死に問う その九
「面白い話を聞かせてくれてありがとう」
再び驚いて、今度は背後に振り返った。
目が合った。そこにいたのは、見知らぬ少女だった。目の前の少女の腰まで伸びた黒い髪が、まるで影のように風に乗って揺らめいていた。ゆらり、ゆらりと蠢くその髪が、蛇の群れに見えて仕方がないのは気のせいなのだろうか。まるで神話に出てくる、人を石化させる怪物のよう。私はその少女の鋭い目に見据えられ呼吸が止まり、まさしく石に変えられえていた。少女が見慣れた母校の制服を着ていたことも、より一層恐怖を引き立てた。見慣れた服を着た、見知らぬ怪物。
心臓が、破裂しそうなほど高鳴っていた。そのまま口から飛び出してしまうのではないかと怖くなり、口を固く結ぶ。
何故これほどの少女を覚えていないのかと不思議に思ったが、元々外界に興味を持たない性格だったので、無理もないかと納得した。
「次は、私の話を少しだけ聞いてほしいんだけど、いいかな」
ほほ笑みながら、少女は言う。同性ながら、心がざわつく感覚があった。そのおかげか、心臓の鼓動が少しづつ平静を取り戻しつつあった。
「あなたは自分の命と向き合った。すごく立派なことだよ。でも、どんなに考えても、心の空白は埋められなかった」
芝居がかった口調で続ける。
「なら、私と一緒に埋めてみようよ。その心の空白を。あなたが望むなら、私が手になってあげる」
何が言いたいのか、今一つ頭に入ってこなかった。私の心の空白とは、即ち殺人衝動が満たされないことの不満足だ。それを埋めるというのは、つまりは。
「人を、殺すってこと?」
「そう。あなたがこれまで人を殺さなかったのはどうして? そんなことをしてはいけないと思うから? 殺したい相手がいなかったから? 捕まるのが怖かったから? それとも、実行に至る切っ掛けがなかったから? あるいは、その全て?」
言葉を反芻する。そんなことをしてはいけない。それは当然だろう、殺人は決して許されない行為だ。全ての命において、生存は尊重されなければならない第一条件だ。生きることは即ち存在することであり、存在を奪うことは許されない。
殺したい相手ならいたが、それはあくまで興味の話だ。殺してみたいというだけであって、殺したいほどの憎しみや目的はない。
捕まるのが怖い、というのも当然だろう。たかが十五歳の脳で警察の目を欺けるとは到底思えない。杜撰な偽装工作などすぐに見破られ、逃げる事すら出来ずお縄につくだろう。
ただ、切っ掛けがないという理由が一番大きなものなのではないかと思った。今の生活を危険に晒してまで、警察の捜査に怯え、いつ捕まるかわからないまま日常を送る覚悟など出来るはずもなかった。
私は逡巡の末に「多分、全部」と答えた。少女が一層ほほ笑むのがわかる。
「それなら私が、その全てを解消してあげる。あなたの願いを叶えてあげる」
素直な感想としては「何を言っているんだこの女は」といったところだった。人を殺すことに協力するという申し出なのは理解できるが、その理由が全くもって見えてこない。そんな無意味なことをして、一体何のメリットがあるというのか。
「アンタが言いたいのはつまり、私の殺人に何らかの協力をしてくれるってことでしょ? それはわかる。願ってもない申し出だけど、そっちに見返りがあるように思えない。この提案に何の意味があるのか教えてほしい」
風が吹いた。強い風だった。私の身体を遥か彼方の地上へと墜落させかねない、強い風。それはどうも、この少女が巻き起こしたように思えた。人を堕とすほどの、強い風を。
「意味ならあるよ。私は、世界を変えたいの。この無意味に広がる青空を、黒く染め上げたい。世界を覆うこの空が、何故青いのかの意味を知らしめたい」
聞きたいことの半分も含まれていないその発言に、私は吹き出してしまった。青い空の意味ときたのだ、この少女は。全く要領を得ない文言だったが、私にはそれが、なんとなくわかってしまった。
多分この少女は、世界に何らかの不満を抱いている。それが人に対してか、社会に対してか、それ以外の何かに対してなのか。これは勘だったが、あわよくばその全てを変えてしまいたいのではないか。そんな風に感じられた。
「アンタは、この空が好き?」
少女はただ黙って空を見上げ、何かを夢想していた。質問に対する答えか、或いは言う通り黒く染まった空を。
「好きだよ。でも、今の青空は嫌い」
同じだと思った。世界を包み込む青空が、世界の残酷さに目を瞑りながら、今も尚青空のままでそこに鎮座していること。それが気に食わなくて、全てを壊してしまおうということ。何もかも私と同じなのだと、確信があった。
私はただ無意識のうちに「手を組もう」と言っていた。考えるよりも先に、言葉が私の身体を引っ張っていた。フェンスの向こう、依然として青空に顔を晒す少女は目線だけをこちらに寄こし、再び青空を見た。
「あなたの空は、何色になるのかな」
言っていることの全ては、わからなかった。元々わかりっこないのだ、他人のことをその上っ面の言葉だけで理解できる気になるのは、結局のところ勘違いでしかないのだ。少女が実のところ何を見ているのかも、私にはわからない。青空を見ているようで、その向こうの宇宙を、星を見ようとしているのかもしれない。ただ、そんなことはどうでもいいと思えるほど、私はこの少女に惹かれてしまった。
運命という言葉は嫌いだったが、初めて好きになれそうだった。
私もつられて空を見ると、そこにはただ忌々しい青空があるばかりだった。
人はこの青空に、夢やら希望やらを夢想する。能天気な奴らは、それをおかしいとは思わないのだ。世界は不幸で満ちていて、その夢やら希望やらは無数の不幸の上にあるというのに、それを見ようともしないのだ。そして当の青空もその不幸を知らず、ただ清廉潔白のまま頭上に蔓延る。生まれてこの方、青空だけは好きになれたことがない。
だから思いっきり汚してやるのだ。大地に流れる血の赤きことを、青空に教えてやる。
「私、飛山重音」
いつの間にかこちらを見つめていた少女が、その白く透明な、ともすれば向こう側の風景が透けて見えそうな喉を振るわせて発音した。鮮やかな旋律を思わせる声だった。
その声に応えるように私はフェンスをよじ登り、二度と戻ることはないと思っていた向こう側へ、再び足を着けた。少女が、飛山重音がすぐ目の前にいた。
「私は千川愛奈。よろしく」
それだけ言って、私は手を差し出した。単なる握手のつもりだったのだが、重音は何を思ったのか、私の指のひとつひとつを舐めるように細すぎる指でなぞり始めた。まだ暑さの残る青空には似つかわしくない、ひんやりとした指。それが私の指の腹を丁寧になぞっていき、爪の先同士をコツンと触れ合わせ、そして全ての指を絡ませてきた。全身のむず痒さが止まらなかった。
「あの、飛山さん?」
「重音でいい」
吐息が、私の頬をなぞっていく。目が合って、気恥ずかしさで逸らしてしまった。
それだけ言うと、いつの間にか私は両の手を絡めとられて、身動きができなくなっていた。別に足は動くのでその気になれば逃げられるのだが、彼女の指が、私をその気にはさせなかった。そのまま重音が体重をかけてきたので、されるがまま押し倒される形で地面へと背中がくっついた。重音は私の腹の上に乗り、尚も指を絡ませながら、その綺麗な顔を段々と近づけてきた。無論、私の顔にである。
心臓の高鳴りが聞こえてしまうのではないかと怖くなり、私は目をギュッと瞑る。そこまでやって、これではまるでキスを待っているみたいではないかと思い直し、すぐに目を見開いた。
少女の、重音の顔が、すぐそこにあった。間一髪で、鼻の先だけが触れ合った。
「あなたは、私に何を望むの」
重音が、囁くように言った。その声色は、夏の風に揺られる風鈴を思わせた。
しばらくそうやって見つめ合っていたが、私はやっとの思いで口を開く。
「誰にもバレない、人の殺し方」
同じように、囁いた。重音がふっと笑ったのがわかり、何故か安堵した。
「いいよ、教えてあげる。絶対にバレない殺し方。いや、ちょっと違うかな」
言って、重音がようやく私の上から降り横にぺたんと座り込む。
「正確には、絶対にバレない死体の隠し方」
少女の言葉が嘘か本当か、この際どうでもよかった。ただ、この穢れなき時間を壊されたくはないと、心底思ってしまっていた。一瞬でも、殺人への衝動を忘れられるほどに。
この時の出来事を、私は今でも寸分違わず脳裏で再生できる。
この日、私は新しく生まれ直したのだ。これまでの自分は、この屋上のフェンスの向こう側で、無残にも墜落して死んだのだ。そう思うことにした。
そしてここにいるのは、別の私。地続きだけど、新しい私。人を殺すのは悪いことだと諦めていた私は死んで、全てを前向きに捉えられるようになった私。
人を殺すのは悪いことだ、そんなことは誰だって知っている。でもそれは、自身の生きる理由を殺してまで守る倫理なのだろうか。倫理と生きる理由を天秤にかけ、それが一方に傾いた時、遺された側は墜ちて死んでいった。つまりは、ここにいる私は、生きる理由を肯定する私なのだ。
この日のことを思い出せば、どんな罪悪感も耐えられた。私は生きていていいのだと、前を向くことができる。
私に殺された古森鈴には、感謝しなければならないだろう。彼女がいなければ、私はきっと今日この日を笑って過ごせなかっただろう。
ありがとう、古森鈴。私のために死んでくれて。
初めての殺人を終えた日の夜は、随分と久しぶりによく眠れた。
ただ、何かを忘れていると思った。何故私は、こんなにも人の死に惹かれているのか。その根本的な部分がわからずにいた。