95.
バッカラから呪文が発せられた次の瞬間、ドレークに言葉を促すように鏡が小さく明滅した。何度も明滅するうちに口を閉ざしていたドレークから呻きのような小さな声が漏れた。誰もがそれを止めることをせず、次の言葉を待った。都市が不安定な時に態々その状況を悪化させるようなことを言えば、市民だけでなく自分たちも危ういと理解していたからドレークが臥せていたという嘘をこの場で糾弾などできずにいた。
「お。俺は。……が、憎い。ぐっ…」
「…なっ!」
ドレークが先代以前の確執を持つ政敵マーレイアを嫌っていることは、この場の者は皆知っている。だから聞き取れなかった言葉は、誰もがマーレイアが憎いのだと解釈した。
しかしドレークの側にいたバッカラは違う。
「なん…私は……。い、今すぐ―――」
「俺は使徒が憎い。ああ、見るだけで憎悪が湧いて来る!だからだろうな、全部壊す前に逃げることにしたんだ!」
バッカラの動揺ぶりをよそに、ついにドレークが叫んだ。今度は聖堂内に声が響き、冷たい沈黙が場を支配した。誰もが言葉を理解できずに硬直していた。
「親父…神殿で使徒を、いや、ランカの前で、何を言っているかわかっているのか?」
「ドレーク、お前というやつは!なんだその理由は!まさか、〈盤割の鎚〉の騒動も貴様の手引きではあるまいな!?」
最初に口を開いたのは理解ができていないザンジバルだった。息子としてか、領主代理としてか、領主に真意を問うた。次に我を取り戻したシュフラットが怒りの顔で立ち上がり糾弾した。しかしドレークは俯いてそれには答えない。
「ランカ、大丈夫か?」
「……。」
「少し外にいろ。お前が聞くべきことではない。」
「ランカ。クロムさんとザンジバルに任せて外に出ましょう。」
ランカは青褪めた表情で、ボスポラスに連れられて聖堂を出ようとした。その時ドレークが突然暴れ出し、抑えていた者たちを剥がした。
「うわっ!」
その物音にクロムが振り向いたとき、ランカ目掛けて何かが迫っていた。
その正体を確認するより先に、クロムが斜線に身を投げながら思い描いたのは身も隠せる大きな盾だ。クロムの想像通り〈武器庫〉から大盾が出て、投擲物を弾いた。投擲物は短剣だった。
再びドレークに視線を戻すと、抑え込んでいた兵士二人を殴り飛ばして気絶させ、剣を奪い取っていた。
背後のランカを守るようにクロムは〈夜叉の太刀〉を構えてドレークへ向き直っていた。ドレークの側にいたバッカラは既に及び腰で床に座り込んでいたが、控えていた騎士が守るように立っていた。
背後で扉が開き、ランカたちが聖堂から出ていった気配がした。
「ああ…憎いなあ。使徒というやつが憎い。その憎悪を隠せなくなったから、俺は逃げた。まさか迷宮に潜んでいたのに捜索されて、何とか逃げ出したらこれだ。
こうなりゃ俺はもう領主じゃない。お前たちの敵だ。」
「ドレーク!貴様がやったのか!アゼルを!答えろ!」
「それは違う。だが不幸な事故だったと思っている。」
シュフラットの怒りはその答えで多少は鎮まった。恐らくバッカラが未だに〈ラコンティンフィオの業鏡〉をドレークへと向けて明滅しているから、その言葉が真実であると判断したのだろう。
「ならば、なぜ。」
「さてな。だが神殿、そして神に使徒まで憎いと、そう感じている。気が付けばそればかりだ、まさかここまでになるとは俺も思っていなかったさ。
つまりは俺はもうどうかしている。神殿、使徒、すべて滅茶苦茶にしたいと心底思っている。俺が愛したはずのこの街でもだ。頭か、心か、別の何かがおかしい。だが俺では何がおかしいかもわからない。
狂った領主は最早この街にいていい人間ではない。だから逃げて、遠くへ逃げようとした。…捕まったがな。
もうすべてが遅い。」
苦悶である。怒りと憎悪と、そして苦しみがドレークの中で入り混じっている。それを発散させるには、使徒に危害を加えないと済まないかのようにランカが去った方向を睨んだ。
「……まさか…〈疑心〉に?しかしいつから…?」
現実逃避か、はたまた別の可能性を思いついたのか、ザンジバルが消え入るような声で呟いた。
「たしか心に作用する魔術だったな。解く方法はあるのか?」
「…品に刻まれた魔術なら、それを外せば多少は収まるはず。直接かけられていたらわからない。」
「…そうか。なら、まずは身ぐるみ剥ぐところからだな。」
「ああ…できれば、殺さないように頼む。」
遠目でもわかるくらいにドレークからは怒りが感じ取れた。クロムはドレークの視線を遮るように立った。人間と対峙するのは三度目だ。射殺すような目つきは魔獣のそれとはまた違った恐ろしさがあった。
「ドレーク。…ランカへの言葉を撤回しろ。」
「存外情が厚いんだな、クロム?」
「さあな。だが、家族というものは…憎しみ合うものではならないだろう。」
「…ハッ。貴族の考えはそうじゃねえと以前教えなかったか?」
ドレークがクロムの言葉を鼻で笑い、床を強く蹴ってクロムとの距離を詰める。少し遅れてクロムもまたドレーク目掛けて突進した。周囲の者たちは慌ててその場から離れ始めた。
勢いのままに剣をぶつけ合うと、それだけでドレークの剣の刃が欠けた。ドレークの持つ剣は扱いやすい片手剣で、クロムが使うものよりも軽量なものだ。〈夜叉の太刀〉の〈頑丈〉の効果もあるが、重量も硬度も上だ。撃ち合えばただの剣が一方的に消耗するのは明白だった。三度剣をぶつけ合って、追撃を加えようとしたところでドレークが後ろへと距離を取ったため空振りに終わった。
その頃には周囲にいた者たちはみな壁際に逃げて、聖堂の中心にはクロムとドレークだけがいた。
「随分いい剣だな。迷宮品か?」
「…戦いの間に随分悠長だな。」
「フン。お前にとって俺たちは他人だろう。他人の、それも貴族の悶着に口を出すのは筋違いだぜ、探索者。」
「好きに言え。…探索者にも許せないものがあるだけだ。」
再びドレークから仕掛けた。ドレークの剣捌きは巧みで、剣の刃は少しばかり潰れても、剣自体はまだ機能を失っていない。むしろ剣を打ち合わせるたびにうまく受け止めて消耗を防いでいる。ドレークがクロムの攻め手を逸らしてから距離を取り、再び剣を構える。
「ランカはお前からすれば他人だ。なぜそこまでかばう?」
「依頼を受けている。何があってもランカを守ると。」
クロムを睨んだまま不思議そうに首を傾けるドレークの問いに、クロムは最初に依頼を引き受けたときに言われた言葉を返すと、気に入らなかったのか小さく一つ舌打ちをした。
「探索者ってのは頑固なのもいるんだな。もっと金にがめつくて、粗暴だと思っていた。
クロム、その依頼はなしだ。俺の邪魔をするな。俺はここから出ていくだけだ。
それでこれまでの報酬の倍を出す、それならどうだ。」
「お前は既に契約主じゃない。それはできない。」
「お前の意思はどこにある。」
「少なくともお前のもとにはない。」
「そうかよ。気持ちいいくらいの即答だ…なッ!」
ひと問答が終わった瞬間に再びドレークから斬りかかる。大振りの振り下ろしを受け止め、競り合いになった。ドレークの押し込む力は強かったが、それでもクロムの筋力のほうが上回っている。〈浅霧〉で競り合いを外すことなく、むしろ押し付けるように剣を会わせじりじりと押し返す。
「うっ…ぬっ…」
上から斬りかかっていたはずのドレークはいつの間にか反転してクロムが押し込む形に変わった。二歩、三歩とクロムが押し込み、ついにドレークは堪えきれずに態勢を崩して片膝を付いた。ドレークはクロムを押し返そうと必死に力を込めていたが、クロムは渾身の力で押し返す。わずかな間ドレークが不利な状態のまま拮抗していたが、ドレークは剣に添えていた左手を外し、素早くクロムの腹を殴りつけた。
思わぬ早業に思わず一歩下がった。ドレークはそのわずかな隙に二歩分下がって立て直していた。
「ふう、流石、今一番勢いのある探索者だ。」
「ドレーク。もうおとなしくしてくれ。誰もがお前を心配していたんだ。お前がやることは逃げることじゃないだろう。」
「ああ。だが、俺が使徒に憎悪を募らせている間はそうもいかねえ。それなら荒野で野垂れ死ぬか、海に飲まれて死ぬ。迷宮に挑んで死ぬのもいいだろう。だから、そこをどいてくれ。」
「断る。ランカを見たお前が襲い掛からないとは思わないし、ザンジバルじゃお前には勝てない。」
「ならなんだ、お前が俺を殺すか?」
安い挑発だ。クロムならばドレークを斬り殺すことはできる。実際に今の攻防の間に競り合いを外して斬ることが何度もできた。それをしないのは単にボスポラスから生かして捕らえてほしいと頼まれたからだ。クロムは返答の代わりに剣を再び構え直した。
(この野郎。…いや、言いたいことは幾つもあるしぶん殴ってやりたいが。何をするにしてもまずは捕らえないといけない。武器を奪うか、壊す。……退いたときだな。)
ここまでの斬り合いはどれもドレークから仕掛け、数合打ち合い、クロムが少しでも優勢になれば距離を取っていた。体は一歩早く引いていたが、剣まではそうではなかった。劣勢を悟った時ドレークは退いて距離を取ろうとするが、その際体に引っ張られるようにして剣も引いていた。そのような癖なのか、それとも何か別の目的があるのかはわからないが、これを狙った。
再び二人が接近し、数度剣を合わせ、クロムが優勢になりドレークが退く。ここまでの流れは一緒だ。違うのはクロムの剣の先は天を向いていたことだ。
ドレークの剣はやはり緩慢に引かれている。そこに渾身の振り下ろし〈落雷〉で追撃を加えた。踏み込み音がし、直後に金属同士がぶつかる音がした。ほんの少し遅れて金属片が落ちるたような軽い音がした。
居合わせた者は一様に息を飲みこんだ。