死に問う その三
その日もこれと言って特筆すべきこともなく、一日の義務を終えた。高校生になり半年ほど経ったが、今のところ授業に置いて行かれるようなこともない。何ならたまにクラスメイトに教えを乞われる程度だ。
聞き慣れたチャイムが鳴り響き、皆それぞれの支度を始める。部活に行く者、そのまま帰宅する者。丁度三十人のクラスだったが、その全員に違う生活と人生があると思うと、なんだか不思議な気分になる。ここはそれほど大きな学校ではなかったが、それでも全学年合わせると二百人以上いる。その全員に違う人生の積み重ねがあり、違う将来があるのだと思うと、その膨大さに眩暈を覚える。
時々思うのだ。街を、駅を歩く時。あるいはショッピングをする時、映画を見る時。どんな状況でも構わないが。そこにいる何百人、何千人に違う人生があることが怖くなる時がある。所詮私一人が見ている景色も積み重ねも、この世界の小さなごく一部でしかないのだと思う時、酷い疎外感に襲われるのだ。私は本当にこの世界に必要な存在なのかと怖くなり、その場から逃げてしまいたくなる。この世界に自分には想像も及ばない無数の人生があるのだと思うだけで、それが恐ろしくなってしまうのだ。
そんなだからか知らないが、私は人と関わることが少し苦手だった。その為部活にも入らず、アルバイトもする気はなかった。可能な限り人を避けて生活を送っている。人と話すことは嫌いではないし、人並というには少ないかもしれないが、友達だっている。ただ、他人と関わってしまうことに言い知れない恐怖があった。その人の人生に私が組み込まれてしまうということが、恐ろしくて仕方がなかった。
私は人目を避けるようにして帰り支度を始める。帰ってやることと言えば読書くらいだが、それで良かった。本を読むという行為は───とりわけ小説を読むという行為は───結局のところ自分との対話と言えなくもない。文章を与えられ、それを想像するのは常に自分なのだ。文章という命題に脳を使い答えていく行為は、自分で世界を創り出すということだ。そこには自身を害するものはなく、常に理想の世界があり続ける。そんなわけで、本は好きだった。
帰り支度と言っても大した荷物もなかったので、すぐに終わってしまった。私はそのまま教室を後にしようと歩きだし、扉を開けたところで背後から声をかけられた。
「あ、待ってよ楓。今日は一緒に帰ろ」
声の主は、古森鈴。私より少し背が小さく、小動物的な可愛らしさがある。そのためクラスではちょっとしたアイドルのような存在で、男女問わず結構人気がある。ただ、その見た目の印象とは裏腹に相当頭がいいらしく、一学期のテストでは見事に学年一位に輝いていた。そのこともあり、今では彼女の周りには常に人がいた。
今日もその多分に漏れず人だかりができていたが、そんなのはどうでも良さそうにしてこちらへと一直線に向かってくる。他の誰かよりも私を優先してくれているみたいで、ちょっと嬉しいと感じてしまう。
「鈴、今日は部活休みだっけ」
「そ、塾だからね。でもまあ時間までしばらくあるし、どっか寄って帰ろ」
鈴は、陸上部だった。昔から長距離走が得意らしく、夏の県大会では他校を抑えて一位に輝いていた。応援しながら、あの小さな身体に何故あれだけの体力があるのかと不思議に思ったのを覚えている。文武両道とはまさにこのことだろうな、と感心した。
クラスメイトに手を振って教室を後にする鈴に倣い、私も小さく手を振ってから、少し恥ずかしくなり小走りで廊下に出る。
「で、今日はどこ寄るの?」
教室を出るなり、私は鈴に尋ねた。鈴がどこかに寄りたがる時は大抵本屋だったのだが、最近はどうやら趣向を広げるつもりなのか、服を見たり甘いものを食べたり、色々と連れまわされている。最初は結構体力を使って大変だったのだが、それもだんだんと慣れてきて、大抵の場所には問題なく着いていける。
「今日はねー……えへへ、実はまだ考えてないんだよね。楓はどっか行きたいところないの? いっつも私に付き合ってもらってるし」
意外な返答だった。基本的には鈴が行きたい場所を言って、私がそれに着いて行くという形だった。私はこれと行って行きたい場所などなかったし、鈴とならどこでも良かったので任せてしまっていたのだが、鈴本人はそれに少し後ろめたさでもあったのか、今日は私の好きな場所を選んでほしいらしい。
「私? 私は別に……本屋くらいしか行きたい場所ないし。それより鈴は行きたい場所ないの? 私、鈴とだったらどこでも行くよ」
「地獄でも?」
小悪魔、という表現が似つかわしいだろうか、この場合。まるで舌なめずりでもしているかのような、意地の悪い笑顔だった。でもそれが嫌ということは全くなく、むしろ可愛くて抱きしめたくなる。私は外でそういうスキンシップをとるのが恥ずかしかったので行動には移せないが、きっと逆の立場だったら迷わず抱きしめてくるのだろう、鈴は。
「いいよ。鈴とだったら、地獄でも」
私は即答した。鈴は、たまにこういうことを言うのだ。冗談なのはわかっているが、なんというか、目が笑っていない時がある。
「まーたイチャイチャしてるよこの二人は」
不意に声をかけられて身体が飛び上がる。その様子があまりにも間抜けだったのか、声の主に苦笑いされてしまった。相手はクラスメイトの女子だった。
「なあに千歳、羨ましいの?」
鈴がこれまた意地悪な顔で言う。千歳と呼ばれた少女は呆れた顔になった。
「まあ、ある意味羨ましいけどさ。月見里さん、こいつに騙されたりしてない?」
「へっ?」
突然に名指しされ、あまりにも素っ頓狂な声が出てしまった。
ちなみに月見里というのは、私の苗字だ。やまなし、と読むのだが今までこれを初見で読めた者は鈴以外にはいない。実を言うと、私が鈴のことを気になったのもそれがきっかけだったりする。初めて担任に名前を呼ばれた時、いつものようにつきみざとさんと言われた。いつものように訂正しなきゃと思った時、鈴が「先生。それ多分やまなし、じゃないですか?」と言ったのだ。その時の光景は今でも覚えている。
「騙してなんかないよ! ねえ楓?」
「ほんとにー? 鈴、外面だけはいいから心配なんだけど」
鈴が怖い顔で千歳を睨む。なんだか仲良さげな様子に、少しばかり嫉妬しそうになった。騙されていないか、なんてことを言われて返答に困ったが、とりあえず何か言わなくては。
「うん、大丈夫。ていうか、鈴にだったら別に、騙されても構わない」
空気がしん、と鎮まったのを感じた。多分おかしな発言をしてしまったのだろう、私は慌てて取り繕おうとして、鈴と千歳の二人が同時に笑い出した。意味が理解できず、私はその場で戸惑い続けるばかりだ。
「いやあ参った参った、お似合いカップルだよほんと。邪魔して悪かったね。デート、楽しんできなよ。そんじゃね」
それだけ言うと、千歳は急いで廊下の向こうへ行ってしまった。たしかテニス部だったと思うので、きっと部活に行くのだろう。
「ねえ鈴。私変なこと言ったかな」
「まあ、変ではあると思うよ、うん。結構ビックリしたし」
やっぱり変だったのか、と恥ずかしくなって顔が熱を帯びていくのがわかった。
「でもその変なところが私は好き。ありがとね」
何に対する礼なのだろうかと気になったが、特に追及する気にはならなかった。
そのまま特に何を話すこともなく、心地の良い静けさのまま下駄箱まで歩いていく。下駄箱は人でごった返す勢いだった。
「……お似合いカップルだって、私たち」
さっき言われたことが嬉しくて、つい口に出してしまった。
「嬉しそうだね、楓」
「うん、嬉しい」
カップルという言い方は、別にからかわれたわけではない。実際に付き合っているのだ、私たちは。
夏の熱気に浮かされてか、私はこの古森鈴に思い切って告白してしまったのだ。私の名前の読み方を知っていたのが嬉しかったのがきっかけで気になり始め、気が付いたらものの一か月で好きになってしまっていた。
それは友情ではなく、恋慕だった。彼女と手を繋ぎたいだとか、キスがしたいだとか。そんなことばかり考えるようになっていた。いつしか感情が抑えきれなくなり、気が付けば好きだと伝えてしまっていた。私らしからぬ大胆な行動をとってしまったと、今になってみても不思議に思う。
何より、そんな私の告白に対して、迷わず了承の返事をくれたことが嬉しかったのだ。同性と付き合うことに抵抗はなかったのだろうか。未だにそこの部分は訊けていないのだけど、こうして付き合いを続けてくれているということは、気にしていないということなのだろう。今はそう思うことにしている。なんだかんだで、クラスメイトも応援してくれていたりするのだ。白い目で見られるようなことがなかったのは、何よりも幸運だった。
「ていうか、結局ちゃんと聞けてなかったけど今日どこ行きたい? 本屋でいいの?」
そういえばはっきりと答えてなかったな、と思い出して少し考え込む。
「んー……いや、今日はちょっと喋りたい。甘いもの、食べに行こ」
「おっけ。じゃいつものとこで?」
「うん、いつものとこ」
言って、靴を履き替えてから学校を後にする。校門を抜けてから少しして、私たちは手を繋ぐ。それが一緒に帰る時の決まりだった。私たちの関係をからかってくるような人は今のところいなかったが、公然を手を繋ぐのも恥ずかしかったので、自然とこういう形になっていった。手を繋ぐこと以上の触れ合いはなかったけれど、今はこれでいい。静かな幸福が、何よりも暖かくて心地よかった。
こんな日常が、いつまでも続けばいいと思った。
その日の夜、鈴は殺された。