ex-1
帝都センドラー、オルドヴスト邸。
帝都に春が訪れ草木が萌え始めたこの日も、オルドヴスト邸では木剣が激しく打ち合わされる音が響いていた。強打に次ぐ強打、そして胴につけられた鎧を打ち鳴らす音で打ち合いが終わった。
「そ、そこまで!勝者サイラス殿!」
「くっ…あ、ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」
サイラスはコガナ、フェムトをはじめとしたオルドヴスト家が抱える騎士たちを倒し、序列三位の実力を示した。副隊長ケーニッヒはサイラスの鬼気迫る表情を見て危うさを感じつつも、結果を残したことを認めてトーラン以来空席となっていた切り込み隊長へと任命した。オルドヴスト家の切り込み隊長は序列三位の騎士に任命され、唯一隊長、副隊長の指示に従わず少数の部下を連れて別行動ができる立ち位置である。
〈霊峰山脈の悪夢〉と呼ばれる魔獣を討伐した後から、日々の鍛錬に加えて食客となっていた〈深淵の愚者〉に迷宮での戦い方、探索の仕方、魔術を教えてもらい、腕を磨いた。剣はなけなしの金を叩いて迷宮深層から出た剣を買った。比較的豊富な対外魔力を持っていたサイラスはすぐに魔術の腕を伸ばした。
最後の強敵、コガナを倒して序列三位の座を手にしたサイラスだったが表情は浮かない。
(…まだだ。まだ足りない。)
〈霊峰山脈の悪夢〉との戦いでは二人死んだ。クロムたちが連れてきたラーダと、オルドヴスト家の騎士で先代切り込み隊長であったトーランだ。帝国が安定した後に騎士となったサイラスにとって彼らが命を落とす瞬間を見たことは、彼が思い描いていた十分安全な魔獣討伐という妄想を捨てるには十分な衝撃だった。冬前よりも安定して魔術を使えるようになり、更に腕力と持ち前だった持久力と併せて相手を追い詰めていく戦い方を身に着けてなお、〈霊峰山脈の悪夢〉を倒すに及ばないことを恐怖していた。恐怖がサイラスを突き動かし、急速に成長した。
果たしてサイラスは格段に強くなったと周囲は思った。しかしサイラス自身は〈霊峰山脈の悪夢〉を倒すにはまだ何も足りていないと感じていた。ライオネルのような多彩な技もなければ、クロムの腕力も、ディンの魔術も、トーランの早業も、〈深淵の愚者〉たちのような適応力もまだ無い。サイラスができることは他の誰かができる。
(腕力はクロムに追いつけなくても、迷宮で戦い、鍛えれば今よりも強い力が身に着く。
魔力は乏しくても使い方次第ということはわかっている。コガナやフェムトがそれを証明している。
トーランが奥の手にしていたあの短刀で急所を貫く技も練習すればできるはずだ。
今は隊長から、あの技を学ばなければ。)
いつの間にか握る木剣に力が入り、柄が小さく音を立てた。思考に囚われていると、気が付けばライオネルが目の前にいた。
「…おい、聞こえているか?サイラス!」
「っ!はい!」
「序列三位にサイラス・スナージュを任命する。跪拝せよ。」
「はい。」
サイラスは片膝を着いて首を垂れた。先達の剣を肩に添えられながら宣誓することで、この日サイラスはオルドヴスト家の切り込み隊長に任命された。周りは温かな拍手で祝ったが、サイラスとしてはまだ足りないことだらけであり素直に喜ぶことができなかった。
切り込み隊長に任命されたからと言って何かが変わることはない。朝に走り込み、昼に技を磨き、夜に魔術を学ぶ。休みの日は迷宮へ向かい魔獣との戦いを学ぶ。
サイラスも変わったが、彼を取り巻く者たちも少しずつ変わり始めていた。
まず、序列の低かった騎士たちが急に辞めて行った。箔を付けるために在籍していただけの者もいれば、いつかのサイラスのように気楽でいた者が理想との乖離に気付いて、気圧されて心が折れた者もいる。あるいはサイラスの気迫を見て、着いていけないと思った者もいたようだった。
そういった者たちが去った後、ライオネルが引退を宣言した。隊長としての仕事をケーニッヒに任せ、自身は後任の育成に回ることにしたのだ。後任とは若い騎士たちもそうだが、リュドミラの兄、ランスロッドのことも含まれる。
ランスロッドは自室に引き籠りきりであり、なにかものを考えることには秀でているが、人に指示を出すのが苦手で、しかも武家に生まれて武術がからっきしである。それが武家の次期当主など、騎士たちからは到底支持されない。武人よりも貴族の気が強い現当主クドラですら、槍を持って前線に立つことができるのだから、なおのこと納得はしないだろう。せめて常に必勝の作戦を常に授けられるとか、騎士から認められ親しまれる切っ掛けとか、そういったものを身につけさせなければならないとライオネルは考えていた。
そのため序列が繰り上がる形でケーニッヒが隊長となり、サイラスが副隊長となり、四位にいたコガナが三位となるはずであったが、ケーニッヒはこれを固辞した。体力の問題であと二十年務められるか怪しい者よりも若く勢いのある者が上に立つほうが良い。そう言ってサイラスを隊長とし、ケーニッヒはあくまで副隊長として支えることを選び、ライオネルもそれを承諾した。ケーニッヒはコガナとフェムトを直接の部下に置き、将来の副隊長として育てることにした。
だがサイラスはこの判断に納得できないでいた。
(…俺が、隊長?無理だ。俺にはまだ足りないものが多すぎる。
戦いの腕だけじゃない。伝手も無いし、指令を出した経験もない。そんな状態でできるのか?)
サイラスの様子を見て、ライオネルは夏至までは引き続き隊長でいるとして、サイラスに準備をする猶予を与えた。
受けるか、断るか。まだ若いサイラスが名門武家の騎士隊隊長に任命されるなど、ただの貧乏子爵家の次男としては大出世だ。知り合いの誰もが受けるよう薦めている。しかしサイラスにとって実家など関係なく、今頭にあるのはライオネルがしたように隊長として騎士を連れ、〈霊峰山脈の悪夢〉に並ぶような魔獣と戦えるかということだった。
騎士隊はそもそも人同士の戦争を行う際に出番となる存在である。だから他家の騎士よりも長く走り、長く戦えるように訓練する。魔獣と戦うということは実力を伸ばすのに適していることはわかっていた。自分が隊長になれば、修練の一環として魔獣と戦う機会が増えるだろう。参加した騎士隊は確実に今よりも強くなる。だがそれで得た力は言わば暴力だ。騎士の持つべき倫理と秩序が伴わないことはわかっていた。
悩みながらも時間は過ぎていく。悩みが頭の片隅に居座りながらも一冬続けてきた日課はサイラスの体を動かした。
ライオネルが引退を宣言してから十日が経ち、久方ぶりの休みを得た。ザガン迷宮へと足を運び、四十層へと潜った。ザガン迷宮は坑道が広がったような迷宮である。
曲がり角で馬頭鬼とかち合い、牛頭鬼は即座に拳を振り上げた。その振り上げた右腕は勢いのまま後ろへと飛び、飛んだ血と共に地面へと落ちた。ライオネルとの手合わせで何度も使われた、打ち込みと攻撃を邪魔する技を合わせた攻撃である。
牛頭鬼は残る左腕で即座にサイラスへ掴みかかったが、その腕を避けながら剣の腹で殴って叩き折る。魔獣は最後の抵抗と言わんばかりに左腕を鈍器のように振り回す。地に伏せて回避しながら剣を薙いで両足を断った。支えを失った魔獣は仰向けに倒れながらなおももがいた。
(…ここでの戦いも随分と慣れた。だが命を絶つ瞬間はまだ慣れないな。)
魔獣の首を割いて魔獣を倒した。サイラスが手にした剣は〈碧落剣〉と鑑定された迷宮品である。一定確率で刀身が障害物に邪魔されず振り抜ける〈透徹〉、損耗しにくい〈頑丈〉の二つの効果がある。刃渡りが十節ある長剣であるから、振り回すだけで盾や障害物に阻まれないことのある〈透徹〉は単純で強力な効果だった。
かつてならば倒せない強敵を一蹴したことで、サイラスは確かに強くなったと自覚している。しかしそれでもまだサライスには荷が重いように思えていた。
(…やはりまだ俺には荷が重い。)
(危機感の少ない奴らはいなくなった。今残っている者たちはみな強者だと思う。
と、思うが…隊長とガハラたちと、クロムやディンというあの猛者たちと一緒に戦うと、幾らか霞むのも事実だ。)
(俺がおかしいのか?それとも。)
少し気がそれるとすぐにうじうじと考え始めてしまうのは、最近の悪癖だと自覚はあった。しかしその思考を断ち切るように、サイラスの耳には叫び声が届いた。
「うわあー!」
遠くない場所だ。直感的に駆け出し、いくつか角を曲がって広間へと出た。そこには牛頭鬼と、その周囲に四人の探索者が倒れていた。一人は立って槍を構えてはいたが、その手は震えていた。
「助けは要るか!」
「た、頼む!」
男が縋るように叫び、魔獣の気を逸らすためか叫びながら槍を振り回しながら突進した。男が殴り飛ばされている間に、サイラスは〈突進〉で一息に距離を詰めて牛頭鬼の脇腹を裂いた。魔獣は標的をサイラスに変え、薙ぎ払うように腕を振った。サイラスは跳んで躱し、全身を捻りながら魔獣の面を割った。
魔獣は怯んだのか硬直し、その隙に首へと突きを入れた。嫌な感触と共に首が折れた魔獣は生命を失い倒れた。倒れていた探索者たちに治療を施した。探索者たちはザガン迷宮に来てから日が浅く、他の迷宮でも中層あたりで戦っていた。最近は調子良く戦えていたために、強敵とも遭遇しないまま四十層まで来てしまい、ついに牛頭鬼と遭遇してしまったのだという。
迷宮は運が良ければ魔獣と戦わずに次の階層まで辿り着けるが、それは魔獣の強さを見ながら挑む層を決められないという運の悪いことでもある。
探索者たちはサイラスに幾らか金を渡し、礼を言って地上へと戻っていった。
一日のそれも僅かな間に牛頭鬼、馬頭鬼と連戦するとは思わず、サイラスも少し疲労感を覚えて引き上げた。帰りの馬車に揺られながら、どうすればいいかと悩んだ末に、騎士以外で頼れる者―――実家に頼ることにした。
(…兄上に相談しよう。助言を貰えるかもしれない。)