ex-2
サイラス・スナージュは帝都より北へ四日ほどの位置にある都市ソロルの出で、その都市の貴族家のひとつであるスナージュ子爵家の次男にあたる。
ソロルは森林と幾つもの川が流れる小さな都市で、それを利用した産業で成っている。近くに迷宮はなく、また魔獣も出ないから戦いというものは獣退治くらいのものである。
そんな環境でサイラスが初めて剣を触るきっかけとなったのは五つの時、騎士物語を読んでからだった。腕が立ち、賢く、勇気と頼もしい仲間に恵まれた騎士に憧れた。
幸いにしてサイラスには勉強のできる兄のライナスがいたから、勉強よりも剣の腕を磨くことを許された。ライナスはサイラスの夢を喜び、魔術を教え込んだ。剣は父親の側近だった男から教わった。そうして順当に実力を伸ばした十六の頃、ライナスの紹介でオルドヴスト家の騎士隊に入隊した。
サイラスは今、入隊以来ぶりに実家の門の前に立ち尽くしていた。六年ぶりに帰ってきたソロスの街並みは相も変わらず素朴で静かだ。そして実家のあるはずの場所へと着いた時、そこにはサイラスの知らない屋敷と庭があった。かつては金属の柵があったはずだが、いつの間にか壁のように生えた木々が屋敷を隠していた。手入れがされていないわけではないはずだが、大きく変わった実家に驚いて立ち尽くした。よもや場所を間違えたかとも思ったが、そこまでサイラスの記憶力は悪くない。混乱している間に庭のほうから呼び声がした。
「もしかしてサイラスじゃないか?何年ぶりだい?六年くらいかな?」
サイラスと同じ髪色をした線の細い男。土いじりをしていたのか服は多少汚れていたが、そこにいたのは六年前と変わりない兄だった。
「兄上!」
「久しぶりだね!どうしたんだい、立ち尽くして。入りなさい、君の家でもあるんだから。」
「は、はい。しかし、実家は…その、随分と様変わりしましたね。」
「ああ、だいぶ襤褸になっていたし手狭になるだろうからね、これを機にと思って改築したんだ。」
「手狭?」
「今度結婚するんだ。」
「なん…ですと…?お相手は?」
「あれ、言わなかったかな。ハンナ・マーレイア嬢だよ。バティンポリスの神殿長の娘さん。」
サイラスはライナスから送られてきた手紙を思い返したが、そんな話は書いてなかったはずだ。そしてバティンポリスの神殿長とその一連の騒動の事はサイラスの耳にも届いていた。
「…確か、バティンポリスの神殿長であったアゼル様は行方知れずになったと聞いていますが。」
「うん。流石にセンドラーは情報の回りが早いね。
実は輿入れは来年を予定していたんだけど、そんなことがあって早まってしまってね。四日後にこっちに来るみたいだよ。」
「そ、そうでしたか。急ですが、おめでとうございます。
どのような方か窺っても?」
「ふふ、ありがとう。
僕より四つ下だったかな。それでえらい美人さんだったよ。少し人と関わるのが苦手みたいだけど魔術にも興味があるそうだから、僕としても都合がいいよ。」
ライナスは事業の傍ら魔術の研究者でもある。サイラスに魔術を教えたのもライナスで、そこが魔術研究の出発点だったようだ。成果はまだ無いが、楽しそうにしている兄の姿を見るのはサイラスとしてもうれしいことだった。
広間に着くまで暫く惚気話が続いたが、ひとしきり話し終えるとサイラスに話を促した。
「それで、何かあったのかい?態々こちらに来るような話があったかな?もしかしてサイラスも結納の話を?」
「いえ。そちらではないです。」
「なんだ。サイラスも二十二だし、そろそろいい頃じゃないか。お付き合いしている人の一人でも連れてきなさい。」
「父上や母上のようなことを言わないでください。
いやそうではなく、昇進しそうなんです。」
「おお!オルドヴスト家の騎士で昇進とは…詳しくはないが、小隊長とかかな?」
「いえ、騎士隊の隊長に就任しないかと話がありまして。」
ライナスは目を何度か瞬かせて大きく首を傾げた。はて、そんなに簡単になれるものなのかな、と言わんばかりの表情をしていた。或いは何をどう返せばいいかわからなかったのかもしれない。
「…俺はまだ実力不足だと思っていまして。」
「うん…うん?」
「少し強い魔獣一匹倒せない俺が、果たして務まるのかと。」
「少し強い…?なんていう魔獣だい?」
「〈霊峰山脈の悪夢〉と呼ばれていた奴です。十二人でかかって、漸く倒したんです。」
「確か、強い探索者集団が壊滅したとか聞いたな。え、あれと戦ったのか!?」
「はい。」
「そうか。サイラスたちが倒したんだね。こちらではそんなのが出たって噂程度にしか聞いていなかったよ。
しかしオルドヴスト家の騎士は人里から離れたところでも魔獣退治もするのかい?確かそういうのは神殿騎士がやると思っていたけど。」
「いえ、ある探索者から依頼がありまして…。」
サイラスはライナスに聞かれるまま〈霊峰山脈の悪夢〉と戦った経緯をつぶさに語った。
一通りを聞き終えてから、ライナスは更に首を傾げた。話の内容を咀嚼し、サイラスが何を言っているかわからないと、いよいよ頭を抱えて困惑した。
「…今の話を聞いていると、昔きみが憧れた騎士の話のように聞こえる。知勇に優れた騎士と仲間が共に難敵を倒す話だよね?
あ、まさかその中心にいなかったとか、そんな話じゃないよね?」
「違います。そんな虚栄は張りません。
ですから、俺以外にも強い者は沢山いて、俺じゃまだ何も足りないからどうしたものかという話で。」
「うーん?ますますわからない。
サイラス、きみは立派に戦った。君の前任にあたるトーランという方や、ラーダという探索者の死を間近で見て怖くなったのも理解できる。
でもサイラスはそれを乗り越えて強くなった。違うかい?」
「はい。冬前よりも大きく力を伸ばしたと自負しています。」
「ならば死が怖いこと、それ自体が君が躊躇する原因じゃないよね?」
「はい。だから、実力が…。」
ライナスは右手を翳してサイラスの言葉を止めてから、頭をぐるぐると回した。難問を解くとき、行き詰ったときに行うライナスの癖の一つだ。
「サイラス。君は本当に実力不足だと思っているのかい?」
「はい。腕力、魔力、適応力、それに指揮経験や実戦経験も足りず、それで上に立てるとは思えずにいます。」
「…それはね、強い者がより高みを目指そうとしたときの思考の病みたいなものだと思うよ
多分、足りないって言っているのはサイラスの中で一番強いと思っている人たちと比べているからじゃないかな。」
今度はサイラスが首を傾げた。サイラスからすると何でも劣っていると思っていたから、ライナスからそう言われると、そうかもしれないと思った。しかしすぐに考えを打ち消して口を開こうとした。
「指揮や仲間からの信頼なんかはこれから積み上げるしかない。
でもサイラスは魔術ができて剣術ができるから、とても強いことはもう誰もがわかっている。オルドヴスト家の序列というのは、嫌だからと言えるほど軽いものではないだろう。
何よりサイラスはまだ若いから、何をするにしてもこれからであることを忘れてはいけないよ。急性ではないかということなら、急でない話などそう無いよ。遅かれ早かれやることになるのなら、早いほうがいいだろう。」
「…そういうものなのでしょうか。」
「そういうものだよ。
それとも、もう少し先の話だと思ってたら数日前に突然結納することになった話をしようか?」
「いえ、結構です。」
「まあそう言わずとも、男兄弟は苦労を分かち合えるはずだ。
ハンナ嬢と会ったのは一昨年の夏にバティンポリスへ仕事で向かった時の事なんだが―――」
それからしばらくはライナスの話に付き合わされた。玄関口で聞かされたような内容から、結婚相手のどこがいい何がいいという話に馴れ初めまで聞かされて胸やけがした。
(兄様がここまで浮かれているのは初めて見た。ここまで人を狂わせるとは、恋愛とかいうやつは呪術の類なんじゃないか…?)
話が二度目になりかけた時に丁度父母が帰って来て、再会を互いに喜んだ。
翌日は朝から近隣の森に入り猟をした。猪を二頭仕留めて持って帰り、これをライナスへ祝儀代わりとして渡すと、迎え入れるための料理が豪華になると喜んだ。
サイラスはライナスの婚姻を見届けることなく帰ることにした。少しでも早く、自身が騎士として何を成すべきなのか落ち着いて考えたかった。
都市ソロルを出た日の夜、獣の咆哮とか細い悲鳴がサイラスの耳に届いた。
「〈突進〉!」
一晩明かすために火の番をしていたサイラスは、もう一人の男に番を任せて悲鳴の聞こえたほうへと走る。百歩、二百歩の距離をあっという間に駆け抜けて、その場を見た。
数頭の狼が旅の一団を襲っていた。その光景を見たサイラスは〈碧落剣〉を抜き放ち、〈風〉の魔術を纏わせてすれ違った狼の首を一撃で落とした。何が起こったかわからないというように場が静かになった。
構わず〈突進〉を解除し方向転換すると、更に〈突進〉で加速して数匹の狼を裂く。そこでようやく何が起こったのか理解した狼たちは散るように逃げていった。まだ生きている狼に止めを刺してから、一行へと向き直った。
「大丈夫か。」
「あ、ああ、助かりました。」
剣士らしい男たちが二人、背後の馬車を守るようにサイラスを警戒しながら声を発した。
貴族が使うような立派な馬車だ。すると、無礼な言葉を取ることはできない。
「大丈夫です。そちらが無事でよかった。では、道中お気をつけて参りくだされ。」
「あ、待たれよ!お名前を窺いたい!」
「サイラスと申します。…オルドヴスト家の騎士であります。」
「オルドヴスト!なんと、もしやサイラス・スナージュ様!」
男たちは驚いて馬車の中に呼びかけた。すぐに中から若い女性とその付き人らしい者が数人出てきた。若い女性が一歩前へと出てサイラスへ頭を下げた。〈浮き灯り〉が二つ浮いており、女の顔がはっきりと見えた。儚いと印象を与えるような顔に夕暮れに消え入りそうな薄赤の髪だった。
「サイラス・スナージュ様、このような格好で失礼致します。
ハンナと申します。ソロルのスナージュ家へと急ぎ向かっているところでした。お助けいただきありがとうございます。
もしや、貴方はライナス様の御親族の方でしょうか?」
「…はい。ライナスは兄です。」
「では、貴方が。ライナス様からは文でよく話を伺っています。サイラス様はもしや帰省で?」
サイラスの素性を知って、ハンナの表情はあまり大きく変わらなかったが、なぜかとても明るくなったように思えた。サイラスが知らないだけで、そういう表情の見せ方というのもあるのかもしれない。
「いえ。今から帝都へと戻るところです。貴方と兄上が神々に祝福され、上手くいくことを願っています。」
ありきたりな祝辞になってしまったが、この場を借りて彼らを祝った。せめてものサイラスの気持ちのつもりだった。
「では、婚姻の儀に参加していただけないのですね。
折角助けていただいたところですが、帝都へ急ぎ戻らねばならない理由がございましたら、そちらを優先してください。落ち着いた頃に改めて帝都へご挨拶に伺いますわ。」
サイラスは実のところ、申し出ていた休みの日日まではまだ残っている。いっそのこと、彼らをライナスの下まで送り届けてから帰ることもできる。
冬前には〈霊峰山脈の悪夢〉の影響で魔獣や野獣が帝国領内へ多く降りてきていたが、最近は以前同様にまで減った。減ったとはいえ、まだこうして町や村をつなぐ街路にはこうして出てくることもある。
(…この護衛たちじゃ、頼りない。野盗がいないでも、また獣に襲われでもしたら兄上が悲しむか。
ここからならソロルに戻っても一日。それくらいなら誤差だ。御者たちには悪いが…。)
少し考えたサイラスだったが、ハンナたちに同行することにした。サイラスとハンナはしばらく焚火を囲んで話をした。話題はもっぱらライナスのことである。
ライナスからハンナは奥手だというような話は聞いていたが、実際にはそんなことはなかった。気になれば次々に質問するし、話も上手い。魔術について聞いてみればライナスと同じく楽しそうに話をした。成程兄と並べばとても似合いの二人であると、ぼんやりと考えた。
遅くになるとハンナは馬車で眠りにつき、サイラスは火の番をした。明け方には馬車を出し、昼頃にはソレルへと着いた。
ライナスはハンナが来たことに喜び、サイラスが戻ってきたことに驚いた。昨晩あったことを話すと、ライナスとハンナはそろってサイラスに向き直り頭を下げた。すぐに顔を上げさせ,サイラスは改めて二人に祝辞を述べた。
夕方頃に、一足早く家族だけでライナスとハンナの婚姻を祝って宴会をした。普段は締まりのない表情でもきちんとしている兄が、この時ばかりは更に浮ついた表情で酒杯を次々と空けた。あっという間に酔い潰れ、横になってしまった。酔ったライナスにがしりと肩を掴まれ、結局翌日の婚姻の儀まで残ることになった。
その翌日の昼下がりには早速婚姻の儀が執り行われた。急なことで、かつライナスもハンナも目立つのは苦手だからということで、わずかな関係者を集めての小さな式だった。それでも彼らは幸せそうに寄り添い、誓いを立てた。
大切な家族の慶事を見て、ふとサイラスは思った。この小さな幸せこそ、騎士として守るべきものではないかと。そう思えば決意は早かった。
(…この風景を守るために、俺は強くならねばならない。)
(俺がこれから、ただの暴力にならない騎士隊を作り上げればいい。この幸せな家族を守れるように、精強で誠実な騎士隊を作り上げればいい。)
(隊長、副隊長を除けば一番強いのは俺だ。俺がやるんだ。俺がこれから積み上げればいい。)
サイラスが若き騎士団長として名乗りを上げるのはこの五日後、帝都へ戻ってすぐの事である。