事実に即していない。努力は認めたが、魔獣の動向についてあまりに過大評価、あるいは過小評価していたことを理由に不可とした。流石に魔獣は都市に近寄らないとか、十日で来るなどと言うのは了承できない。
残る三人は及第点と言って差し支えない。〈霊峰山脈の悪夢〉の発生地点と縄張りの予想はそれぞれ異なったものの、帝都までの到達時間については十五日から三十日と予想していた。おおよそディンの予想から大きく外れることはなかった。
想像以上に良い考察だったことで、三人には更に課題を課した。〈霊峰山脈の悪夢〉の特徴を教えて、どのように討伐するか聞いてみたのだ。一人は無理だと諦めたため、即座に不可とした。事実倒しているためにできないことはないのだ。何よりすぐ諦めたことがディンの癪に障った。
二人は熟考の末に答えを出した。ロイと名乗った学徒は強力な探索者たちに依頼し、前衛で動きを牽制しながら魔術で倒す戦術を、もう一人、ダリオと名乗った学徒は遠距離攻撃、近距離攻撃とも優れた騎士を起用して持久戦を挑むという内容だ。事実、彼らの言う通り騎士を引き連れ、探索者を雇って魔獣を討伐しているから、どちらも正解と成りうる。
更に何か課題を課そうかと思ったが、学院の総務から五十人以上いたのにすべて拒否するとは何事かとしこたま怒られ、研究室を取り上げられかけた。ディンは諦めて彼らを迎え入れることにした。
「ようこそ、ぼくの研究室へ。ここでは魔術の分類と体系化を専門に行っています。
君たちは自由に研究してください。わからなければぼくも考えます。ですが、考えず投げだすことをすれば即座にこの研究室から追い出されると思ってください。」
「はい!」
「勿論です!」
二人ともやる気は充分であった。何を研究するかについて聞けば、ロイは魔術の発動の仕方そのものに興味を持ち、ダリオは魔道具に刻まれる印にそれぞれ興味を持っていた。それはどちらもディンの興味のあることである。
彼らが帰った後、漸くディンは彼らを指導することに決めた。ディンにとって打算もあったが、気持ちとして大きな一歩であった。