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死に問う  作者: 端場 隅
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死に問う その八

 その日、特に脈絡もなく死のうと思ったことを覚えている。

 思い通りにならない自分の心。無意味なことで一喜一憂する馬鹿な周囲の人間。退屈で、味のなくなったガムみたいな日常。その全てが嫌いだった。

 そんな小さい絶望感の積み重ねが、私を死へと導いていた。ただゆっくりと。思えば、私はこの時既に死んでいたのだろう。身体的なものではなく、精神的な意味でだ。心だけが先に死んでいて、あとは身体が死ぬのを待つだけの日々だった。

 大半の人間は、青く澄み渡る空が好きなのだろう。それは何よりも優しく人間を見守っていて、ただ頭上を覆っているだけの青が、時に誰かの背中を押すこともある。

 実を言えば、私もその青空に背中を押された人間の一人だ。何度も死のうと考えて、そのたびに恐怖で足がすくんで動けなくなっていた私を、青空だけが背中を押した。死ぬために必要なあと一歩の勇気をくれたのだ。

 私は青空が嫌いだった。穢れのない青空が、世界に影を許さない青空が、そんな自分自身が影を生んでいることに気が付かない青空が、大嫌いだった。青空は、否応なしに私を日の元に引きずり出す。この世界に不幸など何一つ無い、といった厚顔無恥さで頭上にあり続ける青空。見上げるたびに、吐き気を覚えた。

 同じ青でも、海の青は好きだった。世界を照らし出す青空とは真逆に、何もかも包んで沈めてしまう海の青。その青が深ければ深いほど、心が安らぐような気がした。

 多分、青空よりも、青い海の方が、死のイメージに近いからなのだろう。空は私を終わらせてはくれないが、海は私を終わらせてくれる。私を死なせてくれる。

 巡りの悪いことに、私は海の近くに住んではいなかったので、死に場所に海を選べる贅沢は得られなかった。

 いや、もしかしたら、私の死体で海を汚したくなかったのかもしれない。結局のところ、この日の私が、何故ここで死のうと思い至ったのかは、今でもわからない。

 ただ、私は忌々しい青空の元で死ぬことを選んだ。

 その日、授業を抜け出した私は、気が付けば校舎の屋上に立っていた。無論、ここから飛ぼうと思ってのことだ。目のくらみそうな青空から逃げるようにして、地へと飛び込む死に方を選んだ。

 それは、清廉潔白な青空への意趣返しでもあったのだろう。お前が見過ごしてきた不幸は、確かに今も世界に存在しているぞ、と。出来ることならば、私の鮮血であの青空を思いっきり汚せたのなら、どれだけ気分がいいことだろうと夢想してしまう。そうすれば、あの青空は幸福の象徴から、たちまち不幸の象徴へと落ちることだろう。誇らしげに私を見下す青空を、今度は見下してやれるのだ。やがて青空という名前すら奪われて、世界の残酷さを知らしめるに相応しい名前が与えられるのだろう。

 そこまで考えて、馬鹿馬鹿しいとため息をついた。叶わないことを考えるのは、もううんざりだった。

 私は黙って、屋上のフェンスをよじ登って越える。フェンスの向こうは、僅か数十センチの狭い足場。私はそこに腰を降ろす。宙に投げ出される足の感触に鳥肌が立つが、同時に言い知れない高揚感も湧いてきた。

 このまま前に倒れこめば、すぐさま眼下に広がるコンクリートの地面へと衝突する。まず助からないだろう。そう確信できる程度には、この景色は圧巻だった。

 当然ながら、震えるほど怖かった。無意識に顔が強張る。飛び降りは飛んだ瞬間に意識を失えると聞くが、そんなもの確信がない。それに、頭から落下出来ればまず即死できるだろうが、万が一手足なんかがクッションになって生き残ってしまった場合を考えると、死ぬよりも恐ろしい。

 他に確実な死に方があるのではないかと考えたが、死の瞬間にたった一人でいられて、かつ私のような臆病者に取れる死に方なんて、一歩思い切って飛べば終わるこの方法しかない。

 飛ぼう。今私の身体を支えるものは、この狭い足場だけ。ここから降りてしまえば、何もかも終わりにできる。あらゆる苦しみから解放される。私の心は、未来永劫救われない。それは救われてはいけない心なのだ。それがわかりきっている今死なずしてどうしようというのか。

 飛べ、飛べ、飛べ。そう何度も自分に言い聞かせ、椅子から立ち上がる要領で一歩前へと踏み出そうとしては、怖くなってフェンスにもたれかかる。カシャンと金属音が鳴るたびに、誰かに見つかってしまうのではないかと更に怖くなる。

 見られる前に飛ばないと。私は死なないといけないんだ、私のような許されない心の持ち主は死ななければ。これは命令だ、飛べ、飛べ、飛べ。

「飛ばないの?」

 唐突に背後から声が聞こえ、危うく滑り落ちかけた。女の声だった。

 見つかった。一番見られてはいけないタイミングで、見つかってしまった。心臓が破裂しそうなほどの緊張感で、後ろを振り向けない。

「飛べないなら、押してあげようか?」

 今度は耳元。フェンス越しに、私に息がかかるほどの距離で囁く。再び驚くと同時に、ようやく気付く。

 この人は、どうして私を止めないんだろうか。

 普通なら、飛び降りをしようとする人間を見かけたら止めるものだろう。そうでなくても、動揺してもっと取り乱すはずだ。

 この人物は何故そうしないのかと言えば、当然私が飛び降りをしようとしていたのを知っていたからだろう。例えば屋上に向かう私を着けていた、あるいは元々屋上にいたのなら、私がここに座り込むまでの一連の行動を見ていたことになる。

 私が死のうとしていたことを、知っていたということになるのだ。

「……犯罪になりますよ、一応」

 考えがまとまらず、おかしな返答をしてしまう。

 この人物が何者であれ、私を止めようとはしていない、むしろ死なせようとしているのなら、今を置いて死ぬチャンスは無いはずなのに。ただ一言、背中を押してくれと言えば、きっとこの人物は私を死なせてくれるはずなのに。

「知ってる。でも、そんなことどうでもいい。あなたもそうなんでしょ?」

 私の背後にぴったりとくっついたまま、女は答える。

「もう何もかもどうでもよくなって、こんなところに来ちゃったんでしょ? なら、私が死なせてあげる。その背中を押してあげる」

 声は、如何とも形容しがたい不思議な響きだった。聞こえているはずなのに、風のように過ぎていく感覚。水流のように、掴もうとしてもすり抜けていくようなか細さ。けれども、大木のように芯を感じられる力強さも感じられる声。

 その声に頷けば、私は死ねるのに。

 ただ頷くだけのことが、どうしても出来なかった。

 この人物を犯罪者にしたくない、なんて殊勝な理由ではない。

「……あなたは、誰ですか」

 私は、振り向かずに問いを投げた。答えが返ってくることを期待していた。考えてもみれば、殺意があるのならもうとっくに私を突き落としているはずなのだ。なのに私に話しかけてきたということは、私を死なせること自体は目的ではないのだろう。

「それは、あなたが決めること。私が私をどう形容しようと、それはあなたにとっては意味がない。あなたはまだ私を見ていないから」

「それは、今からあなたを見ればいい、ということ?」

 少女は答えない。ただ一瞬間が開いて、声が響く。

「人に与えられた選択肢は、実のところ無限にも等しい。今ここで死ぬにしても、死に方は選べる。首を折って死ぬか、内臓が損傷して死ぬか、ここでは死にきれずに時間をかけて死ぬか。今ここで死なないのなら、また死のうと考えながら生きるか、今ここで死んだのだと思って生き直すか、結局またどこかで死のうとするか。選択肢は無限だけど、意味のある選択肢はそう多くはない」

 どうにも抽象的な表現が強すぎて、ハッキリと言いたいことが理解できない。

「……意味のある選択をしろ、ということ?」

「私に訊かず、選びなさい。考えて選ぶことが人間の本懐であり、意義でもある」

 考えろ、と言われてもどうにもならない。何しろ私は、幾度の思考の果てに死を選んだのだ。これ以上の思考に意味などない。自身の心、自身の望みと向き合い、この世界では私の幸福は望めないと確信してここに来た。

「生きることは、選べない。私は存在してはいけないから」

「それは、何故?」

 返答に窮してしまう。私の問題は、決して他人には話せない。話せば頭のおかしな奴だと思われてしまう。実際おかしいのだから仕方がないのだが、理解されもしないのに話すのは時間の無駄だ。

「私はそれを誰にも言わないし、否定はしない。話したいと思うのなら、話して」

 おかしな奴がいるものだと思った。飛び降りをしようとしている人間を捕まえて、生きるか死ぬか選べだなんて。

 一瞬、飛び降りをしようとしていることが誰かにバレていて、この人物は私を説得しに来たのではないかとも思った。でもそうだとしたら、あまりにも適していないだろう。そもそも私がフェンスを登る姿は見ているはずなので、止めるなら遅くともそこだ。決定的なのは、死にたいのなら死なせてやるなんて言ってきたのだ。説得の可能性はすぐに霧散した。

 では、一体何が目的なのだろうか。この年上か年下かすらわからない少女は、私に何をさせたいのだろうか。

 本当に私に選ばせたいだけなのかもしれない。あるいは、他人の命を握っている感覚を楽しんでいるだけなのかもしれない。

 そう考え込んで、結局何もかも馬鹿らしくなった。どうせ死のうと思ってここに来たのだから、目的がどうとかは気にするまでもなかったのだ。

 どうせならいっそ、最期に全部ぶちまけて死んでやろうと思った。

「私ね、人を殺してみたかったの。人の死ぬ瞬間が見てみたかった、大事な人を目の前で失った時の人の顔も見てみたかった。でも、そんなこと現実じゃできない。だから色んなことでこの欲求を満たそうとしたけど、どんなフィクションでも満足できなかった。この手で命を奪うこと以外、何にも興味がもてなかった。人を殺してみたい、たくさん殺してみたい、殺された人の絶望の表情も、残された人の悲痛の叫びも、目の前で楽しんでみたい。でもそんなことは許されない。この社会じゃ絶対に。考えに考えて、自分はおかしいんだってわかって、死のうと思ったの」

 半笑いで言い切ってやった。こんなことを聞かされても、大抵の人間は冗談としか思わないだろう。重度の中二病だと取り合わないだろう。

 でも、私にとっては重大な問題だった。生まれてこの方、一度も心が満たされたことがなかった。幼い頃、何かのドラマで人が死ぬシーンを見て、心が踊ったことを覚えている。生まれて初めて、一瞬でも楽しいかもしれないと思えるものがあったのだ。

 結局、作り物ではリアリティがあるという程度のものでしかなく、この手で命を奪ってみたいという欲求は叶えられなかった。手の届く範囲で殺せる動物でも手にかけてみようかと考えたことがあったが、それではやはり満たされないだろうと直感した。何より動物は好きなのだ、傷つけたいとは思わなかった。

 では人間が嫌いかと問われれば、特別好きではないが嫌いでもない、という程度のものだった。少ないが親しい友人はいるし、家族仲も悪くはない。

 ただ、そんな人間をこそ、この手で殺してみたいと思ってやまないのだ。

 友人を集めて、身動きの取れない状態にしてから一人ずつ殺していき、深まる絶望に表情が染まる光景を見てみたい。どうしてこんなことをするのかと叫ぶ彼らに、笑いながら意味などないと言ってやりたい。きっと最高の表情になるはずだ。

 あるいはこの手で拷問にでもかけて、死への恐怖と絶え間ない苦痛で染めあげるのも捨てがたい。最愛の家族の泣き叫ぶ様は、きっと何にも代えがたい甘味になるだろう。十五年かけて自分を殺す狂人を育ててくれてありがとうと言ってやりたい。

 そんな願望を抱えて、これまで生きてきた。私に社会通念を無視できるほどの意志があれば、あるいは社会通念が理解できないほどに知性が欠落していれば、ここまで苦しむことはなかっただろう。

 不幸なことに、私には一般常識があったのだ。社会通念を軽視できないまともさがあったのだ。人殺しなどできないし、許されるとも思っていない。殺人はどんな理由があろうとも悪だ。殺人が肯定されることなどありえない。

 こんな話を聞かされて、少女は何を思っただろうか。気になって耳をすませるが、返答はなかった。

 所詮、私は誰にも理解されない。私の飛び降り自殺を止めようともしなかった人物ならあるいは、とも思ったが、やはりそうなのだ。

 ようやく諦めがついた。最期に全てを話せたことで、心残りも消えたような気がした。

 今ならば飛べそうだ。心は重たいままだが、コンクリートの海に沈むにはちょうど良い重石になる。

 私は背後の少女に一瞥もすることなく、ゆっくりと上体を前に倒し、そして。

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