93.
クロムたちがバティン迷宮を探索している一方で、バティンポリスの神殿には新たに神殿に派遣されたバッカラという男が到着した。歳は六十五と老齢だというのに背筋は伸び、矍鑠としている。バッカラは総本山では神殿騎士見習いに神学や読み書きを教える立場で、その合間には闇と赦免の神ニタスタージの信徒として説いて回っていた。
そんな彼が、まだ荒野や路地には冬の痕跡が残る時期に、老体には過酷な道程を二十数日費やしてまで急いだのには理由があった。
以前からバティンポリス領主から要請を受けていたこと、冬至の頃から神殿長が不在であること、総本山から見る限り今年の春は思っていたよりも早く訪れたこと、という建前。
…実際のところ、対抗勢力の一人を失脚させたはいいものの、神殿内の権力闘争旗色が悪くなったために一人を島流しにすることで手打ちとし、一派を生かすためという理由もあった。運悪くそれに選ばれたのがバッカラであった。
バティンポリスにはあまり縁はなかったが、余生をこの港町で総本山からの影響を強く受けずゆっくりと過ごしたいと思ったこともまた事実だ。本音と建前、様々な理由があったが、つまるところバッカラは望んでバティンポリスに降り立ったと言える。
実際、この冬至まで―――海神の使徒ランカが公にされるまでは、神殿内でもあまり重要視されていない場所であったから、何者も反対を挟まなかった。事態が急変したと連絡を受けたころには、既にバッカラがバティンポリスに着任するすべての準備が終わった後だった。
総本山の者たち、特に敵対勢力は慌てふためいたり考え直すようバッカラに要請したり、味方だった者たちは一様に掌を返してバッカラの運気に期待を寄せ、使徒を取り込むように言う者まで現れた。そのような態度に嫌気がさして、双方に曖昧に頷いて時間を稼いだ。そしてようやく春の兆しが見えたところで、長年連れ添った神殿騎士一人と、バッカラを慕ってくれる従者数人を連れて総本山を発ったのだ。
バティンポリスの神殿に着くと、バッカラは現在神殿長代理をしているカーン助祭、その補佐のハスミ助祭に挨拶をした。
バッカラは彼らから警戒されると思っていただけに、穏やかな様子で迎え入れられたことに内心で驚いていた。以前の神殿長であるアデルはイリアオースの信者だったが、このバティンポリスではサーラが信じられている。バッカラの信じる神はニタスタージであるから、サーラ神とは縁がある。それで快く受け入れられたのだと思っていた。
しかし前神殿長だったはずのアデルは冬至の頃から行方知れずとなっていて、バッカラはその後釜として迎え入れられたことを聞いて更に驚いた。
業務はバッカラにとって大して難しいことはなく、殆どが他の神殿でも行っているような業務と変わることはなかった。
違うのは、実際にこの神殿には海神サーラの使徒が所属しているという点だった。噂では聞いていたが、実際にどのような人物か知らないバッカラは、業務の合間にバッカラへと尋ねた。
「サーラ神の使徒様はどういう人物でしょう?」
「ランカ様ですか。ランカ様はまだ子供ではありますが、大変穏やかで大人びた方ですよ。子供らしく食べ物の好き嫌いはありますし、人見知りもしますが…それでもサーラ神には子供とは思えないくらい熱心に信仰されていますし、物事の考え方もしっかりしている。先が楽しみな方ですね。」
カーンはランカを高く評価しており、ハスミもそれを聞いて頷いていた。高等な教育を受けた者のようだと思い聞いてみれば、領主の娘だったという。神殿の立場を取るか、帝政の立場をとるか、子供では難しいことだろうとバッカラは内心でランカに同情した。
「そうでしたか。今日は領主様のもとにいらっしゃるのですか?」
「ええ。厳密には領主代理のザンジバル様のもとにいらっしゃいます。」
「代理?確かこの都市の領主はドレーク様のはず。」
「はい。ただ、今は臥せっておられるようでして、御長男のザンジバル様が取り仕切っています。」
「ランカ様のご兄弟ですか。どのような方ですか?」
「ドレーク様に似て少しばかり頑固で口調も聊か乱暴ではありますが、人情家で人当たりが良い方です。少し直情的ではありますが、領主代理となられてからは落ち着いています。彼の足りないところは、弟君のボスポラス様が補います。ボスポラス様が間に入ってくれることで神殿や他の貴族家などとも関係は良好なようです。」
バッカラはドレークの事を大きな都市を切り盛りする領主として評価していたが、同時に少し苦手に思っていた。だがドレークとの付き合いは減ることになるだろうし、後釜の息子たちは神殿に好意的なようだから、良い付き合いができそうだと思っていた。
「ははは、それは良かった。私も穏やかな関係を構築できそうですね。
ところで、ランカ様の付き人や護衛はどの兵や騎士が担当を?確か、こちらには神殿騎士は二名いると以前聞いたのですが。」
「いえ、今神殿に騎士はおりません。一名は殉職、もう一名は責任を取り辞任いたしました。」
「何と。では一体、誰が使徒様の護衛をしているのです?」
バッカラは驚いたが、よく聞けばランカはまだ神殿に正式に所属していない。そのために神殿騎士を付けるということは難しかったのだとカーンは言った。使徒、ひいては神々の活動を邪魔せぬよう配慮するため、使徒の行動を阻害せぬように付き人を付けないというのは、三百年以上古いしきたりである。バッカラの知る限り、戦う力のない使徒には身分を問わず一名以上の神殿騎士を付けるという規則があり、ランカは子供だからこの規則が適応されているものだと思っていた。
「ただし使徒が拒否した場合はその限りでないともあります。ランカ様は襲われるような心配はしておらず、また今は彼女には強力な護衛もついていらっしゃる。」
「それはどのような方なのですか。」
「領主様が直々に探し出した腕利きの探索者の方です。
私も一度間近で戦いぶりを見ましたが、神殿騎士にも引けを取らないでしょう。
そして今は、十五層までしか攻略されていなかったバティン迷宮を二十九層まで一気に探索したとも聞いています。」
「なんと。バティン迷宮といえば、水中での戦いのせいで文字通り潜れる者が限られると聞いていますが。」
「噂だと一人だけで挑んでいるようですから、道具なども最小限あれば良いようです。
領主様からも支援を受けているのではないでしょうか。それでも素晴らしい快挙ですが。」
バッカラはここまでずっと驚きの連続だった。だが先程の神殿騎士が使徒を護衛していないという現状に驚きを隠せなかった。それはバッカラをはじめとした総本山の司教たちからすれば異常なことである。
「……その護衛の名は?」
「クロムと名乗っています。」
「クロム。…彼の外見はどのような?」
「珍しい黒目黒髪に、上等な黒の外套を着て、腰に一本風変わりな片刃の剣を下げています。背が高く、やや細身で…ああ、あとは険が立つような鋭い目つきであった覚えがありますね。ランカ様を見るときは幾らか和らいでいますが…。」
「黒目黒髪……?」
総本山に引き籠っていたバッカラには世俗のこと、探索者の事はわからない。しかし、黒目黒髪の人間は極限られていることはわかる。最近になって連絡の取れなくなった、物事に熱心な教え子とよく対立していた人物。そしてその人物も、クロムと同じ特徴を持っていたことを思いだしていた。しかしすぐに、使徒のための気配りができる人物ではなかったし、そもそも数年前に険しい崖から落ちて死んだと報告があったことを思い出した。光の神に仕える神殿兵とはいえ、誤報などありえないことであったから、やはり違うと打ち消した。ただ、少しばかり好奇心が芽生えた。
「……その護衛とやらにも会わねばなりませんね。二日後あたりに着任の挨拶をします。その時に呼んでみましょう。」
「おや、では私も付き添いましょう。」
「いえ、何も問題はないと思いますが、兵を幾人か連れていきます。道もまだわかりませんから。」
「そうですか?わかりました。」
バッカラは業務に戻りながら、内心では困惑していた。まさかバティンポリスに来て一日もしないうちにこんなにも常識と異なることが起きるとは思っていなかったのだ。
着任の挨拶は春節の前に行うつもりだったが、今の都市の不安定さでは神殿側が安定していることを伝えるのは早いほうがいいとバッカラは考えて、バティンポリスの有力者たちに着任した旨の通達を出した。着任の挨拶する日付はわずか二日後だったが、バッカラからすれば早いことは配慮であった。何なら用事があればそちらを優先してよいとまで書いた。
小さな誤算ではあるが、この招集はバッカラの思っている以上に強制力があった。総本山から来た立場というものを、地方の神殿に奉じた経験のなかったバッカラはよく知らなかった。